行こう、と歩き出した木田さんのあとを緊張した面持ちで追いかける。
受付で木田さんが名刺を見せると、顔パスで面会許可証がもらえた。さすがは政府の神通力か。
面会。
つまり、これから向かう場所には誰かがいるということだ。
エレベーターが三階で止まり、そこで木田さんが降りる。どうやら三階は脳神経外科のようだった。ナースセンターの前を通過して彼女は廊下をどんどん進んでいく。
脳神経外科のフロアは明るいが、やけに足元が冷える場所だった。病院独特のあの無機質な冷たさだ。廊下の突き当りまで進むと、「ここよ」と木田さんが足を止める。個室らしい病室の扉がそこにあった。
「ここですか?」
予想していたものと少し違った。どれだけ仰々しい場所に連れてこられるかと身構えていたのだが、見た目は普通の病室だ。壁にネームプレートはかかっていない。扉の真ん中に『関係者以外立ち入り禁止』の張り紙こそあるが、それ以外は何の変哲もない。
思わず乃蒼と顔を見合わせた。
「なんて言うんでしょう。もっとこう、研究室みたいな場所に案内されるかと思っていたので、肩透かしをくらっています」
本音を吐露すると、だろうね、と木田さんが苦笑した。
「大丈夫。これから期待に添えられると思うよ」
「僕はここで待っていますので」
廊下の壁にもたれかかった男性に木田さんが頷きで返し、カードキーで部屋の鍵を外した。
「じゃあ、行こうか」
扉を開けて、木田さんが病室の中に入っていく。乃蒼、僕の順で続いた。
……? なんだこれは。
病室に入ったとき、浮遊感のある眩暈を一瞬感じた。エレベーターの動き出しで感じるあれに近い。
隣の乃蒼が変な顔をしている。彼女も何か感じたのだろうか。
電子音の羅列が鼓膜を打った。
窓から、秋の午後を思わせる重みのない透明な光が差していた。
空調が効いていて部屋の中は涼しい。
病室の中央にベッドがひとつあって、一人の女性がその上で寝ていた。
傍らに電子機器がいくつか置いてあって、そこから伸びたコードが女性の腕や胸元につながっていた。
年のころは二十歳前後だろうか。色白で、ふわっとした栗色の髪が印象的だ。
隣の乃蒼がごくりと喉を鳴らした。鳴らした理由は僕にもすぐわかった。少し痩せてこそいるが、その女性の顔は僕たちがよく知っているものだったから。
「乃蒼?」
その女性の名前が、僕の口からこぼれて落ちる。
ベッドの上にいるのは、哘乃蒼その人だった。
思わず隣の顔を見る。この部屋に乃蒼が二人いる……? これはいったいどういうことだ。思考のパーツはバラバラで、頭の整理が追い付かない。
「どうして」
乃蒼の声は震えていた。
「どうして私が二人いるんですか」
「そんなのはこっちが聞きたいくらいだよ。君はいったい何者なのか? ってね」
困惑顔で木田さんが言う。
「だから、私が生きている、とそう言ったんですね?」
「そうだ」
「いや、おかしいじゃないですか。乃蒼は確かに死んでいるんです。そのときのことは僕だって覚えているし、葬儀も火葬も済んでいる。まさかこんな」
言いながら、自己矛盾で頭がおかしくなる。なら、隣にいる乃蒼はなんだ。このベッドの上にいるのは誰なんだ?
ベッドの上にいる乃蒼の寝顔は穏やかだ。本当にただ眠っているようにしか見えない。
「そうね。わたしたちがいる世界の哘乃蒼は確かに死んでいる」
「私たちがいる世界……?」
文脈に違和感があった。
「しかし、この世界においては、哘乃蒼はこうして生きている。昏睡状態に陥ってこそいるけど、ね。これが現実さ」
「待ってください。意味がわからないです」
「部屋に入ったとき、空気が変わった気がしなかった?」
乃蒼と顔を見合わせる。「しました」と乃蒼が答える。
やはり気のせいじゃなかったのか。空間がねじ曲がったような、部屋ごと置き換えられたような、言葉にするのが難しい妙な感覚があった。
「並行世界、という言葉を聞いたことがない? 今いる世界と並行して、まったく別の世界が存在しているという概念の話」
「SFっぽいですね。そういうのでなら、聞いたことがあります」と僕は笑う。
SFとかファンタジーとか、そういったジャンルの小説でよく使われる設定だ。
「実在しているのよ」
「実在するんですか? まさか」
「そう、そのまさか。今いるこの病室が、その並行世界なのよ。なんらかの理由によって、この部屋だけがわたしたちがいる世界とつながってしまったの。この空間だけが、ふたつの世界で共有されている、と言い換えても良いかもね。そして、こちらの――並行世界においては、哘乃蒼はこうして生きている」
「まさか、そんなことが」
心臓が、どくんと跳ねた。
――並行世界ものにしてみては、どうかなって思っているんだ。
「確かなんですか?」
「ええ。証拠なら……そうね、そこの窓から外を見てみな」
木田さんにうながされるまま窓辺に寄って外を見て、そこから見えた景色に絶句した。
「紅葉している……」
乃蒼の声にああ、と頷いた。
病院の前には立木が植えられているスペースがあるのだが、そこに立ってきる木のすべてが紅葉していた。そんなはずはないのだ。今はまだ、八月の下旬なのだから。
この部屋だけ、時間の流れが異なっている証左だ。
「今いるこの世界とわたしたちがいる世界とでは、時間の流れが異なっている。具体的には、こちらの世界のほうが二ヵ月ほど進みが早いみたい。この部屋がわたしたちの世界とつながっているとわかったのは、昨年の十一月三日のことだ。……なんの日か、わかっているわよね」
「乃蒼と僕がバス事故に遭遇した日です」
「そうね」
あの日の光景が思い出されて胸がきしんだ。血まみれになった彼女の顔は、もう思い出したくないのに。
――事故に遭ったことで主人公は重症を負って、そのまま昏睡状態に陥ってしまうの。体は健康なんだけれど、意識はなぜか戻らない。眠り続ける意識の中で、彼女は並行世界を作り出していたのね。
「では、私はいったいなんなのですか? どうして私はここにいて、こうして話したり呼吸ができたりするんですか!」
混迷と悲哀と、ふたつの感情の狭間でゆれているような声だった。木枯らしに吹かれた落ち葉のように、目を離すと消えてしまいそうな儚い嘆き。
「さっきも言ったように、残念ながらそれはわたしたちにもわかっていないのよ。現段階でわかっていることだけを説明するわね」
この部屋の存在がわかってから、この部屋にまつわるすべてのことが機密情報となって、同時に政府の直轄管理下におかれた。
この世界にいる哘乃蒼は、事故以降昏睡状態が続いている。(昏睡状態とは、外部からの刺激に対してまったく反応することなく眠り続けている状態のことだ)
この部屋から出ると、ただちに元の世界に戻る。
この部屋にいるとき、こちらの世界の人間と遭遇することはない。(微妙に時空が異なっている?)
この部屋には監視カメラを設置している。
監視カメラの映像では、こちら側の住人の動きは監視できている。
彼女に繋がれている電子機器からの情報は、あちら(僕たちがいる世界)でも計測できている。彼女の呼吸、脈拍、意識活動レベルなどがわかっている。
基本的に、哘乃蒼の意識は深い眠りの中にある。
だが、とあるタイミングで、意識活動レベルがわずかに上下することがある。
「どのタイミングで上下していると思う?」
いたずらな顔で木田さんが笑う。
僕には答えが予測できていたが、発言するのはためらわれた。それは隣の乃蒼も同じであった。きっと。おそらく。
「答えは日の出と入りね。わたしたちが住んでいるほうの世界で夜が明けるたびに意識の活動がわずかに活性化し、日没と同時に眠りが深くなる。まるで、世界の夜明けと連動しているみたいにね。……もちろん、脳波の動きはほんのわずかよ。でも確実に、世界の活動とリンクしているの。……わたしも、最初に聞いたときは半信半疑だったわ。けれど、脳波の動きのデータを見せられると、納得せざるを得なくなった」
――自らが作り出した並行世界の中に主人公は迷い込む。そこで、死んだはずの彼と再会するの。そこは、彼女が作り出した理想の世界だからね。
もうやめてくれ、と僕は思う。
それでも確認しなくてはならない。それでもこれだけは。
「では、こちらの世界にいる乃蒼の意識と、僕たちの世界の活動がリンクしている、と。そういう話になるんですか?」
「そうね。もちろんこれは可能性でしかないわ。でも、これまで観測してきた情報を精査した結果、そうである可能性が高いと指摘されている」
「もし、もしもです。このベッドの上で眠っている乃蒼が死んだ場合、僕たちがいる世界はどうなりますか?」
「この世界にいる彼女の意識と、わたしたちの世界の活動がリンクしているのだとしたら、意識の活動がゼロになったとき、世界の活動も同じ道を辿るんじゃないかしら?」
「それは、どういう意味ですか?」
乃蒼が口を挟んだ。唇の血色が悪くなっているのか紫色だ。
「わたしたちがいる世界が、消えてしまうんじゃないかってこと」
「……!」
乃蒼が唇をかんだ。言葉を選ぶみたいに視線をさまよわせる。
――でも、そこは所詮夢の中の世界でしかない。いつまでも彼女の意識が並行世界のほうに縛られていては、元の肉体のほうに影響が出てきてしまう。
「ここで眠っている私は、この先どうなってしまうんですか……? どうなる、べきなんですか?」
「わからない。この世界にいる彼女はこの世界にいる人間が管理しているのだからね。わたしたちには、指を咥えて見ていることしかできない。ただ、彼女の容態が大きく変化したとき、わたしたちの世界にどのような影響を及ぼすかわかっていない以上、このまま眠っていてくれたほうがありがたいのかもね。残酷な話ではあるけれども」
「もし、ベッドの上にいる乃蒼が目覚めたらどうなりますか」
「彼女が昏睡状態に陥ったことで始まった世界だとしたら、それが終わったときやはり世界も同じ道を辿るんじゃないかしら」
「つまり、僕たちがいる世界は、ここにいる乃蒼が見ている夢の中の世界であって、彼女が目覚めると同時に消えてしまう。この解釈で合っていますか?」
僕の質問に木田さんがゆっくりと頷いた。これは、あくまでも可能性だけれどもね、と添えて。
「わたしは、正直眉唾ものだと思っているんだけれど、研究室のお偉方はそう考えているみたいね。まったく、夢を見るのは思春期までにしてほしいものだわ」
全身の毛穴が閉じる。あらゆる思考が圧縮されすぎて頭も体もついていかない。頭が痛い。体中が意味もなく痛い。吐く息が熱い。
「最後にひとつだけ確認をさせてください。こちら側の世界では、乃蒼が生き残った代わりに僕が死んでいるんじゃないですか?」
――だから彼女はいずれ元の世界に戻らなくてはならない。彼が死んでしまっていない、元の世界へ。
へえ、と木田さんが目を丸くした。
「よくそこまでわかったわね。その通りよ。こちらの世界では長濱君だけが死んでいて、わたしたちがいる世界では哘さんだけが死んでいる。世界の構造は、その一点でのみ異なっているの。もっとも、この部屋から観測できる情報だけでは、大してわかることはないけれどもね」
貧血でも起こしたみたいに隣の乃蒼がぐらついた。「大丈夫か」と倒れて怪我をしないように慌てて支えた。乃蒼は僕の腕の中で小さく震えていた。その震えが治まるまで、ずっと彼女の背中をさすってあげた。
これですべてわかった。
もちろんまだ憶測でしかない。本音を言えば認めたくない。
だってありえないだろう? あまりにも非科学的だ。
僕たちが作った小説の設定が、現実になるなんて。
ベッドの上の乃蒼の首筋に触れてみた。体温がある。彼女の肌の感触が伝わってくる。確かに彼女は生きているんだ。こちらの世界で。
彼女が見ている夢の中で、僕は生かされているのか?
シナリオ通りであれば、この夢はいずれ終わる。そのとき僕は死ぬのだ。このベッドで眠っている乃蒼の見ている夢の中で、僕は死ぬ。
今日見せられた状況は、僕たちが書いている小説の設定とまったく同じだった。
なら、こう思うしかないだろう。
僕たちが暮らしている世界は、ここで眠っている乃蒼が作りだした並行世界なのだと。
*
受付で木田さんが名刺を見せると、顔パスで面会許可証がもらえた。さすがは政府の神通力か。
面会。
つまり、これから向かう場所には誰かがいるということだ。
エレベーターが三階で止まり、そこで木田さんが降りる。どうやら三階は脳神経外科のようだった。ナースセンターの前を通過して彼女は廊下をどんどん進んでいく。
脳神経外科のフロアは明るいが、やけに足元が冷える場所だった。病院独特のあの無機質な冷たさだ。廊下の突き当りまで進むと、「ここよ」と木田さんが足を止める。個室らしい病室の扉がそこにあった。
「ここですか?」
予想していたものと少し違った。どれだけ仰々しい場所に連れてこられるかと身構えていたのだが、見た目は普通の病室だ。壁にネームプレートはかかっていない。扉の真ん中に『関係者以外立ち入り禁止』の張り紙こそあるが、それ以外は何の変哲もない。
思わず乃蒼と顔を見合わせた。
「なんて言うんでしょう。もっとこう、研究室みたいな場所に案内されるかと思っていたので、肩透かしをくらっています」
本音を吐露すると、だろうね、と木田さんが苦笑した。
「大丈夫。これから期待に添えられると思うよ」
「僕はここで待っていますので」
廊下の壁にもたれかかった男性に木田さんが頷きで返し、カードキーで部屋の鍵を外した。
「じゃあ、行こうか」
扉を開けて、木田さんが病室の中に入っていく。乃蒼、僕の順で続いた。
……? なんだこれは。
病室に入ったとき、浮遊感のある眩暈を一瞬感じた。エレベーターの動き出しで感じるあれに近い。
隣の乃蒼が変な顔をしている。彼女も何か感じたのだろうか。
電子音の羅列が鼓膜を打った。
窓から、秋の午後を思わせる重みのない透明な光が差していた。
空調が効いていて部屋の中は涼しい。
病室の中央にベッドがひとつあって、一人の女性がその上で寝ていた。
傍らに電子機器がいくつか置いてあって、そこから伸びたコードが女性の腕や胸元につながっていた。
年のころは二十歳前後だろうか。色白で、ふわっとした栗色の髪が印象的だ。
隣の乃蒼がごくりと喉を鳴らした。鳴らした理由は僕にもすぐわかった。少し痩せてこそいるが、その女性の顔は僕たちがよく知っているものだったから。
「乃蒼?」
その女性の名前が、僕の口からこぼれて落ちる。
ベッドの上にいるのは、哘乃蒼その人だった。
思わず隣の顔を見る。この部屋に乃蒼が二人いる……? これはいったいどういうことだ。思考のパーツはバラバラで、頭の整理が追い付かない。
「どうして」
乃蒼の声は震えていた。
「どうして私が二人いるんですか」
「そんなのはこっちが聞きたいくらいだよ。君はいったい何者なのか? ってね」
困惑顔で木田さんが言う。
「だから、私が生きている、とそう言ったんですね?」
「そうだ」
「いや、おかしいじゃないですか。乃蒼は確かに死んでいるんです。そのときのことは僕だって覚えているし、葬儀も火葬も済んでいる。まさかこんな」
言いながら、自己矛盾で頭がおかしくなる。なら、隣にいる乃蒼はなんだ。このベッドの上にいるのは誰なんだ?
ベッドの上にいる乃蒼の寝顔は穏やかだ。本当にただ眠っているようにしか見えない。
「そうね。わたしたちがいる世界の哘乃蒼は確かに死んでいる」
「私たちがいる世界……?」
文脈に違和感があった。
「しかし、この世界においては、哘乃蒼はこうして生きている。昏睡状態に陥ってこそいるけど、ね。これが現実さ」
「待ってください。意味がわからないです」
「部屋に入ったとき、空気が変わった気がしなかった?」
乃蒼と顔を見合わせる。「しました」と乃蒼が答える。
やはり気のせいじゃなかったのか。空間がねじ曲がったような、部屋ごと置き換えられたような、言葉にするのが難しい妙な感覚があった。
「並行世界、という言葉を聞いたことがない? 今いる世界と並行して、まったく別の世界が存在しているという概念の話」
「SFっぽいですね。そういうのでなら、聞いたことがあります」と僕は笑う。
SFとかファンタジーとか、そういったジャンルの小説でよく使われる設定だ。
「実在しているのよ」
「実在するんですか? まさか」
「そう、そのまさか。今いるこの病室が、その並行世界なのよ。なんらかの理由によって、この部屋だけがわたしたちがいる世界とつながってしまったの。この空間だけが、ふたつの世界で共有されている、と言い換えても良いかもね。そして、こちらの――並行世界においては、哘乃蒼はこうして生きている」
「まさか、そんなことが」
心臓が、どくんと跳ねた。
――並行世界ものにしてみては、どうかなって思っているんだ。
「確かなんですか?」
「ええ。証拠なら……そうね、そこの窓から外を見てみな」
木田さんにうながされるまま窓辺に寄って外を見て、そこから見えた景色に絶句した。
「紅葉している……」
乃蒼の声にああ、と頷いた。
病院の前には立木が植えられているスペースがあるのだが、そこに立ってきる木のすべてが紅葉していた。そんなはずはないのだ。今はまだ、八月の下旬なのだから。
この部屋だけ、時間の流れが異なっている証左だ。
「今いるこの世界とわたしたちがいる世界とでは、時間の流れが異なっている。具体的には、こちらの世界のほうが二ヵ月ほど進みが早いみたい。この部屋がわたしたちの世界とつながっているとわかったのは、昨年の十一月三日のことだ。……なんの日か、わかっているわよね」
「乃蒼と僕がバス事故に遭遇した日です」
「そうね」
あの日の光景が思い出されて胸がきしんだ。血まみれになった彼女の顔は、もう思い出したくないのに。
――事故に遭ったことで主人公は重症を負って、そのまま昏睡状態に陥ってしまうの。体は健康なんだけれど、意識はなぜか戻らない。眠り続ける意識の中で、彼女は並行世界を作り出していたのね。
「では、私はいったいなんなのですか? どうして私はここにいて、こうして話したり呼吸ができたりするんですか!」
混迷と悲哀と、ふたつの感情の狭間でゆれているような声だった。木枯らしに吹かれた落ち葉のように、目を離すと消えてしまいそうな儚い嘆き。
「さっきも言ったように、残念ながらそれはわたしたちにもわかっていないのよ。現段階でわかっていることだけを説明するわね」
この部屋の存在がわかってから、この部屋にまつわるすべてのことが機密情報となって、同時に政府の直轄管理下におかれた。
この世界にいる哘乃蒼は、事故以降昏睡状態が続いている。(昏睡状態とは、外部からの刺激に対してまったく反応することなく眠り続けている状態のことだ)
この部屋から出ると、ただちに元の世界に戻る。
この部屋にいるとき、こちらの世界の人間と遭遇することはない。(微妙に時空が異なっている?)
この部屋には監視カメラを設置している。
監視カメラの映像では、こちら側の住人の動きは監視できている。
彼女に繋がれている電子機器からの情報は、あちら(僕たちがいる世界)でも計測できている。彼女の呼吸、脈拍、意識活動レベルなどがわかっている。
基本的に、哘乃蒼の意識は深い眠りの中にある。
だが、とあるタイミングで、意識活動レベルがわずかに上下することがある。
「どのタイミングで上下していると思う?」
いたずらな顔で木田さんが笑う。
僕には答えが予測できていたが、発言するのはためらわれた。それは隣の乃蒼も同じであった。きっと。おそらく。
「答えは日の出と入りね。わたしたちが住んでいるほうの世界で夜が明けるたびに意識の活動がわずかに活性化し、日没と同時に眠りが深くなる。まるで、世界の夜明けと連動しているみたいにね。……もちろん、脳波の動きはほんのわずかよ。でも確実に、世界の活動とリンクしているの。……わたしも、最初に聞いたときは半信半疑だったわ。けれど、脳波の動きのデータを見せられると、納得せざるを得なくなった」
――自らが作り出した並行世界の中に主人公は迷い込む。そこで、死んだはずの彼と再会するの。そこは、彼女が作り出した理想の世界だからね。
もうやめてくれ、と僕は思う。
それでも確認しなくてはならない。それでもこれだけは。
「では、こちらの世界にいる乃蒼の意識と、僕たちの世界の活動がリンクしている、と。そういう話になるんですか?」
「そうね。もちろんこれは可能性でしかないわ。でも、これまで観測してきた情報を精査した結果、そうである可能性が高いと指摘されている」
「もし、もしもです。このベッドの上で眠っている乃蒼が死んだ場合、僕たちがいる世界はどうなりますか?」
「この世界にいる彼女の意識と、わたしたちの世界の活動がリンクしているのだとしたら、意識の活動がゼロになったとき、世界の活動も同じ道を辿るんじゃないかしら?」
「それは、どういう意味ですか?」
乃蒼が口を挟んだ。唇の血色が悪くなっているのか紫色だ。
「わたしたちがいる世界が、消えてしまうんじゃないかってこと」
「……!」
乃蒼が唇をかんだ。言葉を選ぶみたいに視線をさまよわせる。
――でも、そこは所詮夢の中の世界でしかない。いつまでも彼女の意識が並行世界のほうに縛られていては、元の肉体のほうに影響が出てきてしまう。
「ここで眠っている私は、この先どうなってしまうんですか……? どうなる、べきなんですか?」
「わからない。この世界にいる彼女はこの世界にいる人間が管理しているのだからね。わたしたちには、指を咥えて見ていることしかできない。ただ、彼女の容態が大きく変化したとき、わたしたちの世界にどのような影響を及ぼすかわかっていない以上、このまま眠っていてくれたほうがありがたいのかもね。残酷な話ではあるけれども」
「もし、ベッドの上にいる乃蒼が目覚めたらどうなりますか」
「彼女が昏睡状態に陥ったことで始まった世界だとしたら、それが終わったときやはり世界も同じ道を辿るんじゃないかしら」
「つまり、僕たちがいる世界は、ここにいる乃蒼が見ている夢の中の世界であって、彼女が目覚めると同時に消えてしまう。この解釈で合っていますか?」
僕の質問に木田さんがゆっくりと頷いた。これは、あくまでも可能性だけれどもね、と添えて。
「わたしは、正直眉唾ものだと思っているんだけれど、研究室のお偉方はそう考えているみたいね。まったく、夢を見るのは思春期までにしてほしいものだわ」
全身の毛穴が閉じる。あらゆる思考が圧縮されすぎて頭も体もついていかない。頭が痛い。体中が意味もなく痛い。吐く息が熱い。
「最後にひとつだけ確認をさせてください。こちら側の世界では、乃蒼が生き残った代わりに僕が死んでいるんじゃないですか?」
――だから彼女はいずれ元の世界に戻らなくてはならない。彼が死んでしまっていない、元の世界へ。
へえ、と木田さんが目を丸くした。
「よくそこまでわかったわね。その通りよ。こちらの世界では長濱君だけが死んでいて、わたしたちがいる世界では哘さんだけが死んでいる。世界の構造は、その一点でのみ異なっているの。もっとも、この部屋から観測できる情報だけでは、大してわかることはないけれどもね」
貧血でも起こしたみたいに隣の乃蒼がぐらついた。「大丈夫か」と倒れて怪我をしないように慌てて支えた。乃蒼は僕の腕の中で小さく震えていた。その震えが治まるまで、ずっと彼女の背中をさすってあげた。
これですべてわかった。
もちろんまだ憶測でしかない。本音を言えば認めたくない。
だってありえないだろう? あまりにも非科学的だ。
僕たちが作った小説の設定が、現実になるなんて。
ベッドの上の乃蒼の首筋に触れてみた。体温がある。彼女の肌の感触が伝わってくる。確かに彼女は生きているんだ。こちらの世界で。
彼女が見ている夢の中で、僕は生かされているのか?
シナリオ通りであれば、この夢はいずれ終わる。そのとき僕は死ぬのだ。このベッドで眠っている乃蒼の見ている夢の中で、僕は死ぬ。
今日見せられた状況は、僕たちが書いている小説の設定とまったく同じだった。
なら、こう思うしかないだろう。
僕たちが暮らしている世界は、ここで眠っている乃蒼が作りだした並行世界なのだと。
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