付き合っていた恋人が事故で記憶をなくした。

私のことを覚えていない彼はすっかり性格も変わってしまい、恋人だと伝えても煙たい顔をされてしまった。

もう私の好きだった彼はいないと悟った瞬間でもあった。

会う度に彼はイライラして私の手を振り払う。

はじめは胸が苦しさでいっぱいになったけど、今はただ喉の詰まりを思いきり吐き出したいばかりだ。

毎日のように病室に通うことも、恋人としての思い出話を語ることも、全部が彼を逆立てるだけ。

「今までありがとう。バイバイ」

いつかこの想いは青空に変わるだろうか。

今はシンシンと雪が降って指先はかじかんでいて、無理やり吐き出したい息の白さにやけくそになって赤い目元を擦り空を仰いだ。

初雪、初恋。

サヨナラさえまともに出来なかった17歳。

もうすぐ新年を迎える冬の賑わいのなか、何度も唇を噛んで喉を締めるように指で首をなぞっていた。


***


起きたら部屋が黄昏に染まり、カラスまでももう無理だと去っていく時間だった。

「寝すぎだろぉ。……久しぶりにこんな寝た」

社会人になって規則正しい生活に慣れたつもりだったが、いざ年末年始になるもリズムは崩れるもので、今まで寝足りなかった時間を取り戻す執着で二度寝、三度寝を繰り返した。

ぼんやりとした頭をハッキリさせようと、ベッドの上であぐらをかいて身体を左右に揺らす。

しかめっ面にスマートフォンを手に取ってSNSを開くと今年の反省と来年の抱負がタイムラインを埋めつくしている。

反省なんてものは疲れるばかりで、周りの熱さに焼けて骨さえ残らない。

抱負は頑張ってすり減って、ふとした瞬間にガラガラ崩れてしまう。

人間の心はジェンガのようなものだ。

いつになったら積み直せるのかと沈んだ息を吐いてのそのそと背中を丸めてベッドから降りる。

大晦日になると私の中で芽を出す感情に対して行動はいつも同じ、カラーボックスの前に立ち、汗ばんだ人差し指でクリアファイルの角を手前に引く。

本に埋もれさせたクリアファイル、そこに収まった今年の運勢が書かれたおみくじ。

何年前に引いたものだろうと、毎年考えてはおみくじの文章を読み直す。

彼といっしょにおみくじを引いて、年越しをするたびに見比べて笑いあった。

……穏やかで、太陽みたいだった彼は一瞬で別人となり、私を見るたびにシャーシャー猫のように威嚇して、最後には皮肉に乾いた笑い方をした。

私がそばにいると、彼は玉のような汗を出しながら目尻を真っ赤にして、鋭い毒を刺すばかりになる。

それに私も胸が締め付けられて、青い炎にのまれてカスになってしまった。

彼を思う気持ちは絶対に出すものかと喉にフタをした。


「年越しそばでも食べるか……」


なげやりに呟きながら冷蔵庫を開くも食材は空っぽで、あるのは缶ビールと冬にこそ美味しいアイスクリームだ。

これではさすがに自暴自棄だと頭をかき、買い物に出るために身支度を整える。

誰に見られるわけでもないのに軽く化粧をしてしまうのは、毎年のクセでしかない。

大晦日というだけで特別なイベントに期待して、ただ買い物に出るだけでも浮き足立つ。

なにかロマンスでも訪れてくれたらこの胸の痛みにもサヨナラできるのにと、いつまでも物思いに沈んだ笑みを浮かべるしかなかった。


♪〜♪〜♪〜と、初期設定のままの着信音が鳴り、表示された番号を見てひゅっと息を飲む。

名前が表示されなくても番号を覚えてしまうくらい、何度も画面の向こう側に語りかけた日々が溢れ出す。

消したはずの感情に背中をおされ、考える思考もないまま応答した。

『……あ、沙希? やっと出た』

喉が焼ける。

『いつものとこでずっと待ってるんだけど。連絡もこねーから何かあったんじゃねぇかって』

手に汗が滲む。
今にもスマートフォンをすべり落としてしまいそうだ。

気さくさが同じで、声は少し低くなったような。

「……望くん」

私に怯えて、私を拒絶した人。

『なんだよ、その声。泣いてんのか?』

若い喋り方のまま、イタズラに笑って向こう側から気にかけてくれる不器用さ。

これは幻聴なのか、わからないままに視界が揺れて鼻をすすり、震える喉をさすって笑みを浮かべた。

「なんでもない。どうしたの? 急に電話してきて」

『別に急でもないだろ。それより今どこ? ひとりで待ってんの結構さみーんだけど』

衣擦れの音がする。

その奥からはせせらぎ音があり、カラスが色を変えていく空から逃げようとカァーカァー鳴いているのが聞こえた。

遠くなった光景に短く刻まれた呼吸を繰り返す。

もう彼はいないはずなのに、私はがむしゃらに走っていて、まるで息づかいや仕草ひとつを目で追いかけていた頃の私が戻ってくる。

オレンジ色の憂いた空が群青に塗り替えられていき、太陽が沈んでも燃えカスがあたりを照らしていた。

段になった川は激しくぶつかり合う音をたて、走れば走るほどに流れが落ちついてサーッと景色に溶け込むやさしい音に変わった。

息を切らして足をとめると、夜に溶け込みそうな黒髪が風になびいている。

河川敷の高架下、光をさえぎる影の空間に彼はボーッとしながら橋の向こう側に切り取られた世界を眺めていた。


「……お、沙希。おせーよ、夜になっちまったじゃん」

「望くん? 本当に望くんなの?」

「他に誰だって……ってか、なんでそんな泣きそうなの? オレ、なんかした?」


この人は望くんだ。

見た目は大人っぽくなっているが、中身はあの頃の望くんがそのままいる。


***


17歳の冬、彼は交通事故で私のことだけ忘れてしまった。

お医者さんが言うには強く考えていたことが飛んでしまうことはたまにあるそうで、すぐに思い出すだろうと楽観視していた。

事故とはいっても幸い軽傷で、一ヶ月ほど様子見で入院することになった。

お見舞いに行き、彼が苛立ちを隠す気もないむき出しの嫌悪で手をなぎ払った。

抱えていた花束が落ちたので拾おうとした時彼は「出ていけ!」と乱暴に叫んで困惑に震えていた。

事故のショックだろうとその日は帰ったが、それから何度顔を合わせようとも彼が私を受け入れることはなかった。

恋人だと語れば「キモチワルイ」、心配だと訴えれば「近づくな」、辛いと口にすれば「腹立つから消えろ」と、それはもう愛情の欠片も残らない現実を突きつけられた。

18歳を前に二人で引くはずだったおみくじ。

一人で神社に行き、ずいぶんと遅れての新年のご挨拶をしてからおみくじを引いた。

【待ち人来ず 音信(おとずれ)あり】

「音信ありって……未練タラタラじゃん」

その場にしゃがみこみ、おみくじは濡れてしわくちゃになった。

唇を噛んで、嗚咽をあげて、喉は焼けて死んでしまいそうだ。

大好きな待ち人はもういないのに、忘れた頃に連絡があるとは神様もイタズラがすぎる。

いつまでも私を離さない、忘れられない初めての人だった。

***


「なんでいるのー? 東京に行ったんじゃなかった?」

「気がはぇーよ。来年の話じゃん」

望くんは東京の大学に進学することが決まっており、私も追いかけて受験勉強に励んでいた。

高校に入学して、同じクラスになって、ある日突然告白されて付き合うようになった。

最初は手を繋ぐことも出来ず、指先だけ触れさせて真っ赤になりながら河川敷の横を歩いた。

ファミリーレストランではわざと並んで座って店員さんにおかしな目で見られたことも懐かしい。

くっつきあうのも照れ笑いするくらいに好きだったが、時々ケンカして猛ダッシュで逃げる。

陸上部の望くんにスピードで敵うはずもなく、あっさり捕まっては謝られて私もごめんと言って仲直りをした。


一度だけ本気で逃げていたら、手首を捕まれてその勢いでファーストキスを奪われたことも懐かしい。

私のはじめてを全て奪ったくせに、事故を機に突き放して私の存在を全力で否定した。

胸にぽっかり空いた穴は塞がらず、さめざめとした世界に泣き叫んで、やけくそに志望校を変更し、難なく合格して地元に残った。

何事もなかったかのように望くんだけがいなくなって、そのまま私たちは知らぬところで大人になった。

「なに言ってんの。何年前の話してるの?」

「今の話だけど。来年入ったらすぐ受験だろー? 絶対合格してくれよ? 一人で東京行くとかマジ怖ぇもん」

もうサヨナラしたのは何年も前の話で、私は大学を卒業しており大人として世の中に出ている。

それは彼も同じはずなのに、大人の見た目のくせに中身は『事故にあう前』となんら変わりなかった。

恋に溺れていたあの頃の私と、大人として冷静な私が入り交じり、アイコンタクトも取れないでいると、彼はムッと唇を丸めて立ち上がる。

手首を掴まれると、ファーストキスの時と同じ意地をはった重なり方をした。


「初詣。年越しはいっしょだって約束しただろ。……ほら、行くぞ」

ぶっきらぼうに手を差し出して、今度は私から掴めと言わんばかりにふてくされている。

このアーモンドアイの瞳には高校生の私が映っている。

強烈に私を否定する目もなくて、かわりに燃えるような恋をともす高校生で大人の彼。

(夢でもいいや……)

今は夢に溺れたい。

年を越して、一番に見る笑顔が彼だった。

私に最初に「おめでとう」と言って、無邪気に歯を見せてはにかむ姿が好きだった。

ケンカしても許せてしまったのは彼をかわいいと思うほどに、嫌なところも愛情に変わるくらいに想っていたから。

だから私を全否定する嫌悪のまなざしに耐えられなかった。

愛してる人におぞましいと突き飛ばされてでも、何度も愛を乞うほど私は強くなかった。

***

通りすぎる住宅街からは四方八方に色を変化させるテレビの蛍光カラーが窓を照らし、歌や笑い声がそこらじゅうで鳴っている。

いつも夜に時間をかけて初詣に行き、また長い距離を歩いて早朝にバイバイする。

それが私たちの年越しスタイルだった。

「大学周辺の物件みてるんだけどさ、家賃がどこも高くて。これが東京価格ってやつかな」

「田中は専門行くんだよな? 美容師になりてーとか言ってた。坊主頭だけど、髪伸ばすのかな?」


東京に行って、またカッコよくなったんだね。

大人になった彼は当時よりもクールで落ちついた顔立ちになった。

だけど口にするのはあの頃と変わらぬ高校生としての発言だ。

東京に行って田舎くささもなくなって、きっとステキな友達に恵まれて、笑顔でいられる恋人がいたのだろう。

私がとなりにいるはずだったのに、私の知らない女の人が腕を掴んで肩に頭をのせている。

(田中くんはね、髪を伸ばして金に染めて、地毛が伸びてプリン頭になってたんだよ)

そんな貧乏な専門学校生活を終えて、今は立派に美容院でシャンプー台にはりついて毎日を過ごしている。

それもみんな噂話に聞いた程度だけど。

「お互い大学卒業したらさ、ど……同棲しような! その方がほら、家賃が安くすむしいいだろ?」

「……うん。そうだね、いっしょに暮らしたいね」

「……なんか、今日のお前、いつもと違う。大人っぽいというか……ちょっと……」

「ちょっと、ってなに? 言ってよー?」

耳まで真っ赤になる姿はまるでガキンチョで、初々しい高校生を見ている気分になってついニヤニヤと彼のワキ腹を突く。

彼は「だあぁ!」もやけくそに声を出し、口をへの字に結んで目元を赤くしながら私の肩を掴んだ。


「なんかエロいんだよっ! 言わせんな!」

「……ふ。あは、あはははっ!」

直球する言い方に涙がでて、笑っているのに止められなくなる。

大好きだった男の子がそのまま私を好きだと叫んでるようで、長年で乾ききってしまった心が水を得た魚のようにはしゃぎだす。

彼はとても素直な男の子で、律儀にバレバレなサプライズをする人だった。

誕生日やクリスマス、ホワイトデーと必ず驚かせようと試行錯誤するのだが、あからさまに挙動不審になっていたので友人にはいつも「愛されてるね〜」と笑われた。

照れ屋で純粋な彼にウソはつけない。

それを誰よりも知っている自信があるから、今こうして笑っている彼が本気だということも知っていた。

もしかしたら、と淡い期待を抱いてしまう。

起きたこと全てが夢で、本当は私もまだ高校生で、二人で東京に行くのを夢見ていたんだと。

抑えきれないあの頃の愛に、次第に私も時を戻していった。


***


「おぉー。すげぇ人。」

もうすぐカウントダウンがはじまろうとする頃に神社にたどりつく。

長蛇の列に入り、除夜の鐘が鳴っていると音をたどると、彼の鼻が赤くなっていると目に留まる。

寒がりのくせに平気そうに薄手の恰好をするのは変わっていない。

しもやけになった彼の指先を掴んで、本殿に伸びる均一の石畳を見下ろし、苔が生えてるなと意識を反らす。

付き合っていた期間は長いくせにいつまで立っても小さなふれあいになれない。

別れてからの方が時間は立っているのに、胸がきゅっと痛むのは今も変わらなかった。

「あ、カウントダウンはじまる……」

左手首につけたシルバーの時計、男性も女性も使えそうなシックなデザインだ。

「10、9、8……」

神聖な火を灯して神域としての印を明かす灯籠に、弾けた横顔が照らされる。

この灯りは魔除けの意味合いもあり、この時間が終わってしまうのではと喉が震えてカウントダウンを口に出来ない。

あの頃の彼は腕時計なんてしていなくて、スマートフォンで確認して充電が切れれば「うあーっ!」と頭を抱えていた。

となりにいる人はあの頃と似ているようで、器はもう私の知らない彼だと空を見ながら思いきり酸素を吸い込んだ。


「3、2、1……ゼローッ!!」

ゴォーン、と強い鐘の音と祝福に満ちた歓声、一人からはじまってすぐに拍手の輪が広がる。

たくさんのおめでとうと、今年もよろしくね。

拍手の中心にいた彼に私は言葉を失い、射抜かれたかのように目を見開いた。

「……あ、あれ?」

とたんに彼は涙を流し、戸惑いの音を鳴らしながら手のひらを見下ろしている。

この透きとおるようなやさしい瞳は激しく血走るものに変わるだろう。

思っていたよりもこの奇跡にのめり込んでいたようで、除夜の残響に口を震わせて微笑むしかなかった。

「……ごめん。俺、なんで泣いてんだろ」

鼻だけでなく頬まで色を変えたとあわてて袖を擦り付ける。

声色も、恥じらい方も、知っている。

日が巡っても、彼は高校生の大人だ。

いつも爽やかに人懐っこく笑っていたはずなのに、泣くときは意外と静かだと唾を飲み込む。

淡い期待をして、揺れた指先を思い切って丸めてみた。

彼の肩がビクッと跳ね、こすれて赤くなった顔を向けてくる。

「……あけましておめでとう」

口をすぼめて熱いまなざしを向けたあと、じわじわと赤い箇所を広げていく。

これは灯籠で明るさと影が入り混じるからよけいに過去に埋没したくなるんだ。

涙をハラハラ流して彼の腕に頬をあて、目を閉じた。

「あけましておめでとう。望くん、大好きだよ」

「うぇっ!? えっ……あ、と……。俺も好きだよ、沙希」

いつまで続くだろう。
辛い現実なんて夜が飲み込んでしまえばいい。
参拝の列が進んで、両手をあわせながら私は今の状況を抱きしめたいと浅く息をした。

ざわめく神社の敷地内におみくじの箱があり、今までで一番心臓の音で鼓膜がおかしくなりそうだった。

彼が先に引いて、私が追いかけて引く。
汗ばんだ手で、震えながら小さな紙をめくった。

「やった! 俺、大吉!」

わしゃぐ彼に私は物思いに沈んだ微笑みを浮かべ、そっと中身をなぞるように見た。

(……末吉。なんとも言えない)

昔からおみくじのあたりは悪い。

それでもいまだに捨てられないおみくじに想いを寄せて、「待ち人」を探す。

【待ち人 当方から尋ねよ】

その言葉を見て私はこらえきれずに身を縮めてしゃがみこむ。

たったそれだけのメッセージなのに、捨てられなかったおみくじの文が変わったと泣きじゃくった。

まわりの視線を集め、彼に手を引かれて鼻をすすりながらおみくじを結ぶ。

彼は不自然なほどに静かで、背筋をピンと伸ばして大股に歩き、神社から離れようとする。

情緒不安定の私を強く引っ張って、むやみやたらに励ますわけでもなく落ち着いた頃にはにかんでくれる。

家から神社までの距離、簡単には帰れない大晦日の二人きりの長い散歩だ。

帰り道を歩いて繫華街を歩いていると、突然彼が立ち止まり、ポケットからスマートフォンを取り出した。

バイブレーションをとめて、彼がスマートフォンの画面を突き付けてくる。

「……1月1日、1時」

「誕生日おめでとう、沙希」

目が見開かれ、人工の明かりがにじんでチカチカする。

毎年、彼は当日ではなくこの時間を待って「おめでとう」と口にした。

そんな祝福はずるいと、こらえきれずに私はふたたび咲いてしまった想いに手を伸ばす。

彼の手からスマートフォンが滑り落ち、カツーンと音をたてて画面が暗くなる。

ファーストキスは突然奪われた。

だから今度は大人になった私が奪い返してやろう。

背伸びをして彼の首に手をまわし、かぶりつくように唇を濡らす。

絶対に逃がしてやるものかと身体を擦り付けて、熱っぽい吐息に身を震わせて一心に見つめた。

「望くんはまだ若いから、私にリードさせてくれる?」

「何言って……。歳、いっしょじゃん」

「……うん。そうだったらいいね」

奇跡の時間だとしても、私と彼では切り取られた時間が違う。

もし次に目を覚ましたとき、彼との時間は同じになっているだろうか。

恨みがましいと距離は遠いままだろうか。

わからないけれど、今はなにもかも忘れて夜に溺れたい。

少し大人になった私が手を引いて、不格好に泣きながら彼の頬を濡らす。

1月1日、午前1時。

未練がましい初恋に、年をまたいで手を握り、大人になりきれない喉の詰まりにフタをした。


***


クリアファイルに入ったおみくじを手に、私は一人、長い長い道を行く。

山越えが出来るのではないかと思うほどの距離に、一人ではやけに考え事が多くなると空を見上げた。

息が白くて、手がかじかんで痛い。

神社につくと、大晦日のにぎわいが嘘のように静寂な空気に包まれている。

大切に大切にしまっていた古いおみくじを”古札入れ”へ。

風が吹き、雲の切れ間に白い光を見る。

「ようやくお返し出来ます。ありがとうございました」

私は忘れない。

彼を好きだった私がいて、今の私がいる。

思いがけぬ待ち人が来て、更新されたおみくじは生命力の強い木に結んで、宿る神様に届けたから。

「泣くな、私。強くなれ」

鳥居に向かって石畳を歩き、長い階段を駆け下りる。

私を忘れてしまった彼と、一夜に溺れたことは私と神様だけの文が刻んでいた。


「了」