ますは身を清める必要があった。
 鏡を覗き込んだら、無精ひげの野暮ったい男がそこに映った。
『だって、髪はボサボサだし、うっすら無精ひげまで生やしているんだもの』
 出会った日の、乃蒼の言葉が去来してくる。ああ、君の言う通りひどいものだ。こんな顔で君を迎えになんて行けるはずがない。
 服を脱いで裸になって浴室に入る。シャワーヘッドから熱いお湯を出して頭から浴びた。時間をかけて髪の毛と全身を洗った。迎えが来るまであと三十分。余裕はないが、だからといって手抜きをするつもりはない。
 バスタオルで全身を拭いて浴室を出ると、準備しておいた服に着替える。ボーダー柄のカットソーの上からシャツを着てボトムはジーンズだ。気づけば、乃蒼と買い物をしたあの日と同じ服を選んでいた。これは、乃蒼に褒められた服だから? もしかしたら、これは僕なりの願掛けだった。
 同じ部屋。同じ服装。それなのに、僕の隣には彼女だけがいない。
 一年前、不幸な事故で引き裂かれた僕らは、それから数ヶ月ぶりに再会して、それなのにこうしてまた引き裂かれている。一度諦めかけていた自分が言うのは恥ずかしいが――馬鹿にするな。そんな簡単に諦めてやるかよ、と言ってやりたい気分だった。神さまにも、そして君にもだ。

「絶対に幸せにしてやるからな。覚悟していろよ」

 そう言えば、と文学賞の選考結果を示すページを開いてみる。僕たちの作品は、最終選考に残っていた。最終選考通過作品は全部で五つ。受賞確率は単純計算で五分の一、か。
 慣例通りであれば、十一月の初旬頃に受賞報告のメールが受賞者に送信されるだろう。
 早ければ、今日にでも。

 アパートから外に出て、待ち合わせ場所として指定されたコンビニの駐車場まで歩く。小雨が降っていたが、傘は持たなかった。駐車場の隅に黒のハッチバックタイプの車が停まっていて、その傍らには木田がいた。「来たか」と奴が手を上げる。車の助手席には朝香が乗っていた。

「気持ちの整理がついたか?」
「ああ、おかげ様で」
「彼女と会えるのは、これが最後になるかもしれないぞ」
「ああ、わかっている。ちゃんと覚悟はできているさ」
「ならいいんだが。よし、じゃあ行こう」

 木田が運転席に乗った。助手席の朝香は複雑な表情を浮かべて、ただ黙ってこちらを見ていた。

   *

 車に乗って、お出かけをするのが好きだった。
 お父さんは車が好きで、天気の良い休みの日には、いつも車を洗っていた。
 洗車の仕方にもこだわりがあるようで、水のかけ方と、洗い終えたあとの水気のふき取り方には特にうるさかった。
 ピカピカになった車を眺めているお父さんに「きれいになったね」と言うと、「そうだろう? パパの車はカッコいいか?」とご満悦になるのだった。
 お父さんの機嫌がよくなると、突発的にドライブにいくことがあった。
 この日もおそらくそういった経緯で、花を見に行こうと突然お父さんが言ったのだ。たぶん。おそらく。
「また無計画に」とお母さんは嫌そうな顔をしていたけれど、反対することはなかった。
 仲の良いお父さんとお母さんが、私は大好きだった。
 二時間ほど車を走らせて着いた道の駅は、車と人がたくさんいた。
 車を降りて、「この先にコスモス畑があるんだ」と言ったお父さんの後ろについていく。
 コスモス畑が見えてくる。視界いっぱいに広がったピンク色に、「わあ」と私は感嘆をもらした。
 よく見るとピンク色だけではない。赤と白の花が所々に混ざっていて。歩いている人の姿は、下半分がコスモスの花に隠れていて。まるで花の絨毯の上を歩いているようだった。
「コスモスの花言葉はね、『乙女の純真、調和、謙虚』なのよ」とお母さんが教えてくれた。

「いつもまじめに。友だちには優しく。決して自慢することなく、謙虚でいなさい。そうしたら、乃蒼の人生は必ず豊かなものになるから」

 言葉の意味は半分くらいしかわからなかったけれど、「うん」と私は笑顔で頷いた。
 家族三人で外出をしたのは、この日が最後となった。

   *

『目的地への到着予定時刻は、十六時五十五分です。一般の交通ルールに従い、安全運転で走行してください』

 カーナビゲーションの音声が、目的地到着までの所要時間が五時間弱であることを無機質に告げる。
「そんなにかかるのか?」と僕が問うと、「最寄りのインターから高速に乗るわけじゃないからな。しばらく一般道を通るルートで行く」と木田が答えた。
 運転するのは木田。助手席に朝香が乗って、後席に僕だ。

「ここから一番近い場所にある高速の入り口は、おそらく研究室の人間によって監視されている。それと、母さんの車もな。母さんの車がお前のアパートを出たあと、案の定尾行してきた車がいたらしい。乃蒼の居場所を聞き出して、向かったとでも思っているのだろうさ」
「木田さんが、おとり役になってくれているってことか」
「そう。母さんの車は最寄りのインターから高速に乗って、ひとまず北の方角に向かう。追手の目をそらす目的でな」
「感謝するよ」

 木田が車をそろりと発進させた。動き出した車窓から外の景色を眺めながら、乃蒼と二人でこの道を歩いたことを思い出した。

「どうして、この場所だと思うんだ?」
「ああ。その理由を伝えようとすると、少々話が長くなる。……それでもいいか?」
「もちろん。道中は長いしな」
「乃蒼の家は少々複雑でね。最初の不幸があったのは、乃蒼が小学四年生だったとき。彼女の父親が、交通事故で亡くなったんだ」
「……そうやったと?」

 朝香がここで今日初めて発言した。

「ああ。長距離ドライバーでね、仕事中の事故だったらしい」

 かつての哘家は、近隣誰もが羨む仲睦まじい家庭だったという。しかし、父親の死がその絆に最初の亀裂を刻んだ。それは、乃蒼の人生が波乱に満ちていく、ほんの始まりに過ぎなかった。
 乃蒼の母親はフリーランスのライターとして生計を立てていた。複数の出版社と取引があったものの、収入は不安定で、決して十分ではなかった。父親の死後、家計は一層逼迫した。娘に不自由をさせまいと、母親は依頼を積極的に受け、身を粉にして働いた。ファッションや化粧に構う余裕はなくなり、新しい恋など夢のまた夢だった。家庭と乃蒼のために、自分の時間と心を極限まで削り、母親は働き続けた。
 だが、無理は必ずどこかにしわ寄せを生む。
 母親は自室にこもる時間が長くなり、家から団らんの温もりは消えた。仕事に没頭する母親を気遣い、乃蒼は自分の存在を抑え、邪魔にならぬよう我慢を重ねた。母親の笑顔を願い、将来を見据えて、ひたすら勉学に励んだ。
 互いを想う気持ちが、皮肉にもすれ違いを生み、親子の絆を冷たく凍らせていった。軋みは静かに、だが確実に大きくなっていった。
 そして、次の亀裂が家庭を襲った。
 乃蒼が中学に進学した初夏の朝、起き出さない母親を心配した乃蒼が寝室を覗くと、母親が床に倒れていた。
 救急車で病院に運ばれたが、母親の意識が戻ることはなかった。数日後、彼女は静かに息を引き取った。
 死因は急性くも膜下出血。

「それから乃蒼はずっと後悔していたらしい。もっと母親と団らんを持つべきだったと。言いたいことをちゃんと言葉にして伝えておけば良かったと」
「なんかわかるなあ……。いや、俺の母さんも、とにかく無理する人なんだよね」
「だろうな」
「わかるか、やっぱ」
「ここ数日の行動を見ていたらね。母親を大事にしてやりな」
「そうだな。……だからさ、仕事を辞めてきたって言われたとき、ちょっと安心してしまったのも事実なんだ」
「気持ちを休められるからな」

 冗談めかしてそう言ったが、あまりうまく笑えなかった。仕事を辞めたのは、僕のせいなんだよな、と思うと。

「ねえ、ちょっと待ちんしゃい。じゃあ、今いる乃蒼の母親って何者と?」
「ああ、孤児になったあとで、乃蒼を引き取った育ての親。元々は乃蒼の叔母だった人だよ」

 朝香の質問に答える。

「そういうことかあ……」

 乃蒼にとって最大の不幸は、孤児になったあと、誰も彼女を引き取ろうとしなかったことだ。両親は駆け落ち同然で結婚し、実家との縁を切っていたから。そのため、両親が亡くなったとき、乃蒼を気にかける者が誰一人いなかったのだ。
 そんなとき、救いの手を差し伸べたのが叔母だった。
 当時、留学先から帰国していた叔母は、乃蒼の家の悲劇を知り、彼女を引き取ることを決めたのだ。

「乃蒼と再会した事実をわりと早く忘れてしまったのは、実の親ではないせいかもしれない」

 決して、仲が悪かったわけではない。今の母親も、乃蒼によくしてくれていたはずだ。それでも、実の親子ではないのだからそれは已む無しだ。

「だからなんやろうか。乃蒼が書いた小説ば読んだとき、家族愛に強うスポットが当たっとった気がしとったんよね。そりゃあむしろ当たり前のことやったんかも。彼女が潜在的に持っとった欲望が、作品中に出とったんかもね」
「朝香も乃蒼の本を読んだことがあるんだ?」
「あるばい。うちだって元々は作家志望やったんだし。哘乃蒼の存在は、うちにとって憧れやったんばい」
「そっか。だよな」

 私は、家族の誰のことも幸せにはしてあげられなかったと、乃蒼は以前そんなことを言っていた。昔患った病で、たくさんお金がかかったから。家系が苦しくなったことも、母親が亡くなったことも自分のせいだと思っていたのかもしれない。だが。
 そんなことはない。少なくとも僕は、乃蒼と再会したことで前よりずっと幸せになれた。

「本当の家族を持っていなかった乃蒼は、親から子に向けられる無償の愛におそらく飢えていた。愛されることに、強い憧れをおそらく抱いていた。だからこそ、乃蒼がいるとしたらあの場所しかないと思うんだ」
「それが、福岡の花公園なのか」
「そうだ。あの場所は、乃蒼の家がまだ三人家族だった頃に、旅先で訪れた思い出の地らしいから」

 同時に、僕と乃蒼が一年前に目指していた場所でもある。
 あの日、君が硬い表情をしていたのはなぜだったんだ?

「立夏」

 朝香がぽつりと呟いた。

「どうした?」

 正直、木田はともかくとして、なぜ朝香までついてきてくれたのかと疑問だった。そのことについて語ってくれるのかと思ったが、少し違った。

「立夏はさ、塞ぎ込んどる立夏ば慰めるために、乃蒼が戻ってきてくれたんやて思うとると?」

 うぬぼれかもしれないが、そんな風に思っていたかもしれない。それはどこか浅ましい考えに思えて、少しだけ胸が痛んだ。

「自分で言うのはなんだけど、そういった感じに思っていたかもしれない」

 うん、と朝香が頷いた。
 嘘をつかなかったね、と褒められているみたいだった。

「おおかた、そういう側面はあったって思うばい。乃蒼がおらんようなってから、立夏はずっと塞ぎ込んどったしね。何ばするにも無気力で、半ば廃人みたいなとこあったもん」

 否定はできなかった。乃蒼と再会したあの日、乃蒼にも同じようなことを言われた。

「乃蒼は、確かに立夏のことば心配しとった。自分が戻ってきたことで、立夏が前向きになってくれたら、て思うていたやろうしね。生きるための目標ば、何か見つけてほしかと、そうも思うとったんやなかかな」

 生きる目標、か。
 乃蒼がいなくなってから、世界は無色透明だった。だが、乃蒼が戻ってきて、僕の世界は再び鮮やかな色を取り戻した。乃蒼と一緒にいられる――ただそれだけで、僕の心は満たされていたんだ。
 乃蒼がいなければ、僕はもう一度小説を書こうなんて思わなかったし、二人で文学賞に挑むこともなかった。大学を卒業したあと、たとえ作家になれなくても、編集者として生きる目標が今、僕の中に芽生えている。
 乃蒼がそばに来てくれたから、僕は今、前を向いていられる。彼女の笑顔が、僕の空に光を灯す。

「でも同時に、乃蒼離ればさせてあげようとも、思うとったんやなかかな」
「乃蒼離れ」
「うん。うちはこう思うとるたい。立夏のことば心配して乃蒼が来てくれたんじゃなくて、立夏が、乃蒼ばこの世界に呼んだんやなかかと」
「僕が呼んだ?」
「そう。それに気付いたけん、乃蒼は立夏の前から姿ば消したんやなか? 自分のことば忘れてもらうために。自分が、いずれ消えてしまう存在やとわかったからこそ」
「そっか――」

 それはありえた話だ。すべては僕の不甲斐なさが原因だった。昔と同じく、僕は乃蒼に依存しすぎていた。
 木田は、ただ静かに僕たちの話を聞いてくれていた。

「今はどげん? 乃蒼がおらんくなってしもうたとしても、一人でやっていける。そげん気がしとらん?」
「している、かも」
「やったら、乃蒼がこの世界に来た意味はあったっちゃん」

 そこまでを言って、朝香は深く息を吐いた。

「あーあ、妬けてしまうなあ。その役目、うちじゃ無理ばい」

 本音を言うと、悩んでいた。乃蒼と顔を合わせたとき、どのような顔をしたらいいのかと。何を伝えたらいいのかと。乃蒼が、どうして僕の前から姿を消したのか、わかっていなかったから。
 でも、これで覚悟が決まった。
 乃蒼。僕は、君のおかげでこの世界で生きていくための道を見つけた。
 今度は僕が、君に道を示す番だ。

「ありがとう、朝香」
「アホ。うちはいつでもあんたの味方ばい」

 振り向いて、朝香が腕を伸ばしてきて、後席にいる僕の額を小突いた。それから、静かに泣き始めた。
 外で降っている雨と同じ、抑制されたすすり泣きだった。