「ローズ!」
 ローズの姿を見つけて、リヒトの表情がぱっと明るいものに変わる。

「よかった。無事だったんだな。フィンゴットにのってきたんだ。ここは危険だ。はやくここから――……」

 フィンゴットから降り、ローズの無事を確かめて、安堵したように優しい笑みを自分に向けるリヒトを見て、ローズは唇を噛んだ。

「何故」
「え?」
「何故こんなところに、お一人でいらっしゃったのですか!!」

 声が震えそうになるのを抑えて、ローズは叫んだ。

「貴方に何が出来ると仰るのです!? 私が……私が、貴方を待っているとでもお思いだったのですか!?」
 ――嘘よ。 

「こんなところに一人で来て。貴方は王子なのです。なのに、貴方ときたら! 一体何を考えていらっしゃるのですか!!」
 ――嘘。

「貴方なんて邪魔だけです。私のことは心配しなくていい。私は貴方とは違う。私なら大丈夫。私は、貴方の力なんて必要ない」 
 ――貴方が私を探しに来てくれて嬉しい。でも、だからお願い。

「だから……。だから、早く。早く、ここから……っ!」
 ――逃げて。貴方は生きて。貴方がここに来てくれた。それだけでもう、私は十分だから。

「リヒト様!!!」
 ――貴方を、失いたくないの。
 
 ローズは、本心を隠して精一杯リヒトを逃がそうとした。
 だが彼から返ってきたのは、ローズと同じくらいの声量の怒鳴り声だった。

「五月蝿い五月蝿い! お前の屁理屈には、もううんざりだ!!」

 かつて彼の誕生日の宴の席で、自分に婚約破棄を言い渡したときのような彼の言葉に、ローズはカチンと来た。

「……う、五月蝿いとはなんですか! 私はっ! 私は、ただ……!」

 これまでも、いつだって。いつだって私は―――貴方のことを思って。
 そう言葉を続けようとしたけれど、リヒトの顔が近付いて、ローズは何も言えなくなった。

「だから……もう、いいから。その口を閉じろ」
「…………っ!」

 動けない。
 『魔王』の糧として拘束されたローズに、リヒトは口付けた。
 知らない感触。初めてのその行為に、どう対応していいのかローズはわからず混乱した。
 リヒトの柔らかな髪が、頬にかかってくすぐったい。
 長い間一番そばにいたはずなのに、与えられなかった触れ合いは、人肌程度のものだというのに、凍土を溶かすほど熱くローズには感じられた。

 ――こんな場所で、こんなこと、している場合じゃない。

 そう頭では分かっているのに、思いが溢れて、ローズは何も言えなかった。
 頭の中には、これまでの彼との日々が浮かんだ。

『ローズ』
『リヒト様』

 そばにいることが当たり前で、その時間はこれからも、ずっと続くことを疑わずに生きてきた。 
 いつか兄や、彼の兄が目覚めるその日が来ても、リヒトと共に在る未来を、ローズはずっと信じていた。
 その感情が何と呼ぶのか、名を与えることもなく。
 その思いや選択が、誰かを傷つける可能性に気付かぬことは、やがて罪になることも知らずに。
 ベアトリーチェとの約束は、ローズ自身が彼に口付けることだ。
 一年待つと、ベアトリーチェは言った。しかしこの一年、ローズは結局彼に口付けることは出来なかった。

 ローズにとっての口付けは、彼女の想いの証だった。
 公爵令嬢として、望まれる結婚。
 そのために、やがて消すべき感情に与えられた時間の猶予。
 逆さにされた砂時計は、一年の時を迎える前に、乱入者により破壊される。
 硝子は地に落ち砂は舞い、そしてその先に現れるのは……。

 ――リヒト、様。

 ローズは彼の名を、心の中で呼んだ。
 強引に奪われる。その口づけは、公爵令嬢として生きてきたローズを、一人の少女に変える。
 与えられたものを受け入れる。
 ローズはゆっくりと瞳を閉じた。

 ――嫌じゃない。この方が自分を選んでくれたことが、たまらなく嬉しい。

 たとえその感情が、罪だと誰かに非難されても。
 自分を思ってくれる優しい人を、傷つけることになったとしても。
 そう思うことを、ローズは止められなかった。

 リヒトは、立ち上がることの出来ないローズの前に立った。
 紙の鳥の魔法を発動させて防壁を作る。
 ローズには理解出来ない複雑な魔法は、魔力の消費こそ少ないものの、かなりの硬度を持つようだった。

「たとえ俺が、魔法を使えなくても、俺のことを馬鹿にするやつでも、俺にとっては守るべき一人の人間だ。俺は俺の国を、俺の民を傷つけることは許さない!」

 この世界の殆どの人間が魔法を使えない。
 魔法を使える人間とそうでない人間には決定的な差があり、こ多くの人間は、魔法を使える者と比べたら弱者だ。
 
 リヒトは昔から変わらない。彼はずっと、弱者の味方だ。

 ローズはその時何故かリヒトのその姿を見て、人形を国民に与えて死んでしまったという王とリヒトが、似ているように思えた。
 リヒトならきっと『優しい王様』がしたように、自らを犠牲にしても人を守ろうとするだろう。
 圧倒的な力の前に、周りから愚かしいと思われても。
 誰よりも民を思い、そのためにならためらいなく自分を犠牲にする。
 不安定さは確かにある。けれどその心は、誰よりも民に近い王になりうる可能性を秘めている。

 『出来損ないの何もできない、無能な王子』

 そう周囲から呼ばれても、リヒトは自分が傷ついても、自分のために誰かに手を上げようとはしなかった。
 彼が力を使うとき。彼が誰かに立ち向かうとき。
 必ず、彼の後ろには『他者《ひと》』がいる。

「我が君……?」

 すると子どもは、リヒトの声に驚いたようなそぶりを見せて、震える声でリヒトの方を見て呟いた。
 子どもは覚束ない足取りでリヒトに近付くと、目隠しを外した。
 色素の落ちた瞳。
 目隠しの下の子どもの瞳は、ローズの知るある病の症状と似ていた。

 『透眼病』
 病の原因は分かっていないが、病におかされた患者は、視力の低下の代わりに魔力を目視出来るようになるとも言われていることを、ローズは思い出した。
 だとしたら今の子どもの瞳には、リヒトの魔力が見えているのかもしれない。ローズはそう思った。
 そしてそれはもしかしたら――この世界から忘れられたという、彼が愛した主君と同じものが。

「貴方を否定したこの世界を壊すために。私は……私はこの千年、ずっと貴方のために」

 ぽろぽろと涙を落とし、子どもは縋るような声でリヒトに言った。

「ふざけるな! そんなこと、誰が頼んだ!?」

 だが、リヒトは声を荒げ――その声に、子どもはびくりと体を震わせた。

「だいたい『貴方のため』だって!? そんなこと、言われた相手がどんな気持ちになるかわかってるのか!? 『貴方のためにやりました』『貴方のせいで時間を失った』そんなふうに相手に伝えたときに、それはもう、相手のためだけじゃなくなる。お前は自分のためにやったんだ。現実に耐えきれなくて、逃げて逃げて逃げて。相手のためだなんて理由をつけて、そうやって生きてきたんだ!」

 リヒトの言葉は、強く響き渡る。
 ローズは、そんなリヒトを見て目を瞬かせた。

 『リヒトのために』ローズはリヒトを逃がそうとした。
 『リヒトのために』彼の父である国王は、彼の才能を否定した。
 『リヒトのために』幼馴染《じぶん》たちは、彼が闘う必要はないと思っていた。

 でも、それは。本当に彼のためだったのだろうか。  
 前を見据える今の彼の瞳には、もう幼い頃のような、自分の弱さを恥じる様子はなかった。今の彼の瞳には、確固たる意思が宿っていた。

「俺の願いは、この国を生きる全ての人の幸福だ。……お前が、これまでやってきたことは許せない。でもお前が、この国の民だというなら、この国を、本当に愛してくれるというのなら。俺はお前にだって、幸せになってほしい。変わってくれると信じている」

 リヒトの言葉は、彼が強い魔力を持ってさえいれば、まるで寛容な王のようでもあった。
 その言葉を聞きながら、ローズは何故か自分にかつて向けられた言葉を思い出した。

『――変わったと思っていたが見当違いだったようだな』

 かつてその言葉を初めて聞いたとき、ローズはひどい言葉だと思ったが、今考えればそれは、リヒトらしい言葉のようにも思えた。
 許しを与える。人を育てる。手を差し出す。
 絶望に染まった人間を、光の方へと導く手を。
 そもそも彼の名前は、光そのものなのだから。

「『我が君』。……やはり貴方が、我が君なのですね」

 リヒトから叱責を受けたにもかかわらず、子どもの声は、喜んでいるようでもあった。
 まるで長い時をかけて――ずっと探し続けてきた愛しい人に、ようやく出逢えたとでもいうように。

「何百年、何千年と続くようなこの命を与えられた絶望していたときに、私は貴方に出会った。だからこそ私は、ずっと貴方のそばで、貴方の願いを叶えるために、この命を使いたかった」

 ローズには子どもが、『主君』に対して強い執着を抱いているように思えた。

 『神に祝福された子ども』
 長い時を生きる彼らは、人の死と隣り合わせだ。どんなに大切な人がいたとしても、彼らは別れを繰り返すこととなる。
 ローズは、ロイの言葉を思い出した。 

『関係性は分散されてこそ、正常に保たれる』

 幸福の中の歪み。
 心の支えを失えばその歪みは大きくなって、誰かの幸せを願っていたはずの人間をも狂わせる。 
 長い時を生きているはずなのに――病を患ってなお『主君』に焦がれる彼の姿は、まるでたった一人の遊び相手を失った、幼い子どものようだった。

「なのにあの日、貴方を失って。私は、生きることが苦しくなった。だから許せなかった。貴方を否定した者たちを、貴方を忘れた者たちを、この世界を。『貴方の愛するこの国を守る』――私は、あの日貴方と、そう約束したはずだったのに」

 『主君《リヒト》』と出会い、正気を取り戻した子どもは、心の底から後悔しているようにローズには見えた。

「……貴方だけが、永遠とも思えるこの命の、唯一の光だった」

 子どもの瞳から涙がこぼれる。
 その姿を見て、ローズは思った。
 人は絶望のうちに差し出された光を、掴まずにはいられない。
 それはどんな世界でも、どんな時代でも、きっと変わりはしない。

「申し訳ございません。貴方との『約束』を破ったこと……。今更、謝っても仕方のないことだとは理解しております。ただ、これだけは誓います。私が必ず、『魔王』を倒しむしょう。たとえこの命が失われても――『魔王』をこの世界に生み出した責任を、必ず果たしてみせましょう」

 子どもはそう言うと、ローズを拘束していた茨を切って、魔法を発動させた。
 その瞬間突風が起き、子どもはリヒトが建物に侵入した際壊した天井のガラス窓の向こう側へと姿を消した。

 フィンゴットは、子どもを追いかけて天井へと飛翔した。
 問題はその後だった。
 古い建物というせいもあるだろう。強い衝撃を受けた建物は、音を立てて崩れ始めた。

「なんだってこんなときに!」
「リヒト様……。貴方だけでも逃げてください」

 魔力を吸い取られて動けないローズは、朧げな意識のなか、そう言うので精一杯だった。

「嫌だ。置いていけるか。ここで見捨てるくらいなら、一緒に死んだほうがましだ」

 リヒトの言葉に、ローズは胸が締め付けられるのを感じた。
 ――この人を、失いたくない。
 それだけが、今のローズの心を占める全てだった。

「……貴方が、死ぬのは嫌なんです」

 泣きそうな声で言うローズに、リヒトは一瞬目を見開いて、それから優しい笑みを浮かべた。

「俺だって男だ。ローズ一人くらい、運べないわけないだろ」

 魔法が使え、普段から騎士として鍛えているユーリやベアトリーチェならローズを抱き上げて運べるだろうが、魔法が使えない上に研究ばかりで引きこもり気味のリヒトは、ローズをお姫様抱っこしようとして、子鹿のようにぷるぷる震えた。

「重くてすいません」
「……そ、そんなことは無い!」

 リヒトが慌てたように叫んだ。
 だがローズは、そんなリヒトを眺めるのが嫌いではなかった。
 自分のために、彼が必死になってくれている。それだけで、ローズはとても幸せだった。
 鼓動の音が聞こえる気がした。
 ローズは目を瞑って、その音に耳を澄ました。

 ――わからない。この方の心臓が動いていることが、この方に抱かれることが、どうして自分はこんなにも嬉しいのだろう? 泣いてしまいたくなるほどに。

「行くぞ!」

 結局お姫様抱っこを諦めたリヒトは、ローズを背負って運ぶことにした。
 漸くローズを持ち上げたリヒトが崩落直前の建物の外に出ると、フィンゴットが二人を待っており、出てきた二人を見て声を上げた。
 
「ピィ!」
「お前な……。普通戻って助けてくれてもいいだろ……」
「ピィ?」

 フィンゴットは、まるでリヒトの言葉を理解した上で、からかうかのように首を傾げた。
 空気読んだだけですけど何か? とでも言いたげだ。

「……はあ。わかったよ。ありがとう。フィンゴット」
「ピィ!!!!」
 リヒトが礼を言えば、フィンゴットは元気よく返事をした。

「……フィン?」
 ローズは、その光景を見て驚いた。
 何故なら『最も高貴』とされるそのドラゴンが今目に映しているのは、自分ではなくリヒトに見えたから。

 相応しい者にしか従わず、主の訪れを待ち眠り続けた純白のドラゴン。
 その卵が孵った時、ローズとリヒトは一緒に居た。
 フィンゴットは魔力の籠った血を好み、ローズが魔力を与えたことで、瀕死のフィンゴットは一命をとりとめた。
 だからこそフィンゴットは、リヒトに懐かずローズにだけ懐いているように見えた。
 フィンゴットはリヒトではなくローズを主と思っているのだと、誰もがそう疑わなかった。

 ――でも。
 それがもし、誤りであったとしたら……?
 
「フィンゴット。――彼を追ってくれ!」

 相応しい者。認めた者にしか従わない。
 この世で『最も高貴』とされるそのドラゴンは、リヒトの言葉に確かに従っているようにローズには見えた。
 天龍は翼を広げ、高く空を飛翔する。
 するとその時、天空からはらはらと、薄桃色の花びらが降ってきた。

「これは……夢見草……」

 木は夢を見る。木は過去を知る。
 それは、『夢見草』と呼ばれる植物の花弁だった。
 フィンゴットは、花びらの中を真っ直ぐに進む。
 リヒトは視界を塞ぐ花びらを手に掴んだ。
 するとその花びらは、彼の手のひらで雪のように溶けて消えた。

 リヒトは目を瞬かせた。
 その時リヒトの中で、カチリと胸の奥で何かが音を立てて動いたような気がした。
 時を刻んでいたの彼の針は、緩やかに巻き戻される。
 リヒトは眉根を寄せた。

 ――一体、この光景は何なんだ? この声は、この言葉は……。

 自分によく似た、違う『誰か』。
 金色の髪に、赤い瞳の青年は、蹲る小さな子どもに手を差し伸べる。
 ベアトリーチェにどこか似た、浮世離れした雰囲気を纏う少年。
 子どもは一人きりで、森の中で暮らしていた。リヒトによく似た青年は、子どもににこりと笑って尋ねた。

『はじめまして。突然だが、俺と友だちにならないか?』

 少年は最初、青年を拒絶した。けれど森の奥の家を青年が何度も訪れる中で、少年は少しずつ変わっていった。
 そして心を閉ざしていた少年は、青年を見て呆れたような顔をして言った。

『貴方は、本当に頼りない。貴方に任せていては、この国が心配です。だから私は、貴方の力になりましょう。――我が君』
『ありがとう! ユーゴ!』
『暑苦しいです』

 抱きしめられた少年はそう言いながらも、青年には見えないように幸せそうに笑う。

『君の力を、俺に貸してくれ。約束する。俺は君が生きたいと思える、そんな国を作ろう』

『早く王妃様をお決めください。貴方の面影を継ぐ方に、私はずっとお仕えしたい』

 美しい薔薇の詩《ソネット》の言葉のように、少年は彼にその言葉を繰り返す。
 永遠をも生きる子どもは、青年の姿をうつした子らの、その面影に永久《とわ》の忠誠を誓う。

「『ユーゴ』……」
「え?」
「彼の名前は『ユーゴ』だ。間違いない!」

 ローズは、突然静かになったと思ったリヒトが、そう叫んだ理由がわからず首を傾げた。

「何故、そう思われるのですか?」
「それは……」

 リヒトはぐっと唇を噛んだ。
 拳に力をこめる。

「……わからない。でも、これは確かなことだと、俺は思う」

 ローズはリヒトの表情から、リヒトが本当にそう思っていることを理解した。
 理由はわからない。
 そして何故かローズ自身も、彼の名前が『ユーゴ』であると、不思議とそう思えた。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
『薔薇のソネット』はシェイクスピアのソネットのことです。

シェイクスピア『ソネット集』冒頭
『From fairest creatures we desire increase, That thereby beauty’s rose might never die, But as the riper should by time decease,His tender heir might bear his memory』
William Shakespeare (2021),Shakespeare's Sonnets,Independently published