第二章「あの日の夢をもう一度」
僕の青春はどこにあったのかと問われたならば、小説の中にあったと、そう答える。
野崎周吾。それが父のペンネームだ。
とある雑誌社の文学賞で大賞を受賞し、父が小説家としてデビューしたのは、父が三十五歳のときだった。そのとき僕はまだ五歳だったので、物心ついた頃には、父はすでに小説家だった、という印象しかない。著名な小説レビュワーの目に留まったこともあって、父のデビュー作はいきなりヒットを飛ばした。二作目の売上も堅調な滑り出しで、父は仕事をやめて専業作家となった。そこからコンスタントに、年一冊ほどのペースで刊行し続けていた。
朝から晩まで家の書斎にこもっているような人で、姿を見るとしたら朝新聞を読んでいるときと食事のときだけ。毎日家にいるのに、遊んでもらった記憶はないし、家族サービスもほとんどしなかった。およそ父親らしい父親ではなかった。
そのような父だったので、僕はあまり好きではなかった。
僕が小説を書くようになったのに、大した理由はなかったと思う。
父の本が売れれば売れるほど、僕は父と比較されるようになった。野崎周吾さんのご子息なのだから、やはりたくさん本を読まれるのでしょうね。国語の成績が、さぞ良いのでしょうね。野崎先生の作品の中では、どれがお好きですか。将来の夢はもちろん小説家なのですよね。エトセトラ、エトセトラ。
うるせえよと思った。僕は僕であって、野崎周吾じゃない。
そういったあれこれが、本当に嫌だった。
読書をする習慣なんてないし、国語の成績は平凡だった。父の書いた本なんて、目に入れるのも嫌だった。
それなのに、小学六年生の頃から僕は小説を書き始める。
父を敬愛してのものではない。父のことが嫌いだったから、目に物を見せてやろう、などと思ったのかもしれない。どちらにしても、最初の動機はあまり健全なものではなかった。
タニングクルーガー効果、という言葉を知っているだろうか。
ダニングクルーガー効果とは、自分の能力を過大評価してしまう心理現象のことだ。経験や先入観、直感などが影響して、実際の能力とは異なる自己評価をしてしまう。特に能力が低い人が、他人の能力を正しく認識できずに自分のほうが優れていると考えてしまう現象のことを指す。
当時の僕はまさにこれだった。ろくに本を読んでいなかったせいもあるが、自分の作品がどれほどのものか、わかっていなかった。自分には才能があるのだと、信じて疑わなかった。父は偉大な作家なのだから、自分も当然そうであると、高校生になる頃には結果が出ているだろうと、自分を過大評価した。
一度だけ、父に原稿を見せたことがある。作者が何を伝えたいのか、作品から感じられない。文章表現に酔っているだけだと、小手先のテクニックに頼るなと酷評された。
しかし、いわゆるバカの山の頂にいた僕には、父の声はいっさい響かなかった。やってやるさ、と余計なプライドだけをこじらせた。
僕の鼻がへし折れたのは高一のときだ。
初めて出した文学賞で一次選考落選を経験し、乃蒼の原稿を読んでしまったから。
世界は広い。書き手の数だけ才能があって、書き手の数だけ作品がある。森の中にある小さな木の芽と同じだ。目に見えないだけで、確かにそれはそこにある。日が当たりさえすればやがて大きく育つ。そんな才能が。いつか巨木になる芽だとしても、成長する前は小さな芽でしかない。見つかっていないだけで、才能の芽はそこここにあるのだ。
そして、自分はそれじゃない。
自分がどれだけ凡庸かを、ようやく悟ったのだ。
哘乃蒼と名の、可能性しかない芽を見つけたことによって。
昼休みも、部室で乃蒼と一緒に小説を書いていることが多かった。
高校二年の秋のことだ。ある日乃蒼がこう言った。
「小説の中に、入ることってできると思う?」
「はあ? 入れるわけないだろ。何言ってんだ」
「またそうやって夢のないことを言う」
理屈っぽくて、現実主義者で、話をしても面白くない奴。僕は周囲からよくそう評されていた。
図星だった。うるせえよと思った。
この年、一年生が入部してこなかったので、三年生が引退すると、文芸部は僕と乃蒼だけになってしまった。来年の春から、同好会への格下げが決まっていた。
「もちろん、物理的には無理だよ。これは比喩表現みたいなもので、読者を心身ともに物語の中に引きずり込んで、あたかもその世界の中に、今自分がいるかのように感じさせることができないかなって、そういうことだよ」
多感な時期。夢見る少女。そんな感想を抱いた。
乃蒼が書く小説は実に自由だった。プロット(物語の設計図)をきっちりと決め、突飛な設定を極力使わず、理詰めされた設定を持ったミステリー作品ばかりを書いていた僕とは真逆だった。
プロットと呼んでいいか悩むような簡単な設定だけを決めると、とりあえず書いていく。キャラクターが動くに任せて、展開を臨機応変に変えていくの。自分の創作スタイルを、乃蒼はそのように語った。
とにかくたくさん本を読む。良いと感じたアイディアはどんどん取り入れる。ファンタジックな設定だろうと、ためらいなく彼女は採用した。
そういった彼女の創作スタイルを、僕は心のどこかで忌避していた。
自由で、独創的で、設定や展開に多少の難があったとしても、勢いで読ませてしまう筆力がある。僕の小説が「文学的」で「高尚」だとするならば、乃蒼のそれは「大衆的」で「娯楽的」だと言えた。それは僕にとって垂涎の的であったが、同時に心では否定した。彼女の創作を賞賛することは、すなわち自分のスタイルの否定になる。それは、負けを認めるのと同義じであると、心のどこかで感じていたから。
乃蒼の実力を頭では理解しながらも、心では認めることができずにいた。彼女の作品が受賞しなければいいと、貶さずにはいられなかった。
そのような浅ましい僕の願いは、結局、叶うことはないのだが。
これだけは言える。結果を気にすることなく、全力で創作を楽しんでいる彼女の姿勢が、僕は妬ましくてしょうがなかったのだ。
だからこそかもしれない。
いつしか僕は、自分の創作スタイルを捻じ曲げる。いわゆるキャラクター文芸にありそうな突飛な設定を取り入れて、並行世界ものの作品を書き始めたのだ。
父が死んだのは、そんな矢先のことだった。
*
僕の青春はどこにあったのかと問われたならば、小説の中にあったと、そう答える。
野崎周吾。それが父のペンネームだ。
とある雑誌社の文学賞で大賞を受賞し、父が小説家としてデビューしたのは、父が三十五歳のときだった。そのとき僕はまだ五歳だったので、物心ついた頃には、父はすでに小説家だった、という印象しかない。著名な小説レビュワーの目に留まったこともあって、父のデビュー作はいきなりヒットを飛ばした。二作目の売上も堅調な滑り出しで、父は仕事をやめて専業作家となった。そこからコンスタントに、年一冊ほどのペースで刊行し続けていた。
朝から晩まで家の書斎にこもっているような人で、姿を見るとしたら朝新聞を読んでいるときと食事のときだけ。毎日家にいるのに、遊んでもらった記憶はないし、家族サービスもほとんどしなかった。およそ父親らしい父親ではなかった。
そのような父だったので、僕はあまり好きではなかった。
僕が小説を書くようになったのに、大した理由はなかったと思う。
父の本が売れれば売れるほど、僕は父と比較されるようになった。野崎周吾さんのご子息なのだから、やはりたくさん本を読まれるのでしょうね。国語の成績が、さぞ良いのでしょうね。野崎先生の作品の中では、どれがお好きですか。将来の夢はもちろん小説家なのですよね。エトセトラ、エトセトラ。
うるせえよと思った。僕は僕であって、野崎周吾じゃない。
そういったあれこれが、本当に嫌だった。
読書をする習慣なんてないし、国語の成績は平凡だった。父の書いた本なんて、目に入れるのも嫌だった。
それなのに、小学六年生の頃から僕は小説を書き始める。
父を敬愛してのものではない。父のことが嫌いだったから、目に物を見せてやろう、などと思ったのかもしれない。どちらにしても、最初の動機はあまり健全なものではなかった。
タニングクルーガー効果、という言葉を知っているだろうか。
ダニングクルーガー効果とは、自分の能力を過大評価してしまう心理現象のことだ。経験や先入観、直感などが影響して、実際の能力とは異なる自己評価をしてしまう。特に能力が低い人が、他人の能力を正しく認識できずに自分のほうが優れていると考えてしまう現象のことを指す。
当時の僕はまさにこれだった。ろくに本を読んでいなかったせいもあるが、自分の作品がどれほどのものか、わかっていなかった。自分には才能があるのだと、信じて疑わなかった。父は偉大な作家なのだから、自分も当然そうであると、高校生になる頃には結果が出ているだろうと、自分を過大評価した。
一度だけ、父に原稿を見せたことがある。作者が何を伝えたいのか、作品から感じられない。文章表現に酔っているだけだと、小手先のテクニックに頼るなと酷評された。
しかし、いわゆるバカの山の頂にいた僕には、父の声はいっさい響かなかった。やってやるさ、と余計なプライドだけをこじらせた。
僕の鼻がへし折れたのは高一のときだ。
初めて出した文学賞で一次選考落選を経験し、乃蒼の原稿を読んでしまったから。
世界は広い。書き手の数だけ才能があって、書き手の数だけ作品がある。森の中にある小さな木の芽と同じだ。目に見えないだけで、確かにそれはそこにある。日が当たりさえすればやがて大きく育つ。そんな才能が。いつか巨木になる芽だとしても、成長する前は小さな芽でしかない。見つかっていないだけで、才能の芽はそこここにあるのだ。
そして、自分はそれじゃない。
自分がどれだけ凡庸かを、ようやく悟ったのだ。
哘乃蒼と名の、可能性しかない芽を見つけたことによって。
昼休みも、部室で乃蒼と一緒に小説を書いていることが多かった。
高校二年の秋のことだ。ある日乃蒼がこう言った。
「小説の中に、入ることってできると思う?」
「はあ? 入れるわけないだろ。何言ってんだ」
「またそうやって夢のないことを言う」
理屈っぽくて、現実主義者で、話をしても面白くない奴。僕は周囲からよくそう評されていた。
図星だった。うるせえよと思った。
この年、一年生が入部してこなかったので、三年生が引退すると、文芸部は僕と乃蒼だけになってしまった。来年の春から、同好会への格下げが決まっていた。
「もちろん、物理的には無理だよ。これは比喩表現みたいなもので、読者を心身ともに物語の中に引きずり込んで、あたかもその世界の中に、今自分がいるかのように感じさせることができないかなって、そういうことだよ」
多感な時期。夢見る少女。そんな感想を抱いた。
乃蒼が書く小説は実に自由だった。プロット(物語の設計図)をきっちりと決め、突飛な設定を極力使わず、理詰めされた設定を持ったミステリー作品ばかりを書いていた僕とは真逆だった。
プロットと呼んでいいか悩むような簡単な設定だけを決めると、とりあえず書いていく。キャラクターが動くに任せて、展開を臨機応変に変えていくの。自分の創作スタイルを、乃蒼はそのように語った。
とにかくたくさん本を読む。良いと感じたアイディアはどんどん取り入れる。ファンタジックな設定だろうと、ためらいなく彼女は採用した。
そういった彼女の創作スタイルを、僕は心のどこかで忌避していた。
自由で、独創的で、設定や展開に多少の難があったとしても、勢いで読ませてしまう筆力がある。僕の小説が「文学的」で「高尚」だとするならば、乃蒼のそれは「大衆的」で「娯楽的」だと言えた。それは僕にとって垂涎の的であったが、同時に心では否定した。彼女の創作を賞賛することは、すなわち自分のスタイルの否定になる。それは、負けを認めるのと同義じであると、心のどこかで感じていたから。
乃蒼の実力を頭では理解しながらも、心では認めることができずにいた。彼女の作品が受賞しなければいいと、貶さずにはいられなかった。
そのような浅ましい僕の願いは、結局、叶うことはないのだが。
これだけは言える。結果を気にすることなく、全力で創作を楽しんでいる彼女の姿勢が、僕は妬ましくてしょうがなかったのだ。
だからこそかもしれない。
いつしか僕は、自分の創作スタイルを捻じ曲げる。いわゆるキャラクター文芸にありそうな突飛な設定を取り入れて、並行世界ものの作品を書き始めたのだ。
父が死んだのは、そんな矢先のことだった。
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