第六章「彼女がいなくなって」
あの日、第二講義場の中でどんなことがあったのか。詳細は後日朝香からすべて聞いた。
講義場の中に入ってくると、声を出さないようにと乃蒼が朝香にゼスチャーで示した。朝香は一瞬だけ当惑するも、乃蒼が自分を助けにきたのだとすぐ理解できたので、目配せだけを送ってあとは平静を装った。
廊下の奥に様子を見に行った見張りがなかなか戻ってこないことに痺れを切らした犯人が、朝香の側を離れる。この隙をついて、乃蒼が朝香の手を取って逃げ出した。
人質がいなくなったことに気づいた犯人が、取り乱したように騒ぎ出す。自暴自棄になったのか、周囲への威嚇発砲を始めたのだ。なお、銃は改造式のエアーソフトガンだった。本物ではなかったが、『殺傷力がある』と認定されるだけの威力があったらしい。
もし跳弾が当たったら、大怪我をしてしまう。姿を認識されていないだけで、二人とも生身の人間なのだから。周囲を警戒しながら、慎重に移動を行った乃蒼の判断は賢明だったと言える。
物陰に身をひそめ、犯人から死角になるようにして少しずつ前進していく。「絶対に大丈夫だから」と乃蒼が朝香を勇気づけながら。
二号館から無事退避したところで乃蒼が立ち止まる。朝香とつないでいた手を離し、「これを木田君に返しておいてね」とスマホを朝香に手渡した。
『私は、いつか消えてしまう。私が消えてしまったら、立夏は塞ぎ込むと思うから、もしそうなったなら、立夏のことをよろしくね』
最後にそう言伝をして、忽然と乃蒼の姿が見えなくなったのだという。
『乃蒼?』と呼びかけながら辺りを見回しても彼女の姿はなく、途方に暮れているうちに警察官によって保護された。
――立夏。私の姿、見えてる?
二人で抱きあったあの夜。乃蒼がした不可思議な質問が頭を過る。
もしかしたら――このときすでに、彼女は自分の体の変化に気づいていたのかもしれない。僕とお別れするのが辛いから、姿をくらましたのかもしれない。
すべては憶測だ。今となってはもうわからないこと。
それでも、確実にこれだけは言える。これは、乃蒼が望んでしたことだ。彼女は、自分の意志で僕の前から姿を消したのだ。
結ばれた翌日に、僕は失恋をしてしまったのだ。
*
乃蒼がいなくなってから、僕と朝香と木田の三人で、彼女がいそうな場所を手分けして捜索した。僕のアパートの周辺。大学のキャンパス。彼女と何度か足を運んだ喫茶店。ファストフード店。駅前の書店。ショッピングモール、エトセトラ。
どこにも乃蒼はいなかった。彼女の存在は完全に消え失せていた。
本当は頭ではわかっていた。この捜索活動そのものが、無駄であることを。
乃蒼は自分の意思で姿をくらましたのだから。彼女がたとえどこにいたとしても、見つけることは叶わないのだと。
彼女は僕に会いたくないのだ。
自らの意思で自身の存在を消して、僕の前からいなくなったのだから。
あのときこうしていたら、こう言葉をかけられていたら、さまざまな後悔が形となって去来したが、すべてが後の祭りだ。
乃蒼の捜索活動は一週間と少し続き、潮が引いていくみたいに段階的にその頻度が減っていき、やがて自然消滅した。
どこにいるんだよ、乃蒼。どうしてお前はいなくなってしまったんだ。
僕の虚しい嘆きが、一人きりになったアパートの部屋に木霊した。
少し前から、ひそかに日記をつけていた。日々の出来事を、詳細に記しておかないと、いけないような気がしていた。
ぶつける先のなくなった感情を、叩きつけるみたいに日記に記した。記せば記すほど、虚しさは増していくのだった。
乃蒼がいなくなった日の夜、血相を変えて僕のアパートにやってきたのは木田さんだった。
「哘乃蒼がいなくなったってのは本当なの?」
「本当です」と僕は頷いた。
「そうかあ……。どうしてなの? と君を責めたところでどうにもならないわね。こんなことになるんだったら、きちんと監視を付けておくんだったわね」
うな垂れてから、「監視を付けても、姿が見えないんじゃ意味はないのか」とさらに彼女はこうべを垂れた。
稲穂みたいだな、とバカみたいなことを思う。
週末、乃蒼の身体検査を行う予定だったのだ。貴重なデータが得られなくなってしまったのだから、木田さんが落胆するのも取り乱すのも頷ける。彼女が所属している特殊情報処理研究室の内部も、大騒ぎになっているとのことだった。
世界の命運を、握っているかもしれない少女の安否がわからなくなったのだ。当然だろう。
木田さんの監督不行き届きを糾弾する声が上がっているのだと、彼女は自嘲気味に話した。
これまた当然のごとく、乃蒼の捜索活動に僕は駆り出されることになる。
「並行世界の乃蒼はどうしていますか?」と僕は木田さんに訊ねた。
「特に目立った変化はない」と木田さんは答えた。それが不幸中の幸いなのだと。
並行世界の乃蒼と、この世界にいる乃蒼の精神はおそらくリンクしている。もっとわかり易く言えば、並行世界にいる乃蒼が作りだした思念体が、この世界の乃蒼ではないかと僕は思っている。
並行世界の乃蒼に変化がないということは、この世界にいる乃蒼も無事だということになる。なるのだろう――もちろん憶測だが。
そう思っておかないと、頭がどうにかなりそうだった。
僕と乃蒼がよく行った場所を中心に捜索することになった。必然的に、大半が僕と木田たちが捜索した場所と重複することになる。
それに加えて、乃蒼の実家がある佐賀でも捜索が行われた。
そこでも、彼女を見つけ出すことは叶わなかった。
乃蒼の姿が見えないのでは僕は役立たずだ。まもなくして捜索に呼ばれなくなった。
悲報と朗報がひとつずつあった。
良いほうから話そうと思う。
僕と乃蒼が書いた小説が、文学賞の一次選考を突破したのだ。応募総数は約五百五十編。一次選考を通過したのは、そのうちの五十四作品だ。十分に誇るべきことだった。しかし、共に喜ぶべき相手はこの場所にいない。
虚無感だけが心に残った。
乃蒼がいなくなってから一週間後、僕は乃蒼の実家に電話をかけてみた。
電話に出た乃蒼の母親は、乃蒼と再会した日のことをすべて忘れていた。
「いたずら電話はやめてください。うちの乃蒼は、去年の十一月にバス事故で亡くなっているんですよ? 生きているわけがないでしょう?」
言葉を失うという表現は、こんなときに使うのだろう。愕然となった。
乃蒼の存在が認識されなくなっていくのには、いくつかのステップがあるのだとは感じていた。視認できなくなって、声が聞こえなくなって、触れることができなくなって。
しかしその先に、人の記憶から、存在自体が失われてしまうステップがあるのだとは予想すらしていなかった。
乃蒼はこの世界において、実体をもってこそいるが同時に不安定な存在だ。それゆえか、彼女を知っている人間、あるいは、彼女に選ばれた人間にしか認識されない。
それはわかっていた。だが、ここまで不安定だとは予想外だった。今の状態が続けば、乃蒼は誰からも存在を認識されなくなって、その先で忘れられる。そうなれば、少なくとも今の乃蒼の存在は完全な意味でこの世界から消える。
人々の記憶から完全に消えたとき、人は本当の意味で死を迎える。
その晩、僕は布団をかぶって泣きながら眠った。涙が止まらなかった。乃蒼を認識できていない多くの人たちと同じく、僕もまた彼女のことを認識できなくなって、同時に忘れていくのだ。そうして完全に忘れたときが、別れのときなのだ。
僕だけは忘れたくなかった。覚えていたかった。
お前、何がしたいんだよ。頼むからもう一度僕のところに現れてくれよ!
僕から離れて、乃蒼は一人でどうやって生きていくのかと疑問に思っていた。
もしかしたら、彼女は食事をしなくても生きていけるのかもしれない。段々とそう思うようになっていた。
どう定義すべきかはわからないが、並行世界の乃蒼が作り出した、概念みたいなものなのだとしたら。
*
あの日、第二講義場の中でどんなことがあったのか。詳細は後日朝香からすべて聞いた。
講義場の中に入ってくると、声を出さないようにと乃蒼が朝香にゼスチャーで示した。朝香は一瞬だけ当惑するも、乃蒼が自分を助けにきたのだとすぐ理解できたので、目配せだけを送ってあとは平静を装った。
廊下の奥に様子を見に行った見張りがなかなか戻ってこないことに痺れを切らした犯人が、朝香の側を離れる。この隙をついて、乃蒼が朝香の手を取って逃げ出した。
人質がいなくなったことに気づいた犯人が、取り乱したように騒ぎ出す。自暴自棄になったのか、周囲への威嚇発砲を始めたのだ。なお、銃は改造式のエアーソフトガンだった。本物ではなかったが、『殺傷力がある』と認定されるだけの威力があったらしい。
もし跳弾が当たったら、大怪我をしてしまう。姿を認識されていないだけで、二人とも生身の人間なのだから。周囲を警戒しながら、慎重に移動を行った乃蒼の判断は賢明だったと言える。
物陰に身をひそめ、犯人から死角になるようにして少しずつ前進していく。「絶対に大丈夫だから」と乃蒼が朝香を勇気づけながら。
二号館から無事退避したところで乃蒼が立ち止まる。朝香とつないでいた手を離し、「これを木田君に返しておいてね」とスマホを朝香に手渡した。
『私は、いつか消えてしまう。私が消えてしまったら、立夏は塞ぎ込むと思うから、もしそうなったなら、立夏のことをよろしくね』
最後にそう言伝をして、忽然と乃蒼の姿が見えなくなったのだという。
『乃蒼?』と呼びかけながら辺りを見回しても彼女の姿はなく、途方に暮れているうちに警察官によって保護された。
――立夏。私の姿、見えてる?
二人で抱きあったあの夜。乃蒼がした不可思議な質問が頭を過る。
もしかしたら――このときすでに、彼女は自分の体の変化に気づいていたのかもしれない。僕とお別れするのが辛いから、姿をくらましたのかもしれない。
すべては憶測だ。今となってはもうわからないこと。
それでも、確実にこれだけは言える。これは、乃蒼が望んでしたことだ。彼女は、自分の意志で僕の前から姿を消したのだ。
結ばれた翌日に、僕は失恋をしてしまったのだ。
*
乃蒼がいなくなってから、僕と朝香と木田の三人で、彼女がいそうな場所を手分けして捜索した。僕のアパートの周辺。大学のキャンパス。彼女と何度か足を運んだ喫茶店。ファストフード店。駅前の書店。ショッピングモール、エトセトラ。
どこにも乃蒼はいなかった。彼女の存在は完全に消え失せていた。
本当は頭ではわかっていた。この捜索活動そのものが、無駄であることを。
乃蒼は自分の意思で姿をくらましたのだから。彼女がたとえどこにいたとしても、見つけることは叶わないのだと。
彼女は僕に会いたくないのだ。
自らの意思で自身の存在を消して、僕の前からいなくなったのだから。
あのときこうしていたら、こう言葉をかけられていたら、さまざまな後悔が形となって去来したが、すべてが後の祭りだ。
乃蒼の捜索活動は一週間と少し続き、潮が引いていくみたいに段階的にその頻度が減っていき、やがて自然消滅した。
どこにいるんだよ、乃蒼。どうしてお前はいなくなってしまったんだ。
僕の虚しい嘆きが、一人きりになったアパートの部屋に木霊した。
少し前から、ひそかに日記をつけていた。日々の出来事を、詳細に記しておかないと、いけないような気がしていた。
ぶつける先のなくなった感情を、叩きつけるみたいに日記に記した。記せば記すほど、虚しさは増していくのだった。
乃蒼がいなくなった日の夜、血相を変えて僕のアパートにやってきたのは木田さんだった。
「哘乃蒼がいなくなったってのは本当なの?」
「本当です」と僕は頷いた。
「そうかあ……。どうしてなの? と君を責めたところでどうにもならないわね。こんなことになるんだったら、きちんと監視を付けておくんだったわね」
うな垂れてから、「監視を付けても、姿が見えないんじゃ意味はないのか」とさらに彼女はこうべを垂れた。
稲穂みたいだな、とバカみたいなことを思う。
週末、乃蒼の身体検査を行う予定だったのだ。貴重なデータが得られなくなってしまったのだから、木田さんが落胆するのも取り乱すのも頷ける。彼女が所属している特殊情報処理研究室の内部も、大騒ぎになっているとのことだった。
世界の命運を、握っているかもしれない少女の安否がわからなくなったのだ。当然だろう。
木田さんの監督不行き届きを糾弾する声が上がっているのだと、彼女は自嘲気味に話した。
これまた当然のごとく、乃蒼の捜索活動に僕は駆り出されることになる。
「並行世界の乃蒼はどうしていますか?」と僕は木田さんに訊ねた。
「特に目立った変化はない」と木田さんは答えた。それが不幸中の幸いなのだと。
並行世界の乃蒼と、この世界にいる乃蒼の精神はおそらくリンクしている。もっとわかり易く言えば、並行世界にいる乃蒼が作りだした思念体が、この世界の乃蒼ではないかと僕は思っている。
並行世界の乃蒼に変化がないということは、この世界にいる乃蒼も無事だということになる。なるのだろう――もちろん憶測だが。
そう思っておかないと、頭がどうにかなりそうだった。
僕と乃蒼がよく行った場所を中心に捜索することになった。必然的に、大半が僕と木田たちが捜索した場所と重複することになる。
それに加えて、乃蒼の実家がある佐賀でも捜索が行われた。
そこでも、彼女を見つけ出すことは叶わなかった。
乃蒼の姿が見えないのでは僕は役立たずだ。まもなくして捜索に呼ばれなくなった。
悲報と朗報がひとつずつあった。
良いほうから話そうと思う。
僕と乃蒼が書いた小説が、文学賞の一次選考を突破したのだ。応募総数は約五百五十編。一次選考を通過したのは、そのうちの五十四作品だ。十分に誇るべきことだった。しかし、共に喜ぶべき相手はこの場所にいない。
虚無感だけが心に残った。
乃蒼がいなくなってから一週間後、僕は乃蒼の実家に電話をかけてみた。
電話に出た乃蒼の母親は、乃蒼と再会した日のことをすべて忘れていた。
「いたずら電話はやめてください。うちの乃蒼は、去年の十一月にバス事故で亡くなっているんですよ? 生きているわけがないでしょう?」
言葉を失うという表現は、こんなときに使うのだろう。愕然となった。
乃蒼の存在が認識されなくなっていくのには、いくつかのステップがあるのだとは感じていた。視認できなくなって、声が聞こえなくなって、触れることができなくなって。
しかしその先に、人の記憶から、存在自体が失われてしまうステップがあるのだとは予想すらしていなかった。
乃蒼はこの世界において、実体をもってこそいるが同時に不安定な存在だ。それゆえか、彼女を知っている人間、あるいは、彼女に選ばれた人間にしか認識されない。
それはわかっていた。だが、ここまで不安定だとは予想外だった。今の状態が続けば、乃蒼は誰からも存在を認識されなくなって、その先で忘れられる。そうなれば、少なくとも今の乃蒼の存在は完全な意味でこの世界から消える。
人々の記憶から完全に消えたとき、人は本当の意味で死を迎える。
その晩、僕は布団をかぶって泣きながら眠った。涙が止まらなかった。乃蒼を認識できていない多くの人たちと同じく、僕もまた彼女のことを認識できなくなって、同時に忘れていくのだ。そうして完全に忘れたときが、別れのときなのだ。
僕だけは忘れたくなかった。覚えていたかった。
お前、何がしたいんだよ。頼むからもう一度僕のところに現れてくれよ!
僕から離れて、乃蒼は一人でどうやって生きていくのかと疑問に思っていた。
もしかしたら、彼女は食事をしなくても生きていけるのかもしれない。段々とそう思うようになっていた。
どう定義すべきかはわからないが、並行世界の乃蒼が作り出した、概念みたいなものなのだとしたら。
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