その衝撃のニュースは、なんの予兆もなく突然わたしの目の前に姿を現した。
まるで隕石のようにーー。
大体、朝から嫌な予感がしていたのだ。
まず、目覚ましをかけ忘れていた。いつもより十五分遅く目が覚めて、朝っぱらからなにか出鼻をくじかれたような気分になった。
たかだか十五分かと思われるかもしれないが、十五分もあれば、インスタントコーヒーを作ることができる。それを片手に、SNSで推しの最新の投稿や、それに対するフォロワーたちの反応をチェックすることも。
惜しくも寝坊してしまった今日のわたしは、日課となっている朝の楽しみを朝食までとっておくことにして、急ぎ気味にメイクを進めた。途中、リビングの化粧台から少し離れた場所においてあるテレビの電源をリモコンでつけた。
いつも見る朝の情報番組。
今朝の最初のトピックスは、世間でにわかに騒がれているオリオン座流星群に関してだった。
わたしと同い年ぐらいの女子アナが、弾んだ声でトピックスを紹介していく。
『なんと、このオリオン座流星群! 本日深夜から明日未明にかけてが三十年に一度の極大期ということでーー』
へー、そうなんだ。星空なんて朝からロマンティックね。
そんなことを思いながらアイラインを引いていると、
『では、朝一番の芸能コーナー! 今朝はビッグニュースが入ってきました!』
一際甲高い声で女子アナが番組を進めていく。
『芸能界にまた一つビッグカップルの誕生です! 昨夜遅く、女優の深瀬愛莉さんと人気声優の皆川真守さんが婚約を発表しーー』
ぐらり、と。
世界が、揺れた気がした。
え、待って。
今あの人なんてーー……。
気づくと、わたしは立ち上がって呆然としていた。
真守が、婚約?
待って、待って、待って。
あの、真守が?
わたしは心の中で呪文のように何度も繰り返す。
嘘でしょ? ねえ、嘘でしょ、真守?
嘘だと言ってーー。
*
真守と出逢ったのは、忘れもしない三年前のクリスマスイブの夜。
寒い真冬の夜空の下、恋人たちが身を寄せ合って歩く駅前の一画で、わたしは当時付き合っていた晃弘の浮気現場を目撃したのだった。
長らく入院していた母方のおばあちゃんがとうとう危篤の状態になったからと、わたしとのイブの予定を急遽キャンセルし九州の片田舎に帰省したはずのあいつは、いけしゃあしゃあと他の女と手を繋いで歩いていた。
しかも、繋がった手の先の女は、大学の同じゼミ内でも有名なビッチだった。
当然、頭に血が上ったわたしは、すかさず二人の前に歩み出て言った。
「あら、晃弘。おばあちゃん、厚化粧して歩けるくらいに元気になったの? すごい、イブの奇跡だね、よかったじゃん」
死人を見たかのように固まる晃弘の隣で、ビッチも間抜けな顔でぽかんと口を開けていた。
そして、晃弘の右頬に渾身のフルスイングをお見舞いしたわたしは、踵を返して一人夜の街へと駆け出したのだった。
そのままなんの目的もなく夜の街を彷徨い歩いたわたしは、終電に乗り、当時住んでいた二階建てのアパートに帰った。
室内に入ると、ほのかに晃弘の匂いがした。
同棲はしていなかったけれど、前日まで、晃弘はこの部屋の中でわたしと他愛もない話をして過ごしていたのだ。
匂いとともに、晃弘の体温が恋しくなる。
けれどそれは一瞬のことで、心はすうっと、氷のように冷たく砕けた。
わたしは泣いた。
灯りもつけずにリビングのコタツに入って、机の上に突っ伏して、泣いて泣いて泣いて、バカみたいに泣いた。
ひとしきり泣いて、泣き果てて涙が枯れたところで、わたしはなにを思ったのか、テーブルの上にあったテレビのリモコンに手を伸ばしていた。
急に人恋しくなってしまったんだろうか? それとも自分のすすり泣く声にうんざりしてしまったのか……。
目の前が明るくなる。
そしてその瞬間が訪れた。
『じゃあみんな! はりきっていこーぜー!』
その男子は、煌びやかなステージの上に立っていた。現実ではあり得ない虹色の瞳。明るいオレンジ色の髪に、華やかな衣装。そして、爽やかでとろけるような甘い声ーー。
一目で架空の存在とわかる男子の存在に、わたしはたちまちに視線と心を奪われてしまった。
深夜アニメ、ブリリアントスターズ。
五人組の男性アイドルグループが芸能界の頂点を目指すためにあちこちで奮闘するという王道ストーリー。
わたしが目にしたのは、真冬の音楽フェスのステージでのシーン。賑やか担当のメンバー、天宮リオンが歌い出しの前にファンを盛り上げる、まさにその瞬間だった。
リオンの歌声とパフォーマンスに、目と耳が支配される。
とりわけわたしの心を虜にしたのは、リオンの幼さの残る明るく優しげな声だった。
今まで聞いたどんな音楽や歌よりも、その声は魔法のようにわたしの心に沁み込んでいったーー。
平面上にしか存在しないはずのリオンは、その声によって確かな命を宿していた。
それは本当に魔法だった。
この魔法を使っている、魔法使いの正体を知りたい。
そう思うようになるまで、さほど時間はかからなかった。
魔法使いの正体は皆川真守ーー。
こうして、わたしの真守に対しての想いーーいわゆる推し活は、日付けが変わったクリスマス当日に産声を上げたのだった。
*
お昼休みにSNSを検索すると、そこにはさまざな怨嗟の言葉が溢れていた。
『マモ結婚とか嘘でしょ人生終わった……』
『皆川真守の結婚相手、深瀬愛莉は枕営業で有名なクソビッチ! 深瀬愛莉マジ許せん!』
『マモマモマモマモ、お願い嘘だと言って!』
「……はあ」
社員食堂の片隅で、わたしはスマホを片手にため息をついた。
見ていて気分が悪くなるような内容ばかりなのに、操作する手が一向に止まらない。
画面の向こう側にいるその他大勢と同じように、推しの結婚を素直に喜べない自分がいる。
推しに対して、応援の気持ちよりも恋愛感情に近いものを抱いてしまったバカな自分。
本当にバカだなと思う。
所詮、真守とわたしは知り合いですらない。人気声優とそのファンという遠巻きの関係に過ぎないのにーー。
そう、頭ではわかっているはずなのに、なぜこうも気分が落ち込むのだろうか?
ともすれば、SNSで湧いているようなドス黒い怨念の塊に、自分自身も飲み込まれそうになる。
ネットの記事によると、なんでも二人の交際は某アニメ映画でのアフレコ現場がきっかけとなったらしい。深瀬愛莉は、その映画でゲスト声優を務めていた。今からたった一年ほど前の話である。わたしは三年も前から真守のことを想い続けてきたっていうのに……。
これじゃあまるで、あのクリスマスイブの悲劇と同じだ。
付き合いを重ねてきた恋人を、ぽっと出の女に横取りされるーー。
いやまあ確かに、真守に関しては恋人どころか直接の面識があるわけでもないのだけど。
それでも、気持ち的にはどうしてもあのイブの夜と、真守の婚約とが重なってしまう。
真守は晃弘とはまったくの別の存在なのにーー。
*
結局、今日は最後まで仕事に身が入らなかった。
会社を出て電車に乗っている間も、頭の中は真守の結婚のことで思考がグチャグチャだった。
そんな自分をどうにかしたくて、電車を降りると駅近くのコンビニに立ち寄った。
つまみ数種と、発泡酒三本、酎ハイ四本をかごに入れてレジに並ぶ。
今日は飲もう。
社会人になって本格的にお酒の味を覚えてからは、嫌なことがあれば飲んで忘れるようにしていた。
コンビニを出て、現在の住処となっている十五階建てのマンションに帰る。
エレベーターで七階に上がり、自分の住居に足を踏み入れると、シンした部屋の空気が、わたしの心をいっそう寂しくさせた。
部屋の明かりをつけ、メイク落としも着替えも後回しにしてテーブルにつく。
まずは発泡酒を一本開けて、そのまま一気に中身をあおる。
冷えたアルコールが、胸と頭に染み渡っていく。
いつもならここで、サブスクで配信されている真守出演のアニメを酒の肴にするのだけど、さすがに今日は無理だった。
見たらきっと、泣いてしまうから。
「……真守の、バカぁ」
ピーチハイを開け、つまみのピーナッツの袋を破る。
もう、今日はとことん飲んで真守のことなんか忘れてやる。
わたしは酎ハイの缶を手に持つと、もう一度勢いよくそれをあおった。
*
……熱い。
気がつくと、わたしは玄関を出て、マンションの廊下を歩いていた。
時刻は午前零時を回っている。
自分の体が自分のものではないようにフワフワする。
夜風に、当たりたかった。
できれば、ぼんやりと星空を眺めたかった。
その二つの欲求を叶えるためには、ベランダに出ることがもっとも簡単な回答だったと思う。
けれど、この日のわたしは違っていた。
ヤケ酒というのは恐ろしいものだ。気持ちがどんどん大きくなってしまい、普段では絶対思いつかない突飛な発想を思いついてしまう。
わたしはこのとき思っていた。
どうせ星空を見るなら、ここいらで一番高い場所に行ってやろう、と。
そう思いついたとき、真っ先に頭に浮かんだ場所がある。
マンションの屋上だった。
去年、マンションの管理会社主導で、災害を想定した避難訓練を行ったことがあった。その際に、津波被害も考慮に入れて、屋上を見学したことがあったのだ。
十五階建てともなると、マンションの屋上から見渡す景色は、それなりに壮観なものだった。
あそこから見渡す星空も、きっと壮観なものになるに違いない。
玄関を出て朧げな足取りでエレベーターに乗り、スイッチを押す。目指すは最上階。
着いた先でエレベーターを降り、階段へと進むと、今度はそこからさらに上へと足を運んでいく。
終点にたどり着くと、目の前にアルミ製のドアが現れた。そこではたと気づく。ドアには、鍵がかかっているはずだった。
酔いで完全に失念していた。多分、鍵はマンションの管理会社が保管しているはず。
……せっかくここまできたのに、とやりきれない気持ちになりかけるが、諦めきれなかった。
わたしはやぶれかぶれにドアノブに手を伸ばし、それを力任せに手前に引き寄せるとーー、
ガチャッ
呆気なく、ドアが開いた。
なんという偶然か、ドアには鍵がかけられていなかったのだ。
あまりの呆気なさに、ドアの先に進むことを躊躇してしまう。
数秒、その場で息を整えて、わたしは足を踏み出す決意をする。
ドアの向こうには、夜景が広がっていた。
夜空には無数の星々が瞬いている。
月の姿はない。でもそのせいか、星々の輝きはいつにも増して夜空に映えているように思えた。
フワフワとした足取りのまま、屋上の端に近づき、うっとりと、そこに広がる景色を眺める。
不意にそよいだ夜風が気持ちよくて、少しずつ、酔いが醒めていくような気配がする。
それに伴って頭の中が整っていくと、今日あった出来事が、急にリアルに脳内で再現されていった。
真守はわたしにとって、本当に尊い推しだった。
プライベートでどん底に落ちたときに、一筋の光をくれた救世主。
ディスプレイの向こう側にいる真守が、わたしだけに語りかけてくれてるわけではないことくらい、わかってる。
それでもわたしは真守の声に、真守が命を吹き込んでくれたキャラクターに、たくさんの幸せをもらったのだ。
その時間があまりに幸せだったもので、いつしか胸に恋心に近い感情を抱くようになっていた。
推しに恋をしたファンの末路は、報われないに決まっているのにーー。
「……死にたい」
そんな言葉まで口をついて出てくる。
冷静に客観視すれば、今の自分は痛い、痛すぎる。
でも、次々と負の感情が胸に押し寄せてくるのだから仕方ないじゃないか!
理性では歯止めの効かない感情の嵐に襲われて、気づくと頬には涙まで伝っていた。
もうこんな自分が惨めでアホらしくて嫌で嫌でしょうがなくてーー。
いっそのこと空でも飛んでみようかなと血迷った考えがよぎった、そのとき、
「早まらないでくださいーっ!」
まったくの予想外な声が響いて、わたしの体になにかが抱きついてきた。
「きゃっ!」
その拍子に屋上の上に倒れ込む。
頭を打たなかったのは、そのなにかに頭を抱き抱えられたからだった。
「早まらないでくださいっ! 今あなたは辛いんですよね? でも死んじゃいけません、絶対に死んじゃいけませんっ!」
「……えっ? え? なに? ちょっと、苦しい……」
人の言葉を喋った時点で、そのなにかは人間の男性だということがわかった。
そしてなによりも、
「えっ? えっ? ちょっと待って。ちょっと待って!」
「早まらないーーはい? はい、すいません」
わたしに抱きついたまま倒れ込んでいた男が速やかにわたしから身を離す。
わたしはなにがなんだか混乱する頭でその場に上半身だけを起こして言った。
「……なんで? うそっ! なんで!」
仕事着のスラックスのポケットに手を突っ込んで、そこに入っていたスマホのライトで男を照らす。
「うわっ!」
尻もちをついた姿勢でまぶしさに顔をしかめた男は、まだあどけなさの残る青年だった。
真守ではない。
でも、
「あ、あなた、死のうとしてたんじゃないんですか?」
そう問いかける男の声は、真守の声そのものだった。
*
「すいません、僕はてっきりあなたが世を儚んで身投げしようとしてるのかと思って……」
そう言って、男は申し訳なさそうに目を細めた。
スマホのライトに照らし出されたその顔は、やはり若い優男に見える。メガネをかけていて物静かそうな文系男子といった感じ。アイドル顔負けの整った顔立ちで、無邪気さと華やかさを兼ね備えている真守の童顔とは明らかに違っていた。なのに、その声は真守のものとまったく一緒。目を閉じていれば、まるで真守本人がわたしに話しかけてくれているかのようだった。
気づくと鼓動が早まっていた。頭は完全にパニックに陥っていた。
座り込んだままだったわたしは慌てて立ち上がる。すると、わたしから離れた拍子で屋上に尻もちをついていた男も立ち上がる。
「……あ、あなたっ!」
動揺を隠しきれないまま、わたしは訊いた。
「い、一体なにものなんですか?」
暗がりで、男が苦笑いを浮かべる気配がした。
「い、いやあ、すみません。実は僕、このマンションの管理会社のものなんです」
「管理会社?」
……だからドアの鍵が開いていたのか。
男の返答を聞くなり、先ほどまで放置されていた疑問がたちどころに解決する。
しかし同時に新たな疑問も生まれた。
「管理会社の人が、なんでこんな時間に屋上に?」
「ああ、それは……」
沈黙。
男にはなにか後ろめたいことがあるようだった。
「……まさかどろぼ」
「違います!」
わたしの呟きに、男は食い気味に叫んで胸の前で両手を振った。
「泥棒なんかじゃありません! でもほんの出来心だったんです! 僕は星をーー」
「星?」
「そうです、星を眺めに来たんです!」
男はそういうと、自分がなぜこんな深夜にマンションの屋上に現れたかを弁明し始めた。
男の名前は深町圭吾。社員証を見せてもらったのでマンションの管理会社の人間であることは間違いがなさそうだ。朝のニュースでも言っていたオリオン座流星群。星好きの彼は、それを観測するのに適したスポットをあれこれ探し出した挙句、自分の管理会社が所有するマンションの屋上に忍び込むことを思いついたらしい。いざそのマンションに忍び込み、屋上の給水タンクの陰に隠れて今か今かと流星群を待っていると、ひとりの不審者が現れた。……わたしだ。その不審者はフラフラとおぼつかない足取りで屋上の端へ歩いていく。勘違いするのも、まあ無理はない。
一通り話を終えると、今度は深町くんがわたしに尋ねる番だった。
「それであの、あなたは……」
「真下です。真下鈴美」
「真下さんは、どうしてこんな場所に?」
「……いよ」
「へっ?」
「ずるいよ! なんでそんな声で、そんな優しく、そんなこと訊いてくるの⁉︎」
「ええっ?」
ずっと話を聞いていたけれど、もう我慢の限界だった。
頭はうまく働かないのに、言葉は勝手に口から飛び出していく。
「君の声! わたしが大好きな推しの声に似てるんだよ、そっくりなんだよ! 皆川真守! 知らない?」
「……はあ。存じ上げないんですけど」
「彼! 昨日結婚を発表したの! わたしそれでわけがわからなくなっちゃってーー」
「お、落ち着いてくださいっ」
「落ち着けない! そんな真守と同じ声で話しかけられたら余計に!」
「……ええっ」
自分でも言いながら思った。……めちゃくちゃなことを言ってる。
これは完全な八つ当たりだ。真守とそっくりな声の深町くんに、真守を投影して八つ当たりしてる。
でも止まらない。
全っ然止まらない!
「……いつかは、もっと真守のそばに行ってみたかった! わたしも真守を幸せにしたかった! 恩返ししたかった! 晃弘にあんなことされて……いつかは結婚したいなって、思ってたのに! 晃弘去年、あの女と結婚しちゃったんだよ? あの浮気女と!」
酔いが回っているせいか、言ってることが支離滅裂になってきている。真守の話から急に晃弘の話に変わってしまった。
ーーそう。それは去年風の便りで知った事実だった。
晃弘の結婚を知ったとき、わたしは自分でも予想外なほどショックを受けてしまっていた。
わたしにはもう真守がいるはずなのに……。いや、わたしはひょっとすると、晃弘を忘れるために無理矢理真守の推しになったんだろうか?
わたしは、裏切られてもなお、晃弘のことが好きだったんだろうか?
いや、そんなはずない。わたしには真守が……でも、その真守も……。
ああ、なんて脆いんだろう。
ふたりに選ばれなかったことを認めたくない。
わたしは、こんなにもプライドにまみれている。
目を向けたくない。わたし自身の醜い部分に。
本当に相手のことが好きだったら、ただ幸せを願えばいい。
晃弘にしろ、真守にしろ。
相手のことが大切なら、幸せを願ってあければいい。相手を自分だけのものにしたいなんて、そんなのはただの所有欲だ。わかってるはずなのに、わたしの心はどうしてこうも醜く歪んでしまうのだろう?
「……わけがわからないよ」
涙が溢れてくる。
気づくと声を上げて泣き崩れていた。
深町くんはそんなわたしになにも言わず、背中をさすってくれた。ただただ優しく、わたしが泣き止むまでそばにいてくれた。
*
「……落ち着きました?」
気づくとわたしは屋上にしゃがみ込んでいた。
深町くんはそんなわたしと背丈を同じにして、まだ背中をさすってくれている。
真守と同じ声のせいなのか、初めて会った気が全然しない。
「ごめんね……」
わたしは深町くんに謝った。
彼もとんだ災難に見舞われたことだろう。見ず知らずの酔っ払い女に、わけのわからない因縁をつけられたのだから。
でも、言いたいことを吐き出したせいで、わたしは少し溜飲が下がった気分だった。
ぐすっ、と鼻を啜って何気なく空を見上げる。
見知った星座が、そこに輝いていた。
「ーーあれが、僕の推しなんです」
ぽつりと、深町くんが言った。
「えっ?」
「ペテルギウス」
中腰の姿勢からわたしの隣に腰を下ろした深町くんは、人差し指で星座の一点を指差した。
「ほら、あの一際輝いてる星です」
「……………」
背後にある給水塔に背を預けながら、深町くんが指差す星を無言で眺めた。
遠い空に輝く星は、静かに尊い光を放ち続けている。
「真下さんの気持ち、よくわかります」
不意に深町くんから放たれた言葉が、わたしの心を左右に揺らす。
「えっ?」
「好きだったものをただ好きでいるうちは、自分の心が洗われたように、ただ澄んだ気持ちになりますよね。でもそれが自分だけのものにならないと気づいたとき、どうしようもなく黒い気持ちが湧いてきます。あんなに綺麗だった心がそんなふうに変わるのはしんどいです」
訥々と俯いて語る深町くんは、なにか懐かしい傷痕をなでるように、ゆっくりと自分に言い聞かせるような口調だった。
「……でも」
と、彼は、俯かせていた顔を上げ、夜空を仰ぐ。
「そんなときは、こうやって遠い宇宙の星を眺めるんです。決して手が届くことのない星眺めていると、不思議と穏やかな気持ちになります」
「……………」
決して手が届くことがない、星。
わたしにとっては真守だ。
わたしも、ただ真守の活躍を遠くから眺めているだけで、心が洗われていた。
わかっていた。真守は、最初から背伸びをしたって届かない場所にいた。恋心を抱くこと自体がお門違いだった。
でも、だったら……だったらわたしにできることは……。
「あ、見てください」
深町くんの声。
視線を夜空に戻すと、一つ、また一つと、星が流れていく。
ーー流星群だ。
「……綺麗」
気づくと呟いていた。
「ほんと、綺麗ですね」
深町くんの口から、真守の声が聞こえる。
「深町くん」
「はい? なんでしょう?」
隣に座るわたしに、目を向けてきた深町くん。
思い切って、わたしは言った。
「君の、その真守と同じ声で……真守になったつもりでなにかわたしに一言ちょうだい」
「えっ?」
「……お願い」
深町くんは黙り込む。
本当に馬鹿げたお願いだった。でも、わたしは自分勝手にも区切りをつけたかった。真守の声でなにかを語りかけてもらったら、それが区切りになる気がした。
深町くんが、小さく息を吸う。
「いつもありがとう、鈴美」
「……………」
わたしは涙を堪えて夜空を見た。
そして心から星に願った。
推しの幸せが、いつまでも続きますように、と。
*
「……さん……真下さん……」
呼びかけに気づき、目を開ける。
頭が痛い。
視界がはっきりしていくと目の前に、深町くんの顔があった。彼の向こう側に見えた空は、うっすらと白んでいる。
「すいません、あまりにぐっすり眠られていたものですから……」
「えっ?」
給水塔に背を預けたままの姿勢でいるわたしの足元には、深町くんが着ていたジャケットがかけらていた。
深町くんの話によると、わたしはあの流星群を見つめながら、いつの間にか眠りに落ちていたらしい。
立ち上がって、ジャケットを深町くんに返す。
彼は慌てた様子でそれを受け取ると、
「……あの、誓ってやましいことはしてませんから!」
そんなことを言って、屋上の出入り口へと走って行く。
そのままドアを開けて去っていくものかと思ったら、違った。
「真下さん!」
「……はい?」
「僕、今年で十九になるんです! 年下は嫌いですか?」
「……えっ?」
思ったよりもずっと若かった。高卒入社だったのだろうか?
いや、それよりも、
「それって、どういう……」
「僕は!」
深町くんが声を張り上げた。
「あなたの手が届く場所にいる星になりたいです! 初対面でしたけど、昨日のあなたはとても綺麗で素敵でした!」
「……………」
返す言葉が出なかった。
きっと、メイクも落とさずに泣いてばかりだったわたしは、今もひどい顔をしているに違いないのに、綺麗と言われた。
顔が熱くなる。
深町くんはわたしの返事も待たずに、
「また会えたらいいですね!」
そう言って、ドアの向こうに逃げて行った。
連絡先も告げずに……。
わたしはそのまま屋上に立ち尽くす。
すると、ポケットの中でスマホが鳴った。目覚ましだった。
「……あっ、会社、行かなくちゃ」
独り言で呟き、自分の顔がニヤけていることに気づく。
そのとき、涼やかな風が吹いた。
心臓が、目を覚ましたように高鳴っていた。
まるで隕石のようにーー。
大体、朝から嫌な予感がしていたのだ。
まず、目覚ましをかけ忘れていた。いつもより十五分遅く目が覚めて、朝っぱらからなにか出鼻をくじかれたような気分になった。
たかだか十五分かと思われるかもしれないが、十五分もあれば、インスタントコーヒーを作ることができる。それを片手に、SNSで推しの最新の投稿や、それに対するフォロワーたちの反応をチェックすることも。
惜しくも寝坊してしまった今日のわたしは、日課となっている朝の楽しみを朝食までとっておくことにして、急ぎ気味にメイクを進めた。途中、リビングの化粧台から少し離れた場所においてあるテレビの電源をリモコンでつけた。
いつも見る朝の情報番組。
今朝の最初のトピックスは、世間でにわかに騒がれているオリオン座流星群に関してだった。
わたしと同い年ぐらいの女子アナが、弾んだ声でトピックスを紹介していく。
『なんと、このオリオン座流星群! 本日深夜から明日未明にかけてが三十年に一度の極大期ということでーー』
へー、そうなんだ。星空なんて朝からロマンティックね。
そんなことを思いながらアイラインを引いていると、
『では、朝一番の芸能コーナー! 今朝はビッグニュースが入ってきました!』
一際甲高い声で女子アナが番組を進めていく。
『芸能界にまた一つビッグカップルの誕生です! 昨夜遅く、女優の深瀬愛莉さんと人気声優の皆川真守さんが婚約を発表しーー』
ぐらり、と。
世界が、揺れた気がした。
え、待って。
今あの人なんてーー……。
気づくと、わたしは立ち上がって呆然としていた。
真守が、婚約?
待って、待って、待って。
あの、真守が?
わたしは心の中で呪文のように何度も繰り返す。
嘘でしょ? ねえ、嘘でしょ、真守?
嘘だと言ってーー。
*
真守と出逢ったのは、忘れもしない三年前のクリスマスイブの夜。
寒い真冬の夜空の下、恋人たちが身を寄せ合って歩く駅前の一画で、わたしは当時付き合っていた晃弘の浮気現場を目撃したのだった。
長らく入院していた母方のおばあちゃんがとうとう危篤の状態になったからと、わたしとのイブの予定を急遽キャンセルし九州の片田舎に帰省したはずのあいつは、いけしゃあしゃあと他の女と手を繋いで歩いていた。
しかも、繋がった手の先の女は、大学の同じゼミ内でも有名なビッチだった。
当然、頭に血が上ったわたしは、すかさず二人の前に歩み出て言った。
「あら、晃弘。おばあちゃん、厚化粧して歩けるくらいに元気になったの? すごい、イブの奇跡だね、よかったじゃん」
死人を見たかのように固まる晃弘の隣で、ビッチも間抜けな顔でぽかんと口を開けていた。
そして、晃弘の右頬に渾身のフルスイングをお見舞いしたわたしは、踵を返して一人夜の街へと駆け出したのだった。
そのままなんの目的もなく夜の街を彷徨い歩いたわたしは、終電に乗り、当時住んでいた二階建てのアパートに帰った。
室内に入ると、ほのかに晃弘の匂いがした。
同棲はしていなかったけれど、前日まで、晃弘はこの部屋の中でわたしと他愛もない話をして過ごしていたのだ。
匂いとともに、晃弘の体温が恋しくなる。
けれどそれは一瞬のことで、心はすうっと、氷のように冷たく砕けた。
わたしは泣いた。
灯りもつけずにリビングのコタツに入って、机の上に突っ伏して、泣いて泣いて泣いて、バカみたいに泣いた。
ひとしきり泣いて、泣き果てて涙が枯れたところで、わたしはなにを思ったのか、テーブルの上にあったテレビのリモコンに手を伸ばしていた。
急に人恋しくなってしまったんだろうか? それとも自分のすすり泣く声にうんざりしてしまったのか……。
目の前が明るくなる。
そしてその瞬間が訪れた。
『じゃあみんな! はりきっていこーぜー!』
その男子は、煌びやかなステージの上に立っていた。現実ではあり得ない虹色の瞳。明るいオレンジ色の髪に、華やかな衣装。そして、爽やかでとろけるような甘い声ーー。
一目で架空の存在とわかる男子の存在に、わたしはたちまちに視線と心を奪われてしまった。
深夜アニメ、ブリリアントスターズ。
五人組の男性アイドルグループが芸能界の頂点を目指すためにあちこちで奮闘するという王道ストーリー。
わたしが目にしたのは、真冬の音楽フェスのステージでのシーン。賑やか担当のメンバー、天宮リオンが歌い出しの前にファンを盛り上げる、まさにその瞬間だった。
リオンの歌声とパフォーマンスに、目と耳が支配される。
とりわけわたしの心を虜にしたのは、リオンの幼さの残る明るく優しげな声だった。
今まで聞いたどんな音楽や歌よりも、その声は魔法のようにわたしの心に沁み込んでいったーー。
平面上にしか存在しないはずのリオンは、その声によって確かな命を宿していた。
それは本当に魔法だった。
この魔法を使っている、魔法使いの正体を知りたい。
そう思うようになるまで、さほど時間はかからなかった。
魔法使いの正体は皆川真守ーー。
こうして、わたしの真守に対しての想いーーいわゆる推し活は、日付けが変わったクリスマス当日に産声を上げたのだった。
*
お昼休みにSNSを検索すると、そこにはさまざな怨嗟の言葉が溢れていた。
『マモ結婚とか嘘でしょ人生終わった……』
『皆川真守の結婚相手、深瀬愛莉は枕営業で有名なクソビッチ! 深瀬愛莉マジ許せん!』
『マモマモマモマモ、お願い嘘だと言って!』
「……はあ」
社員食堂の片隅で、わたしはスマホを片手にため息をついた。
見ていて気分が悪くなるような内容ばかりなのに、操作する手が一向に止まらない。
画面の向こう側にいるその他大勢と同じように、推しの結婚を素直に喜べない自分がいる。
推しに対して、応援の気持ちよりも恋愛感情に近いものを抱いてしまったバカな自分。
本当にバカだなと思う。
所詮、真守とわたしは知り合いですらない。人気声優とそのファンという遠巻きの関係に過ぎないのにーー。
そう、頭ではわかっているはずなのに、なぜこうも気分が落ち込むのだろうか?
ともすれば、SNSで湧いているようなドス黒い怨念の塊に、自分自身も飲み込まれそうになる。
ネットの記事によると、なんでも二人の交際は某アニメ映画でのアフレコ現場がきっかけとなったらしい。深瀬愛莉は、その映画でゲスト声優を務めていた。今からたった一年ほど前の話である。わたしは三年も前から真守のことを想い続けてきたっていうのに……。
これじゃあまるで、あのクリスマスイブの悲劇と同じだ。
付き合いを重ねてきた恋人を、ぽっと出の女に横取りされるーー。
いやまあ確かに、真守に関しては恋人どころか直接の面識があるわけでもないのだけど。
それでも、気持ち的にはどうしてもあのイブの夜と、真守の婚約とが重なってしまう。
真守は晃弘とはまったくの別の存在なのにーー。
*
結局、今日は最後まで仕事に身が入らなかった。
会社を出て電車に乗っている間も、頭の中は真守の結婚のことで思考がグチャグチャだった。
そんな自分をどうにかしたくて、電車を降りると駅近くのコンビニに立ち寄った。
つまみ数種と、発泡酒三本、酎ハイ四本をかごに入れてレジに並ぶ。
今日は飲もう。
社会人になって本格的にお酒の味を覚えてからは、嫌なことがあれば飲んで忘れるようにしていた。
コンビニを出て、現在の住処となっている十五階建てのマンションに帰る。
エレベーターで七階に上がり、自分の住居に足を踏み入れると、シンした部屋の空気が、わたしの心をいっそう寂しくさせた。
部屋の明かりをつけ、メイク落としも着替えも後回しにしてテーブルにつく。
まずは発泡酒を一本開けて、そのまま一気に中身をあおる。
冷えたアルコールが、胸と頭に染み渡っていく。
いつもならここで、サブスクで配信されている真守出演のアニメを酒の肴にするのだけど、さすがに今日は無理だった。
見たらきっと、泣いてしまうから。
「……真守の、バカぁ」
ピーチハイを開け、つまみのピーナッツの袋を破る。
もう、今日はとことん飲んで真守のことなんか忘れてやる。
わたしは酎ハイの缶を手に持つと、もう一度勢いよくそれをあおった。
*
……熱い。
気がつくと、わたしは玄関を出て、マンションの廊下を歩いていた。
時刻は午前零時を回っている。
自分の体が自分のものではないようにフワフワする。
夜風に、当たりたかった。
できれば、ぼんやりと星空を眺めたかった。
その二つの欲求を叶えるためには、ベランダに出ることがもっとも簡単な回答だったと思う。
けれど、この日のわたしは違っていた。
ヤケ酒というのは恐ろしいものだ。気持ちがどんどん大きくなってしまい、普段では絶対思いつかない突飛な発想を思いついてしまう。
わたしはこのとき思っていた。
どうせ星空を見るなら、ここいらで一番高い場所に行ってやろう、と。
そう思いついたとき、真っ先に頭に浮かんだ場所がある。
マンションの屋上だった。
去年、マンションの管理会社主導で、災害を想定した避難訓練を行ったことがあった。その際に、津波被害も考慮に入れて、屋上を見学したことがあったのだ。
十五階建てともなると、マンションの屋上から見渡す景色は、それなりに壮観なものだった。
あそこから見渡す星空も、きっと壮観なものになるに違いない。
玄関を出て朧げな足取りでエレベーターに乗り、スイッチを押す。目指すは最上階。
着いた先でエレベーターを降り、階段へと進むと、今度はそこからさらに上へと足を運んでいく。
終点にたどり着くと、目の前にアルミ製のドアが現れた。そこではたと気づく。ドアには、鍵がかかっているはずだった。
酔いで完全に失念していた。多分、鍵はマンションの管理会社が保管しているはず。
……せっかくここまできたのに、とやりきれない気持ちになりかけるが、諦めきれなかった。
わたしはやぶれかぶれにドアノブに手を伸ばし、それを力任せに手前に引き寄せるとーー、
ガチャッ
呆気なく、ドアが開いた。
なんという偶然か、ドアには鍵がかけられていなかったのだ。
あまりの呆気なさに、ドアの先に進むことを躊躇してしまう。
数秒、その場で息を整えて、わたしは足を踏み出す決意をする。
ドアの向こうには、夜景が広がっていた。
夜空には無数の星々が瞬いている。
月の姿はない。でもそのせいか、星々の輝きはいつにも増して夜空に映えているように思えた。
フワフワとした足取りのまま、屋上の端に近づき、うっとりと、そこに広がる景色を眺める。
不意にそよいだ夜風が気持ちよくて、少しずつ、酔いが醒めていくような気配がする。
それに伴って頭の中が整っていくと、今日あった出来事が、急にリアルに脳内で再現されていった。
真守はわたしにとって、本当に尊い推しだった。
プライベートでどん底に落ちたときに、一筋の光をくれた救世主。
ディスプレイの向こう側にいる真守が、わたしだけに語りかけてくれてるわけではないことくらい、わかってる。
それでもわたしは真守の声に、真守が命を吹き込んでくれたキャラクターに、たくさんの幸せをもらったのだ。
その時間があまりに幸せだったもので、いつしか胸に恋心に近い感情を抱くようになっていた。
推しに恋をしたファンの末路は、報われないに決まっているのにーー。
「……死にたい」
そんな言葉まで口をついて出てくる。
冷静に客観視すれば、今の自分は痛い、痛すぎる。
でも、次々と負の感情が胸に押し寄せてくるのだから仕方ないじゃないか!
理性では歯止めの効かない感情の嵐に襲われて、気づくと頬には涙まで伝っていた。
もうこんな自分が惨めでアホらしくて嫌で嫌でしょうがなくてーー。
いっそのこと空でも飛んでみようかなと血迷った考えがよぎった、そのとき、
「早まらないでくださいーっ!」
まったくの予想外な声が響いて、わたしの体になにかが抱きついてきた。
「きゃっ!」
その拍子に屋上の上に倒れ込む。
頭を打たなかったのは、そのなにかに頭を抱き抱えられたからだった。
「早まらないでくださいっ! 今あなたは辛いんですよね? でも死んじゃいけません、絶対に死んじゃいけませんっ!」
「……えっ? え? なに? ちょっと、苦しい……」
人の言葉を喋った時点で、そのなにかは人間の男性だということがわかった。
そしてなによりも、
「えっ? えっ? ちょっと待って。ちょっと待って!」
「早まらないーーはい? はい、すいません」
わたしに抱きついたまま倒れ込んでいた男が速やかにわたしから身を離す。
わたしはなにがなんだか混乱する頭でその場に上半身だけを起こして言った。
「……なんで? うそっ! なんで!」
仕事着のスラックスのポケットに手を突っ込んで、そこに入っていたスマホのライトで男を照らす。
「うわっ!」
尻もちをついた姿勢でまぶしさに顔をしかめた男は、まだあどけなさの残る青年だった。
真守ではない。
でも、
「あ、あなた、死のうとしてたんじゃないんですか?」
そう問いかける男の声は、真守の声そのものだった。
*
「すいません、僕はてっきりあなたが世を儚んで身投げしようとしてるのかと思って……」
そう言って、男は申し訳なさそうに目を細めた。
スマホのライトに照らし出されたその顔は、やはり若い優男に見える。メガネをかけていて物静かそうな文系男子といった感じ。アイドル顔負けの整った顔立ちで、無邪気さと華やかさを兼ね備えている真守の童顔とは明らかに違っていた。なのに、その声は真守のものとまったく一緒。目を閉じていれば、まるで真守本人がわたしに話しかけてくれているかのようだった。
気づくと鼓動が早まっていた。頭は完全にパニックに陥っていた。
座り込んだままだったわたしは慌てて立ち上がる。すると、わたしから離れた拍子で屋上に尻もちをついていた男も立ち上がる。
「……あ、あなたっ!」
動揺を隠しきれないまま、わたしは訊いた。
「い、一体なにものなんですか?」
暗がりで、男が苦笑いを浮かべる気配がした。
「い、いやあ、すみません。実は僕、このマンションの管理会社のものなんです」
「管理会社?」
……だからドアの鍵が開いていたのか。
男の返答を聞くなり、先ほどまで放置されていた疑問がたちどころに解決する。
しかし同時に新たな疑問も生まれた。
「管理会社の人が、なんでこんな時間に屋上に?」
「ああ、それは……」
沈黙。
男にはなにか後ろめたいことがあるようだった。
「……まさかどろぼ」
「違います!」
わたしの呟きに、男は食い気味に叫んで胸の前で両手を振った。
「泥棒なんかじゃありません! でもほんの出来心だったんです! 僕は星をーー」
「星?」
「そうです、星を眺めに来たんです!」
男はそういうと、自分がなぜこんな深夜にマンションの屋上に現れたかを弁明し始めた。
男の名前は深町圭吾。社員証を見せてもらったのでマンションの管理会社の人間であることは間違いがなさそうだ。朝のニュースでも言っていたオリオン座流星群。星好きの彼は、それを観測するのに適したスポットをあれこれ探し出した挙句、自分の管理会社が所有するマンションの屋上に忍び込むことを思いついたらしい。いざそのマンションに忍び込み、屋上の給水タンクの陰に隠れて今か今かと流星群を待っていると、ひとりの不審者が現れた。……わたしだ。その不審者はフラフラとおぼつかない足取りで屋上の端へ歩いていく。勘違いするのも、まあ無理はない。
一通り話を終えると、今度は深町くんがわたしに尋ねる番だった。
「それであの、あなたは……」
「真下です。真下鈴美」
「真下さんは、どうしてこんな場所に?」
「……いよ」
「へっ?」
「ずるいよ! なんでそんな声で、そんな優しく、そんなこと訊いてくるの⁉︎」
「ええっ?」
ずっと話を聞いていたけれど、もう我慢の限界だった。
頭はうまく働かないのに、言葉は勝手に口から飛び出していく。
「君の声! わたしが大好きな推しの声に似てるんだよ、そっくりなんだよ! 皆川真守! 知らない?」
「……はあ。存じ上げないんですけど」
「彼! 昨日結婚を発表したの! わたしそれでわけがわからなくなっちゃってーー」
「お、落ち着いてくださいっ」
「落ち着けない! そんな真守と同じ声で話しかけられたら余計に!」
「……ええっ」
自分でも言いながら思った。……めちゃくちゃなことを言ってる。
これは完全な八つ当たりだ。真守とそっくりな声の深町くんに、真守を投影して八つ当たりしてる。
でも止まらない。
全っ然止まらない!
「……いつかは、もっと真守のそばに行ってみたかった! わたしも真守を幸せにしたかった! 恩返ししたかった! 晃弘にあんなことされて……いつかは結婚したいなって、思ってたのに! 晃弘去年、あの女と結婚しちゃったんだよ? あの浮気女と!」
酔いが回っているせいか、言ってることが支離滅裂になってきている。真守の話から急に晃弘の話に変わってしまった。
ーーそう。それは去年風の便りで知った事実だった。
晃弘の結婚を知ったとき、わたしは自分でも予想外なほどショックを受けてしまっていた。
わたしにはもう真守がいるはずなのに……。いや、わたしはひょっとすると、晃弘を忘れるために無理矢理真守の推しになったんだろうか?
わたしは、裏切られてもなお、晃弘のことが好きだったんだろうか?
いや、そんなはずない。わたしには真守が……でも、その真守も……。
ああ、なんて脆いんだろう。
ふたりに選ばれなかったことを認めたくない。
わたしは、こんなにもプライドにまみれている。
目を向けたくない。わたし自身の醜い部分に。
本当に相手のことが好きだったら、ただ幸せを願えばいい。
晃弘にしろ、真守にしろ。
相手のことが大切なら、幸せを願ってあければいい。相手を自分だけのものにしたいなんて、そんなのはただの所有欲だ。わかってるはずなのに、わたしの心はどうしてこうも醜く歪んでしまうのだろう?
「……わけがわからないよ」
涙が溢れてくる。
気づくと声を上げて泣き崩れていた。
深町くんはそんなわたしになにも言わず、背中をさすってくれた。ただただ優しく、わたしが泣き止むまでそばにいてくれた。
*
「……落ち着きました?」
気づくとわたしは屋上にしゃがみ込んでいた。
深町くんはそんなわたしと背丈を同じにして、まだ背中をさすってくれている。
真守と同じ声のせいなのか、初めて会った気が全然しない。
「ごめんね……」
わたしは深町くんに謝った。
彼もとんだ災難に見舞われたことだろう。見ず知らずの酔っ払い女に、わけのわからない因縁をつけられたのだから。
でも、言いたいことを吐き出したせいで、わたしは少し溜飲が下がった気分だった。
ぐすっ、と鼻を啜って何気なく空を見上げる。
見知った星座が、そこに輝いていた。
「ーーあれが、僕の推しなんです」
ぽつりと、深町くんが言った。
「えっ?」
「ペテルギウス」
中腰の姿勢からわたしの隣に腰を下ろした深町くんは、人差し指で星座の一点を指差した。
「ほら、あの一際輝いてる星です」
「……………」
背後にある給水塔に背を預けながら、深町くんが指差す星を無言で眺めた。
遠い空に輝く星は、静かに尊い光を放ち続けている。
「真下さんの気持ち、よくわかります」
不意に深町くんから放たれた言葉が、わたしの心を左右に揺らす。
「えっ?」
「好きだったものをただ好きでいるうちは、自分の心が洗われたように、ただ澄んだ気持ちになりますよね。でもそれが自分だけのものにならないと気づいたとき、どうしようもなく黒い気持ちが湧いてきます。あんなに綺麗だった心がそんなふうに変わるのはしんどいです」
訥々と俯いて語る深町くんは、なにか懐かしい傷痕をなでるように、ゆっくりと自分に言い聞かせるような口調だった。
「……でも」
と、彼は、俯かせていた顔を上げ、夜空を仰ぐ。
「そんなときは、こうやって遠い宇宙の星を眺めるんです。決して手が届くことのない星眺めていると、不思議と穏やかな気持ちになります」
「……………」
決して手が届くことがない、星。
わたしにとっては真守だ。
わたしも、ただ真守の活躍を遠くから眺めているだけで、心が洗われていた。
わかっていた。真守は、最初から背伸びをしたって届かない場所にいた。恋心を抱くこと自体がお門違いだった。
でも、だったら……だったらわたしにできることは……。
「あ、見てください」
深町くんの声。
視線を夜空に戻すと、一つ、また一つと、星が流れていく。
ーー流星群だ。
「……綺麗」
気づくと呟いていた。
「ほんと、綺麗ですね」
深町くんの口から、真守の声が聞こえる。
「深町くん」
「はい? なんでしょう?」
隣に座るわたしに、目を向けてきた深町くん。
思い切って、わたしは言った。
「君の、その真守と同じ声で……真守になったつもりでなにかわたしに一言ちょうだい」
「えっ?」
「……お願い」
深町くんは黙り込む。
本当に馬鹿げたお願いだった。でも、わたしは自分勝手にも区切りをつけたかった。真守の声でなにかを語りかけてもらったら、それが区切りになる気がした。
深町くんが、小さく息を吸う。
「いつもありがとう、鈴美」
「……………」
わたしは涙を堪えて夜空を見た。
そして心から星に願った。
推しの幸せが、いつまでも続きますように、と。
*
「……さん……真下さん……」
呼びかけに気づき、目を開ける。
頭が痛い。
視界がはっきりしていくと目の前に、深町くんの顔があった。彼の向こう側に見えた空は、うっすらと白んでいる。
「すいません、あまりにぐっすり眠られていたものですから……」
「えっ?」
給水塔に背を預けたままの姿勢でいるわたしの足元には、深町くんが着ていたジャケットがかけらていた。
深町くんの話によると、わたしはあの流星群を見つめながら、いつの間にか眠りに落ちていたらしい。
立ち上がって、ジャケットを深町くんに返す。
彼は慌てた様子でそれを受け取ると、
「……あの、誓ってやましいことはしてませんから!」
そんなことを言って、屋上の出入り口へと走って行く。
そのままドアを開けて去っていくものかと思ったら、違った。
「真下さん!」
「……はい?」
「僕、今年で十九になるんです! 年下は嫌いですか?」
「……えっ?」
思ったよりもずっと若かった。高卒入社だったのだろうか?
いや、それよりも、
「それって、どういう……」
「僕は!」
深町くんが声を張り上げた。
「あなたの手が届く場所にいる星になりたいです! 初対面でしたけど、昨日のあなたはとても綺麗で素敵でした!」
「……………」
返す言葉が出なかった。
きっと、メイクも落とさずに泣いてばかりだったわたしは、今もひどい顔をしているに違いないのに、綺麗と言われた。
顔が熱くなる。
深町くんはわたしの返事も待たずに、
「また会えたらいいですね!」
そう言って、ドアの向こうに逃げて行った。
連絡先も告げずに……。
わたしはそのまま屋上に立ち尽くす。
すると、ポケットの中でスマホが鳴った。目覚ましだった。
「……あっ、会社、行かなくちゃ」
独り言で呟き、自分の顔がニヤけていることに気づく。
そのとき、涼やかな風が吹いた。
心臓が、目を覚ましたように高鳴っていた。