教室に入ってまず目に入ったのはひと席だけ空いている光景だった。その席は二瀬が座っている場所だ。
ひゅっ、と息がつまる感覚になる。
担任が教室に入ってきてもなかなか静かにならない教室には慣れてはいたが、大きな声が鮮明に耳に入ってきた。

「二瀬の家からめっちゃ食器みたいなんが割れる音と叫び声みたいなのが響き渡ってたらしくてめっちゃ笑うんだけど!

あいつあんな感じで家の中で暴れ回ってんのかな!?」


クラスのヒエラルキーのトップの声は大きい。
俺は目を見開く。胃液が込み上げてきたが、堪えた。
考えろ、考えろ。


「てか普通にあいつんちやばそうじゃね?服も毎回ボロいし時々くせーしよー!」


俺はあの時以来、初めて彼らの顔をしっかり見たかもしれない。
俺が叩いた教卓はびくりとも動かなかった。
この状況が現実であることをピリピリと痛む手のひらが教えてくれる。

静まり返った教室。


「人をコケにするのは楽しいですか」


教師として、やるべきことをやるんだ。
それがあの子に出来ることの唯一の償いである。


「そうやって生きていって何を得るつもりですか」


「先生なにマジギレしてんだよ、冗談じゃん!」


「その冗談で君は今まで何人の心を殺してきたんだ」


ヒエラルキーのトップが言葉をつまらせ、おしだまった。君にも謝らないといけない、ここまで君を放っておいたのは俺の責任だ。これからじっくり向き合っていこう。
心を殺されたものたちがゆっくりと立ち上がった。
か弱そうな、1人の女の子だった。


「先生、わたし、二瀬くんと同じアパートで、それで今日、大きな音が聞こえて、それを教室で話したんです」

「そしたら」と睨みつけるように彼を睨む女の子。
そして真っ直ぐな瞳で俺をみた。


「長谷川先生、二瀬くんの家に行ってあげてください」


走り出さない言い訳をずっと考えていた。あの子のように傷つけてしまったら。
俺の正義はただの偽善でしかなかっとしたら。
苦しみから逃げられる方法は向き合わないことだった。先生を続けていれば償いになる、そんな思いで俺は今日までやってきた。

囚われていたトラウマという鎖を引きちぎるように俺は走り出した。


「片瀬先生!」

隣の教室の戸をあけて片瀬を呼んだ。
俺の慌てように只事じゃないことを察したのか「ちょっと待ってろ」と生徒たちに言葉を放った後こちらに駆け寄ってくる。

教室の戸を閉めながら廊下にでた片瀬に俺は殴り書きの紙を渡した。


「ここに警察を呼んでくれ」


「ええ、なんですか、事件ですか!?」


「いいから、お願いします!」


と説明不足にも程があるが呑気に説明をしている場合ではなかった。
片瀬ならおそらく言った通りにやるだろう。彼はお酒が入ると本音が入る。よく言っていた「生徒全員、俺の子供だ。大事な子供に何かしたらそいつをぶん殴って半殺しにしてやるぅ!」と。道徳心は少しかけているが、情にあついやつなのは知っている。

俺はひたすら走った。

また同じことになるかもしれないと思ったけれど、今ここで動かなかったら後悔する。
間に合う、まだ、間に合う。

二瀬の住んでいるアパートについてすぐさま呼び鈴を押した。音は聞こえない。


「二瀬!」


何度も何度もおしながら名前を呼ぶ。
頼む、でてきてくれ。
しばらくすると、二瀬の声ではない声が中からきこえる。それは言葉になっていないような喚き散らすような声。


「二瀬!いるなら返事をしろ!」


ドアをこじ開けようとドアノブをひねるが開かない。
何かが割れるような音が中から聞こえる。
手を伸ばすから、言ってくれ、「助けて」って。

お願いだから、心を殺さないでくれ。

俺は涙か汗か分からないのを手の甲で拭ってあたりを見渡す。アパートの廊下の端にレンガが一個転がっていた。
それを片手で持ち上げる。そしてドア横の窓に向かう。


「二瀬、大丈夫だから!二瀬の幸せは二瀬自身が決めるものだけど、今そこにいることが本当にお前の幸せなのかちゃんと考えろ!!」

きこえていることを願って必死に叫んだ。


「リンデル姫だけじゃない!!お前も言っていいんだ!!」

ーーーー『助けて』って。



「…せい、先生!!助けて!!」



その声が聞こえた瞬間、俺は振り翳したそれを全ての願いをこめて窓にぶつけた。