ますは身を清める必要があった。
鏡を覗き込んだら、無精ひげの野暮ったい男がそこに映った。
『だって、髪はボサボサだし、うっすら無精ひげまで生やしているんだもの』
出会った日の、乃蒼の言葉が去来してくる。ああ、君の言う通りひどいものだ。こんな顔で君を迎えになんて行けるはずがない。
服を脱いで裸になって浴室に入る。シャワーヘッドから熱いお湯を出して頭から浴びた。時間をかけて髪の毛と全身を洗った。迎えが来るまであと三十分。余裕はないが、だからといって手抜きをするつもりはない。
バスタオルで全身を拭いて浴室を出ると、準備しておいた服に着替える。ボーダー柄のカットソーの上からシャツを着てボトムはジーンズだ。気づけば、乃蒼と買い物をしたあの日と同じ服を選んでいた。これは、乃蒼に褒められた服だから? もしかしたら、これは僕なりの願掛けだった。
同じ部屋。同じ服装。それなのに、僕の隣には彼女だけがいない。
一年前、不幸な事故で引き裂かれた僕らは、それから数ヶ月ぶりに再会して、それなのにこうしてまた引き裂かれている。一度諦めかけていた自分が言うのは恥ずかしいが――馬鹿にするな。そんな簡単に諦めてやるかよ、と言ってやりたい気分だった。神さまにも、そして君にもだ。
「絶対に幸せにしてやるからな。覚悟していろよ」
そう言えば、と文学賞の選考結果を示すページを開いてみる。僕たちの作品は、最終選考に残っていた。最終選考通過作品は全部で五つ。受賞確率は単純計算で五分の一、か。
慣例通りであれば、十一月の初旬頃に受賞報告のメールが受賞者に送信されるだろう。
早ければ、今日にでも。
アパートから外に出て、待ち合わせ場所として指定されたコンビニの駐車場まで歩く。小雨が降っていたが、傘は持たなかった。駐車場の隅に黒のハッチバックタイプの車が停まっていて、その傍らには木田がいた。「来たか」と奴が手を上げる。車の助手席には朝香が乗っていた。
「気持ちの整理がついたか?」
「ああ、おかげ様で」
「彼女と会えるのは、これが最後になるかもしれないぞ」
「ああ、わかっている。ちゃんと覚悟はできているさ」
「ならいいんだが。よし、じゃあ行こう」
木田が運転席に乗った。助手席の朝香は複雑な表情を浮かべて、ただ黙ってこちらを見ていた。
*
車に乗って、お出かけをするのが好きだった。
お父さんは車が好きで、天気の良い休みの日には、いつも車を洗っていた。
洗車の仕方にもこだわりがあるようで、水のかけ方と、洗い終えたあとの水気のふき取り方に特に強いこだわりがあった。
ピカピカになった車を眺めているお父さんに「きれいになったね」と言うと、「そうだろう? パパの車はカッコいいか?」とご満悦になるのだった。
お父さんの機嫌がよくなると、突発的にドライブにいくことがあった。
この日もおそらくそういった経緯で、花を見に行こうと突然お父さんが言ったのだ。たぶん。おそらく。
「また無計画に」とお母さんは嫌そうな顔をしていたけれど、反対することはなかった。
仲の良いお父さんとお母さんが、私は大好きだった。
二時間ほど車を走らせて着いた道の駅は、車と人がたくさんいた。
車を降りて、「この先にコスモス畑があるんだ」と言ったお父さんの後ろについていく。
コスモス畑が見えてくる。視界いっぱいに広がったピンク色に、「わあ」と私は感嘆をもらした。
よく見るとピンク色だけではない。赤と白の花が所々に混ざっていて。歩いている人の姿は、下半分がコスモスの花に隠れていて。まるで花の絨毯の上を歩いているようだった。
「コスモスの花言葉はね、『乙女の純真、調和、謙虚』なのよ」とお母さんが教えてくれた。
「いつもまじめに。友だちには優しく。決して自慢することなく、謙虚でいなさい。そうしたら、乃蒼の人生は必ず豊かなものになるから」
言葉の意味は半分くらいしかわからなかったけれど、「うん」と私は笑顔で頷いた。
家族三人で外出をしたのは、この日が最後となった。
*
『目的地への到着予定時刻は、十六時五十五分です。一般の交通ルールに従い、安全運転で走行してください』
カーナビゲーションの音声が、目的地到着までの所要時間が五時間弱であることを無機質に告げる。
「そんなにかかるのか?」と僕が問うと、「最寄りのインターから高速に乗るわけじゃないからな。しばらく一般道を通るルートで行く」と木田が答えた。
運転するのは木田。助手席に朝香が乗って、後席に僕だ。
「ここから一番近い場所にある高速の入り口は、おそらく研究室の人間によって監視されている。それと、母さんの車もな。母さんの車がお前のアパートを出たあと、案の定尾行してきた車がいたらしい。乃蒼の居場所を聞き出して、向かったとでも思っているのだろうさ」
「木田さんが、おとり役になってくれているってことか」
「そう。母さんの車は最寄りのインターから高速に乗って、ひとまず北の方角に向かう。追手の目をそらす目的でな」
「感謝するよ」
木田が車をそろりと発進させた。動き出した車窓から、外の景色を見ていた。乃蒼と二人で、この道を歩いたことを思い出した。
「どうして、この場所だと思うんだ?」
「ああ。その理由を伝えようとすると、少々話が長くなる。……それでもいいか?」
「もちろん。道中は長いしな」
「乃蒼の家は少々複雑でね。彼女の父親は、彼女がまだ小さかった頃に、乃蒼と母親を残して家を出ていってしまったんだ」
「……そうやったと?」
朝香がここで今日初めて発言した。
「ああ。乃蒼が小学校低学年だった頃までの哘家は、近所の誰もが羨むような、仲睦まじい家族だったのだという」
両親と乃蒼の三人暮らし。どこにでもある平穏な家庭に亀裂が入ったのは、乃蒼が小学校四年生のときだった。父親が外に女を作って、家を出ていってしまったのだ。
だが、ショックに打ちひしがれている暇はなかった。大変なのは、むしろここからだった。
乃蒼の母親の仕事は、フリーランスのライターだった。複数の出版社と付き合いがあって、依頼を受けて記事を書きお金をもらっていた。正直、収入は不安定だったし、額も決して多くはなかったのだという。
苦しくなった家計を支えるため、娘である乃蒼に不自由をさせないため、それまで以上に依頼を積極的に受け、身を粉にして母親は働いた。ファッションに気を遣うことがなくなって、化粧も最低限しかしなくなった。もちろん、新しい恋をすることも。
家庭と娘のために、自分の時間を限界まで削って母親は働き続けたのだ。
無理をすると、そのしわ寄せは必ずどこかに出る。
母親は自分の部屋にこもっている時間が多くなり、家の中から団らんが消えた。
母親は仕事に没頭し、乃蒼は母親の邪魔をしないよう、自分を殺して我慢を重ねた。母親の喜ぶ顔が見たくて、将来のことを考えて、ひたすら勉学にいそしんだ。
お互いを思い合うその気持ちが、逆にすれ違いを生んでいく。皮肉にも、親子の関係を冷え込ませていく。きしみは次第に大きくなっていった。
そして、ついにきしみが亀裂に至る日がやってくる。
乃蒼が中学に進学した年の初夏の朝だった。起き出してこない母親を心配して彼女が寝室に行くと、母親が床に倒れていたのだ。
母親はただちに病院に救急搬送されたのだが、意識が戻ることはついぞなく、数日後に息を引き取った。
死因は、急性くも膜下出血。
「それから乃蒼はずっと後悔していたらしい。もっと母親と団らんを持つべきだったと。言いたいことをちゃんと言葉にして伝えておけば良かったと」
「なんかわかるなあ……。いや、俺の母さんも、とにかく無理する人なんだよね」
「だろうな」
「わかるか、やっぱ」
「ここ数日の行動を見ていたらね。母親を大事にしてやりな」
「そうだな。……だからさ、仕事を辞めてきたって言われたとき、ちょっと安心してしまったのも事実なんだ」
「気持ちを休められるからな」
冗談めかしてそう言ったが、あまりうまく笑えなかった。仕事を辞めたのは、僕のせいなんだよな、と思うと。
「ねえ、ちょっと待ちんしゃい。じゃあ、今いる乃蒼の母親って何者と?」
「ああ、孤児になったあとで、乃蒼を引き取った育ての親。元々は乃蒼の伯母だった人だよ」
朝香の質問に答える。
「そういうことかあ……」
「だから、わりと早く乃蒼と再会した事実を忘れてしまったのかもしれない」
決して、仲が悪かったわけではない。今の母親も、乃蒼によくしてくれていたはずだ。それでも、実の親子ではないのだからそれは已む無しだ。
「だからなんやろうか。乃蒼が書いた小説ば読んだとき、家族愛に強うスポットが当たっとった気がしとったんよね。そりゃあむしろ当たり前のことやったんかも。彼女が潜在的に持っとった欲望が、作品中に出とったんかもね」
「朝香も乃蒼の本を読んだことがあるんだ?」
「あるばい。うちだって元々は作家志望やったんだし。哘乃蒼の存在は、うちにとって憧れやったんばい」
「そっか。だよな」
私は、家族の誰のことも幸せにはしてあげられなかった。以前乃蒼はそんなことを言っていた。自分が患った病で、たくさんお金がかかったから。家族が不安になったから。父親が家を出ていったことを、自分の責任だと思っていたのかもしれない。
本当の家族を持っていなかった乃蒼は、親から子に向けられる無償の愛におそらく飢えていた。愛されることに、強い憧れをおそらく抱いていた。
「だからこそ、乃蒼がいるとしたらあの場所しかないと思うんだ」
「それが、福岡の花公園なのか」
「そうだ。あの場所は、乃蒼の家がまだ三人家族だった頃に、旅先で訪れた思い出の地らしいから」
同時に、僕と乃蒼が一年前に目指していた場所でもある。
あの日、君は僕に何を伝えたかったんだ?
「立夏」
朝香がぽつりと呟いた。
「どうした?」
正直、木田はともかくとして、なぜ朝香までついてきてくれたのかと疑問だった。そのことについて語ってくれるのかと思ったが、少し違った。
「立夏はさ、塞ぎ込んどる立夏ば慰めるために、乃蒼が戻ってきてくれたんやて思うとると?」
うぬぼれかもしれないが、そんな風に思っていたかもしれない。それはどこか浅ましい考えに思えて、少しだけ胸が痛んだ。
「自分で言うのはなんだけど、そういった感じに思っていたかもしれない」
うん、と朝香が頷いた。
嘘をつかなかったね、と褒められているみたいだった。
「おおかた、そういう側面はあったって思うばい。乃蒼がおらんようなってから、立夏はずっと塞ぎ込んどったしね。何ばするにも無気力で、半ば廃人みたいなとこあったもん」
否定はできなかった。乃蒼と再会したあの日、乃蒼にも同じようなことを言われた。
「乃蒼は、確かに立夏のことば心配しとった。自分が戻ってきたことで、立夏が前向きになってくれたら、て思うていたやろうしね。生きるための目標ば、何か見つけてほしかと、そうも思うとったんやなかかな」
生きるための目標、か。
乃蒼がいなくなってから、世界は無色透明だった。乃蒼が戻ってきてから、世界に再び色がついた。乃蒼と一緒にいられるというただそれだけで、僕の心は満たされていたんだ。
乃蒼がもう一度小説を書こうと言ってくれなければ、二人で文学賞に応募することはなかったと思う。大学を卒業したそのあとで、たとえ作家にはなれなかったとしても、編集者になりたいという目標が今はできた。
乃蒼が来てくれたおかげで、僕は今前を向けている。
「でも同時に、乃蒼離ればさせてあげようとも、思うとったんやなかかな」
「乃蒼離れ」
「うん。うちはこう思うとるたい。立夏のことば心配して乃蒼が来てくれたんじゃなくて、立夏が、乃蒼ばこの世界に呼んだんやなかかと」
「僕が呼んだ?」
「そう。それに気づいたけん、乃蒼は立夏の前から姿ば消したんやなか? 自分のことば忘れてもらうために。自分が、いずれ消えてしまう存在やとわかったからこそ」
「そっか――」
ありうる話だと思った。すべては、僕が不甲斐なかったからだ。昔と変わらず、僕は乃蒼に依存しすぎていたんだ。
木田は、黙って僕たちの話を聞いてくれていた。
「今はどげん? 乃蒼がおらんくなってしもうたとしても、一人でやっていける。そげん気がしとらん?」
「している、かも」
「やったら、乃蒼がこの世界に来た意味はあったっちゃん」
そこまでを言って、朝香は深く息を吐いた。
「あーあ、妬けてしまうなあ。その役目、うちじゃ無理ばい」
本音を言うと、悩んでいた。乃蒼と顔を合わせたとき、どのような顔をしたらいいのかと。何を伝えたらいいのかと。乃蒼が、どうして僕の前から姿を消したのか、わかっていなかったから。
でも、これで覚悟が決まった。今思っていることのすべてを乃蒼にぶつけようとそう思う。
「ありがとう、朝香」
「アホ。うちはいつでもあんたの味方ばい」
振り向いて、朝香が腕を伸ばしてきて、後席にいる僕の額を小突いた。それから、静かに泣き始めた。
外で降っている雨と同じ、抑制されたすすり泣きだった。
鏡を覗き込んだら、無精ひげの野暮ったい男がそこに映った。
『だって、髪はボサボサだし、うっすら無精ひげまで生やしているんだもの』
出会った日の、乃蒼の言葉が去来してくる。ああ、君の言う通りひどいものだ。こんな顔で君を迎えになんて行けるはずがない。
服を脱いで裸になって浴室に入る。シャワーヘッドから熱いお湯を出して頭から浴びた。時間をかけて髪の毛と全身を洗った。迎えが来るまであと三十分。余裕はないが、だからといって手抜きをするつもりはない。
バスタオルで全身を拭いて浴室を出ると、準備しておいた服に着替える。ボーダー柄のカットソーの上からシャツを着てボトムはジーンズだ。気づけば、乃蒼と買い物をしたあの日と同じ服を選んでいた。これは、乃蒼に褒められた服だから? もしかしたら、これは僕なりの願掛けだった。
同じ部屋。同じ服装。それなのに、僕の隣には彼女だけがいない。
一年前、不幸な事故で引き裂かれた僕らは、それから数ヶ月ぶりに再会して、それなのにこうしてまた引き裂かれている。一度諦めかけていた自分が言うのは恥ずかしいが――馬鹿にするな。そんな簡単に諦めてやるかよ、と言ってやりたい気分だった。神さまにも、そして君にもだ。
「絶対に幸せにしてやるからな。覚悟していろよ」
そう言えば、と文学賞の選考結果を示すページを開いてみる。僕たちの作品は、最終選考に残っていた。最終選考通過作品は全部で五つ。受賞確率は単純計算で五分の一、か。
慣例通りであれば、十一月の初旬頃に受賞報告のメールが受賞者に送信されるだろう。
早ければ、今日にでも。
アパートから外に出て、待ち合わせ場所として指定されたコンビニの駐車場まで歩く。小雨が降っていたが、傘は持たなかった。駐車場の隅に黒のハッチバックタイプの車が停まっていて、その傍らには木田がいた。「来たか」と奴が手を上げる。車の助手席には朝香が乗っていた。
「気持ちの整理がついたか?」
「ああ、おかげ様で」
「彼女と会えるのは、これが最後になるかもしれないぞ」
「ああ、わかっている。ちゃんと覚悟はできているさ」
「ならいいんだが。よし、じゃあ行こう」
木田が運転席に乗った。助手席の朝香は複雑な表情を浮かべて、ただ黙ってこちらを見ていた。
*
車に乗って、お出かけをするのが好きだった。
お父さんは車が好きで、天気の良い休みの日には、いつも車を洗っていた。
洗車の仕方にもこだわりがあるようで、水のかけ方と、洗い終えたあとの水気のふき取り方に特に強いこだわりがあった。
ピカピカになった車を眺めているお父さんに「きれいになったね」と言うと、「そうだろう? パパの車はカッコいいか?」とご満悦になるのだった。
お父さんの機嫌がよくなると、突発的にドライブにいくことがあった。
この日もおそらくそういった経緯で、花を見に行こうと突然お父さんが言ったのだ。たぶん。おそらく。
「また無計画に」とお母さんは嫌そうな顔をしていたけれど、反対することはなかった。
仲の良いお父さんとお母さんが、私は大好きだった。
二時間ほど車を走らせて着いた道の駅は、車と人がたくさんいた。
車を降りて、「この先にコスモス畑があるんだ」と言ったお父さんの後ろについていく。
コスモス畑が見えてくる。視界いっぱいに広がったピンク色に、「わあ」と私は感嘆をもらした。
よく見るとピンク色だけではない。赤と白の花が所々に混ざっていて。歩いている人の姿は、下半分がコスモスの花に隠れていて。まるで花の絨毯の上を歩いているようだった。
「コスモスの花言葉はね、『乙女の純真、調和、謙虚』なのよ」とお母さんが教えてくれた。
「いつもまじめに。友だちには優しく。決して自慢することなく、謙虚でいなさい。そうしたら、乃蒼の人生は必ず豊かなものになるから」
言葉の意味は半分くらいしかわからなかったけれど、「うん」と私は笑顔で頷いた。
家族三人で外出をしたのは、この日が最後となった。
*
『目的地への到着予定時刻は、十六時五十五分です。一般の交通ルールに従い、安全運転で走行してください』
カーナビゲーションの音声が、目的地到着までの所要時間が五時間弱であることを無機質に告げる。
「そんなにかかるのか?」と僕が問うと、「最寄りのインターから高速に乗るわけじゃないからな。しばらく一般道を通るルートで行く」と木田が答えた。
運転するのは木田。助手席に朝香が乗って、後席に僕だ。
「ここから一番近い場所にある高速の入り口は、おそらく研究室の人間によって監視されている。それと、母さんの車もな。母さんの車がお前のアパートを出たあと、案の定尾行してきた車がいたらしい。乃蒼の居場所を聞き出して、向かったとでも思っているのだろうさ」
「木田さんが、おとり役になってくれているってことか」
「そう。母さんの車は最寄りのインターから高速に乗って、ひとまず北の方角に向かう。追手の目をそらす目的でな」
「感謝するよ」
木田が車をそろりと発進させた。動き出した車窓から、外の景色を見ていた。乃蒼と二人で、この道を歩いたことを思い出した。
「どうして、この場所だと思うんだ?」
「ああ。その理由を伝えようとすると、少々話が長くなる。……それでもいいか?」
「もちろん。道中は長いしな」
「乃蒼の家は少々複雑でね。彼女の父親は、彼女がまだ小さかった頃に、乃蒼と母親を残して家を出ていってしまったんだ」
「……そうやったと?」
朝香がここで今日初めて発言した。
「ああ。乃蒼が小学校低学年だった頃までの哘家は、近所の誰もが羨むような、仲睦まじい家族だったのだという」
両親と乃蒼の三人暮らし。どこにでもある平穏な家庭に亀裂が入ったのは、乃蒼が小学校四年生のときだった。父親が外に女を作って、家を出ていってしまったのだ。
だが、ショックに打ちひしがれている暇はなかった。大変なのは、むしろここからだった。
乃蒼の母親の仕事は、フリーランスのライターだった。複数の出版社と付き合いがあって、依頼を受けて記事を書きお金をもらっていた。正直、収入は不安定だったし、額も決して多くはなかったのだという。
苦しくなった家計を支えるため、娘である乃蒼に不自由をさせないため、それまで以上に依頼を積極的に受け、身を粉にして母親は働いた。ファッションに気を遣うことがなくなって、化粧も最低限しかしなくなった。もちろん、新しい恋をすることも。
家庭と娘のために、自分の時間を限界まで削って母親は働き続けたのだ。
無理をすると、そのしわ寄せは必ずどこかに出る。
母親は自分の部屋にこもっている時間が多くなり、家の中から団らんが消えた。
母親は仕事に没頭し、乃蒼は母親の邪魔をしないよう、自分を殺して我慢を重ねた。母親の喜ぶ顔が見たくて、将来のことを考えて、ひたすら勉学にいそしんだ。
お互いを思い合うその気持ちが、逆にすれ違いを生んでいく。皮肉にも、親子の関係を冷え込ませていく。きしみは次第に大きくなっていった。
そして、ついにきしみが亀裂に至る日がやってくる。
乃蒼が中学に進学した年の初夏の朝だった。起き出してこない母親を心配して彼女が寝室に行くと、母親が床に倒れていたのだ。
母親はただちに病院に救急搬送されたのだが、意識が戻ることはついぞなく、数日後に息を引き取った。
死因は、急性くも膜下出血。
「それから乃蒼はずっと後悔していたらしい。もっと母親と団らんを持つべきだったと。言いたいことをちゃんと言葉にして伝えておけば良かったと」
「なんかわかるなあ……。いや、俺の母さんも、とにかく無理する人なんだよね」
「だろうな」
「わかるか、やっぱ」
「ここ数日の行動を見ていたらね。母親を大事にしてやりな」
「そうだな。……だからさ、仕事を辞めてきたって言われたとき、ちょっと安心してしまったのも事実なんだ」
「気持ちを休められるからな」
冗談めかしてそう言ったが、あまりうまく笑えなかった。仕事を辞めたのは、僕のせいなんだよな、と思うと。
「ねえ、ちょっと待ちんしゃい。じゃあ、今いる乃蒼の母親って何者と?」
「ああ、孤児になったあとで、乃蒼を引き取った育ての親。元々は乃蒼の伯母だった人だよ」
朝香の質問に答える。
「そういうことかあ……」
「だから、わりと早く乃蒼と再会した事実を忘れてしまったのかもしれない」
決して、仲が悪かったわけではない。今の母親も、乃蒼によくしてくれていたはずだ。それでも、実の親子ではないのだからそれは已む無しだ。
「だからなんやろうか。乃蒼が書いた小説ば読んだとき、家族愛に強うスポットが当たっとった気がしとったんよね。そりゃあむしろ当たり前のことやったんかも。彼女が潜在的に持っとった欲望が、作品中に出とったんかもね」
「朝香も乃蒼の本を読んだことがあるんだ?」
「あるばい。うちだって元々は作家志望やったんだし。哘乃蒼の存在は、うちにとって憧れやったんばい」
「そっか。だよな」
私は、家族の誰のことも幸せにはしてあげられなかった。以前乃蒼はそんなことを言っていた。自分が患った病で、たくさんお金がかかったから。家族が不安になったから。父親が家を出ていったことを、自分の責任だと思っていたのかもしれない。
本当の家族を持っていなかった乃蒼は、親から子に向けられる無償の愛におそらく飢えていた。愛されることに、強い憧れをおそらく抱いていた。
「だからこそ、乃蒼がいるとしたらあの場所しかないと思うんだ」
「それが、福岡の花公園なのか」
「そうだ。あの場所は、乃蒼の家がまだ三人家族だった頃に、旅先で訪れた思い出の地らしいから」
同時に、僕と乃蒼が一年前に目指していた場所でもある。
あの日、君は僕に何を伝えたかったんだ?
「立夏」
朝香がぽつりと呟いた。
「どうした?」
正直、木田はともかくとして、なぜ朝香までついてきてくれたのかと疑問だった。そのことについて語ってくれるのかと思ったが、少し違った。
「立夏はさ、塞ぎ込んどる立夏ば慰めるために、乃蒼が戻ってきてくれたんやて思うとると?」
うぬぼれかもしれないが、そんな風に思っていたかもしれない。それはどこか浅ましい考えに思えて、少しだけ胸が痛んだ。
「自分で言うのはなんだけど、そういった感じに思っていたかもしれない」
うん、と朝香が頷いた。
嘘をつかなかったね、と褒められているみたいだった。
「おおかた、そういう側面はあったって思うばい。乃蒼がおらんようなってから、立夏はずっと塞ぎ込んどったしね。何ばするにも無気力で、半ば廃人みたいなとこあったもん」
否定はできなかった。乃蒼と再会したあの日、乃蒼にも同じようなことを言われた。
「乃蒼は、確かに立夏のことば心配しとった。自分が戻ってきたことで、立夏が前向きになってくれたら、て思うていたやろうしね。生きるための目標ば、何か見つけてほしかと、そうも思うとったんやなかかな」
生きるための目標、か。
乃蒼がいなくなってから、世界は無色透明だった。乃蒼が戻ってきてから、世界に再び色がついた。乃蒼と一緒にいられるというただそれだけで、僕の心は満たされていたんだ。
乃蒼がもう一度小説を書こうと言ってくれなければ、二人で文学賞に応募することはなかったと思う。大学を卒業したそのあとで、たとえ作家にはなれなかったとしても、編集者になりたいという目標が今はできた。
乃蒼が来てくれたおかげで、僕は今前を向けている。
「でも同時に、乃蒼離ればさせてあげようとも、思うとったんやなかかな」
「乃蒼離れ」
「うん。うちはこう思うとるたい。立夏のことば心配して乃蒼が来てくれたんじゃなくて、立夏が、乃蒼ばこの世界に呼んだんやなかかと」
「僕が呼んだ?」
「そう。それに気づいたけん、乃蒼は立夏の前から姿ば消したんやなか? 自分のことば忘れてもらうために。自分が、いずれ消えてしまう存在やとわかったからこそ」
「そっか――」
ありうる話だと思った。すべては、僕が不甲斐なかったからだ。昔と変わらず、僕は乃蒼に依存しすぎていたんだ。
木田は、黙って僕たちの話を聞いてくれていた。
「今はどげん? 乃蒼がおらんくなってしもうたとしても、一人でやっていける。そげん気がしとらん?」
「している、かも」
「やったら、乃蒼がこの世界に来た意味はあったっちゃん」
そこまでを言って、朝香は深く息を吐いた。
「あーあ、妬けてしまうなあ。その役目、うちじゃ無理ばい」
本音を言うと、悩んでいた。乃蒼と顔を合わせたとき、どのような顔をしたらいいのかと。何を伝えたらいいのかと。乃蒼が、どうして僕の前から姿を消したのか、わかっていなかったから。
でも、これで覚悟が決まった。今思っていることのすべてを乃蒼にぶつけようとそう思う。
「ありがとう、朝香」
「アホ。うちはいつでもあんたの味方ばい」
振り向いて、朝香が腕を伸ばしてきて、後席にいる僕の額を小突いた。それから、静かに泣き始めた。
外で降っている雨と同じ、抑制されたすすり泣きだった。