――高校三年生。
夏休みに入ってしばらく、母親が頻繁に男を呼ぶようになった時期のある日、僕はユキと図書館で勉強をする約束をしていた。
ページをめくる音と館内を歩く足音しか聞こえない空間で、僕の隣にはユキが座っている。
落ちてきた髪の束を耳にかけるしぐさ、テキストの落とされる瞳、真っ白な肌に意識が奪われて、僕は慌てて視線を逸らした。

「今日もたくさん勉強したね!」
「うん。かなり理解が深まった」
「ウミはどこ大受けるの?」
「うーん、まだよく分からないな。ユキは?」
「私も。多分県内かなあ」
「そっか」

午後五時を回った頃、田んぼ道を歩いている僕とユキの影が伸びはじめていた。

「ねえ、今日私ん家でご飯食べていかない?」

ぼんやりとそれを眺めていた僕には、あまりに唐突な誘いに「…え?」と答えることしかできなくて。

もちろん、ユキの家になど行ったこともなかったから正直戸惑った。けれどあまりに熱烈に誘うものだから、僕は二つ返事で頷いた。

ユキの家は僕の家なんかよりも何倍も立派だった。
家柄がかなりいいのか、部屋という部屋、加えて玄関までもが広かった。
大きな生け花、高そうな壺、床はミシミシ軋まない。
案内された居間もどこでくつろげばいいのだろう、というくらいに広かった。
もしも一人で留守番を頼まれた時には、それこそ一種の寂しさすら感じてしまいそうなくらいに。

「家の人は? さすがにご挨拶しないと」

適当に座って、と言われてもそわそわして落ち着かない。しきりに辺りを見回していると、キッチンに向かうユキが肩を震わせて立ち止まった。

「お母さんは、その、いなくて。お父さんも、今は外出してていないの」
「そうなんだ、ユキん家も片親だったんだ」
「あ……えっとそうじゃ、なかったんだけど。先月、男作って出て行っちゃって……さ」

聞いてはまずいことを口にしてしまったのかもしれない。言いづらそうにするユキはまた儚く笑って、落ちてきた髪を耳にかけた。

「ごめん、その、気が利かなくて」
「いいの、私こそごめん、一人でご飯を食べるのが寂しいからってウミのこといいように誘っちゃって」
「そんなことない。僕でよかったらいつでも付き合うから」

内心、少し緊張した。
今、この家でユキと二人きりなのだという事実はどうしたって頭から切り離すことができなかったのだ。
甘いコットンの香りが外よりももっと強く香って、その綺麗な黒髪が魅惑的な動きを見せるから――、どうにもこうにも視線が泳いでしまった。

「じゃーん」

ほどなくして濃厚でスパイシーな香りが鼻孔をくすぐってきた。

「カレーライスだ」
「台所に不慣れでさ、まだこれくらいしか作れなくて。いつもお母さんが家事してたから、今は結構大変なんだ」
「ごめん、僕も手伝えばよかったね」

僕はまた気に障るようなことを言わせてしまった。
先月にユキの母親が家を出て行ったというのなら、働く父親の傍らで台所につくのは必然的にユキになるというのに。

「いいって、それと謝りたいのは私の方。野菜、切るの苦手で不格好になっちゃった」

僕の正面に腰を下ろしたユキはやるせなそうに眉を下げた。茶色のルーの中には、大きく不格好な野菜がゴロゴロと入っている。まるで男のカレーだ。

「ユキって見かけによらず結構荒々しいんだね」
「えっ!? やだ、ウミにそんな風に思われたくない!」
「冗談」
「もー!」
「ふふ、じゃあさっそく食べてもいい?」

僕がそう聞くとユキは照れくさそうに頷いた。ユキが作ったカレーは不思議な味がした。

とろけるような甘さの中にコクがあり、僕の母親が作るものとは違うどこか懐かしい味わいが口の中で広がった。

「ヨーグルトが入ってるの」

聞けば彼女の母親の方法を真似たのだという。
まだまだ再現しきれてないけど、と口にするユキはやはりどこか寂しそうで。

「でも、ユキはセンスがあると思うよ」
「そうかな?」
「そうだよ。ユキの手料理、たくさん食べたい」