第五章「潜入作戦」

 大学生の長かった夏休みが終わった。
 原稿の最終確認が終わって、ウェブから作品の応募を済ませていた。いろいろあったが、本当にいろいろありすぎたが、充実した夏休みだったと思う。それもこれも、傍らに乃蒼がいてくれたおかげだ。
 清々しい朝日が部屋の窓から差している。今日は乃蒼よりも先に僕が起きたので、久しぶりにキッチンに立つ。
 久しぶりと言えば今日乃蒼は大学に行く。誰からも視認されない可能性は高いが、それでも行きたいという本人たっての希望によるものだった。
 乃蒼が大学に行くのは、彼女が亡くなってから実に十ヵ月ぶりのことだった。

「おはよ」

 起き出してきた乃蒼は、少し疲れた顔をしているように見えた。

「おはよう乃蒼。昨日はちゃんと眠れた?」
「うん。大丈夫」

 そう言いながら乃蒼は席につく。

「あ、コーヒーの匂い」
「飲む? 淹れるよ」
「うん。お願い」

 僕は二人分のコーヒーを淹れると、乃蒼の向かい側に座った。

「はい、どうぞ」
「……ありがとう」

 僕はブラックのままコーヒーを飲むが、乃蒼は砂糖を二杯とミルクをたっぷり入れる。
「やっぱりコーヒーは甘いほうが美味しいね」と乃蒼が薄く笑う。幸せそうな顔を見ていると、僕も嬉しい。

 バス停までの道を歩きながら空を見上げた。
 空はよく晴れていたが、秋の訪れが近いことを感じさせる涼やかさが、朝の空気の中に忍び込んでいた。天気が良いからと甘く考えていたが、上に何か羽織って出たほうが良かったかもしれない。
 定刻通りにやってきたバスに乗って、乃蒼と二人で大学に向かう。車内は少し混んでいた。
 途中で朝香が乗ってきて、「おはよう」と乃蒼と挨拶を交わし合う。乃蒼が今日大学に行くことは、朝香も事前に知っていた。
 朝香と世間話をいくつかして、それ以降乃蒼はずっと無言だった。
 バスを降りて大学の敷地内に入る。講義場に向かった朝香と別れて、二人でキャンパスの中を練り歩いた。講義に出るつもりは最初からなかった。
 昇降口、中庭、廊下、食堂、講義場と順番に歩いていく。
 ここに、自分がいることを確かめるかのように。
 ここに私がいたんだぞ、と足跡を記すかのように。
 懐かしいそれらの景色を心の中に刻み込んでいくみたいに、乃蒼はキョロキョロと視線を走らせながら歩いた。
 その間、乃蒼に話しかけてくる人は誰もいなかった。
 一年前のあの頃と、大学の中の景色は何も変わっていないのに、乃蒼の存在だけがぽっかりと抜け落ちてしまっている。彼女の周辺だけが、変わってしまっている。その事実に人知れず胸が痛んだ。

「立夏の将来の夢は?」

 歩きながら乃蒼が訊いてくる。

「将来の夢かあ」

 考えてみた。かつての僕は、小説家になるのが夢で、なれると信じて疑っていなかった。
 その夢は高校三年のときに完全に潰えた。小説家になりたという気持ちも、小説を書きたいという気持ちも、今はほとんど残っていない。小説家という職業が、なることも、継続して仕事をしていくのがどれだけ難しいのかも知ってしまったから。何より、自分にそれだけの才覚がないのに気づいてしまった。
 現実を知って飛べなくなった鳥は、もう翼を広げることはできない。見上げた先に空はあっても、そこはすでに自分の住処(すみか)ではない。

「編集者に、なりたいかな」

 それでも、空は確かにそこにある。たとえ自分が飛べなくなったとしても、鳥を羽ばたかせるための整備士にならば、なれるかもしれない。
 キャンパスを歩いていると、前からやってきたカップルと思しき男女とすれ違う。茶化し合いながら歩いている様は幸せそうだった。
 羨ましいとは感じなかった。むしろ、僕たちの姿を見せられないのが口惜しい。

「素敵な夢だね」
「必ず叶える夢だ。絶対に受賞して、二人で次の一歩を踏み出そう」

 どこか安堵した顔で乃蒼は小さく頷いたが、その笑顔には(かげ)りが見て取れた。
 彼女はただ前だけを見ていた。この先に続いている、未来へと至る道を見据えているようだった。
 乃蒼の目に、いったい未来はどう見えているのだろうか。この先の、不安定な未来は。
「手、つながない?」と乃蒼が言った。唐突に。顔はこちらに向いていない。「え?」と僕は思わず聞き返した。

「手、つなごう」
「や、でも」
「手をつなぐのは恥ずかしい?」
「なんというか。まあ、そうだな」

 昨晩の行為を思うと恥ずかしいというのも変な話だが、急に恋人らしいことをするのに抵抗があった。

「意気地なし。大丈夫、私と手をつないだら、見えなくなるよ。きっと」
「なるほど。そういえば、そうだったな」

 乃蒼の指先が、僕の手のひらにするりと滑り込んでくる。彼女の体温が、僕の手のひらを介して伝わってくる。その温もりは、人の温もり以外の何物でもない。
 隣に乃蒼がいる。その事実をかみしめる。

 太陽が空の頂きに登った頃、二人で食堂に入った。
 乃蒼はしょうゆ油ラーメンを、僕はとんかつ定食を注文してお盆を手に席に着く。無論傍目には、僕は二人分を注文したヤバい奴、に見えているのだろうが。
 食事をしていると、隣に誰かが立つ気配があった。顔を上げると木田がいた。
「隣、座ってもいいか?」と木田が言う。木田はお盆の上にラーメンを載せていた。
 テーブルは四人掛けだ。僕と乃蒼の隣は空いている。

「別にいいけど」

 言うなり、木田は僕の隣に座った。

「へえ……。こうして見ると本当に乃蒼ちゃんだ。久しぶり、俺のこと覚えているかな?」
「もちろんですよ。……私のこと、見えているんですよね?」
「見えているよ」

 ここで木田が少し間を置いた。

「乃蒼ちゃん。最近調子はどう?」
「最近ちょっと疲れが抜けなくて辛いですが、まあ、この通り元気ですよ」

 乃蒼がむん、と力こぶを作ってみせる。そうだった。この二人は面識があったんだな、と思う。

「というか、僕の隣に座るのかよ」
「そんなに嫌そうな顔するなよ。それとも、乃蒼ちゃんの隣に座れば良かった?」
「そんなことをしたら殺す」
「だろー?」

 木田が苦い物をかんだみたいな顔になる。

「そうか。僕が乃蒼の隣に移ればいいのか」

 そう言って、向かい側の席に僕は移動した。

「そこまで嫌わなくても」
「だってよ。他の人からは、仲良く二人並んで座る気持ち悪い男二人に見えているだろ?」

 それもそうか、と木田が渇いた声で笑った。
 そう言えば、こうして乃蒼と一緒に食事をしたりバスに乗ったりしたことが何度かあるが、乃蒼がいる席に誰かが座ろうとしたことは一度もなかった。
 なぜだろう?
 乃蒼のことを視認できている木田はともかくとして、乃蒼の姿が見えていない他の人が、彼女がいる席に座ろうとしないのは不自然ではないのか。たまたまなのか?

「なあ、木田。今、お前の目に乃蒼の姿はどういう風に映っている?」
「ん? ……そうだなあ。あ、ショックを受けないで聞いてくれよ? 輪郭線がぼやけて、後ろが透けて見えている感じかな。たとえるならば、そうだなあ……。レースのカーテンみたいな感じ?」

 心なしか、前より薄くなった気すらする、という木田の声に、乃蒼が露骨に表情を曇らせる。「立夏にはどう見えているの?」と訊いてくる。

「僕には、ちゃんと見えている。後ろが透けて見えるとか、そんなことはないよ」
「……そっか。じゃあ、ほんとに立夏だけなんだ。ちゃんと私のことが見えているの。私のお母さんも、薄っすらと透けて見えていると言っていたしね」

 今のところ、乃蒼を視認できていると確認できているのは五人しかいない。僕と朝香と、木田とその母親と、乃蒼の母親。その中で、しっかりと見えているのは僕だけなんだ。この差はどこから生まれているのだろうな。

「もしかしたら、他の人の目に見えていないというよりは、認識されていないだけ、なんじゃないだろうか? 『いる』ことはわかっていても、それが存在として『認識』できない状態とでもいうのかな」
「どういうこと?」と乃蒼が首をかしげる。
「触ろうと思えば触れる。でも、人として存在を認識していないので、触ろうとしない。気にしない。見ようとしない。そういう状態なんじゃないかなと。その証拠というわけでもないが、今日乃蒼と手をつないでキャンパスの中を歩き回ったけれど、誰かとぶつかりそうになったことは一度もなかっただろ?」
「あっ……確かに。ということは、私は存在しているのでみんな無意識に避けるけれども、気に留めてはいない。たとえば、道端に落ちている石ころみたいに認識されている……とそういった感じ?」
「そうそう。そういう感じ。認識されなくなることによって、段階的に見えなくなる」

 物のたとえとしては残酷だが、言い得て妙だと思う。おそらくそうだ。

「……いや、なんか悪かったな」

 僕たちの話を無言で聞いていた木田が、突然申し訳なさそうに頭を下げた。

「何が?」
「お袋に、うっかり乃蒼ちゃんのことを話しちゃったことさ。まさか、お袋の奴があそこまで話に食いついてくるとも、仕事でああいうことに関わっているとも知らなかったからさ。知らずにいたほうがいいことって、あるじゃないか? 余計なことしちまったなと思ってさ。お袋、なんか失礼なこと言わなかったか?」

 こいつ、案外といい奴なんじゃないかな? とふと思う。頭を下げた木田を片手で制した。

「何も失礼なことなんてなかったよ。それに、結果として良かったのかもしれない。いずれにしてもこれは、僕らが向き合っていかなければならない問題だっただろうしね」
「そうは言ってもなあ」
「いいんだよ。いずれにしても、僕たちは今できることをするだけだ」

 そう言うと、木田は「そっか」と納得してくれたようだった。

「俺も驚いているんだよ。今でもうまく受け止められていないというか。第三者の俺でもそうなのに」
「母親から聞いたのか? 全部」
「まあな」
「そっか。まあ、木田には知っておいてもらったほうがいいだろうな。乃蒼の姿が見える時点で、無関係ではいられない」
「で、これからどうするんだ」

 木田が一転して真剣な声を出した。

「わからない」
「わからないって……」

 木田が怪訝な顔をしたが、彼にもこれといった案はなかったのだろう。そこから言葉は続かなかった。

「僕がなんとかするさ」
「なんとかって?」と乃蒼が言う。
「わからないけど、なんとか」

 無謀だし、無責任な言葉だと思う。乃蒼が、周囲の人から認識されるようにする方法があるかと問われたなら、何も思いつかないのだから。
 それでも、そう伝えるしかなかった。上辺だけの言葉がすべっていくようで嫌気がさす。それでも、僕が下を向くわけにはいかなかった。乃蒼より先に、僕の心が折れるわけにはいかなかった。
 乃蒼が「ありがとう」と笑った。瞳が少し潤んでいるような気がした。
 乃蒼の手を握ろうとして、しかしそこで僕は息が詰まる。

「――ッ!」
「どうしたの?」
「指先が透けて見えているんだ」
「えっ!?」

 乃蒼が驚いて自分の手を透かし見るように蛍光灯の光にかざした。手首のあたりまでは輪郭線がしっかり見えているが、指の第二関節辺りから色が薄れている。桜色の爪と指先はほとんど見えていなかった。

「自分の目ではわからないのか?」

 訊ねると乃蒼はこくりと頷いた。「わからない」と。

「俺は元々そんな感じに見えていたけど」

 木田がおっかなびっくり乃蒼の手に触れようとそて、そこで弾かれたように手を引っ込めた。

「マジかよ」
「どうした?」
「いや……。触れるには触れるんだけど、感触が鈍いというか、雲をつかんでいるみたいというか」
「嘘だろ?」

 慌てて乃蒼の手を握る。驚いた彼女の肩が震える。柔らかい手の感触がちゃんとある。幸いにも僕はまだ触れることができた。

「良かった。触れた」

 とはいえ無邪気に安堵してはいられない。
 こうして、乃蒼の存在は徐々に消えていくのか? 昨日考えたタイムリミットの存在が現実味を帯びてきて、背筋が冷えた。
 乃蒼の姿が見えている木田が、乃蒼に触れなくなってきているということは、存在を認識されなくなったその先に、次の段階があるということだ。それが、次第に進行しているということだ。
 視認できなくなって、触れなくなって、いずれは存在ごと消えてしまう……?
 そして、乃蒼を視認できなくなるのは僕だってきっと例外ではない。

「やっぱり、私いつかは消えちゃうんだね」
「そんなわけないだろ。僕がどうにかする」

 根拠のない、虚しい呟きが虚空に溶けていく。場を沈黙が支配した。
 言葉を探るみたいに、みな一様に押し黙ったままで。ひとまず食器を片付けようと立ち上がりかけたそのとき、やおらに周辺が騒がしくなった。

「なんだ?」

 木田が周囲を見回した。
 食堂にいた人たちが互いに囁き合って、何人かが慌てて廊下に飛び出していく。「どうしたんだ。何があった?」と木田が近くにいる男子生徒に声をかけると、「第二講義場で立てこもり事件があったらしい。急いで建物の外に出ろってよ……!」とその男が緊迫した声で答えた。

「なんだって!?」

 木田が大きな声を上げた。顔に狼狽の色が浮かぶ。

「第二講義場で午後から行われる講義を朝香が受ける予定になっていたんだ」と言って木田がスマホで時間を見る。「もう、講義場に入っている時間だな。……こいつはまずいかもしれないぞ」
「それは本当なのか?」
「ああ」

 木田と僕は顔を見合わせた。こうしてはいられない。

   *