カーテンの隙間から差している朝日の眩しさで目が覚めた。
 コーヒーの香りがどこかから漂ってくる。ハムが焼ける香ばしい匂いが室内に充満していた。
 眠い目をこすりながらベッドの上に体を起こした。昨晩はあれからどうしたんだっけ。鉛でも詰まっているみたいに頭の回転は悪く、昨日のことを思い出すまで少し間があった。

「おはよう。ようやく目が覚めたね」

 キッチンから乃蒼の声がした。時計を見るとすでに八時を過ぎていた。
 なんの邪気もない彼女の単純なその笑顔は、隠し事をしている今の僕には直視できないくらいに眩しい。

「昨日は何時に帰ってきたの? 私、寝ていたからわかんないや」

 何気ないその質問が、僕の心をえぐっていく。
 エプロンを外して、調理が終わった朝食をお盆に乗せて乃蒼がこちらにやってくる。

「一時半くらいかな。朝香の奴、だいぶひどく酔っぱらっていてさ、家まで送り届けてから帰ってきたよ」

 僕が帰ってきたとき、乃蒼はすでに熟睡していた。穏やかな寝顔だった。それだけに、見ているだけで胸が痛んだ。
「ふうん」とそっけなく呟き、乃蒼はいっさい詮索してこなかった。
 僕の反応を観察するために、あえてそっけなく接していると考えるのは、自分に都合が良すぎるだろうか。醜い嫉妬の念を抱きそうになって、慌ててその感情を飲み干した。

「もう起きていて大丈夫なのか?」
「うん。元々大した熱でもなかったしね。今朝計ったら、すっかり平熱だったよ」
「そっか」

 結論から言うと、朝香と一線を越えることはなかった。
 僕が抱きしめると、朝香がまた唇を重ねてくる。今度は僕からも応えた。
 朝香が僕の体に腕を回して抱きついてくる。
 その抱擁は愛情にあふれていた。
 状況に流されて、行きずりの関係で一線を超えてしまう男女なんて、それこそ星の数だけいる。僕たちがそのひとつになるだけさ。そうなったところで何も変わりやしない。
 そう思ってしまったことも確かだ。
 でもそれは、僕が本当に望んでいたものではなかった。
 彼女の唇の感触を味わいながら、頭の中では乃蒼のことを考えていた。乃蒼への想いが、罪悪感が、僕の情欲に歯止めをかけていた。
 そこから、どうしても手が動かなくなった。
「ごめん。これ以上は無理だ」と謝ると、朝香は再び泣き崩れた。自身が犯した過ちを、後悔するみたいなすすり泣きだった。
 彼女の体から離れると、僕はベッドから降りて服を着た。そして朝香になにも言わずに部屋を出たのだ。
 しばらく、朝香と顔を合わせられないな……。

 乃蒼が作ってくれた朝食を二人で食べた。
 会話は少なかった。いつもだったら、乃蒼と他愛ない話をしながら食べる朝食はとても楽しいものなのに、今日に限ってそれは味気ないものに変わっていた。
 何も言わないが、乃蒼は怒っているのだろうか。

「ごちそうさま」

 食べ終えたのは、僕が先だった。皿を重ねて流し台へと運んでいく。その間もずっと彼女は黙っていたが、僕の後に続いて流し台に食器を持ってきた。乃蒼が洗った食器をタオルで拭っていく。
「ねえ」と、その作業中に乃蒼が口を開いた。僕はなにも言わずに続きを待った。

「昨日寝ながら考えたんだけどさ。あっ……小説の話ね。主人公が見ている夢が、物語の世界だった、という設定はどうかな? これだと、少しさかのぼって改稿を入れる必要が出てきそうだけれど」
「ああ……いいんじゃない」

 努めて明るくそう答えた。内心で後ろめたさが渦巻いていて、それを悟られたくなかったから。創作の話をすることで、普段通りの空気に戻せるのはありがたい。まさに渡りに船だった。
 乃蒼が説明を加えていく。
 並行世界を作り出したのは主人公の女性なのだが、これを彼女が見ている夢の中の世界だった、と定義してはどうか? というものだった。
 主人公と彼が乗っていた車が事故に遭う。彼はその事故で死に、主人公は一命をとりとめるも昏睡状態に陥る。混濁した意識の中で彼女は並行世界を作り出し、そこに自我を持って迷い込む。しかしそこは夢の中の世界でしかないので、主人公が目覚めたら世界は消えてしまうのだ――という設定だ。
 正直面白そうだと感じた。
 この設定からハッピーエンドに持っていくのは骨が折れそうだが、大変だからこそやりがいがある。編集の腕の見せ所だ。

「どこか一ひねり足りないんじゃないかな、とは僕も思っていたからね。良さそうなアイディアは取り入れていきたい。……もっとも、その設定だと主人公が元の世界に戻った時点で物語の中の世界は滅びてしまうわけだから、結末を描き方が難しいけれどね。まあ、うまく調整してみよう」
「わーい! やったあ! 編集様の了解が取れた!」

 それは、向日葵の花みたいに無邪気な笑みだった。さっきとあまりにも違う反応に、乃蒼の本心が読めなくなる。

「それからさ、ちょっと考えていたことがあるんだけど」

 機嫌が良さそうなので、僕からも提案をしてみることに。

「うん、なに?」
「今度、乃蒼の実家に行ってみないか? もしかしたら、というか、たぶん乃蒼のお母さんに乃蒼の姿は見えると思うから」

 これが最後かもしれないし、とまではさすがに言えなかった。乃蒼の家庭環境は複雑なので、彼女が積極的に会いたがっていないのは知っていた。それでも、これが今生の別れである可能性があるのなら、一度くらいは顔を見せておくべきじゃないのか、とずっと思ってきた。

「うん、そうだよね。私も一度行くべきだとは思っていた」

 乃蒼は素直に頷いてくれたが、その笑顔にはどこか陰りがあるようだった。
 やはり、怖いのだろう。もし母親に存在を認知されなかったら、乃蒼はこの世界に留まれたとしても天涯孤独になってしまう。確かめたい、会いたい、と思う反面、答えを知りたくないと恐れるのは当然だ。
 それでも、このまま有耶無耶にすべきじゃないと思うんだ。絶対に。

「少しだけ、怖いけれどね」
「乃蒼、大丈夫だよ。……僕はずっと君の側にいる。君がこの世界からたとえ消えてしまっても、僕の記憶の中には君は残る。だから何も心配しなくていい。今は、僕たちにできることをしよう」
「立夏……」

 感極まったような声で、乃蒼が呟いた。
 そこから先のことは、そのときになってから考えていけばいいさ。

 実に今さらの話ではあるが、僕と乃蒼の故郷は佐賀県だ。都道府県魅力度ランキングでも常に下位に低迷するなどとかく印象が悪い県だが、実際に住んでみるといいところはいっぱいある。たとえば、吉野ケ里遺跡や神埼ガンダーラなどに代表される文化遺産なんかがそうだ。
 九州の西端に位置する佐賀県は、有明海と玄界灘に囲まれている。沿岸の交通の便はわりといいのだが、内陸部へ行くと非常に悪くなるという欠点がある。とくに鉄道網が貧弱で、JR長崎本線が走っているだけで他はすべてバス頼りだ。しかも本数が少なくて不便極まりない。
 そんな不便な場所ではあるが、僕は佐賀県を愛している。
 それはもちろん自分の生まれ故郷だからという理由が一番にあるのだが、それだけではない。
 僕たちの故郷である武雄市は、僕の好きな小説の舞台にもなっているからだ。実際にその小説を読んでから、僕は自分の身近にもこんな風景が広がっていたことを知った。
 八百万の神々が宿る街。
 武雄市はそう形容されるようなところだ。
 古いものを大切にしながら新しいものも受け入れていく懐の深さがある。さらに四季折々の変化に富む景観の美しさと、人々の勤勉で実直な気質。それらが絶妙なバランスで調和している町なのだ。
 鹿児島から佐賀まで車で行く場合、所要時間は約四時間。
 現地での宿泊先は僕の家でも良いので困らないが、高速バス代が結構高額になるのでおいそれとは行けないのだった。

 僕と乃蒼は、夏休み最後の週末に佐賀に行こうと計画を立てた。
 予定が決まってひと安心。これで心置きなく執筆に全力投球できる、と気合を入れなおしていた日曜日の朝。突然鳴ったドアチャイムの音が、惰眠を貪ろうとしていた僕の意識を呼び起こした。
 今何時だよ。時計を見ると朝の七時だった。
 日曜なんだからもうちっと寝させろ。空気が読めない男は嫌われるのだと、令和の時代のデートマニュアルにも書いてあるだろう。
 床に敷いた布団の中で寝返りを打っていると、ピンポーンと再びドアチャイムが鳴る。
 もぞもぞ。ベッドから衣擦れの音がする。布団から乃蒼が顔を出して、「お客さんみたいだよ」と言う。
 風邪をひいたあの日から、乃蒼はあまり早起きできなくなった。時々気だるさもうったえている。ここ数日遅くまで執筆をしているので、疲れが溜まっているのかもしれない。

「出なくていいよ。どうせ、新聞の勧誘か日本放送協会の集金だろう」
「でも……」

 ピンポーン。
 無視することを決めて布団に顔を埋めると、その行動を非難するみたいに三度目のドアチャイムが鳴る。
 さすがにしつこい。しつこい男は嫌われると、平成の時代のデートマニュアルにも書いてあるだろう。あまりにしつこいのでここらで応答しておくことにした。どれだけ冴えない男がドアの向こうにいるのか、見届けてやろうという気になった。

「はいはい、ただいま」

 むやみにイラついたりはしない。余裕のない男は嫌われると、昭和の時代のデートマニュアルにもきっと書いてあるのだから。知らんけど。
 玄関に着き、ドアスコープから相手の姿を確認して僕は息を呑んだ。
 急いでドアを開けた。

「どうしてお前がここにいるの?」

 空気が読めなくて、しつこくて余裕のない来訪者は、瀬野朝香その人だった。
 麦わら帽子を被って、フリルの付いたピンクのワンピースを身にまとい、凛然とした所作で立っていた。どうしてすぐに開けないの、と顔に書いてあるようだった。
 どうしてそんな服を着ているんだよ、と僕は目で語った。

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