ある美しい月の浮かぶ夜更けに、私はあてもなく街を彷徨い歩いていた。
ひしめくネオンの看板も、擦れ違う人達のアルコールや香水の匂いも、声をかけてくる見知らぬ男も、コンビニの前にたむろする若者も、眠らない街の喧騒はすぐ隣にあるのに、どこか遠い。
いろんな色が混ざり合うこともなく押し込められた雑多な世界の片隅で、私は居場所もなく漂う半透明のくらげのようだった。
「……、ひっどい顔」
ここではないどこかへ行きたくて、ただ足の動くまま移動する最中、不意にショーウィンドウに反射した自分の顔を見て、思わず自嘲が溢れる。
何年か前に買ってすっかり着古した部屋着のパーカーと、くたびれたスニーカー。すっかりメイクの流れた泣き腫らした目と、走ったせいで乱れたままの髪の毛。
同棲していた恋人の浮気発覚、からの、何故か逆ギレされての修羅場。まだ肌寒い夜に女一人飛び出すには、十分な理由だろう。
着の身着のまま飛び出して、スマートフォンも財布も忘れてきたことに気付いたのは、しばらく経ってからだった。
今更取りにも戻れない、かといって、行くあてもない。このままふらふらと、無一文で朝までぶらつく他なかった。
朝になれば、彼は仕事に出るはずだ。そうしたら一度帰って、少し仮眠しよう。
それから、別れ話をするのだろうか。それとも、何か言い訳でもされるのだろうか。正直今は、顔を合わせたくもない。
「とりあえず……どこか、お金がなくても入れる場所……」
疲れて冷えた身体を引き摺って、惨めさと悲しみと悔しさと怒り、様々な感情が渦巻いて、頭がパンクしそうだ。
そのままひんやりとしたガラスに額を預け、凭れるようにして一息吐く。
何も考えたくなくて、ぼろぼろの自分を見たくなくて目を閉じるけれど、どうしたって嫌な光景が目蓋の裏に広がってしまう。
考えは纏まらない。それでもとにかく、この永遠に続く気のする夜を乗り切らなくては。
意を決して目を開けると、不意にショーウィンドウに越しに、星のように煌めく瞳と、目が合った。
「……」
「……!?」
反射的に飛び退くと、先ほど鏡代わりにしていたそのガラスの向こう、ぼろぼろの私とは真逆の可愛らしい女の子が、少し驚いたようにした後にっこりと微笑む。
リボンで結われ綺麗に手入れされた長い髪、ひらひらのレースとリボンのついた甘いテイストのネイビーの服、淡い色のリップが象る愛らしい笑顔。
思わず見惚れていると、彼女はガラス一枚隔てた向こうで、「いらっしゃいませ」と弾むような声で私を手招く。
そこでようやく、ここが何かの店であることに気付いた。
店の前に、こんな格好の奴が居たら営業妨害だろう。私は慌ててその場を離れようとするけれど、咄嗟に頭を下げている間に彼女はガラスの向こうから消えていて、すぐ隣の木製の扉が開く。
扉に付けられたベルがからんと小さな音を立て、彼女はふわりと長いスカートを揺らしながら出てきた。
まるで物語の中のヒロインが現実世界に飛び出してきたような、そんな錯覚。
動けないままでいた私の側に彼女はやって来て、長時間外に居て冷えきった手を、そっと握った。
「こんばんは、お姉さん。いい夜ですね!」
柔らかく触れる温もりを、幻ではなく確かに感じる。じんわりと凍えた指先を、優しく溶かすようだ。
たったそれだけで何だか泣けそうになって、私は慌てて俯いた。
「……こん、ばんは。……あはは、私にとっては、最悪の夜です」
ただがむしゃらに歩き回り、ひとりでも大丈夫だと、これは怒りだと自分に言い聞かせていたのに、初対面の相手の挨拶に愚痴を返してしまう程傷付き弱っていたことに、この時になって気付いた。
「最悪、なんですか……? じゃあ、わたしが素敵な夜に変えてあげます!」
「……素敵な夜、って、どうやって」
「そうですねぇ……お姉さんが幸せになれるように、うちはいろんなお薬取り揃えてますよ!」
「え……」
幸せになれるお薬。
その明らかに危ない響きに、絆されそうだった気持ちが一瞬にして警戒心に変わる。
けれど彼女はにこにことした笑顔のまま、まるで踊るように私の手を引いて、開きっぱなしだった扉の奥へと誘う。
「いらっしゃいませ! ようこそ『薬屋 夜海月』へ!」
「よる、くらげ……?」
つい先ほどまで自分のことをくらげのようだと考えていたから、彼女の言葉につい反応してしまう。
そして抵抗の間も無く導かれ、背後で静かに扉が閉まる音がする。
今からでもこの手を振り払って逃げるべきかとも考えたけれど、どうにもこの温もりを手離すには、まだ心が覚束なかった。
「さあさあ、まずは座って、自己紹介からはじめましょう!」
「はあ……」
外のネオンの眩しさに慣れた目には薄暗い店内、私は彼女が促すままに、店の隅に置かれたソファーに身を沈めた。
白いソファーは雲のようなふかふかの座り心地で、歩き通しで疲れきった身体を包み込む。もう立ち上がる気力さえない。
「改めまして、わたし、夜海月店員の『こよる』っていいます。よろしくお願いしますね」
「こよるさん……私は、朔間鏡花、です」
「わあ、素敵なお名前ですね!」
「……どうも」
正面に立ったこよるさんは、私の投げやりな反応も気にすることなく、お人形みたいに可愛らしい笑顔のままだ。
美しい彼女を前にして、なんとなく、惨めな自分の格好が恥ずかしくて居たたまれない。
街中を歩いている時には気にする余裕もなかったのに、私にまっすぐ向けられる視線が、やけに落ち着かなかった。
彼女は隣に座ることはなく、自己紹介を済ませると、握手のように手を揺らした後するりと指先を離す。
離れた温もりが何となく名残惜しく、少しだけ不安に感じたけれど、身体を支えてくれるソファーのお陰で何とか耐えられた。
「春先とはいえ、夜はまだ冷えますもんね。鏡花さん全身ひえひえですし、温かいお茶をご用意します。苦手なお味とかありますか?」
「あ……いえ。あの、すみません、私、今お財布なくて……」
「そうなんですか? ふふ、お茶くらいでお金取ったりしませんよぉ。わたしもちょうど休憩しようと思ってたんで、深夜のティータイムに付き合ってくれると嬉しいです!」
ただの水にも高額を設定しているような店が多い中、随分と良心的だ。
けれど「いらっしゃいませ」とわざわざ出迎えたからには、休憩なんて嘘だろう。騙され傷ついた心にその優しい嘘がじんわりとしみて、私は素直に頷く。
「……なら、お願いします」
「ふふ、ありがとうございます! 少し待っていてくださいね」
柔らかそうな長い髪をほうき星のように靡かせて、彼女が暗い店の奥に行ってしまうのを見送った後、私は改めて辺りを見回す。
全体的に濃紺と白のコントラストを基調とした落ち着いたカラーリングに、木製の棚が壁沿いに並んでいる。
どこか甘い植物のような香りは独特で、お洒落な間接照明の灯りは夜空の星のようで美しい。
狭くてほんのり薄暗い店内は、隠れ家的な印象だった。
私以外に客も居らず、一見営業しているのかもわからないような雰囲気。
海の底のような静けさをした、夜の忘れ物のような、そんな場所。
ノイズにしか聞こえなかった街の喧騒も、ここには届かない。
まるでここに居ていいのだと決められた水槽の中のように、落ち着く空間だった。
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