それから数日が過ぎた。
 これはあくまでも推測だが、乃蒼の母親には彼女の姿が見えるはず。そう思って「母親に会いにいかないか?」と乃蒼に提案したのだが、「今はまだいいかな」とやんわり否定された。

「本当に見えるのかどうかわからないし、見えたとしても、私が娘だと信じてもらえるかわからないからちょっと怖い」

 一度電話で拒絶されたのが、トラウマになっているようだった。「そうだな。もう少し先にするか」としか言えなかった。
 焦ることはない。ないのだが、いつかは必ず行かなくてはならない、とそう思う。

 大学が終わってから書店に立ち寄った。乃蒼と再会したあの書店だ。
 今日、探している本はふたつあった。
 一冊目。『螺旋階段』はすぐ見つかった。新刊でもないのに、話題書のコーナーに平積みされていた。
 さすがは、野崎周吾とでも言うべきか。これは、父が得意としていたミステリージャンルの作品で、父の遺作でもあった。
 探してしたもう一冊は、当時高校生だった女流作家のデビュー作で、『レター・ガール』。
 置いてあるであろうキャラクター文芸のコーナーをくまなく探したのだが、見つけることはできなかった。

 帰宅すると、部屋中に香ばしい匂いが満ちていた。
 今日の晩御飯はカレーか。そう思いながらテーブルの上に買ってきた文庫本を置く。それを目ざとく見付けた乃蒼が、声をかけてきた。

「それ、お父さんの書いた小説でしょ? いったいどういう風の吹き回しなの? 絶対に読みたくないとか力説していたのに」

 探していたもう一冊の本の話はしなかった。しないほうがいいと思った。
 螺旋階段は、塔を備えたとある洋館で起きた殺人事件を描いた、いわゆるクローズド・サークルミステリーだ。クローズド・サークルミステリーとは、限られた空間内で犯罪が発生し、犯人はその閉ざされた環境内にいるという設定が特徴だ。終盤で明かされる意外な犯人像に、話題となった作品だった。
 刊行されたのは今から三年前。父が亡くなるほんの少し前のことだった。

「もしかしたら、親父はこの作品を僕に読ませたかったんじゃないかなって。そんな気がしてな」
「読んだけど、面白かったよ」
「読んでいたんだ?」
「うん。当時話題作だったし。自分の作品を書いていく上で、いろいろと参考になる気はしていたからね。それに――」
「それに?」
「いや、なんでもない。じゃあ、ご飯にしよっか」

 調理の終わったカレーをよそって、乃蒼がテーブルまで運んできた。
 いただきます、と二人で唱和する。

「お父さんが亡くなったのって、この本が出てから二ヶ月後だったっけ?」
「そうだな。この本が刊行された頃にはもうかなり体調が悪くなっていて、体を起こしているだけでもしんどそうだった。ほとんど寝たきりの生活になっていたよ」

 父の死因は大腸がんだった。病が見つかったとき、手術でどうにかできる状態ではすでになかった。化学療法による治療をしばらく受けていたのだが、最後は家で家族と過ごしたいからと希望をして、自宅療養に切り替えていた。
 病気と闘いながら、最後の力を振り絞って書き上げたのがこの作品だった。
 それまで、あまり家族のことを鑑みるような人ではなかったが、最期の一年は穏やかな顔をしていることが多かったと思う。発熱と腹痛がひどかったようで、満足に食事を摂ることができず、日に日に痩せていっていた。そんな姿を見ているのは正直少し辛かったが。鎮痛剤がなければまともに起きていられなかったはずだが、それでもあまり辛そうな顔をしなかった。

「あのとき父は何を考えていたんだろうと、考えながら読んでみたいかなってそう思ったんだ」

 ふうん、と乃蒼が呟いた。
 本当は少し違うかもしれない。これが遺作になるかもしれないと覚悟したとき、人はどんな文章を綴るものなのかと、単純に興味があった。

「立夏は、もう小説は書かないの?」
「え?」

 呆けた声がでる。
 それは、いつか聞かれるだろうと思っていた事柄だ。
 結論から言うと、僕はもういっさい小説を書いていない。小説家になるのが運命だとばかり思っていた男の末路としてはなんとも哀れだ。
 目標としていた女流作家が死んだあの日、小説家としての自分も同時に死んだのだ。いっさい、文章が書けなくなったんだ。
 乃蒼。君が死んだあの日からだよ。
「わからない」と答えた。率直な返答ではあった。僕一人で小説が書ける気はしていなかったから。

「私は、ずっと一生小説を書いていたい。そう思っていたよ」

 それは、高校の文芸部の部室で、彼女が繰り返し語っていた台詞だった。ふんわりとしたショートボブの今の乃蒼の姿に、もっと髪が長かった、高校時代の頃の彼女の姿がふと重なった。

「私の小説で、世界を変えたかった」

 父が死んだときだから高二の秋か。あの日も同じことを言われた。あのとき僕は、なんと返したのだったか。
 そんなこと、できるわけがない。変わるわけないだろ。所詮は娯楽だ。娯楽の中でも、小説をわざわざ選ぶ人は少ない。そのわずかしかいない読者を感動させたとしても、二日か三日もしたらみんな忘れて、また元の生活に戻っていく。そんなものだ。
 こういった感じの、夢のない話をした気がする。
 だがその裏で、僕はこうも思っていた。哘乃蒼というこの少女になら、世界を変えられるんじゃないのかと。それだけの作品を作れるんじゃないのかと。

「ねえ、立夏。もう一度私と小説を書こうよ」
「乃蒼と小説を? ……僕が?」

 ――小説で世界を変えたい。
 これは、父もよく語っていたフレーズだった。
 父ですら成し遂げられなかったことを、乃蒼ならやってくれる。そんなことをかつて僕は思っていた。
 ――一発屋。
 デビュー作を出版したあとで、哘乃蒼に与えられた世間の評価がそれだった。
 僕は、乃蒼の実力を見抜けない世間に失望していた。そんな三文字で言い表せるような作家じゃないんだ。乃蒼は。
 だから僕は、あの日乃蒼にこのような提案をしたんだ。
「僕が君の作品をプロデュースする」と。
 不甲斐ない僕に変わって、父の意思を継いでほしい。そんな願いをこめて。

「……そうだな。乃蒼、もう一度二人で小説を書こう。去年途中で終わってしまったあの物語の続きを書こう。乃蒼と僕とでなら、絶対に良い作品が書けると思う」
「うん! 立夏もそう言ってくれるのなら嬉しいな」

 にこやかな笑顔を乃蒼は浮かべた。僕が見たかったのはこの表情だ。

「私は、そのためにこの世界に戻ってきたんじゃないのかと、そう思うんだよね」

 乃蒼の顔が真剣なものになる。
 この間した、未練の話をしているんだとわかって、少し胸が苦しくなる。
 小説を書き終えた先でどうなるかなんてわからない。未練を解消して乃蒼は消えてしまうのか。それとも逆に、この世界に生をつなぐことになるのか。いずれにしても、これはやり遂げなくてはならないことなのだとそう思った。今の乃蒼になら、世界を変えられるんじゃないかって、そう思えたから。
 もしかしたら、再び自分を奮い立たせるために、僕は父の遺作を購入してきたのかもしれない。

   *