そんな日々が一つ、また一つ無くなっていくのを感じていた。


……本当は知っていた。
 休日出勤になったと、いつもは無い土曜日に会社に行くことに予感はしていた。違和感しかないから。だけど気付いていないフリをするしか無かった。
 私がたくちゃんと一緒にいられるなら目を瞑るのは容易いものだから。

 たくちゃんに抱き締められる温もりも、幸せしか詰まっていないキスも、寝顔も笑い顔も、ヤキモチを妬く顔も、全部全部離したくなかった。


「ごめん。彼女とヨリを戻すことになった」


 別れてから思い出したことも無い最後の会話。
 あの時の私は泣いてすがることもせず、怒った素振りをしたのはただの強がり。
 出会った当時、たくちゃんには彼女が居たのは最初から話してくれたのに、会えば会うほどたくちゃんに惹かれ、たくちゃんを求め、そして越えてしまった境界線。
 戸惑いながらも私を受け入れ、私を愛してくれた日々は偽りだったのか。

 あのワンルームで、間接照明では無い白い蛍光灯の電気の下。あぐらをかいて俯くたくちゃんと、体育座りをして俯く私。
 別れのシーンをぼんやり見つめる私は、気付けば本体から抜けて透明人間状態。

 あの頃の場面を、年齢を重ねた私が視界を広げて見てみると、
あぐらをかいて俯くたくちゃんの手には携帯。
 大事な別れ話をしながら携帯でヨリを戻す彼女と連絡をしていた。
そして早く帰れと言わんばかりの貧乏揺すり。

「まこの置いてた荷物、量多いから車で運んでやるよ」

 泣かない理由はそこにあった。
私の存在は切り捨てられたんだ、それもいとも簡単に。

 たくちゃんの大好きの言葉、ヤキモチ、その温もりはシャボン玉のように一瞬だけの幻想を見せて直ぐに消える。
 私だけが何年経っても夢で良いから会いたいと願う程、心の底から愛していたのは何故なのか。

 これは夢。

 夢なのに感情がリアルに近づいていく。
 ちょっと待って。話が違ってくる。
 私はたくちゃんの夢を見たかっただけなのに、再現VTRを観にきたわけじゃない。条件に合ってない。納得が出来ない。

 もうそろそろ夜明けが近い。

 私は感傷に浸りたい訳ではないのに。
 このまま目を覚めて、もう二度と夢でさえたくちゃんに会えないなら見たくなかったのに。


──馬鹿な女。
眠る前に聞こえた声が、再び聞こえてくる。

──夢で良いから会いたいだけだったのに、こんな過去を見せないでよ。
──夢だよ。あの別れ話は別の場所だったじゃない?忘れたの?
──そんな筈ない。確かにたくちゃんの部屋で別れ話をしてる。
──この後にまた会っては揉めたじゃない?
──そうだった…っけ?


 鍵をかけた筈の思い出を開けられ、見たくもない場面を夢の中でも見せられて、嫌な気持ちにさせられて。
 こんなこと私は望んでない。

──夢だもの。好きな夢を見られると思ったら大間違いだよ。怖い夢を見ることだってあるじゃない?同じこと。
──だけど!!……っ。

 声が出なくなってきた。身体が朝を感じて起きようとしている。

 待って、嫌だ。
 こんな気持ちで起きたくない。
気付けば無数のシャボン玉が私を包み、シャボン玉の中にはあの頃の私とたくちゃんとの思い出が一つずつ物凄い勢いで消えてゆく。

 お願い待って。
 このままじゃ、全て消えてしまう。
 お願い、まだ消えないで。まだ起きたくないの。


 たくちゃんを消したくないの。


──消えないよ。

 え?声はもう出なかった。

──大丈夫。消えない。思い出は消えない。愛されたことも、愛したことも、苦しかったことも、辛かったことも、過去の思い出のお陰で今の貴方がいるんだから。
──思い出にすがるのは悪いことじゃない。だけど、今の私を全て捨ててまで彼の元へいくのは許さない。本当の馬鹿な女に成り下がるつもり?

 あぁこの声は……。

 私だ。私の中の私だったんだ。
 やっぱりこれは夢なんだ。

 本当に愛されていたら、彼女とはヨリを戻さない。
 本当に私が宝物だったのなら、切り捨てられる、あんな心無い扱いはされない。
 一緒にプリクラを撮ったたくちゃんの友達と、たくちゃんが喧嘩をして疎遠になった理由は、二股をしている彼に忠告をしたら、開き直りをされたと教えてくれたのを思い出す。

 私はただ、彼と過ごした甘い蜜だけの一時を思い出していただけなのだ。

 シャボン玉の数は残りわずか。

 幸せそうに寄り添い、指を絡める二人で過ごした時間は私の中で、確かに存在していた。
 それは誰が何と言おうと、私の中の消えなくても良い思い出。寝る前にたくちゃんの夢を願う理由だったんだ。

 今の私はたくちゃんを愛しているわけではない。
 ただ私、あの頃が本当に幸せだったから。

──それでいいよ。それだけでいいから。思い出は糧になる。さぁ、起きて。

 パチン

 最後のシャボン玉が弾け、そして儚く消えた。


 目が覚めるとカーテンから差し込む陽の光を、ギリギリ開く瞼で感じ取れる。
……変な夢を見た気がする。
何だかリアルで、少しだけ切ないそんな一夜の夢を。
 まだ動かない頭で、アイボリー色のカーテンをボーッと見つめる。

「まこ、起きた?今日あの打ち合わせって言ってたじゃん」

 歯を磨きながら寝室に顔を出すさくまの姿。

「……おはよ。…って、今何時?」
「九時過ぎてる」
「ごめんごめんごめん!!!今支度する!!」

 ガバッとベッドから起き上がり、前髪が寝癖で飛び跳ねているのを体感でわかるが、こんな寝癖を見られた所で気にする関係ではない。

「早く寝ないからだよ」
「小言は後でたっぷり聞きます!」

 私は今日、さくまとの結婚式で着るウェディングドレスの打ち合わせの日だった。約束の時間は朝イチの十時から。
 たくちゃんと別れ、さくまに愚痴を溢し、慰められ、気付けばお互い必要な存在へと変化した定番コース。

 たくちゃんのように、甘い言葉もヤキモチも、ストレートな愛情表現なんてされたこと無い。
 喧嘩をする度たくちゃんだったらと何度も比べ、物足りない愛情に別れを考えたこともあったのに。
気付けば隣にいて持ちつ持たれつ、一緒にいることが当たり前に、そしてお互い必要とする関係性。

「化粧終わった!さぁ行こう!」
「はやっ。今珈琲飲もうと思ってたのに」

 車の鍵を持つのは私。運転するのも私。助手席にはさくま。
 私達にしたらいつもの定位置。
車を発進させて、信号の無い交差点で左右確認をすると。

 フワフワと何処からか飛んでくるシャボン玉。

「お、シャボン玉」
「本当だ。どこかで子供が飛ばしてるのかな?」

 澄み渡る青空に、太陽に照らされているシャボン玉が虹色に反射している。
 風に流されどこまで上に昇っていくんだろう。

 晴れのせいかな。今日は気分が清々しい。
 そして何だかパチンとモヤモヤした感情が弾けたスッキリとした気持ちになった気がした。



──それでいいよ。
シャボン玉の中に閉じ込めた、聞こえない声は空高くどこまでも上がっていった。






【完】