安藤美穂様。
 真っ白い封筒に書かれた私の名前。封筒の周りには凹凸があり、小さな花や鳩が飛んでいる。
 
「幸せなんだ」
 
 私の指先で触れれば、白い封筒が汚れてしまうかもしれない。そっと、慎重に封を開けて中を見る。

謹啓 初夏の候
皆様におかれましては 益々ご清祥のこととお慶び申し上げます
このたび 私たちは結婚式を挙げることとなりました
つきましては 日頃お世話になっている皆様に お集まりいただき ささやかな披露宴を催したいと存じます
ご多用中まことに恐縮ではございますが
ぜひ ご出席をお願いしたく ご案内申し上げます
                  敬白
    令和6年6月1日
 江國仁博 山口あかり

 結婚式は8月17日、土曜日だ。
 先日、あかりから連絡が来ていた。結婚することになったんだ! と、それは本当に嬉しそうに。幸せそうに。相手の仁博もよく知っている。私たちはみんな同じ高校のクラスメイトだった。

「そっか。結婚するんだ」

 招待状を手に持ったまま、ソファに座る。
 きょうはひどい雨だった。それに蒸し暑い。
 今すぐシャワーを浴びたいのに、身体が言うことを聞かなかった。しばらくそのままぼんやりと部屋の時計と睨み合う。あしたも早い。きょうも遅くまで会議の資料をまとめていた。早くやることやって、ベッドに入らなければ。
 10分後。なんとか立ち上がり、パンツスーツを脱ぎ捨てた。脱いだら少しだけスッキリした気がした。
 暑いのに熱めのシャワーを頭から浴びる。

 私、なにやってるんだろう。
 
 排水溝に流れていく水を見て、思わずシャワーを止めた。
 曇った鏡に自分の姿がぼんやり映る。少し前にバッサリと短くした髪から、ぽたぽたと水滴が落ちた。

 ――髪の毛、短い方が似合ってる。

 文字の跡が少し残る黒板。チャイムの音。開けた窓から吹き込む風。揺れる白いカーテン。グラウンドから響くサッカー部の声。記憶が一気に高校時代まで遡る。
 ずっと伸ばし続けていた髪を、高校に入学してすぐに切った。黒くて真っすぐ伸びた髪が床に落ちた瞬間、私は心も体も軽くなった気がした。
 失恋したわけではない。鬱陶しく思ったわけでもない。でも唐突に、切ってしまおうと思い立った。
 考えてみれば、長髪は母の趣味だった。母は私の癖ひとつない黒髪をいつも綺麗だと褒めてくれて「切るのはもったいない」と言った。
 腰くらいの長さだった髪を、一気にベリーショートにした。前髪だけ少し長い。当時夢中になって読んだ漫画の主人公がこんな髪型だったっけ。

 カタン。

 ボディーソープが床に落ち、ふと我に返る。
 鏡を見ると、高校のときと今の髪型はよく似ていた。
 高校を卒業してから、私はまた髪を伸ばした。あの頃の私と中身はちっとも変わらないのに、時だけが残酷に過ぎていく。私ももう、30目前。高校を卒業して大学を出て、就職して、ずっと同じ会社に居続けている。化粧品メーカーの企画担当。正直、これが自分のやりたい仕事なのかと聞かれたら、素直にうんと頷けない。

「8月の花嫁かぁ……」

 私は鏡の前でまたひとりごとをつぶやいて、それから黙って髪を洗った。

 ――たぶん、今回は失恋だ。

 ◇

「安藤さん、試作が届きましたよ」

 後輩の宮本蓮がそう言って私のデスクにパレットを置く。アンティークっぽいデザインのパッケージに、中にはパールやラメのアイシャドウ。
 ブライダル向けの化粧品をテーマに企画されたのが12ケ月の花嫁というシリーズだ。それぞれの季節に合わせた色合いのアイシャドウで、もちろん定番カラーもしっかり入っている。
 ブライダル向けなので、パッケージも豪華だ。

「おー、なかなかいい感じじゃないですか?」
 
 8月のパレットを手に取ったまま固まる私に、宮本がちらっと顔を覗かせた。

「……なに?」
「どうしたんですか、ぼーっとしちゃって」
「ぼーっとなんかしてないよ。真剣に見てただけ」
 
 8月のアイシャドウは、ゴールド系で統一されている。ハイライトにも使えるピンク系のアイシャドウには細かいラメが使われており、涙袋に乗せてもいい。ゴールド系はイエローベース向けのイメージが強いが、ホワイトゴールドやピンクゴールドはブルーベースにも合う。なるべくどんな人にも使える色やラメ、かつ特別感を出したくて検討に検討を重ねた。

「人の顔ジロジロ見てないで仕事しなさいよ」
「なんかいつも僕には厳しくないですかぁ?」

 唇を尖らせて、宮本は自分のデスクに戻って行く。

 これ、あかりに似合いそう。

 パレットの中をしばらく眺めて、私はため息をついてから今やるべき仕事に取り掛かった。
 窓の外が薄暗くなった頃。同僚の松田と森川さんが声をかけてきた。
 
「きょう、このあと時間ある? もしよかったら、みんなでご飯行かない?」
「あー、ごめん。私ちょっと用事があって」

 用事はない。でも私の口からは自然と嘘がこぼれ落ちた。

「用事があるなら仕方ないね。また行こうよ」
「えー、安藤さん行かないんですか?」

 宮本がすかさず会話に捩り込んでくる。

「予定あるから、私は行けないや」
「デート、とかですか?」
「こら、なに聞いてるんだ」

 松田が宮本を軽く突く。

「ごめん。じゃあ、またあした」
 
 私は居心地悪くなって、そそくさと会社を出た。
 同僚の松田と森川さんはおそらくそういう仲だ。いつからそうなったのかは知らないけれど、ふたりが話す瞬間を見ればわかる。別に社内恋愛は禁止ではない。でもたぶん、みんなあえて知らんぷりしている。この先ふたりが結婚するとも限らないし、もし別れでもしたらもっと面倒くさいことになりかねない。
 恋愛なんて、面倒だ。それなのに、誰も彼もみんな嬉しそうに楽しそうに恋だの愛だのやっている。
 
 満員電車の中。みんな疲れ切った顔をして全員俯きスマホをぼんやり眺めている。隣にいる若いスーツ姿の男性も、その隣にいる年配女性も。みんな画面の中を無表情で見つめていた。
 規則的な毎日。ただ疲れるだけの日々。なにを楽しみにみんな生きているのだろう。自分のため? 家族のため? 恋人のため? 私にはなにもない。自分のために毎日仕事を頑張って生きている、とも違う気がした。

 そういえば、まだあかりの結婚式の招待状、返してなかった。

 私は肩にかけた鞄にそっと手をやる。
 ここに手紙が入っている。ささっと出席にマルをつけて、自分の住所と名前を書いて、郵便ポストに入れたらいい。
 それだけの簡単な作業なのに、私にはとてつもなく難しかった。
 8月17日に、昔懐かしい高校の同級生たちとパーティドレスを着て、パールのネックレスをつけて、あかりの結婚式に行く。美味しい料理を食べながら、みんなで高校時代の話をする。純白のドレス姿のあかりを見て「綺麗だね」とか「幸せそうだね」と言う。
 あかりは嬉しそうに笑って、ヴァージンロードを歩いて。その隣には――。

 改札を通り地上に出ると、蒸し暑さで身体がいつもより重だるかった。一歩前に足を出すだけでも疲れる。
 時計を見ると、そろそろ19時だ。
 晩御飯、なににしよう。コンビニもスーパーも駅から近い。寄って帰ることもできる。
 でも、面倒くさい。それにあまり食欲がなかった。
 この季節、19時になってもまだ明るい。久しぶりに空を見上げると、空は思った以上に広くずっと遠くまで続いていた。当たり前だけれど、殺伐とした日々を送っているとそんなことも忘れてしまう。
 駅から家までのところに、郵便ポストがあった。
 さっと今書いて出せば、もう考える必要もない。楽になれる。
 鞄から大切に、汚さないよう折り曲げないよう招待状を取り出す。ご出席、ご欠席の文字を見て、私は思わず大きなため息をついた。

 カランカラン。

 耳に心地よい音がした。グラスの中で氷が転がる音に聞こえた。
 無意識に音の方を見る。
〈一夜〉と書かれた看板。グラスの形をしたライトに薄っすら明かりがついている。
 こんなところに店があったなんて、知らなかった。
 居酒屋? バー?
 店内には誰もいない。ガラス張りで中が丸見えだった。カウンター席が4席だけあって、木彫りが美しい扉。

「どうぞ」

 私がじぃっと見ていたせいか、中から男性店員が出て来た。私より年上か。黒髪はややくせ毛で、目を細めて微笑んでいる。目尻には皺ができていた。

「あ、いや……」

 私が困っていると、店員は私が入る気がなかったことに気づいたのか、空を見上げて「蒸し暑いですね」と世間話に切り替えた。

「そう……ですね」

 しばらくふたりで空を見上げて、それから顔を見合わせて笑う。

「えっと……居酒屋さんですか? バーとか?」
「え? あ、ああ、うちですか? うちは一応喫茶店なんです」
「あー、喫茶店」

 だとしたら変わった造りの店だ。どんな喫茶店なんだろう。逆に興味が出て来た。

「看板メニューは、ソーダ水なんです」
「ソーダ水?」
「今の季節にピッタリです」

 カランカラン、と先ほど聞こえた涼しげな音が頭の中で響く。飲んでみようかな、と気持ちが込み上げてきた。暑いせいかもしれない。

「じゃあ、そのソーダ水をいただいてもよろしいですか?」

 あかりからの招待状をさっと鞄の中に滑り込ませ、店内に入る。

「どうぞ、お好きな席へ」

 私は一番奥の席に腰かけた。カウンターの向こうにはキッチンがあり、コーヒー豆やスパイス、ワインが棚に並んでいる。
 カウンターには1枚のメニュー表があった。牛筋カレーとバターライス、熱々鉄板のナポリタン、カリカリ山盛りフライドポテト。ドリンクメニューもいろいろある。その中に〈一夜を注ぐソーダ水〉という変わった名前があった。

「一夜を注ぐ……ソーダ水?」
「はい、これがうちの自慢のドリンクです」

 どういう意味なんだろう。私は想像をめぐらせた。
 カランカランと氷の音。しゅわしゅわぱちぱち、弾けるソーダ水。思わずごくりと唾を飲む。

「こちらが〈一夜を注ぐソーダ水〉です」

 目の前に出て来たのは四角い氷が入った、透明のただの炭酸水だった。どのあたりが〈一夜を注ぐソーダ水〉なのだろう。首を傾げる。

「それから、こちらがシロップです」

 ガムシロップを入れるような小さなガラスのカップに、キラキラと美しいシロップが入っていた。中を覗くと、まるで夜空をカップの中に入れたみたいだ。不思議なことに、星が輝いてみる。どうなっているのか。思わず上を見て、照明の光を確認する。カウンターの上についている照明が反射しているのか。
 
「ゆっくり注いでみてください」

 私はシロップをこぼさないよう、言われた通りゆっくりとグラスの中に注ぎ入れる。ソーダ水が入ったグラスが、徐々に夜へと染まっていく。まるで昼から夜へと移り変わるようだ。

「うわぁ……綺麗……」

 心の声がつい漏れてしまうほど、美しい夜空のソーダ水だった。

「もしよろしければ、お名前をお聞きしても?」
「あ……安藤といいます」
「安藤さん。店主の雅司です」

 はぁ、と間の抜けた返事をする。なぜ名前を聞かれたのだろう。わからない。

「安藤さんには、今夜一晩だけでもいいから逢いたいと思う方はいらっしゃいますか?」
「……え?」

 今夜一晩だけでも逢いたい人?
 私は頭の中で店主――雅司さんの言葉をもう一度繰り返した。

「特に……いないですかね」
「そうですか」

 雅司さんはそう言って微笑んだ。

「僕にはいます」

 カラン、と氷がグラスの中で転がる音が聞こえた。
 僕にはいます、そう言った雅司さんは笑顔を貼り付けていたけれど、瞳だけは悲しんでいるように見えた。

「このソーダ水は、注文された方が今夜一晩だけでもいい、逢いたいなと想う人とめぐり逢えたらいいなという思いを込めているんです」
「……なるほど」

 特別な思い入れのあるソーダ水なんだな、と私は深く頷いた。

「どうぞ、召し上がってください」

 私はストローに口をつけ、夜を吸い上げた。口に広がるさわやかな風味。レモンのようだ。ぱちぱちしゅわしゅわと弾ける炭酸。うっとりとため息ついた。

「美味しいです」

 甘さは控えめで、すっきりとした味わい。これはゴクゴク飲めてしまう。

「いらっしゃいませ」

 お客さんか、と私はちらりと扉の方を見る。そこにいたのは――あかりだった。

「あかり……?」
「みっちゃん! え、偶然だねぇこんなところで!」

 嬉しそうにあかりは私の方へ近寄ってきて、手を握った。

「ちょうど、あかりのことを考えたんだよね!」
「え……で、でも、どうしてこんなところに?」
「取引先がこの辺りでたまたま通りかかって。入ってみようかなって」

 あかりは私の隣に座ると「ちょうどお腹も空いたしね」とぺちゃんこのお腹をさする。

「仁博は? 同棲してるんでしょ?」
「ああ、きょうは飲み会だから遅くなるって言ってた。……あ、招待状届いた?」

 私はうんと返事をした。

「結婚式の準備って、ほんと大変でさぁ。ドレスなんて、どれもみんな素敵だから選ぶのに時間かかっちゃって。仁博とやりたいテーマが違ったりして喧嘩してさぁ」
「そうなんだ……。結婚式の準備、大変らしいもんね」

 頷きながら、私は全く違うことを考えていた。
 あかりといつも通り話がしたいのに、どうしてきょうはできないんだろう。
 私は手元のグラスを見る。汗をかいていて、水滴が下に落ちていた。

「それにお金もめっちゃかかる。節約するために身内だけとか、結婚式はしないって人も多いみたいだけど、でもそれじゃあなんかなぁって。家族だけじゃなくて、友達にも来てほしいんだよね」
「……そっかぁ、そうだよね」

 ストローでグラスの中をかき混ぜる。カランコロンと氷が音を立てた。
 あかりは嬉しそうに楽しそうに結婚式の準備について語る。
 あかりの笑うとできる小さなえくぼ。くるんと上を向いたふさふさな睫毛。左の頬にあるホクロ。白くて綺麗な肌。
 私はぼんやりあかりを見つめていた。話は耳から耳を通り抜けるだけ。

 いつからだろう。私があかりを好きになったのは。
 クラスで一番モテていた男子は確かにカッコよかったし、イケメンだと思った。でも私は他のクラスメイトと同じように彼に恋はしなかった。告白されても、申し訳ないけれどいまいちピンと来なかった。試しに付き合ってみればいいじゃん、なんて言ったクラスの女子がいたけれど、そんな気にさえならなかった。私は恋とは無縁なんだ、と思ったくらいだ。
 それがある日、無意識にあかりのことを目で追っている自分に気が付いた。
 あかりが笑う。あかりが私に話しかける。あかりが私の腕に絡む。
 あかりの動作全てが愛おしくて、胸が高鳴った。
 ああ、誰かを好きになるってこういうことなんだ、と理解できたのは高校を卒業した頃だった。
 恋愛対象が男なのか女なのか、それはわからない。ただはっきりと言えるのは、私の好きな人はあかりだということ。他の誰かではダメ。あかりじゃなきゃ、ダメだということ。

「結婚式さ、」

 これもあれも美味しそう、とメニュー表を眺めていたあかりが「ん?」と首を傾げる。傾げたときに耳にかけた髪。指先。私の視線は釘付けだった。

「結婚式?」

 あかりに見惚れて、思わず言葉を失くす。

「みっちゃんさ、やっぱり髪、短いのが似合うね」

 私は慌てて髪に手をやる。
 耳が熱い。きっと顔が真っ赤になっているだろう。

「……ありがとう」

 結婚式さ、私仕事で行けないかもしれない。
 
 そう言おうとしていた。あかりの美しい花嫁姿なんて、見たいけど、とても見られない。
 ならばいっそ、想いを伝えようか。

「どうしたの?」

 大好きなあかりの笑顔を見て、私は思い止まる。
 自分の気持ちをあかりに告げる行為は、あかりをこの先苦しめる自分勝手な行為ではないだろうか。想いを告げるだけ告げて、私はスッキリする。でも、あかりは?

「結婚式さ……楽しみだね。私も今から楽しみにしてる」
「ほんと? ありがとう! 料理ね、すっごく美味しいんだよ」

 自分の気持ちが報われるなんて、初めから考えていなかった。
 この笑顔が見えなくなるなら、死んだ方がマシだ。と、思うのと同時に、だから恋をするなんて面倒なんだと自分自身を罵った。

 あかりは熱々鉄板のナポリタンを注文して、他愛のない話をして、帰って行った。突然「もう帰るから」と仁博から電話がかかってきたのだ。「遅くなるって言ったのに、全然遅くないじゃん」とあかりはブツブツ文句を言っていた。
 私は空になったグラスの横で、招待状にマルをつけた。

「ごちそうさまでした。ソーダ水、美味しかったです」
「ありがとうございました。また、誰かに逢いたくなったらいつでもどうぞ」

 私は笑って軽く会釈して、店を出た。店の前のポストにそのまま招待状を投函する。
 外はすっかり暗く、満月が浮かんでいた。さっき飲んだ〈一夜を注ぐソーダ水〉のような星空は見えない。たぶん、あんな満天の星空は田舎の方でないと見られないだろう。

「あっ、安藤さーん!」

 駅の方から大きく手を振って走って来たのは、宮本だった。

「どうしてこんなところに……?」
「みんなで飲んでて、飲みすぎちゃって。帰ろうとしたら、つい電車でうとうとしちゃって。このままだとまた乗り越しちゃいそうなんで、タクろうかと思って!」

 でへへ、と笑う宮本は顔が真っ赤でふらふらと千鳥足だ。

「いやぁ、でも安藤さんに出会えるなんて、運命っすね!」
「セクハラで訴えるよ。それより、タクシー? 贅沢ね」
「それか、安藤さんともう一軒行こうかな!」
「私は帰るよ」
「あ、安藤さん、用事があるって言ってたじゃないですか!」

 もう用事は済んだんですか? とニヤニヤ訊ねてきた。

「まぁ、済んだような感じだけど」
「じゃあ、行きましょうよ!」
「行かないって」

 えー、と小さな子どものようにふてくされている。

「えー、じゃないよ。こんな平日のど真ん中にふらふら飲み歩いてないで、さっさと帰りなさい」
「飲み歩かなきゃやってられない日もあるんすよー、俺にだって」

 急に真面目な顔をしたかと思えば、宮本は「っうう」と嗚咽して口を手で覆った。

「ちょっと、こんなところで吐かないでよ!」
「気持ち悪い……っす」

 私は仕方なく、すぐ近くだった自分の家に宮本を連れて歩いた。宮本は手で押さえながらなんとか家まで持ち堪えた。

「ほら、水」

 トイレでゲーゲー吐く宮本に、ペットボトルの水を渡した。

「……すみません……」

 鼻をすすりながら、泣きそうな声で宮本は水を受け取る。情けない姿だ。

「全部吐いたら楽になる」
「安藤さん……優しいっすね……」

 優しいねぇ、と私はため息をつく。

「全部吐いたら、楽に……なれますかね……」
「なる」

 おぇ、とまたトイレに向かった。
 私はそのままソファに座った。時計を見る。もうそろそろ22時だ。久々に残業もなく、ゆったりできるのかなと思えばこれだ。とんだ災難。
 少しだけ、と目を閉じる。頭の中がグルグルと回っていた。

 私、相当疲れているんだな。

 ――安藤さん。

 声が聞こえて我に返る。
 つい、眠ってしまっていた。時計を見るともう真夜中だ。

「安藤さん、こんな時間まですみませんでした」
「あ……ああ、どう、少しはよくなった?」

 私の前で正座した宮本が深々と頭を下げる。

「少し、楽になりました。でもまだ、全部吐き出せてないみたいで」
「まだ気持ち悪いの? どれだけ飲んだの?」

 もう、と私は髪を掻く。

「……俺、安藤さんのことが好きです。入社して、割とすぐの頃から」

 私は髪から手を下ろし、宮本を見る。
 宮本は私のひとつ下の後輩だ。私は入社6年目。宮本は5年目。

「……知ってた」
「いつから知ってましたか?」
「うーん、割と前から」

 私が気づいた頃から計算すれば、宮本は4年近い歳月、私に片思いしている。

「やっぱ、気づいてたんですね」

 宮本の愛情表現は、年々ストレートになっていた。鈍感な人でも、ここ最近の宮本を見ていればさすがに気づくのではないだろうか。

「安藤さんに好きな人がいることはわかります」
「それじゃあ、話は早いね」

 全部吐いたら楽になれるとは言ったが、ここまで全部吐かれては私も困る。

「俺、安藤さんに好きな人がいても気にしません。このままずっと、自分の気が済むまで好きでい続けます」
「……え?」

 宮本の言葉に、一度大きく目を見開いた。それからぱちぱちと瞬きをする。

「私と付き合うことができなくても、諦めないの?」
「はい、諦めません」

 お互い無言になる。
 時計の針が煩く聞こえるほど、部屋の中はしんと静まり返った。

「この際だから言っちゃうけど……私の好きな人って同性なのよね」
「はい」

 まだ酔いが醒めないのか、言葉の意味がわかっていないのか。宮本は元気よく頷いた。

「……意味、わかってる?」
「俺はたとえ安藤さんが男に恋をしない、同性だけが恋愛対象だとしても、それだけでは恋を諦める理由にはなりません」

 宮本ははっきりきっぱり言い切った。
 それはもう清々しいくらい潔かった。
 私は宮本を動揺させようとしていたのに、むしろ私の方が動揺させられている。

「じゃ、じゃあ、どのタイミングで諦めるの?」
「さっき言った通り、自分の気の済むまでっす!」

 それは一体いつなんだろう。
 私は首を捻った。

「付き合ってほしいとか、デートに誘うとか、絶対にしません。もちろん、安藤さんの気持ちに変化があって、俺とデートしてもいいかなと思えたならそれはそれで嬉しいです。でも、そうじゃないのに無理に誘ったりはしません。報われようなんて、そもそも思っていないので」

 報われようなんて、そもそも思っていない。
 その一言を聞いて、自分があかりに抱く気持ちと重なった。
 想いを伝えたりはしない。でも、私もあかりのことをずっと好きなままでいる。これまでも、これから先も。ずっと。

「こんな不毛な恋はさっさと捨てて、自分が幸せなれる恋をしなさいよ」
「確かに苦しいっすよ、報われないって。でも、俺は安藤さんが好きなんです。安藤さんが」

 宮本は強調するように二度私の名前を方にした。

「それに、きょう安藤さんの口からちゃんと好きな人のことを聞けてよかったです」
「そんな……。恋って、そこまで純粋なものじゃないでしょ。一生結ばれない人に、純粋な愛をずっと向けられる?」

 無理でしょ? と私は諭した。しかし、宮本は逆に訊ねてきた。

「安藤さんも、そうするつもりなんでしょ?」

 返答できなかった。私はまた言葉を失う。

「結婚式の招待状を見て、最近ぼんやりしてるじゃないっすか。俺、意外と見てるんですよ」
「それ……ストーカーじゃん」

 すみません、とすぐに謝る宮本。でも、本当によく見ている。

「その方、結婚されるんですよね?」

 そうだ。あかりは結婚する。私とあかりは絶対に結ばれることはない。少なくとも、私が気持ちを伝えなければ。あかりが私の気持ちに答えなければ。
 宮本はずるい。きっときょうのあかりとのことは知らないだろうけれど、今の私は誰かにすがりたくなってしまう。報われない恋を抱えるだけで、私の心はいっぱいいっぱいだ。

「安藤さんが好きな人を諦めたら、俺とデートしてください」
「一生、諦めないかもしれないよ」
「はい、大丈夫です」

 私は深く息を吸って、大きくゆっくり吐き出した。
 負けだ。私は返す言葉もなく「わかった」と降参した。
 
 宮本と叶うかどうかわからない約束をした夜。
 そのまま泊り込もうとする宮本を無理やり深夜のタクシーに押し込んだ。
 星はやはり見えなかったが、満月が優しく私を照らしてくれた。