――PM8時。
 私は「茜先生」になりきって、突き当りの教室に向かった。入口の前で人知れず深呼吸していたら……。

「遅いよ。茜先生」

 扉が自動で開いた。
 出会い頭にスマホのカメラを私に向けて、おどけた笑みを浮かべる男の子。
 至近距離でモデル並みの美形と対面するのは、鉄の理性を持ってしても、心臓が持たないはずだ。

 ――紫羽 一星(しば いっせい)

 名門高校の三年生。
 最初、名簿でその名前を確認した時から、私は彼が気になって仕方なかった。
 そして、授業で実物の彼と対面した時、こんなに美しい男性が実在していることに驚愕したものだった。
 すらっと背が高い割に、小さな顔。高い鼻梁と薄い唇。
 ふわふわの茶髪に、意思の強そうな切れ長の瞳。
 制服を着崩してはいるけれど、決してだらしない訳ではなく、センス良く着こなしている。
 性格は残念なくらい子供っぽくて、女の子から告白されても、えげつなくフリまくっているという噂だけど、バイト講師で非モテの私には関係ない話だった。

「授業中よ。スマホはしまいなさい」
「一枚くらい撮らせてくれても」
「駄目なものは駄目」
「ケチ。今日は二人きりだし、大目に見てくれてもいいのに」

 膨れっ面でスマホを鞄に戻してから、紫羽君は自然な所作で、私を窓際の席に誘導する。

(こういうとこが、女慣れしてそうで嫌なのよね)

 彼との授業は、毎回こんな感じだ。
 本当の私とは真逆の人気者で陽キャの彼。
 極力、接点を持たないように、手を尽くしていたのに……。
 そんな私の思惑を嘲笑うように、紫羽君は何度も私を指名して授業後の「補習」を申し込んでくるのだ。

(大体、補習制度なんてあるから悪いのよ)

 この塾では、事前に申し込めば、誰でも空き時間に教師と一対一の補習授業を受けることができる。
 当然、お給料は発生するが、集団授業を担当するより若干低くなる上に、専門的な質問をされることが多いので、準備に時間が掛かるのだ。
 いちいち考えてしまう私には、荷の重い嫌な仕事だった。
 特に、相手は我が塾でもトップの成績を誇る紫羽君なのだから、生きた心地がしない。

(まったく、何でいつも私をご指名なのよ?)

 きっと、彼には何か企みがあるに違いない。

(この子は本当に、人のことをよく視ているから)

 彼とはしょっちゅう目が合う。
 昼間の集団授業。
 西日に染まる教室の中で。
 誰も私のことなんて見てもいないのに……。
 彼だけは顔を上げて、じっと私のことを視ている。
 切れ長の瞳に映っているのは、夕焼けの橙色と全身モノトーンの私の姿。
 きっと、私がどういう人間なのか、彼だけは気づいている。

(だから、私は……)

 ――彼が苦手なのだ。
「茜先生」のメッキがすべて剥がれる前に、出来るだけ早く最後の授業を終わらせてしまいたかった。