乃蒼は僕の申し出を二つ返事で了承してくれて、この日から僕は、乃蒼の小説のプロデュースをすることになった。
 それからというもの、乃蒼と過ごす時間が増えた。放課後に一緒に帰ったり、休日は二人で図書館に行ったり。もちろん小説の執筆のためだったけれど、毎日が楽しかった
 この頃にはもう、彼女に対して抱いている憧憬(しょうけい)以外の感情にも気づいていたから。
 僕は、このときすでに乃蒼に恋をしていた。
 高校三年の晩秋からスタートしたこのプロジェクトは、しかし受験期という忙しさもあってなかなか進まなかった。本格始動したのは、むしろ大学に進学してからのことだ。
 僕が今の大学を進学先として選んだのは、父の母校だったからだが、示し合わせたように乃蒼も同じ大学を受験した。偏差値だけ無駄に高い。学内で起きたイジメ事件への対応のずさんさを指摘されるなど、近年イメージの低下があったのだが、それでも彼女はここを志望した。
 僕を追いかけて――というのは、いささか都合が良すぎる妄想か。
 たとえ進学先が別々になったとしても、僕はメールでやり取りしながらプロデュースするつもりでいたから、志望理由などなんでもいいのだが。
 二人でああだこうだと議論を重ねながら作品を磨き上げておく作業は楽しかったし、やりがいがあった。
 しかし、この夢は道半ばで頓挫してしまう。
 あの日のバス事故によって。

   *

 一年近く止まり続けていた時計の針が、こうして再び動き始める。
 僕と乃蒼は、再び小説を書くことになった。

 乃蒼の死によって未完成となっていた作品のプロットは、僕のパソコンの中に今もデータとして残っていた。
 これを一度プリントアウトして、「作品テーマ」「キャラクター」「世界観」「ストーリー」について、再検討していくところから始めた。
 作品のメインテーマは「恋愛」。後半でどんでん返しを入れるために、世界観として並行世界を用いていた。並行世界(パラレルワールド)とは、僕たちがいるこの世界から分岐し、それと並行して存在している別の世界のことを指す。この概念は、SFやファンタジーの作品でよく使われているものだ。作品の設定は、乃蒼のデビュー作である『レター・ガール』のものを一部踏襲していた。
 主人公は大学生の女性。片想いをしていた彼に想いを伝えようとしていた矢先に、交通事故で彼を失ってしまう。彼を失った悲しみから、彼が「もし生きていたら」というイフの世界線を作り出し、そこに迷い込んでしまう――というストーリーだ。
 登場人物、世界観の設定はまだまだ煮詰めが甘く、ここから決めていかねばならないことが山積だった。

「この彼は、主人公にとってどんな存在なのかな? 恋をしている相手というだけじゃなくて、何かもっと気づきを与えてくれる存在であってほしいよね?」
「そうだなあ。主人公に欠けている何かを持っているキャラだと、彼ともう一度会いたい、助けたいという思いを強く描けるからね。……二人の生い立ちについてもう少し詰めてみようか」
「わかった」

 二人で、小説を書いていく。
 本文を執筆するのは基本的に乃蒼だ。文章力でなら僕だって引けを取らないつもりだが、これは乃蒼が紡ぐ物語だ。何より、読み手の感情にうったえてくる情緒豊かな表現においては、僕より彼女のほうに一日の長がある。
 あのときもそうだったが、今回も僕は編集と校正に徹した。
 それでも時々は、僕が執筆を担当し、彼女がそれに修正を加えていくこともあった。そうして交互に意見を言い合うことで、僕自身も物語の世界に没頭することができたし、何より二人でひとつの作品を作り上げていく感覚は楽しかった。

   *

 僕は誕生日が五月なので、大学の同期の中ではわりと早く二十歳になった。季節はもう八月で、この頃には同期でも多くの者が誕生日を迎えていた。胸を張って酒が飲めるようになると、しばしば友人たちと飲みに歩いた。
 八月十六日。大学終わりに朝香に誘われて、駅前の居酒屋に向かうことに。
 そう言えば、今日は乃蒼のデビュー作が発売された日でもあったなあ、と意図せず乃蒼のこと思い出す。引け目を感じながらも家に電話をかけた。
「ごめん。今日は遅くなる」と伝えると、「気にしないでゆっくりしてきなよ」と乃蒼は答えた。
 朝香が一緒だから何もない、と思っているのか。それとも僕は異性として意識されていないのか。詮索されないことに拗ねたような感情が顔を覗かせて、子どもみたいだなと辟易しながら電話を切る。
 有り体に言って、僕たちの関係は進展していなかった。
 この日の飲み会の面子は、僕と朝香と、朝香と同じ科にいる男女二名だ。大学に入ってから知り合ったというその男女は、どうやら今年の春頃から交際を始めたらしい。「おめでとう」と朝香が茶化すと、照れくさそうに二人で顔を見合わせて笑った。
 午後九時くらいに店を出て、その二人とはそこで別れた。
 この時間だとバスはない。朝香と二人で駅を目指して歩き出した。
 空には満月がかかっていて、無数の星たちが瞬いていた。

「ごめんね。乃蒼怒っとらんかった?」

 歩きながら朝香が言った。だいぶ酔っているのか隣の顔は上気していて赤い。ブラウスの襟首から覗いた首筋も真っ赤だ。アルコールの匂いと一緒に、コロンの甘い香りが漂ってくる。

「大丈夫だよ。あいつは自炊できるし、立場上、居候みたいなもんだしな。あまり文句は言えまい」
「そっか。乃蒼は元気にしとー?」
「まあね。特に変わりなく元気にしているよ。気になるんだったらさ、時々顔を見にきてやったらいいのに」

 乃蒼と再会したあと、朝香は何度か乃蒼の様子を見にアパートに来たが、ここ最近はめっきりご無沙汰だ。月に一度来るかどうかか。

「そげなわけにはいかんでしょ。二人の邪魔ばしたっちゃ悪いし」
「いや、邪魔になんかならないだろ。僕と乃蒼は付き合っているわけでもないんだし」

 そもそも、相手は幽霊かもしれないし、とは言わずにおいた。ここに乃蒼がいないとはいえ、それを口にするのは酷な気がした。

「ふーん。じゃあ、まだセックスとかしとらんの?」

 これにはたまらずふき出した。

「……するわけないだろ! 僕たちの関係はただの同居人でしかないんだし」
「立夏はそげな風に思うとーと?」
「そりゃそうだろ。あいつは行くところがないから家にいる。それだけの関係でしかないんだよ」
「ふーん……」

 不満げに朝香が呟いた。

「そげなところなんだよね」
「何が?」
「でも、乃蒼のことは好いとっちゃろ?」
「……」

 痛い腹を探られたみたいで、黙り込んでしまう。

「黙り込む時点で、否定になっとらんよねえ。好きなんやったらさあ、乃蒼のことちゃんと捕まえとけば良かやなか? おおかた、乃蒼だって立夏のこと好きっちゃん」
「そんなわけ」
「いいや、あるばい。あれだけ露骨なんやけん。そりゃわかるばい。うちだって立夏のこと好きなんやけん」

 誰に言うでもなく、朝香がボソッと呟いた。

「そげなところハッキリしてくれな、こっちも困るんだよね」と。

 朝香に告白をされたのは、今年の春先のことだった。
 乃蒼が死んでから、僕は無気力で怠惰な生活を送っていたのだが、その間傍らにいて支えてくれたのが朝香だった。
 キャンパスを歩いていると、気さくに声をかけてくれる。うつむいていると、話を聞いてくれる。気晴らしになるようにと、時々遊びに誘ってくれる。風邪をひいて寝込んだときは、アパートに来て雑炊を作ってくれたこともあった。ひたむきに献身してくれるその姿に、惹かれたことは事実だ。
 どうして僕なんかがいいの? と訊ねたことがある。「誠実だし、女の子を大事にしてくれそうだから」と朝香は答えた。買い被りだよ。僕は臆病なだけ。過去にとらわれてばかりで、次の一歩を踏み出す勇気がないんだ。
 朝香はハッキリ言って可愛い。
 明るくて、積極的で、がさつに見えて案外と気立てが良い。
 栗色のソバージュヘアも、アーモンド型の瞳も、小柄な体格に似合わない大きな胸も、くせのある博多弁もすべてが彼女の魅力だ。
 魅力的であるそのような女の子が、突然「付き合ってほしい」と告白してきたわけだ。
 そりゃあ、胸が高鳴らないはずはなかった。
 それでも、首を縦に振ることはできなかった。
 頭の中に、すぐ乃蒼の顔が浮かんでしまったから。
 そうして振っておきながら、いざ乃蒼が戻ってきたらこの通り煮え切らない態度を続けているのだから、朝香が苛立つ気持ちもわかる。

「ごめん」
「そこで謝らないでよ。幽霊の女の子に生身の人間が勝てんみたいで、わりとショックなんやけん」

 朝香は拗ねたように言った。

「そういうわけじゃないけど」

 前を向いて、僕ははっきりとそう告げた。

「でもさ、どうしようもないんだよ。僕の中で、乃蒼はまだ死んだことになっていないから。あのときも、今はむしろもっと。こんな宙ぶらりんな気持ちで、朝香と付き合うことはできないんだ」
「うん……。それはわかっとーよ。うちも立夏の立場やったら、同じやったかもしれんもん」

 行き交う車のヘッドライトが、朝香の横顔を照らした。色白な輪郭線が浮き彫りになって、前を見据える瞳が綺麗な光を放っていた。

「もしうちと乃蒼の立場が逆やったら、立夏はうちのことを考えてくれたっちゃろうか……なんて」
「やめろよ。そんなこと考えても仕方ない」
「うん、そやね。恋って、苦しかもんやねえ。自分一人でどげんかできるものでもないけん」

 朝香は、ふうっと大きくため息を吐いた。

「でもさ、立夏がそげな風に思い悩んどーのも、うちとしては複雑やけん。好きなら好きってはっきりしてくれんと」
「……」

 何も言えないでいると、朝香は諦めたように静かに首を振った。

「もういいよ。今日のところはこの辺にしとく」
「本当にごめん」
「だから、謝らんでって言いよーやろ……って、ああ、そうや」
「ん、どうした?」

 などと言っている間に駅に着いた。ちょうど電車が着いたのか、駅から多くの人が吐き出されてくる。

「お詫び、でもないんだけどしゃ、じゃあ、うちの頼み事ばひとつだけ聞いてくれん?」
「一生のお願い、みたいな奴?」
「そげん重う考えんでよかばい」

 朝香は苦笑とも微笑ともつかぬ複雑な笑い方をした。

「一ヵ月だけ、うちと付き合うてくれんかなあ?」
「はあ?」

 意味がわからなくて変な声が出た。僕の戸惑いをかき消すみたいに、鹿児島中央線の汽笛が夜空を切り裂いた。