「間違って、ない」
「…」

だめだ。抑制しようにも、あの時の感覚がよみがえる。

ユキの柔らかい素肌。
湿った女の声。
太腿を撫でた時の心地よさ。
絡み合う足と足。

“ウミ、ウミ”と耳元でうわ言のように囁かれる、あの熱を。

「ウミ、入ろ」

東京から離れた故郷は、ことごとく人を安易にさせる。高くそびえる山々が外界とを隔てているような気がした。
僕と彼女は車から降りた。
受付を済ませ、星の装飾が施されている古びたエレベーターに乗り込んだ。

今日、母親が僕に言いたかったことはきっと、好きな人を好きなだけ想っていいんだということだったのだろう。
想い人の親と自分の親が恋仲にあると知った僕は、自分の恋に蓋をした。

どんなきっかけがあったのかは分からないが、母親は、自分の行いがゆえに息子の恋路をずたずたに引き裂いてしまったのだと知ったのだろう。
もしかしたら母親はかなりの責任を感じてしまったのかもしれない。
家を出て行ったこと、東京に行ったのも自分のせい。
一回も里帰りをしないのも自分のせいだと。

でも、すべて僕が勝手に諦めたことなんだ。
打開策なんていくらでもあるはずなのに、僕は考えることを放棄して、ただ逃げた。

ろくな“決断”をすることなく、あの1K六畳の狭い部屋を予防線にすることで、辛い現実から目を背けようとしたのだ――。



シャワーを浴びられるほどの心の余裕はなかった。
もつれ合うようにしてキングサイズのベッドに倒れ込むと、僕は躊躇なくユキの唇に吸い付く。

艶のある長い黒髪が真っ白なシーツの上に散らばった。
熱のこもった瞳で見上げられると、僕の胸の奥が静かに疼いた。

四年ぶりにユキに触れた。
その身体のなにもかもが、高校生の時と比べてより女性らしくなっていた。
胸の膨らみも、太腿も、腰回りも、――全部。

「ウミ…煙草吸うの?」
「あ…ごめん、つい癖で」

それから、僕と彼女は古びたラブホテルで最後まで身体を重ねた。
一時の気の迷いと熱は、のちに背徳感に変わる。
脳裏によぎったのは、“行ってこい!”と元気に背中を押してくれた愛美の顔だった。

「ふうん。“終わったら”、いつも吸うんだ」
「…」
「ウミ、彼女いるでしょ」

そこでぐっと…胃からなにかが戻りそうな感覚が僕を襲った。

「ごめん」

それだけ言うと、ユキは少しだけ切なそうに笑って「図星ついちゃった…」とちいさくこぼす。

慌てて灰皿に押し付けた煙草の火は消しきれていなかった。ゆらゆらと曲線を描く紫煙はだんだん薄くなって空気中に溶けていった。

「今更遅すぎだよね」
「…ユキ」
「すぐに東京に行って、ウミを追いかけていればよかったな、なんて後悔するのも遅すぎる」
「…」
「もうお父さんたちはとっくに別れてるって、もう我慢しなくていいって、分かってたのに、それでもウミに会いに行く勇気が持てなくて」

裸のままシーツにくるまっているユキは、ソファーに座っている僕を哀切に見つめる。
七色に光るベッドパネルの横には開封済みの正方形の袋が無造作に放置されていた。

「ちゃんと向き合っていれば、こんなこと…してなかったのかもなって」
「ごめん、ユキ、僕」
「ずるいことした。彼女がいるウミを、あんな風に誘って」
「ユキ」
「四年前のことが煮え切れてないからって確かめるようなことした!」
「…」
「最低だ…私、丁寧に抱いてくれるウミの首に、自分の痕をつけたくてたまらなくなった。東京に行って、かっこよくなって帰ってきたウミを見た時から、心はもう取返しのつかないことになってたんだ」

ユキはさめざめと泣いていた。

時間は流れる。
昔のようではいられない。

だから人間は常に考え、“決断”をしなくてはいけないのだと、僕はたった今あの自己啓発本が繰り返し唱えていたことの本当の意味を知った。
経緯はどうであれ、僕は東京で生きることを選んだ。
彼女はこの海の見える町で生きることを選んだ。
四年のあいだに、それそれの地でそれぞれが感じたものがあるはず。だから僕たちは再会しようとしなかった。

この世に不可能という言葉はないはずなのに、勝手に自分の中に予防線を張った。
こうなるべくして、こうなった…という言葉があるが、まさにその通りだった。

人生の年表は高校時代で途切れることはない。
その先には僕には僕の人生が描かれ、彼女には彼女の人生が描かれている。

「ウミがずっと好きだったっ…」
「うん」
「初恋だった」
「…僕もそうだった。ユキが、初恋だった」

いろいろと段階を踏み外した人間の、はじめての意思の疎通。
桃色に染まる不埒な部屋の中で、高校生のような純情な気持ち…とまではいかないけれど、あの頃に戻った気分で四年越しの想いを口にした。

「あーあ、なんかスッキリした!」
「…何言ってんの」
「ウミ、帰ってきてくれてありがとう」
「…」
「私、分かったんだ。ウミの面影に、恋してた。今のウミはさ、就活とか…満員電車に揺られたりしてさ…もう昔とは違うウミになってたんだ」
「…ユキ」
「帰省するようにって背中押してくれたのは彼女さん?」

ちいさく笑うとえくぼができた。その流れで落ちてきた髪の束を耳にかけるユキに「そうだよ」と苦笑する。

「…そっか」

それだけ漏らすと伏し目がちになって。
またしばらくの沈黙が流れた。

「ずっともやもやしてたものが晴れた気がする」
「僕も」
「ひっかかってたのはこれだったんだなあ」
「…うん。最後に好きだったって言えて、よかった」
「…ちょっと、ぶり返すようなこと言わないでって。私、これでも…」
「ユキ」
「え?」
「彼女がいるのに、ユキをいいように抱いてしまって、中途半端に傷つけて、ごめん」
「…」
「久しぶりに会ったユキが綺麗になってて、つい気持ちが浮ついた。ずっと好きだった子だったし、ずっとネックになってた相手だったから、ストッパーをかけられなかった」

よぎるのは愛美の顔だった。
僕を信じて東京で待ってくれている愛美だった。

ユキよりも肉付きのいい身体。明るく天真爛漫な声。常にはきはきとしていて物事をあっという間に決めてしまう。
顔向けできないようなことをしてしまったあとなのに、なぜか愛美への気持ちが色濃くなった。
四年間、僕の心に居座っていたわだかまりに寄り添ってくれたのは彼女だった。
前を向くきっかけをくれたのは、彼女だった。

――僕は愛美のことが好きなのだ。

「ユキのこと、好き“だった”」
「…うんっ」
「直接言えて、よかったよ」

そう言って僕たちは車に戻った。
ユキの家に送り届け、僕はその夜母親と昔話という答え合わせをした。

東京に戻ったのはその三日だ。

罪悪感を覚えつつ帰宅をすると、愛美はカレーライスを作って出迎えてくれた。