——そっか、半年も経ってたんだ。
帰宅して、リビングへの扉を開けた。
机上にはケーキと綺麗に包装された小さな箱がセッティングされていて、おかえり、と幸せそうに笑う彼がいる。
彼は、四人との別れを経て出会った今の恋人。
私は、喜びを抱くことも、その光景を幸せと感じることもできなかった。
記念日なんて存在すら頭になかった。
というより、頭の中に置かないように避けていた。
私は確かに、彼のことが好きなはずなのに。
拒絶と好意が騒がしく交わって困惑する。
一瞬の沈黙のあと、私の口から鋭くて冷たい言葉が零れる。
それでも空気を和ませようと微笑む彼に苦しくなって家を飛び出した。
扉が閉まる金属音が、異常なほど耳に残る。
取り残された彼を想像すると胸が痛んだ。
ごめんね、とも思った。
きっと、彼のことが好きだから。
それでも、半年記念日に独りなんて可哀想、とあえて他人事に割り切って私は街灯のない路地を駆けた。
辿り着いた『深夜カフェ』の看板前。
木製の扉を開くと、控えめなベルが鳴った。
その音に言葉が、感情が、込み上げてくる。
半年前『元』恋人となった彼へ。
「ひさしぶり——、私を雑に抱いてほしい」
◆◆
暖色の灯が浮かぶ薄暗い店内に二人きり、食器を重ねる音だけが響いている。
彼は無愛想な態度で、気まずさに襲われながら俯く私に席へ着くよう促した。
ティーカップに注がれた紅茶からは、彼と同棲していた頃の朝を思い出させる匂いがする。
切れ長の目、通った鼻筋、薄い唇。肌は白く、前髪は少し目にかかっていて、体格は華奢で長身。
彼は、一年前の私が容姿だけで選んだ元恋人。
「カフェの場所、教えたことあったっけ」
気怠けな猫背のまま、彼は沈黙を埋めるように問う。
目は、合わせてくれない。
「ないよ、インスタで探したの」
「そっか、なんで来たの?」
「嫌いになって別れた相手に会ったら、わかることがあるかもしれないって思ったから」
気味の悪い話だ。
別れた恋人のSNSを辿って職場を特定した挙句、客としてではなく元恋人として突然目の前に現れる。
ただそんなことすら、彼ならきっと呆れて終わってくれるはず。
「そういう勘だけよくて頭悪いとこ、結構好きだったかも」
そう言って、彼は私の答えに片方だけ口角を上げた。
それは彼が呆れた時に見せる表情だった。
カウンターとホールの仕切りを開き、扉のすぐ近くに立て掛けていた看板を裏返す。
彼の行動を目で追っていると、睨むような視線が返ってきた。
「お客さん、来ないの?」
「雑に抱いてほしいって言い出す迷惑客が来たから、今夜は臨時休業。自営だから融通が利きやすくてよかったね」
棘のある言葉が、今の私には心地いい。
彼の細い指が器用に首の後ろで動き、身につけていた黒いエプロンの紐が解かれる。それを手際よく畳み、洗い場の照明を一つ消した。
容姿で選んだだけあって、その一連の動作すら私の目には綺麗に映った。
「今の彼氏は、そういうのがタイプなの?」
「え」
「黒髪ストレート、甘めのメイク、淡い色の小物——身につけてるもの、俺といた時と全然違うからさ」
「覚えてるんだ、そういうとこ」
「一応好きだったからね、俺は」
カウンター席、彼は私から一つ空けた席へ着く。
微かに感じる香水は私の知らない匂いで、それでも素っ気ない態度と冷めた口調は私の記憶の中の彼と綺麗に一致した。
この冷淡さは、私が彼と別れた原因。
「変わらないね、冷たいところ」
「めんどくさいところ、なに一つ成長してないな」
冷淡を通り越して、冷酷とまで思える。
でもこの冷たさは、今の私が求めている扱いそのものだった。
今の恋人は、一緒にいると困惑してしまうほど暖かい。
その暖かさを与えられる度に、私は受け取り方がわからなくて苦しくなる。
「ねぇ、相槌とか適当でいいからさ、私の話、聞いてくれない?」
言ってしまった。
暇だしいいよ、とコーヒーを啜りながら返す彼に、心を零そうとしている。
無関心であるような雰囲気が漂うその横顔に安心している私がいた。
甘えるべき相手を、素直さを見せる相手を、完全に間違えている。
それでも動き出す唇を止める余裕を今の私は持っていなかった。
「半年だったんだ、今日」
「俺と別れてから?」
「……今の彼と、付き合ってから」
「別れた日に次の恋人ができるなんて、無駄に準備がいいんだね」
「それは——ごめん、許して」
彼の無表情な横顔からは「やっぱりね」という音のない言葉が伝わってくる。
片方の口角すら動かない。それほど、心の底から呆れられてしまっているのだと思う。
「わかってたよ、付き合ってた頃に聞かされた恋愛経験から終わり方くらい察してた」
吐き捨てられて、寂しくなった。
それでも私の過去では、彼の言葉を否定することができない。
◆
両親の暖かさに触れられなかった。
友達との笑い合い方を知らなかった。
人との付き合い方がわからなかった。
誰かと気持ちを交わした経験は、私の生きてきた時間のどこにも見当たらない。
そのせいか、私は向けられた好意に応えることもせず、ただ気の済むまで独りの時間と過敏になった寂しさを埋める道具として利用するようになった。
——このままだと、私はいつか本当に独りになる。
そう私自身に、焦っていたような気がする。
『恋愛』を知らないまま学生生活を終えた私にできた初めての彼氏は、同じ部署に配属された同期。
成り行きで付き合った彼との交際は一緒にいる時間の気楽さを退屈と感じるようになり二ヶ月で終わった。
——ちょっと距離置こう、またね。
別れ話も切り出せず、一方的に連絡先を消して退職することで強引に接点を切った。
二人目は経済力のある八つ年上の彼。
退職後、転がり込んだバイト先の店長だった彼に可愛がられ、一夜をともにしたことから交際が始まった。
——一緒にい続けられる自信が、今の私には持てないです。
現実的すぎる話だけれど、生活水準の差からくる価値観の違いに苦しくなって転職という形で離れた。
三人目は私と対極の恋愛観を持つ彼。
干渉しない、一人の時間を確保したい。それが彼のスタンス。
当時依存体質だった私が持ち合わせていない心の余裕を彼の言動から感じて、私自身を変えるために付き合った。
——私だけが好きでいるみたい。
変われなかった。
それどころか好意的に感じていた彼の心の余裕を『冷めている』と感じるようになって、その虚しさから四ヶ月続いた交際が終わった。
◆
一年間で三人と出会い、そして別れた。
私は人と向き合い切る前に、その相手から逃げるように離れることを選んでしまう。
それなら居心地の良さも、持っているものも、そもそもの恋愛観もわかろうとしないまま、外側だけで恋人になってしまえばいい。
それが——。
「容姿だけで選ばれたんだっけ、俺」
今、一つ空けて隣にいる彼。
後から知った話だけれど、お互いに一目惚れだったらしい。
瞬間的な惹かれあいで、私たちの交際は始まった。
「全部が私のタイプだったんだ。顔立ちも背格好も、あの日着てた黒のセットアップも、右手人差し指の銀の指輪も」
「そんなところまでよく覚えてるね」
「私が一番あなたを好きだと思えたのは、出会ったあの瞬間だったからね」
◆
あの日、私は衝動的に声を掛けて彼を喫茶店へ誘った。
向き合って席についた瞬間に気まずさと沈黙が襲ってきて、それを埋めるように私たちは初めましてを交わした。
彼の顔が動くたびに浮き出るフェイスラインも、ティーカップをつまむ右手の指先、愛想笑いが隠しきれていないぎこちない唇と口角の動き。近くで見てもやっぱり、彼の容姿は美しかった。
名前、年齢、職業、恋人の有無。
口数の少ない彼だったけれど、知りたいことはある程度教えてくれた。
ただ、彼と話している時間はお世辞にも『心地いい』と感じられるものではなかった。
なにを考えているのかわからない無表情さ、適当に打たれる相槌、店員への無愛想な態度。
容姿から期待値が高まっていたせいか、話し始めてからの印象はあまりよくない。
——恋人がいないなら、俺と付き合わない?
それでも最後、席を立とうとした瞬間に告げられた言葉を私は受け入れてしまった。
前髪でよく見えなかった瞳には鋭さが宿っていて、その瞬間に私の中のなにかが射止められたから。
彼を見つめて、よろしくお願いします、と返した。微笑む彼から差し出された手に触れて、恋人らしい距離感のまま喫茶店を出た。
躊躇うこともなく、素直に頷いて。
偶然にもお互い近くに住んでいたことから、付き合って二ヶ月ほどで彼との同棲生活が始まった。
家に帰って誰かがいる暖かさを彼という存在はくれて、二人の休日が被った時には恋人らしいデートで胸が躍って。
気の短い彼とは言い合いになることも多かったけれど、一目惚れの相手ということもあり私はたいていのことを容姿を理由に許せて、自然と受け入れてしまえた。
ただ目を瞑っていた違和感たちの輪郭は、はっきり見えてくる。
彼の好意的な言葉や行為から暖かさや愛といったものは感じられなくて、しまいには機械的な冷たさすら感じるようになった。
「好きだよ」
眠る前、期待を込めて私が伝えた好意に彼は他人事のように——。
「ありがとう」
と、返した。
その声には彼なりの優しさと柔らかさが込められていたのかもしれない。
それでも、一方通行な好意を抱いている感覚が刺さって痛かった。
そのまま目を瞑って寝息を立てる彼の姿を見て、寂しさすら覚えた。
一目惚れが重なった。
たった数時間の話、その最後の一言で恋人になった。
『好き』から始まったはずなのに、一緒にいればいるだけ、彼の心がわからなくなっていく。
きっと当時の私はただ、彼の恋人だという実感を求めているだけだった。
だから別室へ移ろうとする彼を引き留めるために気を惹けるような話題を探したり、適当な相槌を打たれても彼のことを知るために私自身の話をしたりした。
当時の私は、彼の恋人だという実感を強く求めていたのだと思う。
でもそれ以上に、容姿だけを理由に恋人になった彼のことを、いつか本当の意味で好きになると期待してしまっていたのかもしれない。
ただその期待は、一瞬の偶然によって途切れる。
彼に交際五ヶ月の記念日を忘れられた夜、私は一人で夜道を歩いた。
そして辿り着いた路地の先に、年季の入った暖簾が下がる飲食店があった。扉を開けた先の店内には、一人の客と店主の朗らかな笑い声が響いている。
カウンター席の一番端。少し頬を赤らめた冴えない容姿の、年の近そうな男性と目が合う。
——一緒に呑みませんか!
彼は入り口で躊躇っている私に声を掛け、手招いてくれた。
気取らない雰囲気で、無邪気に。
それが、無性に嬉しかった。
彼は酔っていたこともあって、途中で笑いが止まらなくなったり、何故か泣き始めたりすることもあって、その変わりように少々困惑する場面もあった。
ただそれ以上に、発した言葉に対して笑い声や言葉が返ってくることを私は異常なほど幸せに感じた。
閉店時間が近づく中、彼は突然妙に深刻そうな表情で頬杖をつきながら零す。
——僕、恋人とかできたことないんですよね。こんな『ちょうどいい友人枠』みたいな性格だから。
かなり酔いが回っているのか、一瞬触れづらい寂しさのようなものを感じた。それでもすぐに、まぁ友達がいっぱいいるって考えたら最高ですよね! と沈みかけた空気を打ち払う。
知り合ったばかりの人、容姿も好みとは言えない。
それでも私は、彼を知りたくなってしまった。
今までの誰とも違う、そんな予感がした。
——私も今、恋人いないですよ。
そんな嘘の後、連絡先を交換して私と彼は次に会う日の予定を立てた。
それが、四人目の彼との恋が終わる合図だった。
◆
「一目惚れってそういうものじゃない? だって告白されたあの日、確かに私はちゃんと好きだったから」
少しだけ寂しそうな顔をする彼に、私は言い訳を押し付けた。
別れたあの日の表情と重なって、今更そんな顔されても遅いよ、と思ってしまった記憶が浮かんだから。
私と別れた日、彼は初めて心から気持ちが動いているような表情を見せた。突けば涙が溢れてしまうような、そんな表情。
「私のこと、何ヶ月目までちゃんと好きだった?」
追い討ちをかけるようにそんな問いを投げる。
「わからない。ただ、もう少し時間が欲しかった」
鋭い声で答えが返ってくる。
彼の言葉から、目を背けてきた後悔が忙しく頭の中を巡る。
一人目の彼と、退屈の先を見ようとすればよかった。
二人目の彼に追いつけるまで、私自身が大人になればよかった。
三人目の彼に慣れるように、私自身が変わろうと動けばよかった。
四人目の彼が言うように、もう少しだけ彼の気持ちを待っていればよかった。
私の恋はいつも、抱いている感情が愛へ変わる前に終わりを迎える。
だから五人目の彼とは——。
「今の彼とは、幸せになれそうなんじゃないの?」
「幸せになりたいよ。私は、きっとちゃんと彼のことが好きだから」
それが、私の嘘のない気持ちだった。
ただ私には、わからないことがありすぎる。
四人と付き合って、独りじゃない感覚を知った。
それでもまだ私は、一緒にいる時間を重ねることで変わっていく距離感の掴み方も、すれ違った価値観の埋め方も、誰かを想うための心の保ち方もわからない。
でもそれ以上に——。
——まっすぐに向けられる暖かさの受け取り方を知らないままだった。
「彼は私に返せないくらいの優しさを注いでくれる。だいたいのことは許してくれて、私が記念日に酷いことを言った今日だって笑って和ませてくれようとした」
「いいじゃん、その彼氏」
中身のなくなったティーカップの淵を指先でなぞりながら、吐き捨てるように彼は呟く。
「そうだよ? 誠実で、容姿は好みじゃないけど、でもそんなこと気にならないくらい素敵な人なの」
「それなら黙って隣にいればいいのに——」
「困惑するの、私はそんな暖かさを返しきれるほど優しくなる方法を知らない……。それにわからなくなる、ここまで純粋な好意を感じたことは初めてだから」
彼が話し終わるより先に、私の言葉が口を伝った。
彼の言葉を勢いで遮ってしまうほどの本音。
今の彼は優しくて、触れたことのない暖かさを求めずとも与えてくれる。それが好きで、隣にいたい理由だった。
ただ付き合って数ヶ月した頃から、私は感じたことのないほどまっすぐな好意に怯えるようになった。
——こんなに愛をくれる人からすら、私はいつか逃げるように離れることを選んでしまうかもしれない。
そう私の心に、私自身の過去が邪魔をしていたから。
付き合い始めた頃は、向けられた気持ちの全てを純粋に受け取れて、それを幸せだと感じられた。
隣にいることを避けるようになったのはきっと、それが日常になってしまったから。
だから一度手放す寸前になれば、私の中で彼がどれほど大切な存在なのかわかるような気がした。
沈黙を切り裂くように息を吸い、彼は戸惑った表情で深く一度頷き、口を開いた。
「それなら『私を雑に抱いてほしい』って言ってたのは、どういう意味?」
「今の彼が大切で、好きだって、私の中で再確認したいんだ」
自分でも呆れてしまうほど我儘で、どうしようもなく身勝手な考え方だ。
ただ、今の私には必要なことだと思ったから。
愛のない行為をすれば、差し出された愛にまっすぐ手を伸ばせるはずだから。
——嫌いになった彼と夜を超えたら、今の彼を恋しく思える。
黙り込む私の横で彼はため息をつき、数秒間一点を見つめた後に立ち上がった。
カウンター席の照明が消されて、入れ替わるように奥の階段に明かりが灯る。
若干の緊張感を纏わせた雰囲気で、彼は私の袖を掴んだ。
「二階、行くよ」
「え……」
「元彼として、雑に抱くってそういう解釈になるから」
「でも、それって」
「『なにが本当の好きか』なんて話したって仕方ないし、体感した方がよくわかるんじゃない?」
◆◆
目覚めた右側から、懐かしい寝息が聞こえた。
肌に直で触れるシルクの感触で数時間前の記憶が寝ぼけた脳に巡る。
嘘みたいに交わらない視線。
雑な指先の動き。
無理矢理に押さえつけられる感覚。
恋人という関係がなくなった私への扱いは確かに酷いものだった。
言葉の通り、私は彼に雑に抱かれた。
今の彼の優しさを、痛いほど感じた。
何度も彼の顔が頭をよぎって、罪悪感が積もっていった。
向けられた好意に、私が思う以上の愛が込められていることを体感した。
「起きてたんだ、早いね」
寝癖のついた彼が身体を起こす。
言い表せない気まずさから、返す言葉は見つけられなかった。
無言のまま、スマートフォンを開く。
今の彼とのメッセージ画面。
「私、やっぱりまだ『好き』ってなにかわからなかった」
え、なんて間抜けた声が返ってくる。
呆れたようなその表情は、少しだけ笑みが含めれているような気がした。そして背伸びをした後、彼は寝室を出た。
一人ベッドに取り残された私は、彼へ送る言葉を選ぶ。
サイドテーブルに脱ぎ捨てられた服に袖を通し、鞄を肩にかける。
階段を降りて昨晩そのままにしていた閉店準備中の彼の名前を呼ぶ、半年ぶりに目があった。
それは本当の意味での彼との別れで、今の彼との始まりのような気がした。
「ごめんね、でもありがとう」
返答は待たない。
というより、要らない。
木製の扉を開くと、控えめなベルが鳴った。
朝日の眩しさに圧倒されそうになりながら、彼からの不在着信へメッセージを残す。
——昨日はごめんね、そして時間がある時に話がしたい。もし許してくれるなら、もう一度ちゃんと恋人になりたい。
そのまままっすぐ、私は自宅へ向かうことを選んだ。
五人目の彼のこと——いや、私にとって初めて『好きになりたい』と思った彼のことは、ちゃんと愛せるはずだから。
帰宅して、リビングへの扉を開けた。
机上にはケーキと綺麗に包装された小さな箱がセッティングされていて、おかえり、と幸せそうに笑う彼がいる。
彼は、四人との別れを経て出会った今の恋人。
私は、喜びを抱くことも、その光景を幸せと感じることもできなかった。
記念日なんて存在すら頭になかった。
というより、頭の中に置かないように避けていた。
私は確かに、彼のことが好きなはずなのに。
拒絶と好意が騒がしく交わって困惑する。
一瞬の沈黙のあと、私の口から鋭くて冷たい言葉が零れる。
それでも空気を和ませようと微笑む彼に苦しくなって家を飛び出した。
扉が閉まる金属音が、異常なほど耳に残る。
取り残された彼を想像すると胸が痛んだ。
ごめんね、とも思った。
きっと、彼のことが好きだから。
それでも、半年記念日に独りなんて可哀想、とあえて他人事に割り切って私は街灯のない路地を駆けた。
辿り着いた『深夜カフェ』の看板前。
木製の扉を開くと、控えめなベルが鳴った。
その音に言葉が、感情が、込み上げてくる。
半年前『元』恋人となった彼へ。
「ひさしぶり——、私を雑に抱いてほしい」
◆◆
暖色の灯が浮かぶ薄暗い店内に二人きり、食器を重ねる音だけが響いている。
彼は無愛想な態度で、気まずさに襲われながら俯く私に席へ着くよう促した。
ティーカップに注がれた紅茶からは、彼と同棲していた頃の朝を思い出させる匂いがする。
切れ長の目、通った鼻筋、薄い唇。肌は白く、前髪は少し目にかかっていて、体格は華奢で長身。
彼は、一年前の私が容姿だけで選んだ元恋人。
「カフェの場所、教えたことあったっけ」
気怠けな猫背のまま、彼は沈黙を埋めるように問う。
目は、合わせてくれない。
「ないよ、インスタで探したの」
「そっか、なんで来たの?」
「嫌いになって別れた相手に会ったら、わかることがあるかもしれないって思ったから」
気味の悪い話だ。
別れた恋人のSNSを辿って職場を特定した挙句、客としてではなく元恋人として突然目の前に現れる。
ただそんなことすら、彼ならきっと呆れて終わってくれるはず。
「そういう勘だけよくて頭悪いとこ、結構好きだったかも」
そう言って、彼は私の答えに片方だけ口角を上げた。
それは彼が呆れた時に見せる表情だった。
カウンターとホールの仕切りを開き、扉のすぐ近くに立て掛けていた看板を裏返す。
彼の行動を目で追っていると、睨むような視線が返ってきた。
「お客さん、来ないの?」
「雑に抱いてほしいって言い出す迷惑客が来たから、今夜は臨時休業。自営だから融通が利きやすくてよかったね」
棘のある言葉が、今の私には心地いい。
彼の細い指が器用に首の後ろで動き、身につけていた黒いエプロンの紐が解かれる。それを手際よく畳み、洗い場の照明を一つ消した。
容姿で選んだだけあって、その一連の動作すら私の目には綺麗に映った。
「今の彼氏は、そういうのがタイプなの?」
「え」
「黒髪ストレート、甘めのメイク、淡い色の小物——身につけてるもの、俺といた時と全然違うからさ」
「覚えてるんだ、そういうとこ」
「一応好きだったからね、俺は」
カウンター席、彼は私から一つ空けた席へ着く。
微かに感じる香水は私の知らない匂いで、それでも素っ気ない態度と冷めた口調は私の記憶の中の彼と綺麗に一致した。
この冷淡さは、私が彼と別れた原因。
「変わらないね、冷たいところ」
「めんどくさいところ、なに一つ成長してないな」
冷淡を通り越して、冷酷とまで思える。
でもこの冷たさは、今の私が求めている扱いそのものだった。
今の恋人は、一緒にいると困惑してしまうほど暖かい。
その暖かさを与えられる度に、私は受け取り方がわからなくて苦しくなる。
「ねぇ、相槌とか適当でいいからさ、私の話、聞いてくれない?」
言ってしまった。
暇だしいいよ、とコーヒーを啜りながら返す彼に、心を零そうとしている。
無関心であるような雰囲気が漂うその横顔に安心している私がいた。
甘えるべき相手を、素直さを見せる相手を、完全に間違えている。
それでも動き出す唇を止める余裕を今の私は持っていなかった。
「半年だったんだ、今日」
「俺と別れてから?」
「……今の彼と、付き合ってから」
「別れた日に次の恋人ができるなんて、無駄に準備がいいんだね」
「それは——ごめん、許して」
彼の無表情な横顔からは「やっぱりね」という音のない言葉が伝わってくる。
片方の口角すら動かない。それほど、心の底から呆れられてしまっているのだと思う。
「わかってたよ、付き合ってた頃に聞かされた恋愛経験から終わり方くらい察してた」
吐き捨てられて、寂しくなった。
それでも私の過去では、彼の言葉を否定することができない。
◆
両親の暖かさに触れられなかった。
友達との笑い合い方を知らなかった。
人との付き合い方がわからなかった。
誰かと気持ちを交わした経験は、私の生きてきた時間のどこにも見当たらない。
そのせいか、私は向けられた好意に応えることもせず、ただ気の済むまで独りの時間と過敏になった寂しさを埋める道具として利用するようになった。
——このままだと、私はいつか本当に独りになる。
そう私自身に、焦っていたような気がする。
『恋愛』を知らないまま学生生活を終えた私にできた初めての彼氏は、同じ部署に配属された同期。
成り行きで付き合った彼との交際は一緒にいる時間の気楽さを退屈と感じるようになり二ヶ月で終わった。
——ちょっと距離置こう、またね。
別れ話も切り出せず、一方的に連絡先を消して退職することで強引に接点を切った。
二人目は経済力のある八つ年上の彼。
退職後、転がり込んだバイト先の店長だった彼に可愛がられ、一夜をともにしたことから交際が始まった。
——一緒にい続けられる自信が、今の私には持てないです。
現実的すぎる話だけれど、生活水準の差からくる価値観の違いに苦しくなって転職という形で離れた。
三人目は私と対極の恋愛観を持つ彼。
干渉しない、一人の時間を確保したい。それが彼のスタンス。
当時依存体質だった私が持ち合わせていない心の余裕を彼の言動から感じて、私自身を変えるために付き合った。
——私だけが好きでいるみたい。
変われなかった。
それどころか好意的に感じていた彼の心の余裕を『冷めている』と感じるようになって、その虚しさから四ヶ月続いた交際が終わった。
◆
一年間で三人と出会い、そして別れた。
私は人と向き合い切る前に、その相手から逃げるように離れることを選んでしまう。
それなら居心地の良さも、持っているものも、そもそもの恋愛観もわかろうとしないまま、外側だけで恋人になってしまえばいい。
それが——。
「容姿だけで選ばれたんだっけ、俺」
今、一つ空けて隣にいる彼。
後から知った話だけれど、お互いに一目惚れだったらしい。
瞬間的な惹かれあいで、私たちの交際は始まった。
「全部が私のタイプだったんだ。顔立ちも背格好も、あの日着てた黒のセットアップも、右手人差し指の銀の指輪も」
「そんなところまでよく覚えてるね」
「私が一番あなたを好きだと思えたのは、出会ったあの瞬間だったからね」
◆
あの日、私は衝動的に声を掛けて彼を喫茶店へ誘った。
向き合って席についた瞬間に気まずさと沈黙が襲ってきて、それを埋めるように私たちは初めましてを交わした。
彼の顔が動くたびに浮き出るフェイスラインも、ティーカップをつまむ右手の指先、愛想笑いが隠しきれていないぎこちない唇と口角の動き。近くで見てもやっぱり、彼の容姿は美しかった。
名前、年齢、職業、恋人の有無。
口数の少ない彼だったけれど、知りたいことはある程度教えてくれた。
ただ、彼と話している時間はお世辞にも『心地いい』と感じられるものではなかった。
なにを考えているのかわからない無表情さ、適当に打たれる相槌、店員への無愛想な態度。
容姿から期待値が高まっていたせいか、話し始めてからの印象はあまりよくない。
——恋人がいないなら、俺と付き合わない?
それでも最後、席を立とうとした瞬間に告げられた言葉を私は受け入れてしまった。
前髪でよく見えなかった瞳には鋭さが宿っていて、その瞬間に私の中のなにかが射止められたから。
彼を見つめて、よろしくお願いします、と返した。微笑む彼から差し出された手に触れて、恋人らしい距離感のまま喫茶店を出た。
躊躇うこともなく、素直に頷いて。
偶然にもお互い近くに住んでいたことから、付き合って二ヶ月ほどで彼との同棲生活が始まった。
家に帰って誰かがいる暖かさを彼という存在はくれて、二人の休日が被った時には恋人らしいデートで胸が躍って。
気の短い彼とは言い合いになることも多かったけれど、一目惚れの相手ということもあり私はたいていのことを容姿を理由に許せて、自然と受け入れてしまえた。
ただ目を瞑っていた違和感たちの輪郭は、はっきり見えてくる。
彼の好意的な言葉や行為から暖かさや愛といったものは感じられなくて、しまいには機械的な冷たさすら感じるようになった。
「好きだよ」
眠る前、期待を込めて私が伝えた好意に彼は他人事のように——。
「ありがとう」
と、返した。
その声には彼なりの優しさと柔らかさが込められていたのかもしれない。
それでも、一方通行な好意を抱いている感覚が刺さって痛かった。
そのまま目を瞑って寝息を立てる彼の姿を見て、寂しさすら覚えた。
一目惚れが重なった。
たった数時間の話、その最後の一言で恋人になった。
『好き』から始まったはずなのに、一緒にいればいるだけ、彼の心がわからなくなっていく。
きっと当時の私はただ、彼の恋人だという実感を求めているだけだった。
だから別室へ移ろうとする彼を引き留めるために気を惹けるような話題を探したり、適当な相槌を打たれても彼のことを知るために私自身の話をしたりした。
当時の私は、彼の恋人だという実感を強く求めていたのだと思う。
でもそれ以上に、容姿だけを理由に恋人になった彼のことを、いつか本当の意味で好きになると期待してしまっていたのかもしれない。
ただその期待は、一瞬の偶然によって途切れる。
彼に交際五ヶ月の記念日を忘れられた夜、私は一人で夜道を歩いた。
そして辿り着いた路地の先に、年季の入った暖簾が下がる飲食店があった。扉を開けた先の店内には、一人の客と店主の朗らかな笑い声が響いている。
カウンター席の一番端。少し頬を赤らめた冴えない容姿の、年の近そうな男性と目が合う。
——一緒に呑みませんか!
彼は入り口で躊躇っている私に声を掛け、手招いてくれた。
気取らない雰囲気で、無邪気に。
それが、無性に嬉しかった。
彼は酔っていたこともあって、途中で笑いが止まらなくなったり、何故か泣き始めたりすることもあって、その変わりように少々困惑する場面もあった。
ただそれ以上に、発した言葉に対して笑い声や言葉が返ってくることを私は異常なほど幸せに感じた。
閉店時間が近づく中、彼は突然妙に深刻そうな表情で頬杖をつきながら零す。
——僕、恋人とかできたことないんですよね。こんな『ちょうどいい友人枠』みたいな性格だから。
かなり酔いが回っているのか、一瞬触れづらい寂しさのようなものを感じた。それでもすぐに、まぁ友達がいっぱいいるって考えたら最高ですよね! と沈みかけた空気を打ち払う。
知り合ったばかりの人、容姿も好みとは言えない。
それでも私は、彼を知りたくなってしまった。
今までの誰とも違う、そんな予感がした。
——私も今、恋人いないですよ。
そんな嘘の後、連絡先を交換して私と彼は次に会う日の予定を立てた。
それが、四人目の彼との恋が終わる合図だった。
◆
「一目惚れってそういうものじゃない? だって告白されたあの日、確かに私はちゃんと好きだったから」
少しだけ寂しそうな顔をする彼に、私は言い訳を押し付けた。
別れたあの日の表情と重なって、今更そんな顔されても遅いよ、と思ってしまった記憶が浮かんだから。
私と別れた日、彼は初めて心から気持ちが動いているような表情を見せた。突けば涙が溢れてしまうような、そんな表情。
「私のこと、何ヶ月目までちゃんと好きだった?」
追い討ちをかけるようにそんな問いを投げる。
「わからない。ただ、もう少し時間が欲しかった」
鋭い声で答えが返ってくる。
彼の言葉から、目を背けてきた後悔が忙しく頭の中を巡る。
一人目の彼と、退屈の先を見ようとすればよかった。
二人目の彼に追いつけるまで、私自身が大人になればよかった。
三人目の彼に慣れるように、私自身が変わろうと動けばよかった。
四人目の彼が言うように、もう少しだけ彼の気持ちを待っていればよかった。
私の恋はいつも、抱いている感情が愛へ変わる前に終わりを迎える。
だから五人目の彼とは——。
「今の彼とは、幸せになれそうなんじゃないの?」
「幸せになりたいよ。私は、きっとちゃんと彼のことが好きだから」
それが、私の嘘のない気持ちだった。
ただ私には、わからないことがありすぎる。
四人と付き合って、独りじゃない感覚を知った。
それでもまだ私は、一緒にいる時間を重ねることで変わっていく距離感の掴み方も、すれ違った価値観の埋め方も、誰かを想うための心の保ち方もわからない。
でもそれ以上に——。
——まっすぐに向けられる暖かさの受け取り方を知らないままだった。
「彼は私に返せないくらいの優しさを注いでくれる。だいたいのことは許してくれて、私が記念日に酷いことを言った今日だって笑って和ませてくれようとした」
「いいじゃん、その彼氏」
中身のなくなったティーカップの淵を指先でなぞりながら、吐き捨てるように彼は呟く。
「そうだよ? 誠実で、容姿は好みじゃないけど、でもそんなこと気にならないくらい素敵な人なの」
「それなら黙って隣にいればいいのに——」
「困惑するの、私はそんな暖かさを返しきれるほど優しくなる方法を知らない……。それにわからなくなる、ここまで純粋な好意を感じたことは初めてだから」
彼が話し終わるより先に、私の言葉が口を伝った。
彼の言葉を勢いで遮ってしまうほどの本音。
今の彼は優しくて、触れたことのない暖かさを求めずとも与えてくれる。それが好きで、隣にいたい理由だった。
ただ付き合って数ヶ月した頃から、私は感じたことのないほどまっすぐな好意に怯えるようになった。
——こんなに愛をくれる人からすら、私はいつか逃げるように離れることを選んでしまうかもしれない。
そう私の心に、私自身の過去が邪魔をしていたから。
付き合い始めた頃は、向けられた気持ちの全てを純粋に受け取れて、それを幸せだと感じられた。
隣にいることを避けるようになったのはきっと、それが日常になってしまったから。
だから一度手放す寸前になれば、私の中で彼がどれほど大切な存在なのかわかるような気がした。
沈黙を切り裂くように息を吸い、彼は戸惑った表情で深く一度頷き、口を開いた。
「それなら『私を雑に抱いてほしい』って言ってたのは、どういう意味?」
「今の彼が大切で、好きだって、私の中で再確認したいんだ」
自分でも呆れてしまうほど我儘で、どうしようもなく身勝手な考え方だ。
ただ、今の私には必要なことだと思ったから。
愛のない行為をすれば、差し出された愛にまっすぐ手を伸ばせるはずだから。
——嫌いになった彼と夜を超えたら、今の彼を恋しく思える。
黙り込む私の横で彼はため息をつき、数秒間一点を見つめた後に立ち上がった。
カウンター席の照明が消されて、入れ替わるように奥の階段に明かりが灯る。
若干の緊張感を纏わせた雰囲気で、彼は私の袖を掴んだ。
「二階、行くよ」
「え……」
「元彼として、雑に抱くってそういう解釈になるから」
「でも、それって」
「『なにが本当の好きか』なんて話したって仕方ないし、体感した方がよくわかるんじゃない?」
◆◆
目覚めた右側から、懐かしい寝息が聞こえた。
肌に直で触れるシルクの感触で数時間前の記憶が寝ぼけた脳に巡る。
嘘みたいに交わらない視線。
雑な指先の動き。
無理矢理に押さえつけられる感覚。
恋人という関係がなくなった私への扱いは確かに酷いものだった。
言葉の通り、私は彼に雑に抱かれた。
今の彼の優しさを、痛いほど感じた。
何度も彼の顔が頭をよぎって、罪悪感が積もっていった。
向けられた好意に、私が思う以上の愛が込められていることを体感した。
「起きてたんだ、早いね」
寝癖のついた彼が身体を起こす。
言い表せない気まずさから、返す言葉は見つけられなかった。
無言のまま、スマートフォンを開く。
今の彼とのメッセージ画面。
「私、やっぱりまだ『好き』ってなにかわからなかった」
え、なんて間抜けた声が返ってくる。
呆れたようなその表情は、少しだけ笑みが含めれているような気がした。そして背伸びをした後、彼は寝室を出た。
一人ベッドに取り残された私は、彼へ送る言葉を選ぶ。
サイドテーブルに脱ぎ捨てられた服に袖を通し、鞄を肩にかける。
階段を降りて昨晩そのままにしていた閉店準備中の彼の名前を呼ぶ、半年ぶりに目があった。
それは本当の意味での彼との別れで、今の彼との始まりのような気がした。
「ごめんね、でもありがとう」
返答は待たない。
というより、要らない。
木製の扉を開くと、控えめなベルが鳴った。
朝日の眩しさに圧倒されそうになりながら、彼からの不在着信へメッセージを残す。
——昨日はごめんね、そして時間がある時に話がしたい。もし許してくれるなら、もう一度ちゃんと恋人になりたい。
そのまままっすぐ、私は自宅へ向かうことを選んだ。
五人目の彼のこと——いや、私にとって初めて『好きになりたい』と思った彼のことは、ちゃんと愛せるはずだから。