行こう、と木田さんと運転手の男が歩き出す。僕と乃蒼は緊張した面持ちで二人を追いかけた。
受付で木田さんが名刺を見せると、顔パスで面会許可証がもらえた。さすがは政府の神通力か。
面会。つまり、これから向かう場所には、誰かがいるということだ。
エレベーターが三階で止まり、そこで木田さんが降りる。どうやら三階は、脳神経外科のようだった。ナースセンターの前を通過して彼女は廊下をどんどん進む。脳神経外科のフロアは明るいが、やけに足元が冷える場所だった。病院独特のあの無機質な冷たさだ。
廊下の突き当りまで進み、「ここよ」と木田さんが足を止める。個室らしい病室の扉がそこにあった。
「ここですか?」
予想していた物と少し違った。いかにもといった仰々しい場所に案内されるものと身構えていたが、見た感じ普通の病室だ。壁にネームプレートはかかっていない。扉の真ん中に『関係者以外立ち入り禁止』の張り紙こそあるが、それ以外は何の変哲もない。
思わず乃蒼と顔を見合わせた。
「なんて言うんでしょう。もっとこう、研究室みたいな場所に案内されるかと思っていたので、肩透かしをくらっています」
本音を吐露すると、だろうね、と木田さんが苦笑した。
「大丈夫。これから、期待に添えられると思うよ」
「僕はここで待っていますので」
男性が、廊下の壁にもたれて手を上げた。木田さんは彼に頷きで返し、カードキーで部屋の扉を開錠した。
「じゃあ、行こうか」
するするとスライド式のドアが開いていく。木田さん、乃蒼、僕の順で病室に入っていく。ぐわん、と顔の周辺で大気の流れが起こった気がした。
……? なんだこれは。
病室に入った途端、全身がふわりとした浮遊感に包まれたのだ。エレベーターが動き出したときの感覚に近い。乃蒼も何かを感じたのか、怯えた様子で僕に寄り添ってきた。僕は彼女の肩に手を置きながら木田さんの背中を追った。
部屋は個室だった。窓から、秋の午後を思わせる重みのない透明な光が差していた。
消毒液の匂いと、長いこと同じ場所に留まっている人の体臭とが満ちていた。
空調の風で揺れる白いカーテン。
ピ、ピ……という電子音の羅列が鼓膜を打った。
部屋の中央にぽつんとベッドが置かれてあって、その上に一人の女性が横たわって眠っていた。
傍らに電子機器がいくつかあって、そこから伸びたコードが女性の腕や胸元につながっていた。
僕たちがここに呼ばれたわけが、即座に飲み込めた。
ベッドの上の女性は、〝彼女〟とそっくりだったから。
色白な頬も、ふわっとした栗色の髪も、彫刻みたいな端正な顔立ちも小柄な体躯も、〝彼女〟と瓜二つだった。でも、隣にいる乃蒼から発せられている快活さや生命力が、ベッドの上の女性からはこそげ落ちていた。頬はこけていて、鎖骨が浮き出ていた。
「乃蒼?」
その女性の名前が、僕の口からこぼれて落ちる。
ベッドの上にいるのは――痩せてこそいるが――哘乃蒼その人だった。
思わず隣の顔を見る。この部屋に乃蒼が二人いる……? これはいったいどういうことだ。思考のパーツはバラバラで、頭の整理が追い付かない。
「どうして」
乃蒼の声は震えていた。
「どうして私が二人いるんですか」
乃蒼の瞳に宿っていたのは、どういう感情を抱けばいいのかすらわからない茫然自失の光だ。
「そんなのはこっちが聞きたいくらいだよ。君はいったい何者なのか? ってね」
困惑顔で木田さんが言う。
「だから、私が生きている、とそう言ったんですね?」
「そうだ」
「いや、おかしいじゃないですか。乃蒼は確かに一度死んでいるんです。そのときのことは僕だって覚えているし、葬儀も火葬も済んでいる。まさかこんな」
言いながら、自己矛盾で頭がおかしくなる。なら、隣にいる乃蒼はなんだ。このベッドの上にいるのは誰なんだ?
ベッドの上にいる乃蒼の寝顔は穏やかだ。本当にただ眠っているようにしか見えない。
「そうね。わたしたちがいる世界の哘乃蒼は確かに死んでいる」
「私たちがいる世界……?」
文脈に違和感があった。
「しかし、この世界においては、哘乃蒼はこうして生きている。昏睡状態に陥ってこそいるけれど、ね。これが現実さ」
「待ってください。意味がわからないです」
「部屋に入ったとき、空気が変わった気がしなかった?」
乃蒼と顔を見合わせる。「しました」と乃蒼が答える。
やはり気のせいじゃなかったのか。空間の位相がずれて、そのひずみが〝重さ〟になったみたいな、言葉にするのが難しい妙な感覚があった。
「並行世界、という言葉を聞いたことがない? 今いる世界と並行して、まったく別の世界が存在しているという概念の話」
「SFっぽいですね。そういうのでなら、聞いたことがあります」
僕は苦笑した。SFとかファンタジーとか、そういったジャンルの小説でよく使われる設定だ。
「実在しているのよ」
「実在するんですか? まさか」
「そう、そのまさか。今いるこの病室が、その並行世界なのよ。なんらかの理由によって、この部屋だけがわたしたちがいる世界とつながってしまったの。この空間だけが、二つの世界で共有されている、と言い換えても良いかもね。そして、こちらの――並行世界においては、哘乃蒼はこうして生きている」
「まさか、そんなことが」
心臓が、どくんと跳ねた。
――並行世界ものにしてみたら、どうかなって思っているんだ。
「確かなんですか?」
「ええ。証拠なら……そうね、そこの窓から外を見てみな」
木田さんにうながされるまま窓辺に寄って外を見て、そこから見えた景色に絶句した。
「紅葉している……」
乃蒼の声にああ、と頷いた。
病院の前には立木が植えられているスペースがあるのだが、そこに立っている木のすべてが紅葉していた。そんなはずはないのだ。今はまだ、八月の下旬なのだから。
この部屋だけ、時間の流れが異なっている証左だ。
「今いるこの世界とわたしたちがいる世界とでは、時間の流れが異なっている。具体的には、こちらの世界のほうが二ヵ月ほど進みが早いみたい。この部屋がわたしたちの世界とつながっているとわかったのは、昨年の十一月三日のことだ。……なんの日か、わかっているわよね」
「乃蒼と僕が、バス事故に遭遇した日です」
「その通り」
あの日の光景が思い出されて胸がきしんだ。血まみれになった彼女の顔は、もう思い出したくないのに。
――事故に遭ったあと、重症を負ったことで主人公は昏睡状態に陥ってしまう。体は健康なのに、意識はなぜか戻らない。混濁した意識の中で、彼女は並行世界を作り出していたの。
「では、私はいったいなんなのですか? どうして私はここにいて、こうして話したり呼吸ができたりするんですか!」
混迷と悲哀と、ふたつの感情の狭間でゆれているような声だった。木枯らしに吹かれた落ち葉のように、目を離すと消えてしまいそうな儚い嘆き。
「さっきも言ったように、残念ながらそれはわたしたちにもわかっていないのよ。現段階で、わかっていることだけを説明するわね」
この部屋の存在がわかったのは、昨年の十一月三日。その後、この部屋にまつわる情報のすべてが機密事項となり、政府の直轄管理下に置かれた。この部屋にいる哘乃蒼は、そのときから現在までずっと昏睡状態が続いている(昏睡状態とは、外部からの刺激に対してまったく反応することなく眠り続けている状態のことだ)。
並行世界と繋がっているのはこの部屋のみ。部屋を出るとただちに元の世界に戻る。この部屋にいるとき、こちらの世界の住人と遭遇することはない(微妙に時空がずれている?)。
この部屋には監視カメラを設置してある。監視カメラの映像には、こちらの世界の住人の姿が写る。
乃蒼に繋がれている電子機器からの情報は、僕たちがいる世界でも計測できている。彼女の呼吸、脈拍、意識活動レベルなどがわかっている。
基本的に、哘乃蒼の意識は深い眠りの中にある。だが、とあるタイミングで、意識活動レベルがわずかに上下することがある。
「どのタイミングで上下していると思う?」
いたずらな顔で木田さんが笑う。
僕には答えが予測できていたが、発言するのをためらった。言いにくいのは、隣の乃蒼もきっと同じであった。
「答えは日の出と入りね。わたしたちが住んでいるほうの世界で夜が明けるたびに意識の活動がわずかに活性化し、日没と同時に眠りが深くなる。まるで、世界の夜明けと連動しているみたいにね。……もちろん、脳波の動きはほんのわずかよ。でも確実に、世界の活動とリンクしているの。……わたしも、最初に聞いたときは半信半疑だったわ。けれど、脳波の動きのデータを見せられると、納得せざるを得なくなった」
――自らが作り出した並行世界の中に、主人公は自我を持って迷い込む。そこで、死んだはずの彼と再会するの。そこは、彼女が作り出した理想の世界だったから。
もうやめてくれ、と僕は思う。
それでも確認しなくてはならない。それでもこれだけは。
「では、こちらの世界にいる乃蒼の意識と、僕たちの側の世界の活動がリンクしている、と。そういう話になるんですか?」
「そうね。もちろんこれは可能性でしかないわ。でも、これまで観測してきた情報を精査した結果、そうである可能性が高いと判断している」
「もし、もしもです。このベッドの上で眠っている乃蒼が死んだ場合、僕たちがいる世界はどうなりますか?」
木田さんが不敵に笑んだ。その質問をされるのは織り込み済みなのだろう。
「この世界にいる彼女の意識と、わたしたちの世界の活動がリンクしているのだとしたら、意識の活動がゼロになったとき、世界の活動も同じ道を辿るんじゃないかしら?」
「それは、どういう意味ですか?」
乃蒼が口を挟んだ。血色が悪くなっているのか唇は紫色だ。
「わたしたちがいる世界が、消えてしまうんじゃないかってこと」
「……!」
乃蒼が息を飲む。僕は言葉が出てこない。なんてこった、そんな荒唐無稽な話があるかよ、と叫びたかった。
――でも、そこは所詮夢の中の世界でしかない。いつまでも彼女の意識が並行世界のほうに縛られていては、元の肉体のほうに影響が出てきてしまう。
「ここで眠っている私は、この先どうなってしまうんですか……? どうなる、べきなんですか?」
「わからない。この世界にいる彼女はこの世界にいる人間が管理しているのだからね。わたしたちには、指を咥えて見ていることしかできない。……ただ、彼女の容態が大きく変化したとき、わたしたちの世界にどのような影響を及ぼすかわかっていない以上、このまま眠っていてくれたほうがありがたいのかもね。残酷な話ではあるけれども」
「もし、ベッドの上にいる乃蒼が目覚めたらどうなりますか」
「彼女が昏睡状態に陥ったことで始まった世界だとしたら、それが終わったとき、やはり世界も同じ道を辿るんじゃないかしら」
「つまり、僕たちがいる世界は、ここにいる乃蒼が見ている夢の中の世界であって、彼女が目覚めると同時に消えてしまう。この解釈で合っていますか?」
僕の質問に木田さんがゆっくりと頷いた。これは、あくまでも可能性だけれどもね、と添えて。
だから、このままにしておけと? この世界の乃蒼が、いつ目覚めるとも知れない眠りを永遠に続ける。それは、とても残酷な話だ。それでも、僕たちの世界が存続するために、それ以外の手段がないとしたら。
「並行世界なんて、そんな荒唐無稽な話、本当に信じているんですか?」
乃蒼が訊ねた。
「わたしは、正直眉唾ものだと思っているんだけれど、研究室のお偉方はそう考えているみたいね。まったく、夢を見るのは思春期までにしてほしいものだわ」
それでもね、と木田さんは息を吐いた。
「信じる信じないは別としてね。でも、実際にこの目で見てしまった以上、対処しなくてはならないのよ」
全身の毛穴が開く。さまざまな思考が頭の中で渦巻いて、体も心もついていかない。頭が痛い。体中が意味もなく痛い。吐く息が熱い。
「最後に一つだけ確認をさせてください。こちら側の世界では、乃蒼が生き残った代わりに僕が死んでいるんじゃないですか?」
――だから彼女はいずれ元の世界に戻らなくてはならない。彼が死んでしまっていない、元の世界へ。
へえ、と木田さんが目を丸くした。
「よくそこまでわかったわね。その通りよ。こちらの世界では長濱君だけが死んでいて、わたしたちがいる世界では哘さんだけが死んでいる。世界の構造は、その一点でのみ異なっているの。もっとも、この部屋から観測できる情報だけでは、大してわかることはないけれどもね」
貧血でも起こしたみたいに隣の乃蒼がぐらついた。「大丈夫か」と倒れて怪我をしないように慌てて支えた。乃蒼は僕の腕の中で小さく震えていた。その震えが治まるまで、ずっと彼女の背中をさすってあげた。
これですべてわかった。
もちろんまだ憶測でしかない。本音を言えば認めたくない。
だってありえないだろう? あまりにも非科学的だ。
僕たちが作った小説の設定が、現実になるなんて。
ベッドの上の乃蒼の首筋に触れてみた。体温がある。彼女の肌の感触が伝わってくる。確かに彼女は生きているんだ。こちらの世界で。
彼女が見ている夢の中で、僕は生かされているのだろうか。僕たちが作ったシナリオ通りなら、この夢はいずれ終わる。そのとき僕は死ぬのだ。このベッドで眠っている乃蒼の見ている夢の中で、僕は死ぬ。
今見ている世界の状況は、僕たちが書いている小説の設定と全く同じなのだ。なら、こう思うしかないだろう。
僕たちが暮らしている世界は、ここで眠っている乃蒼が作りだした並行世界なのだと。
*
受付で木田さんが名刺を見せると、顔パスで面会許可証がもらえた。さすがは政府の神通力か。
面会。つまり、これから向かう場所には、誰かがいるということだ。
エレベーターが三階で止まり、そこで木田さんが降りる。どうやら三階は、脳神経外科のようだった。ナースセンターの前を通過して彼女は廊下をどんどん進む。脳神経外科のフロアは明るいが、やけに足元が冷える場所だった。病院独特のあの無機質な冷たさだ。
廊下の突き当りまで進み、「ここよ」と木田さんが足を止める。個室らしい病室の扉がそこにあった。
「ここですか?」
予想していた物と少し違った。いかにもといった仰々しい場所に案内されるものと身構えていたが、見た感じ普通の病室だ。壁にネームプレートはかかっていない。扉の真ん中に『関係者以外立ち入り禁止』の張り紙こそあるが、それ以外は何の変哲もない。
思わず乃蒼と顔を見合わせた。
「なんて言うんでしょう。もっとこう、研究室みたいな場所に案内されるかと思っていたので、肩透かしをくらっています」
本音を吐露すると、だろうね、と木田さんが苦笑した。
「大丈夫。これから、期待に添えられると思うよ」
「僕はここで待っていますので」
男性が、廊下の壁にもたれて手を上げた。木田さんは彼に頷きで返し、カードキーで部屋の扉を開錠した。
「じゃあ、行こうか」
するするとスライド式のドアが開いていく。木田さん、乃蒼、僕の順で病室に入っていく。ぐわん、と顔の周辺で大気の流れが起こった気がした。
……? なんだこれは。
病室に入った途端、全身がふわりとした浮遊感に包まれたのだ。エレベーターが動き出したときの感覚に近い。乃蒼も何かを感じたのか、怯えた様子で僕に寄り添ってきた。僕は彼女の肩に手を置きながら木田さんの背中を追った。
部屋は個室だった。窓から、秋の午後を思わせる重みのない透明な光が差していた。
消毒液の匂いと、長いこと同じ場所に留まっている人の体臭とが満ちていた。
空調の風で揺れる白いカーテン。
ピ、ピ……という電子音の羅列が鼓膜を打った。
部屋の中央にぽつんとベッドが置かれてあって、その上に一人の女性が横たわって眠っていた。
傍らに電子機器がいくつかあって、そこから伸びたコードが女性の腕や胸元につながっていた。
僕たちがここに呼ばれたわけが、即座に飲み込めた。
ベッドの上の女性は、〝彼女〟とそっくりだったから。
色白な頬も、ふわっとした栗色の髪も、彫刻みたいな端正な顔立ちも小柄な体躯も、〝彼女〟と瓜二つだった。でも、隣にいる乃蒼から発せられている快活さや生命力が、ベッドの上の女性からはこそげ落ちていた。頬はこけていて、鎖骨が浮き出ていた。
「乃蒼?」
その女性の名前が、僕の口からこぼれて落ちる。
ベッドの上にいるのは――痩せてこそいるが――哘乃蒼その人だった。
思わず隣の顔を見る。この部屋に乃蒼が二人いる……? これはいったいどういうことだ。思考のパーツはバラバラで、頭の整理が追い付かない。
「どうして」
乃蒼の声は震えていた。
「どうして私が二人いるんですか」
乃蒼の瞳に宿っていたのは、どういう感情を抱けばいいのかすらわからない茫然自失の光だ。
「そんなのはこっちが聞きたいくらいだよ。君はいったい何者なのか? ってね」
困惑顔で木田さんが言う。
「だから、私が生きている、とそう言ったんですね?」
「そうだ」
「いや、おかしいじゃないですか。乃蒼は確かに一度死んでいるんです。そのときのことは僕だって覚えているし、葬儀も火葬も済んでいる。まさかこんな」
言いながら、自己矛盾で頭がおかしくなる。なら、隣にいる乃蒼はなんだ。このベッドの上にいるのは誰なんだ?
ベッドの上にいる乃蒼の寝顔は穏やかだ。本当にただ眠っているようにしか見えない。
「そうね。わたしたちがいる世界の哘乃蒼は確かに死んでいる」
「私たちがいる世界……?」
文脈に違和感があった。
「しかし、この世界においては、哘乃蒼はこうして生きている。昏睡状態に陥ってこそいるけれど、ね。これが現実さ」
「待ってください。意味がわからないです」
「部屋に入ったとき、空気が変わった気がしなかった?」
乃蒼と顔を見合わせる。「しました」と乃蒼が答える。
やはり気のせいじゃなかったのか。空間の位相がずれて、そのひずみが〝重さ〟になったみたいな、言葉にするのが難しい妙な感覚があった。
「並行世界、という言葉を聞いたことがない? 今いる世界と並行して、まったく別の世界が存在しているという概念の話」
「SFっぽいですね。そういうのでなら、聞いたことがあります」
僕は苦笑した。SFとかファンタジーとか、そういったジャンルの小説でよく使われる設定だ。
「実在しているのよ」
「実在するんですか? まさか」
「そう、そのまさか。今いるこの病室が、その並行世界なのよ。なんらかの理由によって、この部屋だけがわたしたちがいる世界とつながってしまったの。この空間だけが、二つの世界で共有されている、と言い換えても良いかもね。そして、こちらの――並行世界においては、哘乃蒼はこうして生きている」
「まさか、そんなことが」
心臓が、どくんと跳ねた。
――並行世界ものにしてみたら、どうかなって思っているんだ。
「確かなんですか?」
「ええ。証拠なら……そうね、そこの窓から外を見てみな」
木田さんにうながされるまま窓辺に寄って外を見て、そこから見えた景色に絶句した。
「紅葉している……」
乃蒼の声にああ、と頷いた。
病院の前には立木が植えられているスペースがあるのだが、そこに立っている木のすべてが紅葉していた。そんなはずはないのだ。今はまだ、八月の下旬なのだから。
この部屋だけ、時間の流れが異なっている証左だ。
「今いるこの世界とわたしたちがいる世界とでは、時間の流れが異なっている。具体的には、こちらの世界のほうが二ヵ月ほど進みが早いみたい。この部屋がわたしたちの世界とつながっているとわかったのは、昨年の十一月三日のことだ。……なんの日か、わかっているわよね」
「乃蒼と僕が、バス事故に遭遇した日です」
「その通り」
あの日の光景が思い出されて胸がきしんだ。血まみれになった彼女の顔は、もう思い出したくないのに。
――事故に遭ったあと、重症を負ったことで主人公は昏睡状態に陥ってしまう。体は健康なのに、意識はなぜか戻らない。混濁した意識の中で、彼女は並行世界を作り出していたの。
「では、私はいったいなんなのですか? どうして私はここにいて、こうして話したり呼吸ができたりするんですか!」
混迷と悲哀と、ふたつの感情の狭間でゆれているような声だった。木枯らしに吹かれた落ち葉のように、目を離すと消えてしまいそうな儚い嘆き。
「さっきも言ったように、残念ながらそれはわたしたちにもわかっていないのよ。現段階で、わかっていることだけを説明するわね」
この部屋の存在がわかったのは、昨年の十一月三日。その後、この部屋にまつわる情報のすべてが機密事項となり、政府の直轄管理下に置かれた。この部屋にいる哘乃蒼は、そのときから現在までずっと昏睡状態が続いている(昏睡状態とは、外部からの刺激に対してまったく反応することなく眠り続けている状態のことだ)。
並行世界と繋がっているのはこの部屋のみ。部屋を出るとただちに元の世界に戻る。この部屋にいるとき、こちらの世界の住人と遭遇することはない(微妙に時空がずれている?)。
この部屋には監視カメラを設置してある。監視カメラの映像には、こちらの世界の住人の姿が写る。
乃蒼に繋がれている電子機器からの情報は、僕たちがいる世界でも計測できている。彼女の呼吸、脈拍、意識活動レベルなどがわかっている。
基本的に、哘乃蒼の意識は深い眠りの中にある。だが、とあるタイミングで、意識活動レベルがわずかに上下することがある。
「どのタイミングで上下していると思う?」
いたずらな顔で木田さんが笑う。
僕には答えが予測できていたが、発言するのをためらった。言いにくいのは、隣の乃蒼もきっと同じであった。
「答えは日の出と入りね。わたしたちが住んでいるほうの世界で夜が明けるたびに意識の活動がわずかに活性化し、日没と同時に眠りが深くなる。まるで、世界の夜明けと連動しているみたいにね。……もちろん、脳波の動きはほんのわずかよ。でも確実に、世界の活動とリンクしているの。……わたしも、最初に聞いたときは半信半疑だったわ。けれど、脳波の動きのデータを見せられると、納得せざるを得なくなった」
――自らが作り出した並行世界の中に、主人公は自我を持って迷い込む。そこで、死んだはずの彼と再会するの。そこは、彼女が作り出した理想の世界だったから。
もうやめてくれ、と僕は思う。
それでも確認しなくてはならない。それでもこれだけは。
「では、こちらの世界にいる乃蒼の意識と、僕たちの側の世界の活動がリンクしている、と。そういう話になるんですか?」
「そうね。もちろんこれは可能性でしかないわ。でも、これまで観測してきた情報を精査した結果、そうである可能性が高いと判断している」
「もし、もしもです。このベッドの上で眠っている乃蒼が死んだ場合、僕たちがいる世界はどうなりますか?」
木田さんが不敵に笑んだ。その質問をされるのは織り込み済みなのだろう。
「この世界にいる彼女の意識と、わたしたちの世界の活動がリンクしているのだとしたら、意識の活動がゼロになったとき、世界の活動も同じ道を辿るんじゃないかしら?」
「それは、どういう意味ですか?」
乃蒼が口を挟んだ。血色が悪くなっているのか唇は紫色だ。
「わたしたちがいる世界が、消えてしまうんじゃないかってこと」
「……!」
乃蒼が息を飲む。僕は言葉が出てこない。なんてこった、そんな荒唐無稽な話があるかよ、と叫びたかった。
――でも、そこは所詮夢の中の世界でしかない。いつまでも彼女の意識が並行世界のほうに縛られていては、元の肉体のほうに影響が出てきてしまう。
「ここで眠っている私は、この先どうなってしまうんですか……? どうなる、べきなんですか?」
「わからない。この世界にいる彼女はこの世界にいる人間が管理しているのだからね。わたしたちには、指を咥えて見ていることしかできない。……ただ、彼女の容態が大きく変化したとき、わたしたちの世界にどのような影響を及ぼすかわかっていない以上、このまま眠っていてくれたほうがありがたいのかもね。残酷な話ではあるけれども」
「もし、ベッドの上にいる乃蒼が目覚めたらどうなりますか」
「彼女が昏睡状態に陥ったことで始まった世界だとしたら、それが終わったとき、やはり世界も同じ道を辿るんじゃないかしら」
「つまり、僕たちがいる世界は、ここにいる乃蒼が見ている夢の中の世界であって、彼女が目覚めると同時に消えてしまう。この解釈で合っていますか?」
僕の質問に木田さんがゆっくりと頷いた。これは、あくまでも可能性だけれどもね、と添えて。
だから、このままにしておけと? この世界の乃蒼が、いつ目覚めるとも知れない眠りを永遠に続ける。それは、とても残酷な話だ。それでも、僕たちの世界が存続するために、それ以外の手段がないとしたら。
「並行世界なんて、そんな荒唐無稽な話、本当に信じているんですか?」
乃蒼が訊ねた。
「わたしは、正直眉唾ものだと思っているんだけれど、研究室のお偉方はそう考えているみたいね。まったく、夢を見るのは思春期までにしてほしいものだわ」
それでもね、と木田さんは息を吐いた。
「信じる信じないは別としてね。でも、実際にこの目で見てしまった以上、対処しなくてはならないのよ」
全身の毛穴が開く。さまざまな思考が頭の中で渦巻いて、体も心もついていかない。頭が痛い。体中が意味もなく痛い。吐く息が熱い。
「最後に一つだけ確認をさせてください。こちら側の世界では、乃蒼が生き残った代わりに僕が死んでいるんじゃないですか?」
――だから彼女はいずれ元の世界に戻らなくてはならない。彼が死んでしまっていない、元の世界へ。
へえ、と木田さんが目を丸くした。
「よくそこまでわかったわね。その通りよ。こちらの世界では長濱君だけが死んでいて、わたしたちがいる世界では哘さんだけが死んでいる。世界の構造は、その一点でのみ異なっているの。もっとも、この部屋から観測できる情報だけでは、大してわかることはないけれどもね」
貧血でも起こしたみたいに隣の乃蒼がぐらついた。「大丈夫か」と倒れて怪我をしないように慌てて支えた。乃蒼は僕の腕の中で小さく震えていた。その震えが治まるまで、ずっと彼女の背中をさすってあげた。
これですべてわかった。
もちろんまだ憶測でしかない。本音を言えば認めたくない。
だってありえないだろう? あまりにも非科学的だ。
僕たちが作った小説の設定が、現実になるなんて。
ベッドの上の乃蒼の首筋に触れてみた。体温がある。彼女の肌の感触が伝わってくる。確かに彼女は生きているんだ。こちらの世界で。
彼女が見ている夢の中で、僕は生かされているのだろうか。僕たちが作ったシナリオ通りなら、この夢はいずれ終わる。そのとき僕は死ぬのだ。このベッドで眠っている乃蒼の見ている夢の中で、僕は死ぬ。
今見ている世界の状況は、僕たちが書いている小説の設定と全く同じなのだ。なら、こう思うしかないだろう。
僕たちが暮らしている世界は、ここで眠っている乃蒼が作りだした並行世界なのだと。
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