「あの時、田村先生がさー…」
「うわ懐かしっ、そんなこともあったね」

それから、僕と彼女はクラスのメンバーたちとは少し離れたところで昔話に花を咲かせていた。
ユキは変わらない。
笑った時にえくぼができること、お上品に手を添えること、そのあとに必ず髪を耳にかけること。
時折合わさる視線に胸の奥がわずかに疼いた。

「ウミは、就職も東京なんだってね」
「うん。満員電車に揺られる日々を思って今から戦慄してる」
「ああ、あれね。私一回しか行ったことないけど、それだけで無理だと思ったもん。私ここでは生きていけない…って」
「ユキはずっとここ?」
「そうだよ。調理師学校を卒業して、今はホテルのレストランで働いてる」
「そうなんだ。すごいね」
「ぜんぜんすごくないよ。ウミの方がすごい。東京に一人で出てさ、たくましいっていうか、勇気あるなあって、ほら、この町の人ってみんな外に出たがらないじゃん」

“ウミ”

僕をそう呼ぶのはユキだけだ。
海斗の“海”で“ウミ”。
初対面の時にいきなり変なあだ名をつけられたと思った。
でも、嫌な気持ちにはならなかった。
彼女に“ウミ”と呼ばれること。彼女だけが呼んでくれる特別な呼び名。“大海原のように穏やかで広い心を持った男の子に育ちますように”って、母親から名前の由来を聞いた時以上に嬉しかった。
だから僕も“ユキ”と呼ぶことにした。
ほかの子が“雪菜”と呼ぶのなら、僕は“ユキ”と呼びたい。

もともと家が近かったから放課後は一緒に帰ったし、勉強がしたい時は町の図書館に寄った。
道なりにあるアイスクリーム屋さんに寄り道したり、時には公園のベンチに座って雑談をした。

柔らかく、真っ白な雪のような彼女は、清らかで、可憐で、そしてどこか儚かった。
ユキは時折寂しそうに笑った。
まるで僕の母親と同じように、なにかを欲しているような目をしていた。

「ずっと、さ、私はこの山に囲まれた海の町で暮らしていくんだろうなって思ってた」
「うん」
「ま、実際そうなんだけど。だってあんな高い山、越えられるだなんて思わないでしょ? その先に東京があるのだとしても、私には無理なんだろうなって諦めちゃって」
「うん」
「結局さ、あの山を言い訳にしてたんだ。綺麗な海があった方がいい、って言い訳してたんだ。そうすることで自分を正当化して…ウミに会いにいくって選択肢を切り離した」
「…」
「本当は…追いかけたくて仕方がなかったのに、今更なにって突っぱねられるのが怖くて、東京に行ったウミがもう昔のウミじゃなくなってたらって…、考えるのはマイナスなことばっか」
「ユキ」
「ウミはただの友達なのに、あんなの、たった一回のお情けに過ぎないって、分かってるのに」

聞いてはいけない。
話題を変えなければいけない。
それなのに、僕は彼女から目が離せない。

“ねえ、聞いて”そう付け足したユキは、僕がずっとあいまいにしていたものの核心に迫った。

「調理師になろうと思ったのはね、あの日がきっかけだったんだ」