口角あげて、目尻をこれでもかと下げて相槌を打つ。「わかります」と「そうなんですか」を繰り返し、イントネーションに変化を加えてなんとか話の温度を保つ。
 上司の桶川課長は話が長い。嫌な人ではないけれど、少し面倒だ。話好きとは違っていて、部下とのコミュニケーションを大事に、というのが理念らしく無理をしているのが伝わってくるから余計に居心地が悪い。
 社会情勢に円安ドル高、メタバースがどうだとか、あたしは頭が悪いからさっぱりわからない。課長が最近ハマっているソロキャンプにも興味はない。
 たまに、おもしろい雑学を話してくれるときがあって、それに関しては、へえー、と心から思えるのに「たとえば?」と聞かれると一つも思い出せない。
 そうそう、とひとしきり話し終えたあと課長がわざとらしく切り出した。

「来週月曜日のクライアント向けのプレゼン資料なんだけど……」

 修正箇所をいくつか口頭で説明される。できれば雑談など挟まずにすぐに本題に入ってほしい、と毎回思う。
 広告業界では、クライアントの希望で急な修正というのは良くあることだからしかたがないけれど、今回は課長の指示通りに作って、確認も昨日のうちに済ませていたはずだ。
 突然の思いつきというのを否定はしないけれど、それならなおさら早く伝えてほしかった。
 
 今日は金曜日だから、土日を挟んで来週の資料となると、今日の退社時間までには完成させて、もう一度課長に確認してもらわなければならない。
 家に仕事を持ち帰るのも、残業もできればしたくない。が、もちろん直接文句など言う気はない。
「すぐに取り掛かります」

 笑顔を作ると、課長は満足そうに自分のデスクへと戻って行った。面倒な指示をコミュニケーションというオブラートで包めた気でいるのだろう。あたしは包まれたフリをする。
 これでいい。円満とは誰かの我慢の上に成り立っていると聞いたことがある。この程度の我慢ならいくらでもする。嫌われるよりははるかにいい。

 もうこの会社で働いて四年目だ。職場の勝手にも人間関係にも慣れてきたのだ。些細なことで社内の心証を悪くして、転職なんてことになったら目も当てられない。

 パソコンに目を移す。残ったままの作り笑いが画面に反射している。あわててエンターキーを叩いてあたしの表情を画面から消した。自分の作り笑いはどうしてこうも見ていられないのだろうか。どうでもいいことを思い浮かべながら、修正案をメモに打ち込んだ。


 修正した内容は課長の満足のいく出来だったようでなんとか残業は免れた。
 後輩の奈々ちゃんからご飯に誘われたので、一緒に会社を出た。ビルのドアを開けると、六月のじとりとした湿気が半袖の肌にまとわりついて鬱陶しい。
 十七時半を過ぎてもまだ明るさが残っていた。とりあえず最寄りの恵比寿駅まで歩いていく。

「このリボンかわいいね」

 白のTシャツにところどころ蝶々のような黒いリボンがあしらわれている。ゆったりと広がる黒のジャカードスカートもシンプルながら、幼い顔立ちとモノトーンのギャップが映えている。

「かわいいですよね。日菜さんもこのブラウス素敵です。私、日菜さんみたいに美人系じゃないからブラウスとか似合わないんですよね」

「そんなことないよ。奈々ちゃんは何着ても似合う」
 えへへ、と照れくさそうにカールした長いまつ毛を揺らした。その丸っこい瞳に映っているであろう無難な格好が少し恥ずかしくなった。

「日菜さん何か食べたいものありますか?」
 聞かれると、困る。少し考えてから、パスタの気分かな、と思い至って、「特にないよ」と返す。

「駅からちょっとだけ歩くんですけど、おしゃれな焼き鳥屋さんがあるんですよ。行ってみません?」
 奈々ちゃんはあたしの答えを予想していて、あらかじめ行く店を決めてくれていたようだ。
 奈々ちゃんは今年二十四歳で、あたしより二つ年下なのに、リードしてくれて助かる。あたしは人を引っ張るのが苦手だ。誰かの指示に従っている方が楽だから。

「いいね。行こう」
「もし気分じゃなかったら他にも……」

 気遣いも完璧だ。スマホを取り出して奈々ちゃんが他の店を調べようとする。その手を制して、あたしはすぐに否定する。

「もうすでに、鳥の口になった」
「はや。ていうか鳥の口はもうクチバシじゃないですか」
「ほんとだ。ミミズとか食べなきゃ」
「なんで一個目がミミズなんですか。魚でいいでしょ」
「そっか。たしかに魚のイメージだよね」
「もう、気持ち悪いこと言わないでくださいよ。ほんとに日菜さんっておもしろいですよね」

 それから課長の話が長いとか、同僚のタバコ休憩がずるいだとか、会社で溜めたストレスを小刻みに吐き出しながら店に向かった。

「たしかにおしゃれだね」
 いわゆる居酒屋とは違って、内装はカフェみたいだった。ゆったりと流れるジャズっぽい音楽も、壁に掛かっている洋風の絵画も、オレンジがかった間接照明も焼き鳥屋とは思えない。
 内装のおしゃれさとは反してというべきか、最近ではめずらしく、現金のみの会計らしい。そういえば、クレジットやバーコード決済、交通系電子マネーで、店側が取られる手数料が高いから、あえて現金払いのみの店がある、と、課長が話していたことを思い出した。
 現金は持ち合わせていなかったので、奈々ちゃんに言うと「私が持ってるので大丈夫です」と言ってくれた。あらかじめ調べてくれていたらしい。なんてできる子なのだろう。
 中はそれぞれ半個室になっていて、案内された四人掛けの席に対面で座った。

「別れたんですよ」

 唐突に切り出されたのは、締めに雑炊でも頼もうかと相談している最中だった。これで何人目だったかな、と頭の中で数える。
 奈々ちゃんと親しくなってから二年も経っていないはずだけれど、あたしは奈々ちゃんの元彼を少なくとも三人は知っている。そのうち、実際に会ったことがあるのは最新の元彼だけだ。

「理由聞いてもいいの?」

 とりあえず締めはまだ早そうだと、メニュー表を閉じて、スタンドに立てかけながら聞く。

「聞いてください。最低な男でした」
「いい人そうだったのにね」
「日菜さん。あんなやつかばわなくていいです」

 あたしは黙ってうなずく。ハイボールのジョッキを傾けると、ほとんど氷が溶けた味しかしなかった。

「他の女と手を繋いで歩いてるところ見ちゃったんです」

 飲み物を注文しようとメニューに伸ばした手をあわてて引っ込める。いまじゃない。

「浮気ってこと?」
「どうなんでしょうね。私の方が浮気だった可能性もありますし」
「そんなことは……」
「とにかく、私突然のことでなんかもうわかんなくなって気付いたらその二人の目の前に立ってて……」

 悔しさを滲ませて話す奈々ちゃんに、「わかる、わかる。悔しいよね」と相槌を打つ。わかるわけもないのに、あたしは奈々ちゃんに寄り添うことしかできない。共感も反感もできないから、相手が欲しがっている言葉を探して投げているだけ。

「『何してんの?』って聞いたら、『ごめん』って言ったんですよ。言い訳も、焦りもしないまま、ただ『ごめん』って。女の手を握ったまま……」

 泣きくずれそうになる奈々ちゃんが危なっかしくて、奈々ちゃんの隣に移動した。頭をなでると、奈々ちゃんはこちらに身をゆだねて泣きじゃくった。
 しばらく泣いたあと、奈々ちゃんは残っていたレモンサワーを一気に飲み干して、「彼氏ほしいですー」と一転してあまえる。
 さっきまでとのギャップがおかしくて笑っていると、「日菜さんも彼氏ほしいでしょ?」と今度はとがめるような口調だ。いろんな声音があるなあ、と関心してしまう。

「ほしい、ほしい。あたしなんてもう一年くらいいないんだよ」

 本音を言うといまは特に欲しくはない。一年前に別れた男が面倒だったせいもあって、恋愛自体に疲れてしまっているのかもしれない。

「ナンパされに行きましょ?」
「えっ。ナンパ? いまどきそんなことやってる人いるの?」
「それも、そうですね。まあいるとは思いますけど、そんな時代逆行男にロクなやついないですよね」

 あたしはそこまで言っていないけれど、とりあえず、そうだよ、と返す。

「じゃあ逆ナンしてきます」
「えっ。それは時代逆行女じゃないの?」
「そんな言葉ないですよ。それに逆ナンされて嬉しくない男なんかいないですから大丈夫です。さっきトイレに行ったときに当たりつけてたんですよ」

 奈々ちゃんが立ち上がって、周りを見渡してから、ちょうどいい、とつぶやいた。

「行きますよ日菜さん。早く」
「うん」

 慌てて荷物を手に取る。奈々ちゃんが紙の伝票を取る。

「あとで返すね」と手で合図を送ると、「たぶん、大丈夫です」と返ってくる。何がなんだかわからない。

「日菜さんは、何もしなくていいですけど、笑顔でいてください。美人の笑顔はそれだけで最強なんで」

 否定する間もなく、奈々ちゃんが会計機に向かって進んだ。あたしもついていく。進む先には、スーツ姿の二人組の男が同じく会計機に向かっているところだった。

 先に会計機の前に立ち、店員さんに、「ここって現金だけなんですか?」とわざとらしく言い、「日菜さん現金持ってます?」と聞いてくる。「持ってない」と答える。
 後ろではさっきの二人組が会計待ちをしていた。突然、奈々ちゃんが後ろを振り返り、二人組の方に話し掛けた。

「あの、すみません。本当に申し訳ないんですけど、スマホでお返しするので、私たちの分も一緒にお会計してもらえたりしませんか?」

 奈々ちゃんは本当に演技派だ。というか声色の使い方が絶妙だった。申し訳なさそうに困っていて、奈々ちゃんの可愛らしい顔と相まって、なぜかあたしがなんとかしてあげたくなってしまう。

「いくらくらいですか?」

 気の良さそうな男の方が財布を覗きながら、聞いてくる。金額を伝えると、「全然いいですよ」と言いながら、奈々ちゃんの持つ伝票をひょいと取り上げた。
 彼らには見えないように、奈々ちゃんがあたしに微笑みかける。ニヒルな笑いだ。

 そこからは奈々ちゃんの独壇場だった。あっという間に四人で二軒目に行くことが決まった。
 二人は上司と部下らしく、お金を出してくれた気の良さそうな人が上司の武内さんだ。若く見えたが、三十五歳らしい。
 短く刈り上げた黒髪はきちんと整っていて、よく見ると目の下あたりには年相応のくまが見受けられ、少し疲れているようにも見える。笑うと目尻に細かいしわが寄り、それが柔和な印象を与えた。
 部下の弘人くんはあたしと同じ歳らしい。見た目は、茶色がかった黒髪で、柔らかく巻いて額の下部分でそろえられていて、切れ長の一重まぶたが見え隠れしている。
 鼻筋は通り、唇は薄く引き締まっている。顎のラインもするどく、少し無愛想な印象を与えた。けれど、話してみるとそんなことはなく、穏やかで物腰の柔らかい好青年といった感じだった。
 それとなく伝えてみると、武内さんの方が、よく言ってくれたというように、いい奴なのに見た目で損してるんだよな、と笑った。
 
 そろそろ、という雰囲気になったところで、あたしたちはトイレに立った。

「武内さんいい人ですね」

 グロスを丁寧に塗り直しながら、鏡越しに奈々ちゃんが言う。

「そうだね」
「一度、あれくらいの歳上の人と付き合ってみたいんですよねー。日菜さんはどっち派ですか?」

 どっち派も何もない。というか、どうこうなるつもりもないのだから。

「あたしは弘人くんかな。同い年っていうのもあるし」
「よかった、被らなくて。じゃあ私、武内さん誘ってみますね」
「うん。がんばって。元彼のことなんて忘れちゃえ」
「ああ、いましたね。そういえば元彼」
「もう忘れてたの?」
「切り替え早いのだけが私の取り柄なんで」


 店を出ると宣言通り、奈々ちゃんは武内さんと夜の街に消えていった。残されたあたしと弘人くんは、しかたなく駅へと向かった。

「奈々ちゃん積極的ですね」
「いつもはね、あんな子じゃないんですよ」
「そうなんですか?」
「彼氏に浮気されて、自暴自棄っていうか、ううん、違うな。一所懸命に自分を守ってるんだと思います」
「浮気か」
「最低ですよね」
「浮気ですか?」
「はい」
「もし、仮にその浮気が、本気だとしても、最低ですか?」

 弘人くんが一瞬、真剣な表情を浮かべた気がして、テンポだけの会話から少しだけ思考をめぐらせる。

「本気、だとしても……最低ですね。いや、本気ならなおさら最低です。ちゃんと別れてから本気で向き合わないならそれは本気じゃないと思います。どこまでいっても浮気です」

 本心かどうか、自分でもわからない。テキトーに繕った言葉のようにも思えたし、本当にそう思っているのかもしれない。

「ですよね」
「浮気したんですか?」
「いや、された側です」
「え」
「実は僕も最近、浮気されまして、それで……」
「ちょ、ちょっと待ってください。こんな話、駅までの帰り道で話すような話じゃないですよ」
「じゃあどこで話せば?」

 長くなりそうだったので、近くのコンビニを探して、缶ビールと缶チューハイを買って、公園に移動した。

 夜風が心地良く肌をさらう。外灯の淡い光がベンチに座るあたしたちの影を伸ばしている。プルタブを開けると、空気の抜ける音が響いた。先ほどまでの喧騒は見る影もなく夜に吸い込まれたみたいだった。

「僕、夏の夜って好きなんですよね」
「わかります。気持ちいいですよね」

 一応、と互いの缶を軽く当てる。

「あ、じゃあその……話しますね」

 弘人くんが缶ビールを一口あおってから、切り出した。
 二年ほど同棲していた元彼女がいて、結婚の話まで出ていたところに、海外赴任の話がきたらしい。
 これは弘人くんにとっては好条件で、またとないチャンスでもあった。けれど、行き先はインド、期間は最低でも五年。
 もちろん結婚して、すぐに単身赴任で五年も外国に行くなんて考えられないし、かといって家族で引っ越すのも現実的ではなかった。
 彼女に相談したが、彼女は、海外に行くなら別れる、という判断をしたという。そして決められないまま数ヶ月が過ぎたらしい。

「ある日、いきなり別れようって言われてさ。それも新しい恋人もいるって。それって浮気じゃないか、って言ったら、彼女は本気だって。俺は何も返せなかった」
「そっか。それは辛いね」
「でも、まあそのおかげで吹っ切れたんだけどね。来週からインドに行くんだ」
「そうなの?」
「今日も武内さんがしばらく会えないからって言って、ここんとこ毎日連れ回されてる」

 弘人くんが自嘲ぎみに笑う。でもあたしには嬉しそうに見えた。

「武内さんいい人だね」
「うん。てか、なんでこんな話、初対面の人にしちゃったんだろ。ごめんね」
「ううん。たぶん、初対面だからできたんじゃないかな? 関係性が薄いからこそ話せることってあるんだよ、きっと」
「たしかに。じゃあ、俺も日菜さんの話聞くよ」
「いいよ。あたしは特に話すことなんてないから」
「そんなことないでしょ。日菜さんって自分のこと話すの苦手なだけで、話すことはあるはずだよ」

 言われてみれば、話すことがないわけではなくて、話すのが苦手なのだ。自分のことなんて、他人からすればどうでもいいということを知っているから。

「溜まってること全部言っていいよ。俺がインドに持っていくから」
「なんかインドに持っていったらどうでもよくなりそうだね」
「そうだよ。世界観が百八十度変わるってよく言うじゃんね」
「たしかに。じゃあ、話すけど、たぶんつまんないよ」
「いいって」

 親しい人ならきっとあたしは話さないと思う。初対面で、しかも来週には遠くに行ってしまう人だからこそ、話せるのかもしれない。

「あたしね、昔、大好きだった友達に嫌われたことがあってね。いま思うと、子どもの嫌いなんて、何日か経ったら忘れちゃうくらいの些細なことだったんだろうけど、当時としてはそれがすべてだったから、ひどく落ち込んだの。それから人の顔色ばかり伺ってた。好かれたいより、嫌われたくない。その人がどう思ってるかっていうより、どう思われたいかってところをよく見てた。見てたっていうかいまでも」

 弘人くんがあたしの話にゆったりと不規則に頷く。聞いているのか聞いていないのかわからないような反応が逆にあたしにとっては話しやすかった。

「だから、人の話にはあたしの感情よりも、わかる、わかるって言ったり、辛いねって寄り添ったふりをしたりで誤魔化してきたの」
「たしかに、わかるってよく言ってたし、さっき辛いねって言われたな」

 弘人くんが笑いながら言う。ごめんね、と言うと、ううん、と首を振る。

「一年前に別れた人のことも、全然好きじゃなかったかもって別れてから気付いたんだ。好きってなんだっけ? みたいな。ひどいよね」

 相槌を求めたけれど弘人くんは何も言わなかった。

「今日もね、奈々ちゃんが彼氏と別れたって聞いたとき、いたわるよりも先に、何人目だっけって思った」
「それはひどいね。でもちょっとわかるかも。どうしたって、他人の気持ちにはなれないよね」
「そうなの。もっとひどいこと言うとね、どうせすぐ新しい人できるじゃんって思った。奈々ちゃんかわいいし。でもねあたし、こんなこと思ってるけど奈々ちゃんのことは後輩として友達としてすごく好きなの。変だよね」

 弘人くんがゆっくりと首を横に振る。

「さっきの、弘人くんの話のときも、すぐにインド行きをやめて結婚するって判断ができなかった時点で彼女を責める資格なんてないって思ったの」
「あはは、きびしい」
「ごめん」
「いや、本当にその通りなんだよね。でもさ、それをさっき言わなかったのは正しいって俺は思う」
「いま言ったから同じでしょ」
「ううん。全然違う。日菜さんの深いところまで知ってから言われるのと、知らずに言われるのでは説得力がまるで違うよ」
「そうかな」
「日菜さんは、ちゃんと相手がしてほしいことをしてる。それは対人関係としてすごく大事なことだと思う。けど、それを好きな人にしちゃうのはどうなのかなって思った」

 あたしは首を傾げる。顔の角度を変えたことで外灯の灯りが直接目に染みた。

「奈々ちゃんとか、今後出会う好きな人にはちゃんと本当のことを言った方がいいと思う。本音をぶつけてくれたら、嫌な気はしない。それが耳の痛い話でも、上辺だけの共感なんかよりもずっとその人のためになるよ」

 本当に耳の痛い話だ。けれど、弘人くんの本気は痛いほど伝わる。嫌われるのを恐れて、あたし自身が好きになることから逃げてきた。

「ありがとう弘人くん」
「まあ、でも俺もインドから帰ってきたら全く別のこと言ってるかもしれないけどね」

 さっきまで真面目な顔をしていたかと思うと、冗談を言いながら満面の笑みを見せる。子どもみたいでかわいい。男の人をかわいいと思ったのはいつ以来だろう。
 顔が少し熱くなる。いまごろになってアルコールがまわってきたみたいだ。

「やめてよ。せっかくいい話だったのに」
「えっ、てかさ、インド行き断らなかった俺が悪いの?」
「知らないよ」
「ついてきてくれたらいいじゃんね」
「知らないって」
「日菜さんが一緒にインド行く?」

 一瞬の間をあけてしまった。即答でこそ成立する冗談のはずなのに。

「いっ、なんでよ」
「もっと早く出会ってたらな」
「何?」
「説得できたかもなって」
「インド行き? 無理だよ海外なんてあたしには広すぎる」
「二人なら狭くならないかな」
「インドと1LDK一緒にしないで」
「あはは。なんか、全然聞いた話と違うんですけど。わかる、わかるって共感一回もされてない」

 言われて気がついた。会話こそ他愛もないけれど、上辺とは違うような気がする。

「弘人くんには本音で話してるかも」
「好きになった?」
「バカ。本性が知られたからでしょ」
「そっか」

 沈黙が落ちて、何の気なしに缶チューハイの残りを確認するように振ってみた。
 ぴちゃぴちゃと音がしたと同時に弘人くんが突然、立ち上がってこちらを振り向いた。

「よし、帰ろう」
「急だね」
「これ以上はさ、別れが寂しくなる」

 もう遅いよ、って返そうとしてやめた。そんなこと言っても本当にもう遅いから。

「そうだよね。わかる、わかる」

 言いながら立ち上がると、弘人くんがこっちを見て大きく笑いだした。
 残り少なくなった缶チューハイを飲み干す。ぬるくなったアルコールが胸の中に流れていった。