「それじゃあ大井(おおい)先生、まだまだ夜は長いですけど頑張りましょう」

「ええ、よろしくお願いします。松下(まつした)先生」

 大型ホテルの東西に伸びる長い廊下、その中間あたりにあるエレベーター周辺のスペースに長テーブル一つとパイプ椅子二つが設置されており、中学校教員である大井(かける)と松下乃愛(のあ)がその椅子に腰かける。四月中旬、時刻は深夜三時、修学旅行一日目を終えた夜のことだ。

 テーブルの上に置かれたブラックの缶コーヒーのふたを開け、一口だけ口に含み、苦みに耐えきってから大井は「ふーっ」大きく息を吐く。松下は交代で自分の部屋に戻って行った他の教師たちが見えなくなったのを確認してから大井に尋ねた。

「大井先生、どうしたの? 溜息なんて。疲れた? 眠い? 今日はテーマパークで遊ばせるだけだし、終わったら仮眠してから来ていいよ?」

「い、いえ、ちょっと緊張しちゃって」

「緊張?」

「あ、い、いえ、何も起きないといいなぁっていう意味で……」

「ふうん? まあ気持ちは分かるよ。事故とか起きたら一生引きずるもんねぇ」

 大井は怪しげに自分の顔を覗き込んでくる松下から目を逸らす。ぱっちりとした大きな目、風呂上がり特有のシャンプーの匂いと潤いを持った肌、艶のある唇、すっぴんなのか化粧をし直したのか判断できないほどに整って、綺麗で、美しい顔は心臓に悪い。野暮ったいジャージ姿すら大井の心を弾ませた。

「あたしが前に来たときはねぇ、非常階段で別のフロアに行こうとした男子が階段で見張ってた先生に捕まったくらいかな。まあ、ワクワクするのは分かるんだけどねぇ」

「松下先生も学生時代はそうだったんですか?」

「そうだねぇ、もう時効だから言うけど、あたしが中学のときの修学旅行の宿が旅館でさ。部屋にベランダみたいなところがあって、隣の部屋のベランダに飛び移って移動してたりしたんだよ」

「まじすか? 意外ですね、昔はやんちゃだったんだ」

「生徒にも他の先生にも内緒だよぉ?」

 自分の唇に人差し指をあてていたずらっぽく笑う松下に大井も自然と笑顔になる。しっかり者で生徒思いな松下の新たな一面を知れたことが喜びとして心に染みた。

 深夜三時というブラック企業もびっくりな時間の業務でも大井が笑顔でいられるのは、隣に松下がいるからだ。三年前、大学を卒業したばかりの大井が新任の教員として任されたのが、当時教員三年目だった松下も担任を持っていた三年生の副担任。何かと関わる機会も多く、大井は自然と松下に心惹かれていた。

 その学年を卒業させた次の年に大井と松下は二人とも一年生の担任となり、それから二年が過ぎてお互い三年生の担任となり今に至る。

 松下は二歳年下の後輩である大井に対しても普段は敬語で話すが、いつの間にか二人きりのときはため口になっていた。また、大井と松下が話をしていたり、何か一緒に作業をしていると、それを見た生徒たちから「お似合いだ」とからかわれることが多々ある。一応形だけは否定するものの笑顔は絶やさない松下と自分はある種特別な関係にある、とその現状に満足してしまっていた大井は関係を進展させる努力を怠り、未だに仲の良い先輩後輩の関係だった。

そして大井の気持ちを知る学年主任はこの夜の監視担当教員の配置を大井と松下のペアとし、大井の背中を押してくれていた。頑張ると約束もしている。

「あ、そうそう、修学旅行って旅行中も大変だけど終わったあとも結構大変なんだよぉ」

「終わったあとですか?」

「良くも悪くも人間関係が変わることが多いからねぇ。旅行前は仲良しだったのに旅行中に喧嘩してその後卒業まで一切口きかない子たちとかいたんだから」

「えぇ、副担だったから全然気がつきませんでした」

「あとはカップルが結構できる。旅行の熱に浮かされて告白して、告白された方もテンション上がってるからたいして好きでもないのにオッケーしちゃって、結局しばらくしたら別れるっていう」

「ああ……」

「あれ? 大井先生、その反応は……経験者?」

「い、いえ! お、俺の場合はちゃんと卒業まで付き合ってましたよ……まあ、高校は別々だったので色々タイミングとか会わなくなって高一の夏頃に別れましたけど。それからずっと彼女はいません!」

「へぇ? どっちが、どこで告白したの?」

 松下は再び大井の顔を下から覗き込む。

 憧れの松下の前で過去に彼女がいた話をするのはどうかとも思ったが、その彼女のことはもうなんとも思っていないこと、今は彼女がいないことを強調するために大井は話すことにした。

「修学旅行の班が偶然一緒になって、明日行くテーマパークを一緒に回った時に他の班の人とはぐれてその子と二人きりになっちゃって、二人で皆を探しながら歩き回ってる最中にその子の方から『好きだ』って言われたんです。あとで聞いたんですけど、本当ははぐれたんじゃなくて、班の他の子にお願いしてわざと二人きりにしてもらったみたいで……」

「それでオッケーしたんだ」

「はい」

「元々その子のこと好きだったの?」

「なんとなく気になってはいましたけど、本当に好きになったのは付き合い始めてからかなって思います。まあ、別れた今はもうなんとも思ってませんよ。連絡も取っていなかったし、成人式の日に一度だけ見かけましたけどお互い何も話しませんでした」

「その子、可愛かった?」

「え? ……まあ。でも松下先生の方が可愛いですよ」

 しまった、何を言っているんだ、と大井が思った頃には松下が大井のおでこにデコピンをくらわせていた。大井もまた、旅行の熱に浮かされている。

 大井にデコピンをくらわせた松下は大井に顔を見られないように頬杖をつき、正面にある誰も出てくる気配のない生徒たちが宿泊している客室の扉を見つめた。

「心配だなぁ、大井先生。女子生徒に人気あるのに、節操なく可愛いとか言ってない? 女の子なんて気になる男の子に可愛いって言われたらすぐ勘違いしちゃうんだから気を付けなよ? 万が一にも間違いが起きないようにしてよね? その気はなくてもしつこくアプローチされてなし崩し的にっていうのもあるんだから」

「心配いりませんよ。生徒に、というか本当にそう思わなかったら可愛いなんて言いません。それに俺はどちらかと言うと、と、年上が好みなので間違いなんて絶対におきませんよ」

「ふうん?」

 大井から松下の表情は見えない。ただ、少しだけ先ほどよりも松下の声が弾んでいることは分かった。大井は止まらない。今日は攻めると決めている。

「ま、松下先生はどうなんですか? 教員としてじゃなくて生徒としての修学旅行の思い出」

 松下が顔の向きを変えて頬杖越しに大井の顔をちらりと見る。いたずらっぽくて、扇情的で、何故か悲しげでもあった。

「聞きたい?」

「松下先生が嫌じゃなければ」

「嫌って言ったら諦めるの?」

「表情と声色によります」

「いーや」

「その顔や言い方は本気じゃないので諦めません。教えてくださいよ。俺も教えたんですから」

「どうしてそんなに聞きたいの? あたしの昔話なんて聞いて、いいことある?」

「松下先生のこと、もっと知りたいです」

「どうして?」

「生徒たちにとって修学旅行は人間関係を深める目的もありますけど、それは教員にとっても同じだと思うからです。俺と松下先生は無事卒業式を迎えるために一緒に頑張る仲間なので、仲間のことは詳しく知っておいた方がいいじゃないですか」

「口が上手くなったねぇ。これなら生徒にアプローチされても上手くかわせそうで安心だよ」

「そ、それで、どうなんですか? 松下先生の修学旅行の思い出。まさかベランダを飛び移っただけってことはないでしょう?」

 松下は答える代わりにテーブルの上に置いてあるペットボトルのミネラルウォーターをグイグイと飲み始めた。コマーシャルに使えそうだと大井が思うと同時に松下は体の向きを変えて大井と正面に向き合う。

「何もなかったよ。中学や高校のときのあたしは恋よりも部活と勉強と友情で忙しかったから」

「へぇ、意外ですね。モテそうなのに。旅行中じゃなくても告白とかされなかったんですか?」

「前に言ったことあるでしょ。男友達は多かったけど恋愛に発展するような関係じゃなくて、一緒に悪ふざけしたり、学食のパンを奪い合ったり、ファミレスの奢りをかけてテストで勝負したり、ひったくり犯を追いかけて捕まえたり、そんな感じだった」

 大井が松下と知り合ってもう四年目になる。職員室や飲み会での雑談でそういったエピソードは何度も聞いている。それでもこういった話を再びしているのは探りを入れるためだ。大井は松下が独身であることは知っているが、恋人がいるかどうかは知らない。

「じゃあ高校までは彼氏とかいなかったんですか?」

「うん。友達とワイワイできれば充分って感じだったからねぇ……初めて彼氏ができたのは大学一年生のとき」

「ど、どんな人だったんですか?」

「知りたいの?」

 その暗く重い声色と目を伏せる仕草に、これは本気で言いたくないのだと大井は感じ取る。攻めると決めていたが、悲しい思い出を呼び起こすのはいただけない。

「……いい人だった」

 大井が「やっぱりいいです」と言う前に松下はぼそりと呟いた。その儚くて、強い感情の乗った声に大井が胸が締め付けられるような感覚を覚える。今は恋人関係ではないが、今もその人のことが好きなのだろう。それがはっきりと分かってしまった。

「もう諦めてるけどね」

 爽やかに言い放つ松下が無理をしていることも大井には分かる。松下の大きな目から大きな涙の粒が一滴、また一滴と垂れ落ちて松下のジャージを濡らす。大井はきっとひどいフラれ方でもしたのだろうと想像する。

「す、すみません、俺が変なこと聞くから」

「いや、あたしが勝手に言って思い出しちゃっただけだし。駄目だね、あたしも修学旅行だからってちょっと浮ついてるかも」

 本当はもっと詳しく聞きたい。全部知った上で、その人よりも自分は松下のことを幸せにすると言いたい。それでも最後の一歩が踏み出せずに、差し出そうとした手と感情のやり場を失ってあたふたとしていると、二人のいる位置から最も近い客室の扉が音を立てずにそーっと開いた。

「あっ」

 大井も松下も同時にその扉の方を向くと、部屋の中からこちらの様子を見ている二人の女子生徒と目が合った。

「やばっ」

 そんな小さな声を残して扉が閉められて、ホテルの廊下には静寂が訪れる。

「まだ起きてる生徒もいるんですねー。明日大丈夫なのかな」

「若い子はどうにかなるもんだよ、明日は一日中テーマパークだし。それよりどうしよう。あの子たちからだと大井先生があたしのこと泣かしてるようにしか見えなかったよね?」

「あ」

「噂されちゃうぞー。女性を泣かせるひどい男だって」

 幸か不幸か、生徒に目撃されたことにより松下の様子はすっかり元に戻っていた。大井の憧れた優しくて美人でしっかり者の職場の先輩、松下先生の姿がそこにはある。

 今ならいけるか、と大井は思う。いつも通りの松下であればたとえ駄目でも後腐れはないようにしてくれる。駄目な可能性はほとんど頭に入れていない。自分の中にある自信を奮い立たせる。昔の男の話をする前に自分が松下にとっての一番になってしまえばいい。

「あの、松下先生。大事なお話があります」

 大井は姿勢を正し、改めて松下を正面から見つめる。大事な話と聞いて松下も背筋を伸ばす。学校で真面目な話をするときの松下の仕草、騒がしい生徒たちもこれだけで静かになる。

「どうしたの? 急に改まって」

 大きく息を吸って、大きく息を吐いて、気持ちを落ち着かせて、気持ちを言葉にする。

「俺、松下先生のこと好きです。初めて会ったときから、先輩としてだけじゃなくて、一人の女性として憧れてました」

 大井にとっての初めての告白。心臓がどうにかなりそうなほどに速い鼓動を鳴らす。緊張と期待と不安が一斉に襲ってきて、握りしめた自分の手に汗がにじむのが分かる。

 松下はほんの少しだけ目が見開かれ、「うん」と小さく頷いた。その呆気なさに、大井の緊張は一瞬で解かれた。

「うんって、反応薄くないですか?」

「なんとなく、そうなのかな、そうだったら嬉しいなって思ってたから」

「そ、それって……松下先生も俺のこと――」

「好きだよ。間違いなく」

 大井の言葉より先に松下が思いを告げる。だがそこにあるのは両想いということが判明した喜びや大井への愛情といった類の感情はなく、冷静さだけがあった。

「あたしが初めて三年生の担任を持ったとき、不安だらけだった。でも、新任の大井先生の前で駄目な姿は見せられないって頑張った。あの頃の大井先生、授業時間とか教室とか間違えたり、電話の転送ミスって切っちゃったり、スーツの袖の部分をチョークの粉だらけにしたり、黒板消しクリーナーからチョークの粉をぶちまけたり、ほっとけなかったから。あたしも一年目のときは全然上手くいかなかったから、どうにかしてあげたかった」

 昔の自分の情けない姿を思い出され、大井は苦笑いするしかない。自分でも新任の頃は駄目駄目だったことは自覚している。

「でも生徒との関わりだけは上手で、すぐに皆の顔と名前を覚えて、それどころか部活とか得意な教科とか、交友関係とか成績とか担任のあたしよりも知っていて、すごいなって思ったんだ」

「それは、それくらいしかできなかったんですよ。交友関係以外は資料を見ればいいだけでしたし。ていうか修学旅行の後に仲悪くなった子のことは気がつかなかったですし」

「頑張り屋なんだなって思った。一生懸命で、ミスしても引きずらずに切り替えて、先輩の先生に色々聞いて頑張る姿に元気をもらったの。いつの間にか大井先生と話すのが楽しくなって、授業の空きが被ってる時間が楽しみになった。この授業が終わったら大井先生と雑談できるって思うことが多くなった。教師失格ね」

「俺もですよ」

「卒業生を送り出したら一年生の担任になって、大井先生も一緒で嬉しかった。一人でも仕事をこなせるようになって、生徒からも人気があって、たった一年で立派な先生になってた。若くて顔も良いから女子生徒に囲まれることも多くて、そういう光景を見るたびにあたしは嫌な気分になって、それが嫉妬なんだって気づいたときに、あたしは大井先生のことが好きなんだって自覚したの」

 両想いのはずなのに、嬉しいことのはずなのに、どこか憂いを感じさせる松下の表情に大井も不安を抱く。それを払拭するために松下の両手を自分の両手で包むように握った。細くて白くて、少し震えたその手をギュッと握りしめた。

「ま、まつ、いや、乃愛せ、乃愛さん。明日、というかもう今日ですけど、俺たち教員も見回りって言う名目で自由行動ですよね? その、テーマパーク、一緒に回りませんか?」

 両想いなのだから了承してくれると思っていた。ほぼ確実に生徒たちに見つかって噂になるが構わない。噂ではなく本当のことなのだから。そもそも今年でこの学校に六年目の松下は今年度を最後に転勤になる可能性が高いと松下自身も他の教員も言っていた。たった一年、照れくさくなることが増えるだけだ。

 だが、松下の首は横に振られた。悲壮感に満ちた目を大井は直視できずに俯いた。

「明日は一人で回るって、修学旅行の行程が決定したときから決めてたんだ。ごめん」

「ど、どうしてですか? 二人きりが嫌なら他の先生も誘って……」

「誰かと一緒じゃなくて、一人で行きたいの」

「……何か、大事な理由があるんですか?」

 大井に握られた手を自分の方に戻し、松下は潤んだ目を拭う。大井も行き場を失った自分の両手を小刻みに震える膝の上に戻して落ち着かせ、松下の言葉を待った。期待と不安が入り混じり必死で冷静さを取り繕っている。

「大学の卒業旅行で、さっき話した彼氏と今日あたしたちが行くテーマパークに行ったんだ」

 思い出の場所、という重みが大井にのしかかる。まだ未練があったのか。でも自分のことを好きならそんな未練はもう断ち切って欲しい。そんな気持ちを押し殺して次の言葉を待つ。

「最後に帰る直前、出入り口のところで指輪を渡されて、プロポーズされたの。まだ社会人になってすらいなかったのに。それが彼との最後のデート」

「えっと、こ、断ったってことですか?」

 またしても松下は首を横に振る。大井はまたしても胸が締め付けられる感覚を覚え、実際に左胸を抑えてしまった。動揺を見せないよう、言葉を絞り出した。

「じゃ、じゃあオッケーしたってことですか? でも、今の乃愛さんは結婚してないですよね? 俺のこと、好きだって言ってくれたし」

 嘘、離婚、不倫、気分の良いものではない言葉が思い浮かぶ。だが、松下の答えは大井の予想を見当はずれにするものだった。

「卒業旅行は三月半ば。お互い気が早いとも少し思ったけど、嬉しくて、楽しみで、仕事が始まる四月になる前に籍を入れようって約束した。旅行から帰ったらすぐにお互いの両親に挨拶に行こう。あたしは実家に戻る予定だったから、彼の新しい家に一緒に住むことにしよう。そんな風に予定を立てていたんだけど……あたしが一足先に実家に戻っていて、彼が挨拶に来るはずだった日、彼は交通事故で命を落とした。あたしの実家の最寄り駅からうちまで歩く途中で、信号無視の車にはねられた」

 結婚する前に死別した。もう諦めてると言ったのは諦めざるを得ない状況だったから。

「だから、教員一年目は散々だった。一年生の担任だったのに何をやるにも身が入らなくて、ふとしたときに泣いちゃってた。そのときも今と同じで学年主任は押田(おしだ)先生で、相談に乗ってもらって、全部打ち明けて、サポートしてもらって、なんとか続けられたんだ」

「……押田先生は全部知ってる?」

 押田は松下が婚約者と死別したことを知りながら、大井の気持ちを成就させようと背中を押してくれている。松下は今も涙を流すほど引きずっているということも知っているだろうに、押田の意図が大井は分からなくなった。

「彼に似てるの、駆君は。いつも一生懸命なところとか、ちょっと頼りないところがあるけど、優しくて人に好かれるところとか。押田先生もあたしが伝えてた彼の特徴に似てるねって言ってて、それも駆君を意識するようになったきっかけの一つかも」

「そっか……」

 二人の間に沈黙が流れる。大井はそれ以上何も言えなかった。ただ、松下が気持ちの整理をして、何か言ってくれるのを待つことしかできなかった。

 長く静かな時間が流れる。お互いにたまに飲み物を口にする以外は音もたてずにただ座って、虚空を眺めていた。松下の心の内で行われているであろう葛藤に大井は踏み込めない。

 松下がテーマパークを一人で回ると言ったのは彼氏との最後の思い出を振り返るためだ。大井のことを好きだと言ってくれてもなお、松下の心には彼がいる。亡くなった人間は人の心の中で永遠になる。その思いが強ければ、生きている人間に勝ち目はない。


「ごめん」

 夜が明けようとした頃、松下が久しぶりに口を開いた。

「どうして謝るんですか?」

「駆君のことが好きな気持ちは嘘じゃない。でも駆君の気持ちに応えられる自信がないの」

「亡くなった彼氏さんのことがまだ好きだから、ですか?」

「駆君と彼は似ている。だからこそ、ちょっとした違いが目立つ。駆君を見ると彼はこうだったけど駆君はこうなんだって、自然と比べてしまうの。どっちも好きなの」

 変わりようのない彼への強い気持ちに大井は勝ち目がない。だが、勝つしかない。松下にとって彼を超える存在になるしかない。辛く、消え入りそうな声で気持ちを吐き出している松下を救うために自分ができることは何か。大井は決意をした。

「一人でテーマパークを回るのは、亡くなった彼氏さんとの思い出を振り返るため、ですよね?」

 松下は頷く。

「俺にもそのデートコース、教えてくれませんか? あ、ついて行くわけじゃないですよ。少し遅れてスタートして追いかけるだけです。合流は絶対にしません」

「どうしてそんなこと……」

「俺が追いかけてきてるって思えば、俺と比較してくれるかなって思って。彼氏さんとはこうだったけど、俺とだったらどうなるんだろうって想像してもらえたらいいなって。駄目ですか?」

 思い出に土足で入り込むような行為であることを大井は自覚している。それでも、そのくらいしないと亡くなった人間を超えることはできない。自分がいるということを松下の心に刻み込まないといけないと考えた。自分を選んで欲しいと思った。

「俺は乃愛さんのこと、好きです。もし回り終えて、俺に会いたいって思ってもらえたなら、出入り口のゲートの前で待っていてください。追いかけて、追いつきますから」

 松下の表情は悲しみでもなく、憂いでもなく、もはや苦しみに変わる。葛藤が手に取るように分かる。

 やがて松下はスマートフォンを取り出して何かの操作を始める。

 誰に向けたものか分からない「ごめんなさい」というか細く消え入りそうな言葉とともに、大井のスマートフォンに一通のメッセージが届いた。

 記されているのは、大井が追いかけるべき道しるべ。

 終着地点に何があるのかは誰にも分からない。

 やがて夜が明ける。

 一度自分の部屋に戻ると言う松下の背中を、大井はただ見つめることしかできなかった。