桜並木の下、一夜の贖罪に溶ける永遠の夢の呪いから醒める刹那。

 それは、この世の何より愛だった…。
  

 ※


 『…………七桜、久しぶりだね。』




 彼と言葉を交わす日々はもう二度と叶わないのだと、幾度と無い嗚咽を溢し、昇り行く明けの明星を怨む数え切れない朝がどれほど有った事か。

 眠れる森の迷宮を果てしなく彷徨う私は、幼き仔羊の如し。

 地図は誤字脱字だらけで全く信用出来ず、出口の手掛かりさえ見つけられず、脱出が許されるのかさえ分からない。

 後ろへとしか進む事の出来ない自分に、誰もが同情し嘲笑している。

 だがしかし、エピローグなぞには目を背けろと優しく手を引っ張っては、唯に停滞を強制し、呪縛して来たあまりに美しく眩く残酷な彼。



 そう。
 
 高校の2ーCの教室の四年前と同じ席に腰掛け、私に話しかけて来た、恋焦がれ続けて止まない愛しき初恋の人と瓜二つの青年。


 彼は、背後に満月の脚光を全面に浴びて、この世のものとは夢にも思えぬ鮮烈さを放つ至上に優美な微笑みを浮かべていた。




 『っど、どうして…………?紫苑(しおん)く、ん。』

 

 ーーーー無性に懐かしい、甘いバニラの香りが私の嗅覚を刺激し、あの繊細なガラス玉が視界上に再び存在している…。

 私の何もかもを見透かされてしまう様な畏怖感に再度駆られては、サッと一歩、後退りしてしまう。


 息の詰まる様な沈黙を超越すれば、突然、天から降って来た奇跡の驚愕に揺さぶられ、涙腺が崩壊してしまった。
 
 熟れたての林檎の様な熱き頬を伝う、微かに冷たい水滴が止めどなくボロボロ溢れては、霧がかる視界へ溶けて行く。


 そして、胸の奥のギュッと言う締め付けと共に無償に温かなものが忍び込んで来た。
 



 『さぁ、どうしてでしょう…?』


 悪気なんてものは微塵も無い様にきょとんと首を傾げる彼は、相変わらずの意地の悪さ。



 歯をギリっと食いしばり、舌に広がる不満の塊を、ごっくんと呑み込むこと一.六秒。




 『…ちょっと、揶揄うのはやめて。』


 最後の一欠片を、口からふっと吐き終われば、お茶目な瞳を爛々と輝かせ、悪戯っぽい口角に愛情をたっぷり滲ませる彼と再びのご対面。


 アーモンド型の猫目を縁取る長い睫毛と、ぷっくりと膨らみを帯びた涙袋の影は、何処となく哀愁が秘められており、一縷の切なさの追憶を誘う。

 雪の女王が誇る肌に、ツンと尖った高き鼻のプライドに反し、困った様な寂しげな微笑みに似合う深い笑窪。



 そんな、彼の儚き佇まいからは、掴みたくても掴めない、危なっかしく蠢く風のルーツを嗅ぎ取らせると同時に、今にも消えてしまうんじゃないかと言う不安や恐怖感にさえ襲われる。


 それは、かつて高校時代に抱いていた、予測不能でミステリアスな世捨て人の雰囲気を確かなものとさせた。



 あの頃、紫苑くんの机の四方周辺には、常に彼の信徒である大勢の人間が輪となり渦となり、ガヤガヤと取り囲いていた。


 後光がキラキラと射し込む言わずもがなの超絶美形かつ、人を魅了する巧みな話術で男女クラスメイト問わず慕われ、しかもそれを鼻にかけない、世渡り上手の完璧超人…!!

 感嘆符を付け加えるのに躊躇なんてものは不要で、白馬に跨る少女漫画のヒーローが、身近な三次元に存在する事に、ただただ感嘆を漏らす他、皆成す術は無かった…。


 “神は二物を与えず”

 “ ”何ぞ嘘っぱちに決まっとる、阿呆らし、と誰もが彼の虜の子になる魔法をかけられ、羨望の眼差しを向けていた事をしみじみと思い出す。
 


 だがしかし、皆が瞬く刹那、不意に人の輪から逃れた彼は別世界へとワープし、皮肉に満ちた現実を透明人間の如く、虚しそうに静観するのだ。


 それは、女子が些細な愚痴を溢したり、男子が下ネタで大はしゃぎしていたと言う理由からかも知れないし、もっと違う、目には見えない、彼の第六感だけが引っかかった違和感の為かも知れない。


 しかし、それが何にせよ、彼は決して責める真似はせず、強いて言うならば、そう言った感情を覚える自分を咎める様な不思議な人だった。
 

 優しいから…?

 いや、それも有るが、繊細な人間は、傷付く事が日常茶飯事で有り、予防対策には無関心になるものだ。

 期待を捨て期待捨て、諦め諦め諦め、停滞。


 放課後、よく換気の為に開け放った教室のベランダから、短髪を風に靡かせ、柵下の景色を独り、ぽつんと眺める彼。

 この世の痛みを知り尽くし、若さの勢いみたいなものは何処かにポーンと置いて来てしまった様な空っぽな微笑みは、鮮明な一枚の油絵の如く私の脳裏に永遠にこびりついて離れる事は無い。



 彼は、一瞬で崩れて落ちてしまいそうな脆い夢の国で暮らしていた。


 私には、到底辿り着けやしない道の果てのお伽噺の終焉で、絶望の味を唇でギリっと噛み潰し、流れる紅をなぞる様に愛撫しては、唯に立ち尽くしている。


 …………そんな、誰よりも先にいて、誰よりも遠い人。



 しかしながら、彼は驚く程に優しく、その上それは“無意識”と言う、あまりにあまりに、非常に罪深き男であるのだから、まぁ、その毒牙に失神する女子生徒とて、決して少なくは無かった。



 私だって、彼のそんな所に惚れたのだから……。




 『………七桜ちゃん、どうしたの。辛気臭くて可愛い御顔が台無しだよ?』


 彼は、蜂蜜の様な艶と透明感の含有する中音ボイスを甘く響かせ、眼にピンクのハート型を描いては、キラキラと潤んだ瞳孔で私をジーッと見据えている。


 いやはや、これは一つ忠告させて頂かなくてはならないと勝手な義務感を抱いた私は、試しに台詞を脳内シミュレーションをしてみる事にした。


  “おいっ、誰彼構わずそんなことしていたら、刺されますよ…?自分の身体、大事にしましょう…って、あ。”


 まぁ、それは置いておく事にしようと、私はバツが悪そうに思案を右手でぶんぶんと追い払い、ジーッと目を皿の如く細めましては、改め観察を開始する。



  “…………ほんとの本当に本物よ、ね?まさか、新手の詐欺もどきなんて言うんじゃ。”



 疑念を晴らしてやろうと、真の正体確かめようとするが為に、思いがけず私は、彼の端正な顔をぺちぺち叩いてしまっていた。

 頬のひんやりとした感触に不覚にもドキッとしていれば、彼の頬が薔薇色に染まり、心なしか手を伝う体温も上がっている様な気がする。


 彼は、あたかも照れ隠しの様に瞼を伏せては、必殺・子犬の上目遣いの術を行使し、私を見上げては、


 『あの、七桜ちゃん…?』

 と僅かに上擦った声を震動させ、限界を迎えたかの様に呻いていた。


 “私とした事が…………”

 ふっと正気に戻り、溢れ出る羞恥心に頭を抱え、心中で思いっきり悲鳴を上げてからの、数秒後。



 『ごめんなさ…って、、ギィャァァァアアアアアーーー!!死神…?』




 彼は、私の目の前に存在している筈が無い。



 そんな事が有れば、紛れも無い奇跡…………。


 『あはは、死神が来るか。僕、一応死んではいないんだけど…。相変わらず、七桜ちゃんってば、面白い。…残念だけど、不正解。』

 
 嬉しそうにケラケラと笑う彼に、私は呆然と問いかけた。

 『ねぇ、何で、そんな平然としていられるの…?』



 彼は、ぽつりと私の溢した言葉を無視し続ける。


 『ーーーー正解は僕にも分からないんだよね。四年前、僕は不幸な海難事故に遭ってしまってね……。昏睡状態に陥り、植物人間になってしまったのは君もご存知の通り。何故、だろうね…?』


 ”海難事故……。”


 わざとらしく、きょとんと首を傾げては、


 『でも、君はずっと、お見舞いに来てくれている。新しい花を花瓶に生けて、僕の手をギュッと握ってくれている。僕が、君と喋りたいなぁと願い続けていたから、神様が許して下さったからかも知れないね。』


と彼は甘い口説き文句?を並べ、先程とは打って変わった蕩ける様な微笑みを顔に塗りたくった。

 彼は困った時、そんな風な誤魔化し方をする癖が有った。