お小遣いで買ったアイスを舌で溶かすより、安っぽいカクテルの氷を無意味に溶かすことの方が多くなったのは、いつからだっけ。

 喧騒だらけの夜の途中。チルくてエモいローファイ・ヒップホップが流れるカジュアルバーの端っこで、私はぼんやり考えた。
 コースターに置かれたカクテルグラスは汗をかき、暇を持て余した手のひらが、薄味のモヒートを退屈しのぎに揺らしている。時刻は深夜一時を過ぎたあたりだろうか。小綺麗なフォーマルドレスやスーツを身に付けた友人たちはいつまで経っても解散する気配などなく、店内のあちこちで騒いでいた。

 二十代を折り返し、同級生は結婚ラッシュ。招待状の『御』の字を消して『参加』に丸をつけるという誰が決めたのかよく分からない礼儀作法にも慣れてきた今日この頃。
 新婦の強い希望でどうにか六月に滑り込んだらしいジューンブライドは、華やかな余韻を残して無事に幕を閉じた。今は三次会の真っ最中で、通い慣れた地元のバーを貸し切って行われている。
 新郎新婦は高校時代のクラスメイトであるため、当然ながら招待客も顔馴染みばかりだ。披露宴から今に至るまでのかれこれ半日間、おそらく誰もが旧友との再会を懐かしみ、同窓会さながらの雰囲気に酔いしれながら夜を楽しんでいる。
 ただ、この結婚を祝っている参加者たちの本心など、おそらく私の手元で揺れているモヒートよりも味気がない──というだけで。

「よく結婚できたよね、マジで」
「面の皮が厚いとはこのこと〜」

 隣の友人たちは嘲るように笑い、酒の(さかな)に毒を(ついば)む。
 私と同じソファ席で長い脚を組む彼女たちは、店の奥にいる新婦に冷ややかな目を投げかけていた。

「いやー、ユッコ、マジやばいっしょ。クラスメイトから奪った男と結婚しといて、普通こんな堂々とみんなに招待状送りつけるかね? メンタル強すぎ」
「それな〜。奪われた方のサッちゃんなんか、浮気発覚後にユッコと掴み合いの喧嘩になって絶縁したのに招待状来たらしいよ」
「それ絶対当てつけじゃん」
「ユッコ、悪い子じゃないけど、昔からちょっと男にだらしないとこあったよね。惚れっぽいっていうか、空気読めないっていうか、わがままで自己中心的っていうか……」
「ライバル視してる女には嫌味言ったりマウント取って牽制したりね」
「あるある」
「どうせすぐ浮気して離婚するわ」
「ご祝儀もったいな〜」

 声をひそめ、甘い毒を吐き、おかしそうに耳打ちし合う彼女たち。私は一番端の席に座り、黙って友人たちの会話を聞いていた。

「だいたい、ユッコって高校時代からさあ──」

 からん。
 うんざりするほど薄まったモヒートの氷が溶けて、グラスの底に落ちていく。私はコースターの上にそれを置き、電子タバコの匂いと底の知れない悪口のループを断ち切った。

「……ごめん。ちょっとトイレ」

 伏し目がちに呟いて立ち上がると、友人たちは「はいはい」と道を開けてくれる。テーブルとソファの狭い隙間を通り抜けた私の背後では、「てかさー」と再び口火が切られ、悪口大会の狼煙が上がっていた。

 カウンター席、テーブル席、ビリヤード台……どこもかしこも騒がしい。酔っ払った友人たちの間を抜け、通路を道なりに進めば、トイレの前にまで人だかりができていた。しかし私は〝お手洗い〟の扉の前を素通りし、迷わず店の出入り口へ。
 ぎぃ、と重たい扉を押して、毒の充満した店を出る。湿り気を帯びた外の空気はまるでぬるま湯のようだった。
 なんとも言えない六月の風を浴びた直後、今度は紙タバコの匂いが鼻をかすめる。

「──お。篠川(しのかわ)

 懐かしい声は、私の名前をさらりと紡いだ。
 目が合ったのは数年ぶりに会った男性。清潔感のある短い黒髪で、少し垂れ目で、童顔。昔と変わらないその姿に心が踊るが、平静を装って口を開く。

「……先生、まだいたんだ」
「いたよ。失礼な」
「存在薄くて分かんなかった」
「えー、先生傷付くなあー」

 カエルの鳴き声に邪魔されながら揶揄を紡ぐと、先生は少年みたいな顔でくしゃりと笑った。
 彼は、高校時代に私たちのクラスの副担任をしていた矢野(やの)先生。当時は二十代半ばだったから、今では三十歳を過ぎているだろう。
 昔と変わらず細身で、ちょっとだけ貧弱そうで、けれど、節くれた指や筋張った腕は男らしい。そこはかとなく色気がある。緩んだネクタイとか、はだけた襟から覗く鎖骨とか、首にホクロがあるところとか……。
 つい体の節々を(よこしま)な目で追いかけてしまった私は、後ろめたさを覚えておずおずと顔を背けた。

「……先生、昔と全然変わんないね」
「昔からイケメンだろ?」
「どうだろ……」

 彼の冗談を軽く流したその時、目に付いたのはテーブルに置かれた先生のタバコ。
 銘柄まで昔と変わっていない。緑の箱。メンソールの八ミリ。
 すべてあの頃の思い出のまま。

「店の中で吸わないの? 店内喫煙オーケーだよ、ここ」

 問いかけると、先生はタバコの灰をトントンと落とす。

電子タバコは(・・・・・・)、店内喫煙オーケー。紙タバコは外なんだってさ。肩身狭くて泣きそう」
「電子に変えればいいのに」
「あの独特の匂いが嫌なんだよ、なんか燃えカスみたいな変な匂いだろ」
「ヤニカスなんてどっちにしろくさいじゃん」
「ひでー言い草」

 私が呆れる傍ら、先生は元々垂れている目尻をさらに垂れ下げて柔らかく笑った。
 灰皿に横たわるいくつかの吸殻。ただのゴミなのに、こんなゴミですら、先生の唇を経由したのだと思うと羨ましくなってしまう。
 童顔に似合わない煙の匂いは風に流され、私の髪や頬を撫でた。
 タバコの匂いなんて好きじゃない。けれど、先生の吸うタバコだけは、昔から嫌じゃない。

 ……ううん。
 嫌になれない、と言った方が、正しいのかもしれない。


 ──ねえねえ、いいこと教えてあげる。


 不意に思い出しかけた無邪気な声をぶつんと断ち切り、私は黙って目を伏せる。
 同時に先生が口を開いた。

「さて、これ吸い終わったし、俺はそろそろお(いとま)しようかな」

 短くなったタバコの灰を落とし、先生は告げる。私はハッと顔を上げ、緑の箱とライターをしまう彼に一歩近付いた。

「も、もう帰るの?」
「うん。若者たちの夜はまだまだこれからだろ? 俺みたいなオッサンがいつまでもいたら邪魔だし……あと、最後までいたら色々と奢らされそうだし……」
「……じゃあ、私も一緒に帰る」

 きゅ、と先生のスーツの裾を掴み、羞恥に堪えて小さく呟く。
 精一杯の上目遣いで彼を見上げると、先生は意外そうに目を見張ったが、すぐにいつもの調子で笑った。

「おやおや〜? なんだいお嬢さん、積極的だねえ。誘ってんのか?」
「……うん。誘ってんの」
「おっと、だいぶ酔ってんな。一丁前に女らしいこと言いやがって。俺の実験準備室(テリトリー)にいつまでも居座ってた頃とは大違いだね」
「……あれは、私のせいじゃないから」

 目を伏せながらこぼす私に、先生も視線を落とし、「……そうだな」と顎を引く。
 ややあって、彼は身をひるがえした。

「ちょっとそこで待ってろ、幹事に先に帰るって伝えてくるから。お前の荷物どこ?」
「……一番奥の席」
「はいはい。りょーかい」

 軽く頷き、先生は店内に戻っていく。
 彼の足音がその場から遠ざかった頃、カエルの鳴き声がやけにやかましく耳に届いた。まるで私の大胆な行動を嘲笑っているようにすら聞こえた。
 徐々に恥ずかしくなり、耳を塞ぐ。すると今度はバクバクと早鐘を打ちまくる自分の心臓の音が鼓膜を叩く。

 ああ、どうしよう。誘っちゃった。
 一緒に帰るだけだけど。
 でももしかしたら何かあるかもしれない。
 ああ、どうしよう。何かあったらどうしよう。

 今後の様々な可能性を考慮し、緊張しつつも浮かれたシミュレーションを繰り返す。いやいや、でもでも、だけどもしかしたら──などと一人で目を泳がせていれば、しばらくして店内から耳馴染んだ女の声が漏れ聞こえてきた。

「えー、先生、もー帰っちゃうの? ……そっかぁ、寂しい〜。またね〜」

 それは、今日いちばん毒を盛られていたであろう新婦の声だった。
 彼女の声を聞いた途端、ふわふわと浮き足立っていた気分が底冷えして凍りつき、じっとりと湿った風が私を現実に引き戻す。
 楽しみにしていた遠足の日に雨が降ったみたいな気分。ゲコゲコゲコ──やはりカエルは嘲笑(ちょうしょう)し続けている。
 鬱陶しいその声から逃げるように俯いていれば、ほどなくして再び外に出てきた先生が、「じゃーん!」と私のバッグを掲げて陽気に笑った。

「ばっちり任務完了! 幹事にも『篠川が悪酔いしてゲボ吐きそうだから先に帰らせる』って言っといたぞ!」

 得意げな表情で言い放つ先生。すると不思議と胸のむかつきが取れ、カエルの声も気にならなくなった。

「……それはどうも」
「お前の分の代金は俺が立て替えといたから、あとでコンビニでコーヒー奢って返せよな〜」
「そ、それはさすがに、全額返すから大丈夫」

 ぬるい風が背中を押し、沈んでいた気分はあっけなく持ち直した。深夜でも明るい飲み屋街。細かい粒子が光を含み、キラキラ輝くアスファルト。歩き始めた先生の背中を追いかけ、彼の隣に並び立つ。
 ヒールのせいで踵がすごく痛いのに、心は羽のように軽かった。なんだか夢みたいだ。もしかしたら夢なのかも。
 私、今、先生の隣を歩いている──。
 だが、先生はきっと、これっぽっちの奇跡を夢だなんて思ってくれない。

「……二人きりになっちゃったね」

 意を決し、勇気を持って攻めてみる。先生は「さっきまで賑やかすぎたから、これぐらいがちょうどいいよ」とやんわり答える。
 拒絶されてはいない。でも、はぐらかされただけかもしれない。
 胸の奥に緊張が走る中、私は続ける。

「せ、先生はさ、こんな深夜に女の子と二人で歩いてもいいの? カノジョさんとかに誤解されちゃうんじゃない?」

 慎重に探りを入れ、密かに先生の左手を確認した。薬指に指輪はしていない。日焼けした跡もないから、おそらく普段からつけていない。
 ヒールで歩く私に歩幅を合わせてくれながら、先生は「痛いとこ突くねえ」と笑った。

「残念ながら、誤解されて困ることなんてねえよ。独り身なもんでね」
「ふ、ふーん……そっかあ……」
「安心した?」

 首を傾げて問いかける彼。どきりとして目を見開くと、不敵に口角を上げた先生と視線が交わる。

「下手くそ。探り入れてんのバレバレ」

 すべて見透かされているかのような発言にことさら恥ずかしくなって、熱くなる顔を逸らした。

「……別に、そんなんじゃないし……」
「へー?」
「ニヤニヤしないで……。ねえ、先生って、今いくつ?」
「今年で三十二」
「うわ、老いたね」
「ばかやろう、お前も二十五過ぎたんだろ? すぐだよ、三十代なんて」
「えー、こわー」

 ふふ、と笑みがこぼれる。月も見えない夜の道。カエルの合唱が響く中、繰り返される会話。
 やがて、先生はおもむろにガムを取り出して噛み始めた。
 彼の唇に一瞬だけ触れた銀色の包み紙から目を逸らす。

「篠川も食う? ガム。甘くないけど」
「いらない。……先生、昔からガム好きだよね。いつも食べてたでしょ」
「いやあ、好きっていうか……教師って立場上、学校とか路上であんまタバコ吸えないじゃん? 口寂しくなんだよね」
「あー……」
「だからつい、ミント系の辛いガムでごまかしがちというか」
「タバコも昔からメンソールだもんね」
「はは、よく見てんなあ。俺のこと好きすぎかよ〜」

 おどけて笑う横顔を見上げ、きゅ、と胸の奥が狭まる。否定ができずに目を泳がせ、声まで詰まらせていると、先生は一層おかしそうに笑った。
 ミントガムの爽やかな香りはいたずらな風に運ばれ、私の鼻先を優しくくすぐる。思い出すのは高校時代の風景ばかり。香りって本当に厄介だ。勝手に人の過去と結びついて、知らんふりし続けていた記憶まで、一緒に連れてきてしまう。


 ──ねえねえ、いいこと教えてあげる。
 ──矢野先生ってね……。


 ぽつ。
 溶けた氷なんかじゃ薄れてくれない思い出が呼び覚まされそうになったその時、雨粒が私の肌を打った。

「……あ、雨だ」
「アマガエルが鳴いてたもんなあ。そのうち降ると思ってたよ」
「なんか雨粒デカくなってきた」
「だな。ちょっと雨宿りするか」

 小走りで地を蹴り、適当な民家の軒下に入って雨粒をしのぐ。
 小降りだったのはほんの一瞬だけで、あっという間に大雨となった。

「しばらく足止めだなー、これは」

 はあー、と隣で漏れるため息。雨がバラバラと音を立て、民家の軒を叩いている。
 だが、私はつい、ラッキー、と思ってしまった。この雨のおかげで、まだ先生と一緒にいられるのだから。

 街灯に照らされる白い雨。
 ザアザアと音を立て、光に満ちた眩しい夜に散らばっていく。

「……お!」

 その時、先生が唐突に明るい声を張った。

「見ろよ、篠川! ミントが群生してる!」
「え?」

 目を輝かせ、先生は少年みたいな笑顔で私を手招く。首を傾げつつ近づくと、雨宿りしている民家の隣の空き地にミントが生い茂っていた。
 雨をしのげる軒下のギリギリで屈み、「うわ〜、こりゃもうハーブじゃなくて雑草だな〜」などと言いながら楽しそうな先生。高校時代、彼は理科の授業を受け持っていたから、顧問としてウズウズする何かがあるのかもしれない。

「ミントってな、すげーんだよ。暑さにも寒さにも強い多年草でさ、一年中生えてるし、一度生えるとなかなか枯れない。あまりに強すぎて、安易に庭に植えたりすると一気に広がって他の植物の生育スペースまで奪っちゃうすげーヤツなの」
「侵略者じゃん」
「はは、そうそう! 多分、ここに誰かがミント植えて育ててたんだろうなあ。それが繁殖して広がって、雑草化したわけだ。ほら見ろよ、こんなに背が高くなって! 食べてもおいしくないぞこれ! ははは!」
「テンション高……」

 やたら口数が増えた彼に少々引きつつ、私はその場に座り込む。
 一日中ヒールを履いていたせいで、踵がずっと痛みっぱなしだ。気を抜けば足がつりそう。

「靴脱ぎたい……」

 ほのかに弱音をこぼせば、先生がこちらを一瞥した。

「足、痛い? 歩くのもう無理?」
「……うん……」
「タクシー呼ぶ?」
「……やだ……」

 力なくかぶりを振り、バーの隅で呑んだ不味いモヒートの味を思い出す。
 氷で薄めたミント味。でも、たった一度だけでいいから、舌で感じてみたいと願った味。

「まだ、先生と、一緒にいたいもん……」

 薄っぺらなアルコールの力を都合よく借り、転がした言葉は、先生の耳にしっかりと拾われていた。
 彼は一瞬黙り込み、ちらと天を仰いで、雨音の隙間に息を吐き出す。

「……じゃあ、俺と長めに雨宿りしてく?」

 先生は遠くを見つめて問いかけた。視線の先にはホテル街。
 彼の言いたいことを悟り、ぎゅう、と自身のドレスを握り込む。

 湿った土の匂いに紛れても、ペパーミントはしつこく香る。差し伸べられた手は罠だ。それを取ってしまえば深い沼に沈むだけだと分かっているのに、この夜を終わらせるという選択が、バカな私にはきっとできない。

「先生ってさぁ……」
「ん?」
「悪い大人だよね……」
「知ってたろ? お前は」
「……うん」

 軽く顎を引き、先生の手を握る。


「──ずっと知ってた」


 あなたの残り香に溺れ続けるバカな私を、どうかこのまま、朝の底まで連れてって。


 ◇


 高校時代、いつも目で追っていた。
 昼休みの実験準備室。三階へ続く階段を駆け上がり、人体模型やガイコツ標本の不気味な視線も意に介さず、スライド式の扉を開けては「先生」と明るく呼びかけた。

 ──また来たのか、お前らは。

 デスクの上に肘をつき、少年みたいな柔らかい笑顔で先生は呆れる。
 ミント味のガムを噛みながら。
 私と、私の隣にいた、あの子を見つめながら。

 緑の草が生い茂る。深く根を張り、他の草花を枯らし、じわじわと胸の内側を侵蝕する。
 どれだけ引き抜いても、知らんふりしてみても、ずっと消えない。溺れて、沈んで、浮かんでくれない。

 (から)い。(にが)い。時々痛い。

 強すぎるミントの匂い。



「……何してんだろ、私」

 薄暗い部屋のベッドの上、ひやりとしたエアコンの風に頬を叩かれて目を覚まし、細く呟く。
 雨はとっくに止んでいた。脱ぎ捨てられたドレスとスーツが床に散らばるホテルの一室。無機質な空調の音だけが、どこか空虚に響いている。
 昨晩の残痕を他人事(ひとごと)のように見つめて、ようやく頭が冷静になってきた。ホテルに入ってすぐに開けた缶ビールの中身は、さほど量も減っておらず、テーブルの上で寂しそうにしている。

 私、何してんだっけ。
 せっかく先生と繋がれたのに。
 あんなに望んだことだったのに。

 なんで、こんなに、しんどいんだっけ……。


 ──ねえねえ、いいこと教えてあげる。


 静寂に包まれているはずの部屋の中。猛毒の根茎に絡みつかれ、封じ込めていた記憶が、私の耳元で囁いた。

「……先生、あのさあ」

 呼びかけてみても、先生はまだ眠っている。
 返事はない。体を動かす私に合わせて、ベッドが切なく軋むだけ。

 目覚めたことを後悔した。
 ついでに酔いまで覚めてしまった。
 まだ覚めたくなかったのに。認めたくなかったのに。

 ずっとバカのままでいたかったのに。


「なんで、昨日、結婚式に来てたの?」


 問いかけながらベッドを降り、ドレスを拾う。シワになった紺色の布地に腕を通す。

「招待状、捨てればよかったじゃん。燃やせばよかったじゃん。灰にしちゃえばよかったじゃん」

 タバコの灰が羨ましかった。
 あなたの唇に触れられて、燃えてなくなる灰になりたかった。

「当てつけだって分かってるでしょ。アイツそういう女だよ。みんな言ってた、嫌な女だって。性格悪いって。みんな、ずっと、悪口言ってたよ……」

 言葉にしながら目頭が熱くなる。

「アイツ、嫌な女なのに……みんな、アイツが嫌いなのに……」

 様々な記憶が膨れ上がって、ミントの辛みが胸を覆う。


「なのに、先生は……まだ、アイツが好きなんだ……」


 ずっと知ってた。
 あなたが悪い大人だったこと。
 私がバカな子どもだったこと。

 あの頃から、ずっと知ってたんだよ。


「先生が、ユッコと付き合ってたこと……ずっと、知ってたのになあ……」


 もう七年も前の話なのに、どうしてこんなにも苦く、舌の上に広がるのだろう。
 奔放で掴みどころのない猫のようなユッコの目が、記憶の中で私を見ている。

 高校時代、私とユッコはよく一緒にいた。
 自由気ままで恋多きユッコは、昔から同性に嫌われやすく、恋愛絡みのトラブルが絶えない。そのたび私に泣きついて、悲劇のヒロインさながらに事の顛末を語っては、やがて別の男と恋に落ち、また違う女とトラブっている──彼女はそういう人だった。

 自分勝手で嫌な女。仲が良いわけでもないのに、なんとなく一緒にいるような関係。
 元々曖昧だった私たちの関係性がさらにいびつになったのは、高三に上がった春、甘い顔立ちの副担任にユッコがまんまと心を奪われてからだった。

『──ねえっ、お願いっ! 私、矢野先生のこと好きになっちゃったの! そっちのクラスの副担任だし、私一人じゃ恥ずかしいから、一緒に先生のいる実験準備室まで付き添って!』

 高三の春以降、ユッコは昼休みになると私のクラスまでやってきて、先生のいる実験準備室へと私を付き添わせるようになった。
 毎年誰かとトラブルになるほど恋多き女だというのに、ユッコはいつだって人間関係において受け身だ。一度他人に仲介してもらうことで、お目当ての人物との関係性を築こうとする。

 私は都合よく利用されているだけ。
 そう知りながらも、私はこの面倒を請け負ってしまっていた。
 女子に嫌われて孤立しがちなユッコを哀れに思っていたのかもしれない。
 ……だが、今思えば、これが良くなかった。

 あくまでユッコの付き添いとして接していたはずの先生が、いつしか私にとって、愛おしい存在に変わっていってしまったから。

『篠川、お前髪切ったろ? 似合うじゃん』

 毎日先生に会えるのが嬉しかった。

『禁煙しないととは思うんだけどさー、つい吸っちまうんだよなー』

 タバコと柔軟剤が混じる匂いにドキドキした。

『篠川、期末テストの点数よかったぞ。頑張ったな』

 理科の成績だけ異様に伸びた。

『ほい、勉強がんばってるご褒美にガム。みんなに内緒な!』

 辛くて食べられなかったミントガムも克服した。

 でも、私たちはあくまで先生と生徒だから。
 結ばれてはいけない。
 期待してはいけない。
 あなたへの思いを言葉にしてはいけない。

 そう思っていた──そんな時だ。
 ユッコから、あの言葉をもらったのは。

『あのね、もういいから。実験準備室に付き添わなくて』
『……え? な、なんで?』
『ふふふ〜、なんでだろ〜? なんでだと思う〜?』

 笑ってはいるのに、牽制するようなぎらついた目だった。静かな圧と敵意を感じていた。
 おそらくユッコは、私が先生に好意を持ったことに気がついたのだろう。だから私を切り捨てに来たのだ。
 刺すような視線に耐えきれず、何も答えられないまま顔を逸らす。すると、ユッコは私の耳元に唇を寄せた。

『ねえねえ、いいこと教えてあげる』
『……え……』
『矢野先生ってね──』

 無邪気な声が毒を注いだ。
 それこそが、強固な根を張る強い毒だった。


『──キスも、ミントの味がするのよ』


 きっとあの時、私の胸には、枯れない種が植え付けられたのだ。



「……ユッコの嘘つき。お酒の味しかしなかったよ」

 先生に背を向けたまま呟き、充電し損ねたスマホを手に取って画面を覗く。時刻は午前五時三十分。そろそろ始発も動き出す。
 お酒、ライター、タバコの箱、ミントガム……。テーブルの上に雑然と置かれた無機質なそれらを目に焼き付け、最後に先生の寝顔を見つめて、「ばいばい」とひとこと語りかけた。

 もう会うこともない。
 一晩だけの淡い思い出。
 迎えてしまったこの朝が、未練の消えない恋の底。

 最初で最後のキスだった。たった一度でいいから舌で感じてみたいと願ったその味は、ユッコが噛み尽くしたあとの、味気をなくしたガムだった。

 ホテルを出た私は、ヒールの踵で浅い水溜まりを踏みつけ、足取り重く街を歩く。
 その途中、昨日の夜に先生と雨宿りした軒下が目に入って足を止めた。民家の隣の空き地には、雑草化したミントが、相変わらずたくましく群生している。

 一度生えるとなかなか枯れない。

 先生の言葉を思い出しながら近付き、葉っぱを一枚ちぎって潰した。ツンと染みる強い香り。青臭いそれは記憶の中枢に結びつき、無情にも昨晩の思い出を連れてくる。

 きっとこの香りは、昨夜のことを一生覚えているのだろう。
 タバコ(本命)になりたい。だけどなれない。
 私は結局、〝口寂しいから噛まれた〟だけの、味のしないペパーミント。

「……ほんとだね、先生」

 昇る朝日を反射する、濡れて湿った道路が眩しい。
 もう雨なんて降っていないのに、足元に残る水溜まりには、ぽたりとひとつ波紋が揺らいだ。

「ミントってしぶとくて、全然枯れてくれないや」

 辛くて苦い思い出は、いくら燃やしても灰にならない。

 朝ぼらけの街。うずくまる私。
 摘んで、潰して、氷で薄めて、無意味な夜を終えても尚、しつこく香る恋の残痕は、鬱陶しい朝の底でいまだに根を張り続けている。