そして気のせいじゃなければ三瀬くんは私との距離をゼロにしようとしている。その綺麗な顔が近づく。


「あ、あのさ」

「はい」

「前から気になってたこと言ってもいい?」

「この雰囲気で?」

「えっと、」

少しバツの悪そうな顔をした三瀬くんが私から手を離して切り替えるように爽やかな笑顔で首を傾げた。

「なんですか?星子さん」

「それ」

「はい?」

「『星子さん』って、なんで私は下の名前で呼ばれてるの?他の人たちは名字で呼んでるよね」


三瀬くんは短く笑った。そして私から少し離れる。
いつのまにか手に持っていた資料の1枚が床に落ちていた。三瀬くんはそれを拾い上げながら私の質問に答える。


「好きだからです」


「えっ」


「星子さんの名前」


あ、ああ!名前ね!はいはい!分かってましたとも!
差し出された資料の紙を受け取りながら「うえー、ありがとう!」と恥ずかしさを紛らすようににへらと笑った。
動揺しすぎて力加減を間違えた手の圧により資料にシワがよる。
後輩にかき乱されてたまるものか。


「う、嬉しいけど、さっきみたいに変な勘違いされたくないから普通に『川北さん』て呼んで」


そう言うと、三瀬くんはにこりと笑った。

「嫌です」

えええ。

「先輩が言っているんだよ、三瀬くん」

「そうですね、でも今更変えるのも不自然じゃないですか。
自己紹介の時に星子さんが『好きに呼んでね』て言ったんじゃないですか」

「い、いや、まあ、そうだけど」

正直『好きに呼んでね』と言ったかどうかは覚えていない。言ったような気もする。なんなら『星子さん』と呼ばれても今まで不思議と嫌悪感がなかった。
今は嫌悪感というか、変な意識をしてしまうようになってしまったがゆえ他の人とは違う扱いをされると妙に心臓のあたりがむず痒くなってしまう。


「じゃあ、これからも星子さんって呼びますね」


「わかっ、た」


「ははっ、解せないって顔してる」


手の甲を口元に添えて笑った三瀬くん。
そりゃあ解せないよ。後輩にうまく丸み込まれたような気がするもの。

「ほしこさん」

わざとらしく、ゆっくりと名前を呼んだ三瀬くんの唇が優美に弧を描く。
あ。これはやばい。

近づいてくる顔。心臓が跳ね上がり顔の熱が一気に高まる。
触れる直前。

「っ」

寸前のところで私はシワがよりによっている一枚の紙を彼との間に隔てた。彼の顔が顰めっ面になる。
彼の唇が紙について、そしてゆっくりと離れた。

何をやっているんだ自分。せっかく、

いや、せっかくってなによ。キスできたのにって?
三瀬くんはそんな関係じゃない。ただの教育係と後輩。それだけだ。それだけで終わらせないと。


「星子さんのあほ」


すねたようにそう言った三瀬くん。
「あほ」となぜかもう一度言って私に背を向けて資料室を出ていった。
意外と子供っぽいところもあるものだ。

ーーーかわいい。

もっと彼を知りたいと、思ってはいけないのに思ってしまう。

これがきっと恋なんだろうと、そう思った。