『悪い、たぶんバレちまった。少なくとも、僕が本気で付き合っていないのは筒抜けになった』

 隠しておくわけにもいかず、チャットアプリで朝香にそう伝えた。

『そっか。まあ、しょうがなかね』

 もうちょっとうまくやりなさいよ、とか、下手くそ、とか、要領が悪いんだから、などと罵られるだろうと覚悟していたのだが、返信は思いの外素っ気なくて拍子抜けした。
 うまくいかないだろうと、最初からさして期待はしていなかった、ということなのだろうか。

「お風呂あがったから入っていーよ」

 濡れた髪をタオルで拭きながら、乃蒼が浴室から出てくる。

「おう」

 時刻は二十二時。窓から見える空には満月がかかっていた。
 読んでいた本に栞を挟んでテーブルの上に置く。乃蒼の姿をチラッと見て、慌てて目をそらした。履いているホットパンツから覗いている素足が眩しい……じゃなくて。そっちはまだいい。お前なんでブラ付けてないんだよ。
 キャミソールの表面に体の線がくっきりと浮き出ている。わざとなのか、それとも。
 僕は乃蒼のことが好き。では、向こうは?
 そういう対象として見られていないのか。そこがわからないからあと一歩が踏み出せない。
 同時に、知りたくないとも感じている。今の関係を壊したくないのだ。いつの日か彼女がいなくなって、終わってしまう恋であるなら、この気持ちを秘めたままにしておいても、いいんじゃないのかとすら思ってしまう。
 プラトニックな関係のままで終わってしまったとしたら、そのとき僕はひどく後悔するのだろうか。

「なに?」

 視線を感じたのか、乃蒼が小首をかしげて僕を見た。その仕草がまた可愛らしい。

「いや、なんでもない」
「そう」

 乃蒼は髪を乾かすのもそこそこに僕の隣に座った。肩と肩が触れ合う距離だ。風呂上がりで火照った体はまだ冷め切っておらず熱いくらいに感じる。
 この不可思議な現象が終焉する日がくるとしたら、この気持ちはそのとき伝えよう。――いや、それとも今伝えたほうがいいのだろうか。
 心は、今日も空回りだ。
 キャンパスで木田とすれ違うたびに気まずかった。
 あいつの視点で見れば、僕は乃蒼と瓜二つな女の子に、死んだ彼女の姿を重ねながら、同時に手近な女にも手を出した二股野郎だ。不本意だ。そして憂鬱極まりない。それでも、誤解を解くつもりは別になかった。
 隣に乃蒼がいるだけで、心がポカポカと温かくなる。彼女がいなくなったことで、寒々としていた心に火が点いたのだ。改めて自覚したこの気持ちを手放したくない。しかし、いずれ離れていく気持ちであるなら、と思うと心が萎縮する。
 結局、僕は臆病なのだ。自分の気持ちをどう扱って良いのか自分でもわかっていない。
 夏休み中なので大学に行く回数が少なくて、その分木田と顔を合わせる機会も少ない。それだけが救いだろうか。

 それから数日後、乃蒼が熱を出して寝込んだ。
 頭が痛い。体が怠いと朝起き出すなり彼女が訴えてきて、熱を測ると三十八度あった。軽い風邪だと思うのだが、乃蒼は病院を受診できないので少し弱った。他人に視認されないと、こういったとき困るのだなと身につまされた。
 いっそ本当に幽霊だったなら、体調不良なんて気にしなくて済むのに。
 この先、医者にかからなければ助けられない病気にもし乃蒼が罹患したら、どうすれば良いのだろう?
 考えても答えが出そうになくて、問題を先送りすることにした。解決になっていないのは、わかっている。
 薬を飲ませて、暖かくして寝させた。
 お粥を作ってやると、「お粥なんて作れたんだ」と笑われる。

「ここ最近は乃蒼に頼り切りになっていたとはいえ、それまでは一人暮らしをしていたんだ。お粥くらいなら作れる。バカにすんな」

 とは言ったものの、自炊をする機会は、乃蒼が来てから確実に増えていた。去年の僕だったら、お粥すらきっとまともに作れなかった。
 そのとき「電話」と乃蒼が言った。

「え?」
「電話、鳴ってるよ」

 絨毯の上に放り投げていたスマホの画面が点滅している。拾い上げて見ると、知らない番号からの着信だった。
 うわ、出たくねえ。どうせよくあるなんとかの勧誘だろこれ。お金がある人のところにかけてください。
 それなのに、虫の知らせというやつなのか胸がざわついて、出ないと後悔するような気がした。僕はしぶしぶ電話に出た。

「もしもし」

 僕が電話に出たのが意外だったのか、電話の主は沈黙していた。
 そこは、「お世話になっております。お忙しいところ、失礼いたします」と機械的に喋るところじゃないのかよ? ちょっと拍子抜けだ。

「おかけになった電話番号は、電源が入っていないか電波が届かないところにあるためかかりません」
『長濱君だよね?』
「んんん? 誰? いや、そうだけど」

 思いの外普通の反応がきて面食らう。というか、この声どこかで聞いたような?

「もしかして、木田か」
『正解。俺の声を覚えてくれていたようで嬉しいよ』
「僕はあんまり嬉しくないけどな。で、なに?」

 不機嫌なのがそのまま声に出てしまう。

『これから、ちょっと出てこられる?』
「ヤだよ。じゃあな」
『おーい! 待てって! 電話切るな。君に会いたがっているのは俺じゃないんだ。朝香なんだよ』
「へ? 朝香?」

 どうして今朝香の名前が出てくる? と思ってから、先日のやり取りが頭に浮かぶ。ということは、木田と朝香は今一緒にいる? さすがにこのまま電話を切るわけにはいかなくなった。

「……どこに行けばいいんだよ?」
『鹿児島駅前の、小川町(おがわちょう)にある居酒屋だ』
「居酒屋だあ?」

 朝香の自宅アパートからわりと近い場所だ。ここからだと少々遠いが、自転車でなら二十分くらいで着くだろう。
 頭の中に地図を思い描いていると、『お願い。助けて立夏』と電話の向こうから朝香の弱々しい声がした。

「おい、なんだ今の」
『じゃあ、待ってるから』

 あの野郎。人には電話を切るなと言っておきながら、自分ではさっさと切りやがった。
 勝手な奴だ。中途半端なところで沈黙したスマホをひと睨みする。
 まったく意味がわかんねえ。電話の向こう側は騒々しかったので、居酒屋の店内から電話をしていると見て間違いない。
 質の悪いいたずらかもしれない。じゃあ、「助けて」とはなんだ。人が多い場所にいるのだから、やましい真似はできないだろうが。
 それでも気にかかる。ここで僕が見過ごしたことで、朝香が木田の奴に乱暴されるような事態にもしなったとしたら、後悔せずにいられるか。そんな自信はなかった。結局行く以外の選択肢がなかった。
 ああ、めんどくせえ。

「電話、誰から?」

 乃蒼が心配そうな顔でこっちを見ている。

「朝香から。あいつ、かなり酔っぱらっているみたいでさあ。心配だからちょっと様子見てくるわ。……出かけてきても、いいか?」

 乃蒼に余計な心配をさせたくなくて、そうでっちあげておく。
 布団にもぐり込んだままで、乃蒼が顔だけをこっちに向けた。

「平気だよ。熱ならたいしたことはないし。気をつけてね」
「ああ。お前も、大人しく寝ていろよ」
「うん、わかっているよ」

 財布だけをポケットに突っ込んで、アパートを飛び出した。自転車にまたがって走り出す。

「よし」

 決意の声を見守っている頭上の月は、いつもより赤く見えた。