「正直、にわかには信じられんけど、事情はなんとなしにわかった」

 カラオケを終わってすぐのところを呼び出したせいか、朝香は露骨に不機嫌だった。僕の後ろから乃蒼が顔を出すと、今度は取り乱した。そこをなんとか宥めて、事情を説明して今に至る。
 朝香と乃蒼の感動の再会は、少しぎこちないものとなった。気持ちは……わかる。
 ワンルームアパートの一室で、僕ら三人は今向き合っている。

「でもさあ。なんでそげんことになっとーと?」

 朝香が乃蒼の顔をしげしげと見る。

「それはこっちが聞きたいくらいだよ……」と乃蒼が困惑顔で笑う。
「どうやら、事故があったあの日から、今日までワープしてきたみたいなんだよ」

 本当に、こうとしか説明のしようがない。

「というかさ。お前、メールとかSNSでは標準語なのに、面と向かって話すとずいぶんと訛っているよな」
「え? うちってそげん訛っとー?」
「訛ってるよ」と僕たち二人の突っ込みがそろった。
「たぶん、実家の祖母ちゃんより訛っているよ……」
「そげん言う? ひどか!?」

 朝香は福岡出身なので博多弁の訛りがひどい。乃蒼と朝香が友人だったので、乃蒼を通じて僕とも仲良くなった。
 アーモンド型の瞳にくせ毛のミディアムヘア。快活な女の子で見た目はどちらかというとギャルっぽい。今日の服装はワンポイントでロゴがついたティーシャツにデニムのジーンズ。栗色の髪の毛を耳にかけると、星形のイヤリングがゆれた。流行のファッションに聡いのも彼女の特徴だ。

「うちば呼んだ理由も、まあ、理解はしたばい」

 それ以外は理解できていないけど、という本音が朝香の顔に滲んでいた。

「すまん。頼れるのはお前しかいなくてな」

 今後を考えたとき、最初に心配すべきは乃蒼の身の回りのこと。僕の部屋は、ワンルームとはいえ広さはそこそこあるので、ベッドは一つしかないが布団を敷けば二人で寝ることは幸いにも可能だ。しかし、生活費は貯金を切り崩すしかない。実家からの仕送りをこれ以上増やしてくれと頼むのも心苦しい。乃蒼もそこにひけ目を感じているらしく、私がアルバイトをすると言い出したのだ。
 乃蒼の実家を頼れるなら良いのだが、親は信じてくれなかったようなのであまり期待できない。時期を見て、乃蒼の実家に行って事情をきちんと説明すべきとは思うが――ひとまず問題は先送りにして、まずは明日のことをとそう決めた。
 そこではたと困ったのが身分証明。
 アルバイト先に身分証明を求められたときのことを考えて、朝香の学生証をコピーさせてもらおうとそう思ったわけだ。

「こげなときだけ、白羽の矢ば立てるっちゃけん。本当に」
「ごめんね」恐縮したように、乃蒼が背を丸めた。
「……二人が付き合うとるのは知っとったけどさ、こうしてノロけられると辛かばい」

「付き合ってないから!」

 僕と乃蒼の声が綺麗にそろった。

「はいはい。わかったわかった」

 高校卒業後、僕と乃蒼は鹿児島にある大学に進学した。そこでも文芸部に所属し、作品の読みあいをしたり、時には共同制作をしたりしながら切磋琢磨する日々を過ごした。一緒にいる時間が必然的に多かったので、周囲からは付き合っているように見えたのだろうが、そんな事実はいっさいない。
 僕は、乃蒼と一歩進んだ関係になりたかったが、彼女のことをライバル視してもいたので、変なプライドをこじらせていて好きだと伝えることはついぞなかった。最後まで、良き友人として終わってしまった関係だった。

「でもさあ。ばれたら犯罪行為にならん? 悪事の片棒ば担ぐのは嫌ばい」
「大丈夫。万が一ばれたら勝手にコピーを利用しただけだと言うから。それに、経歴詐称くらいで罪に問われることはあまりないらしい」
「ほんとかなあ」

 朝香は小さくため息を吐いた。

「でもさあ。たぶん、学生証のコピー、必要なかばい」
「どうして?」
「見えとらんと。乃蒼の姿」
「見えていない!?」

 僕と乃蒼の声が再びそろった。

「あっ、もちろん全然見えとらんわけやなかばい。それやったら、うちにこげんスムーズに話が通じるわけなかろ?」

 それもそうだ。

「見えてはいるけれど、薄いちゅうか、後ろが透けて見えとーちゅうか」
「透けている……?」

 朝香の発言の意図を考えていると、乃蒼ががしっと朝香の手を握る。「ひっ」と短い悲鳴を上げてから、朝香がごめんと謝罪した。

「驚くつもりじゃなかったっちゃけど、やっぱりちょっと怖いっちゅうか」

 朝香がこの部屋に来たとき、盛大に慄いたわけがわかった。体が透けて見えていたら、誰しも幽霊だと思ってしまう。

「じゃあ、私やっぱり幽霊なのかな?」
「そんなこと……あるわけないだろ」

 否定したかったが、否定材料があまりなくて中途半端な発言に。
 葬儀は済んでいて、遺骨があって、墓石に名前だって彫られている。それは僕だって知っている。
 否定も肯定もできなくて、会話が途切れる。数秒沈黙が漂った。

「だからさ、アルバイトはちょっと無理やて思うったい」
「それはそうだな」

 朝香の沈んだ声に、頷くほかなかった。「もしかしたらなんだけどさ」と思い付いたみたいに朝香が言う。

「これは、乃蒼が抱えとー未練が引き起こした現象なんやなかかなって。何か未練があって、それば解消しないといかんのかも」
「未練がこうさせたって、それじゃまるで幽霊みたいじゃないか」

 隣の朝香に脇を小突かれる。「さっきの今たい」と複雑な顔で朝香が呟く。

「いや、幽霊って決まったわけじゃないから」

 僕は慌ててフォローした。

「まあ、そげん落ち込まんでよかけん。うちだって最初はどがんしようかと思ったばってん、ちゃんと触れるっちゃけん」

 朝香が乃蒼の二の腕をつまんだ。彼女はここにいるんだぞと、確かめるみたいに。

「いいよ。そんな気遣いしなくても。……私だって、自分がまともじゃないってことはわかっているから」
「それで、何か思い当たることはある? 未練とか、そういうのに」

 僕の問いに、乃蒼は「ううん」と首をひねった。
 訊ねたついでに考えてみる。僕には乃蒼の死によって抱えた未練があった。乃蒼も同じ未練を抱えてくれていたらと一瞬だけ思うが、こんなことはもちろん言えない。

「やっぱりあれかな。私、バス事故に遭ったことを後悔したんだよね、きっと。そこで抱えた未練を解消するために、ここにいるんじゃないかと思うんだ」

 うんうんそれで、と朝香が身を乗り出した。

「乃蒼が抱えた未練ってなんなん?」
「わからない」
「えっ、わからんと?」
「わからないよ。だって、どうしてこんな現象が起きているのか私にもわからないんだもの。……でも、きっと何かあるんだ。理由が」
「そうやねえ。何か理由とか原因とかきっかけがないと、そげんことは起こらんだろうし」

 結局、そこから話は進まなかった。
「この現象がなんなのか、はっきりするまでここにいればいい」と乃蒼に提案をして、この不可思議な現象がなぜ起きたのか、ゆっくり探っていこうという話になった。
 使っていない衣服を朝香が何着か融通してくれることになったし、困ったときはお金の相談にも乗るよと言ってくれたのは心強い。普段はわがままなのに、こういうときに気前の良いのが朝香だった。
「この埋め合わせはいつかしてほしか」という台詞は気になったが……。
 朝香が帰ったあとで、夕食はカップラーメンで簡単に済ませる。
 乃蒼は普通に食事ができた。本当にわからない。彼女は人間なのか、それとも生霊みたいな存在なのか、まったく。
 乃蒼にベッドを使わせて、自分は床に布団を敷いてそこで寝ることにした。
 部屋の電気を消すと、「おやすみ立夏」と乃蒼の声がした。

「おやすみ」

 目を閉じる。視覚をシャットアウトすると、代わりに聴覚が過敏になった。
 乃蒼がベッドで寝返りを打つ際の、わずかな衣擦れの音すらも気になった。
 落ち着かない。
 目を閉じて、あの日のことを考える。
 昨年の十一月三日に、福岡にあるコスモス畑に行こうよと言い出したのは乃蒼だった。
 このとき、僕と乃蒼は小説を共同執筆しようと相談していて、しかし、主な筋書きやキャラクター設定が存在している程度だった。そこで、具体的なシーンを詰めるため、作中に出す予定だったコスモス畑を、現地取材しに行く名目だった。
 そのわりに、乃蒼がどこか硬い表情をしていたのを覚えている。なぜ彼女がそんな顔をしていたのか、僕は知らない。わかる前に、僕らは事故に遭ってしまったのだから。
 何か、別の目的があったのだろうか。少なくとも僕にはあった。
 僕は、あの日乃蒼に告白しようと決心していたのだ。
 気持ちを伝えられなかったことが、僕の中で未練になっている。彼女は、どうなのだろうか。
 何かしら未練があって、乃蒼この世界にきてしまったのなら、未練を解消してあげたいと思う。でも、未練が解消されたら、彼女はどうなってしまうのだろう。また、いなくなってしまうのだろうか。
 それなら、いっそ未練なんて解消されないほうがいい――と考えそうになってかぶりを振った。
 どうにかしなければ、と思う気持ちとこのままでいいやと流されたい気持ちと。相反する二つの感情が、心の奥底でずっと渦を巻いていた。
 問題を先送りしたいという感情は、少し不健全だった。

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