「残業はそこそこにして、帰りましょう星子さん」
顔を上げれば、整った顔が私を見下ろしていた。
周りにはすでに人はおらず、この空間には私と三瀬くんしかいない。
あのあと、木下さんは反省したように戻り部長に深々と頭を下げた。部長の怒りは木下さんの大きな瞳から溢れる涙でおさまり、尻拭いは私と三瀬くんがおこなった。
1日では到底終わらず、時刻は夜9時をまわろうとしていたが、今日は金曜日のためどこか気持ちは楽だ。
あと少しの仕事を終え、私はパソコンを閉じる。
「よし、帰ろう三瀬くん。今日はごめんね」
「なんで星子さんが謝るんですか。悪いのは星子さんじゃないです」
「うーん、まあ、それは、ね、うん」
彼は分かっていないのだろうか、なぜ彼女があんな行動にでてしまったのか。
女の嫉妬心はどこで爆発するかは未知だ。
私はますます彼のことを好きになっていいのか分からなくなった。
ビルをでれば外も薄暗く、建物からこぼれでる光を頼りに歩き出す。
「家まで送りますよ」
「すぐ近くだから大丈夫」
やんわりと断ったのに、三瀬くんは私の言葉に返答はせずゆっくりと歩き始めた。
彼の横に並んで私は彼の横顔を見つめる。
「前みないと転びますよ」
「うん」
彼はクスクスと笑いながら、「おもしろいなあ」と呟く。そして私の手をからめとった。
「星子さんってどんな子供でした?」
「何よ急に」
「知りたいなと思って」
そう言われて、私は自らの子供の頃を思い出してみる。
「わりと、巻き込まれ体質だったかも」
「巻き込まれ体質?」
「うん。自分でも知らないうちによく分かんないことに巻き込まれててね」
「例えば?」
「女の子たちってさ、グループで何かしらの問題がおこるでしょ?悪口を言った言わない、誰かの好きな人をとったとらないとか。
関わった覚えがないのによく巻き込まれてたんだよね」
「そう、なんですか」
理解できない、といった表情をみせた三瀬くん。まあそうだよね。この特有の感じは女にしか分からないのかもしれない。
そんなことを言ってしまえば、女はパンプスはいてこいと言っている時代錯誤の部長と同じレベルに落ちてしまっているような気もするが、しようがない、自分は女でうまれて女で死んでいくのだから。
「以外と小学生の頃からそういうのってあるのよ」
「えげつないですね」
「でしょう。まあ、私はそういうのから逃げたくてよく現実逃避してたけど」
「どうやって」
「恥ずかしいから言わない。陽キャの三瀬くんには分かんないし」
そういうと、むっと顔をしかめた三瀬くん。
「言ったでしょう、俺も昔喋らなかったって」
「そういえばそうだったね」
「で、現実逃避って?」
握っている手を軽く揺らしながら私の答えを急かす。
「物語、書いてたの」
「ものがたり、ですか」
「そう、どんな内容だったか忘れちゃったけど」
「読んでみたいなあ星子さんが考えた物語」
「やめてよ、恥ずかしいから!しかももうそのノートどこにあるか分かんないし!」
「ふーん」
「しかも小学生の頃だけだよ、中学に上がってからはもっと賢く生きようと必死だったから。
誰にでもいい顔して愛想笑いして」
きっと、それは今でも変わらないことなのかもしれない。私は大人にはなりきれていないし、思い描いていた理想像からは程遠い。
でも別にそれでいい。私は平凡に生きられればそれで。
「でも今日、木下さんをぶん殴ってましたよね」
「えっ」
「しかもグーで」
「みてたの!?」
気づけば自分のマンションの前まできており、自然と足が止まる。
三瀬くんは思い出し笑いをしているのか肩を震わせていた。
「俺は、間違っていることを間違ってるって怒れる星子さん、好きです。
それにひとを拳でぶん殴れるんですから、星子さんは立派な大人です、っ、ふ、ははっ、」
「バカにしてる?」
「バカにはしてないですよ、告白をしてるんです」
三瀬くんは口元を手の甲で隠しながらさらりとそう言う。今、なんと。
一通り笑ったあと、三瀬くんは私の頬に手を添えた。
すべてがスローモーションのようにみえた。
「ほしこさん」
私の名前を呼んだその唇が、私の唇を塞ぐ。
一度離れたあと、三瀬くんの瞳が私をとらえた。
私が抵抗しないことを分かったのかより深く口付けられる。
「やっと、だ」
媚薬みたいに、彼の言葉が私の身体中に甘く溶けていくような感覚だった。
そこから家に入るまで、あまり覚えていない。
気づけば彼は私に何度もキスをして、彼は熱をおびた瞳で私を見下ろしていた。
いつも自分が寝ているベッドに彼がいることが夢のようで、でもやっぱり現実なのだと自分にいいきかせた。
「で、でんき、消して、三瀬くん」
私のあげた右手は彼の手に絡めとられてベッドに押し付けられる。
なんとか電気を消そうと体をよじれば、逃がさないようにキスを繰り返された。
ちくりと肌を彼の唇が刺激して、私の思考を絡め取っていく。
好きになってよかったんだ、きっと。
私はただ心の底からそう思って、彼に溺れた。