「ここ、は……」
 リヒトが目を覚ましたのは、城の中の彼の部屋の寝台の上だった。

「リヒト様。よかった。目が覚められたのですね。また倒れられたから……本当に、どうしようかと思ったのですよ」
「心配をかけてすまない」

 泣きそうな顔をしたローズを見て、リヒトは少し困った後で、柔らかな笑みを作った。
 その瞬間、頭痛がしてリヒトは頭をおさえた。 
 眠る前の記憶の一部が欠落して、上手く思い出せない。

 ――大事な何かの欠片《きおく》を、自分は見たはずなのに。

「ただ、俺がローズの前で倒れたのは、これが初めてだと思うんだが……。違ったか?」
「…………」
「兄上たちと勘違いしていないか?」
「いえ、それはないと思うのですが……」

 確かに、リヒトこれまでずっと健康で、倒れるなんてそぶりをソーズの前で見せたことはなかった。
 ローズは首を傾げた。
 自分が記憶違いをするなんて、あり得るんだろうか?

「ローズ。あのあと、どうなった……?」
 リヒトは、抑揚のない声で尋ねた。

「リヒト様が、『ユーゴ』とよばれた少年が魔王を倒し、闇の力の腐食《えいきょう》により亡くなってから、リヒト様が倒れられて――その後、魔物も消失しました。今は、破壊された建物の修復とや負傷者の治療が行われています」
「そうか」
「……リヒト様?」

 リヒトの声が沈んでいるように思えて、ローズはリヒトの名前を呼んだ。

「救えなかった。……俺は、彼を守れなかった」
「リヒト様は……あの少年をご存知だったのですか?」
「わからない。少なくとも今の俺は、彼にあったのは初めてだった」
「え?」

 ローズは、リヒトの言葉の意味が分からず思わず声を漏らした。

「でも、俺は、『俺』は、彼を――……」
 リヒトは、目を細めた窓の方を見た。

『我が君。私の、たった一人の――光の王よ』
『その石こそ、あなたが本来持つべきだった器なのです』

 眠りにつく前のユーゴの言葉を思い出して、リヒトは胸を押さえた。 
 その時、部屋の扉を叩く音が響いた。
 
「お目覚めになられたばかりで申し訳ございません。レオン様とリヒト様、次代の王を決めるために、陛下がお待ちです」
「急いで支度をして参りましょう。もう、時間がありません」
「……ああ。わかった」

 リヒトは急いで身支度を行った。
 ただ時間を考えると――自分が目覚めなかったとしても父は人を集めていたということに気が付いて、リヒトは少しだけ唇を噛んだ。
 王城の廊下はとても静かだった。
 父の元へと向かう間、リヒトはこれまでのことを思い出した。

 思い返せばこの1年、いろんなことがあった気がした。

 幼馴染で婚約者だったローズに、人前で婚約破棄を宣言した。少しは落ち込むそぶりを見せるかと思ったけれど、当のローズは全くダメージはなかったようで、彼女はその後騎士団長のユーリを倒して騎士となった。

 騎士となった彼女は、魔王討伐に参加することになり、アカリを守った。
 それがきっかけで、アカリはローズに心を許すようになった。
 その一方で、ローズがアカリを守った際に指輪が壊れてから、リヒトはこれまで以上に魔法を使えなくなった。
 結果として、ローズとリヒトの指輪は魔力の一部を蓄積させ、共有する効果があることが発覚した。

 指輪に書き込まれていた魔法は、『三重の魔方陣』――この世界から失われたはずの、『古代魔法』の一つだった。
 その後、ローズが祖父から受け継いだ『聖剣』にも指輪と同じ力があると発覚し、ローズはその力を使い、アカリやユーリ、ベアトリーチェの力を借りて、魔王討伐に成功した。
 そしてローズの力は、世界中の人間から認められることになった。

 魔王が消えてから、ローズの兄であるギルバートと、リヒトの兄であるレオンが目覚めた。
 レオンは手始めに、リヒトの評価を下げるために『令嬢騎士物語』という本を発表した。そのせいで、リヒトは『落ちこぼれ』や『出来損ない』と言われることが前より増えた。

 リヒトは、兄が目覚めたのなら当初の予定通りローズは兄の婚約者となるのだろうと思っていたが、選ばれたのはベアトリーチェだった。
 『神に祝福された子ども』
 一悶着あったものの、ローズが止まっていた彼の時間を動かしたことで、ベアトリーチェはローズに好意を抱き、二人の婚約は正式に結ばれた。

 だがそんな二人の関係を裂こうとする者が現れた。
 『赤の大陸』グラナトゥムの若き国王――『大陸の王』ロイ・グラナトゥム。
 それはこの世界で、最も巨大な領地を持つ国の王だった。彼はベアトリーチェに『決闘』を挑んだ。
 魔力の高さを重んじるこの世界での、優秀な力を持つ者の奪いあい。
 本来これは自国のみで行われるものだが、ロイは『大国の王』という権力で強引にベアトリーチェに闘いを申し込んだ。
 ローズの意思は尊重されないまま。

 だが一方で、ロイはリヒトには好意的な態度を示した。
 その理由が、リヒトには分からなかった。ただ同時に、ロイが兄を嫌っていることにリヒトは気が付いた。
 ロイの手を取れば、リヒトは兄を傷付けることなんて容易だった。

 でもリヒトは――いくらレオンがどんなにひどいことを自分にしても、目覚めてから必死に訓練している兄を、貶めたいとは思えなかった。
 ただこの闘いの結果として分かったのは、ロイにはすでに思い人が居て、ローズを望んだのは、その相手との隠れ蓑にするためだったこと。
 そしてロイが何よりも欲していたのは、亡き彼の母が残した箱を開けるための『鍵』だった。

 リヒトは壊れていた『解呪の式』を修復し、無事箱は開かれた。
 ロイは箱を開いたリヒトに感謝を述べ、リヒトやレオンたちに、自国にある魔法学院への入学をうながした。

 グラナトゥムのある魔法学院――そこは、『大陸の王』ロイ・グラナトゥム、『海の皇女』ロゼリア・ディラン、『賢王』レオン・クリスタロスの、『三人の王』によって作られたとされている場所である。

 魔力の低いリヒトは、子どもばかりの『幼等部』クラスへと配属された。
 リヒトはそこで、魔法を上手く使えなくなってしまっていたロゼリアと出会った。兄と同じ『三人の王』の転生者の一人であるとされる彼女が、魔法を使えるようになったきっかけは、リヒトがかつてローズを驚かすために作り出した『紙の鳥』の魔法だった。

 自分と同じく『落ちこぼれ』扱いされていたロゼリアが周りに認められる一方で、リヒトは学院で兄のレイザールと同じく『最も高貴』とされる生き物であるフィンゴットと契約するために冒険をした。
 だが結局、フィンゴットの命を繋ぎ止めるにはリヒトの魔力では足らず、魔力を与えたローズにフィンゴットは懐いた。
 フィンゴットがローズを選んだことで、リヒトへの嘲りの声はまた大きくなった。

 そんな中、ローズが魔法学院に編入し、リヒトはアカリとローズの三人で、卒業試験の発表を行うことになった。
 『優しい王様』を元に書かれた『心優しいお姫様』という劇で、リヒトは裏方を担当した。
 劇の中で、リヒトは父に発表を控えるように言われていた『古代魔法』を発表し、学院に入学した後の『透眼病』の治療方法の研究の成果もあって、リヒトはレオンと同じく最優秀としての成績を認められた。
 
 自分の研究を発表したことで、初めてリヒトは大勢の人間から認められるという経験をした。
 与えられた賞賛に、リヒトは胸が熱くなるのを感じた。
 今なら少しだけ、強い魔法が使えるかもしれないと――そう思うくらいに。
 でも、何より嬉しかったのは、かつて自分の弱さに打ちのめされて、周りが見えなくなっていたとき――自分が手を離した愛しい少女が、笑っていてくれたことだった。
 その時リヒトは自分の、彼女への思いを自覚した。

 だが学院から国に戻れば、すぐにベアトリーチェとローズの結婚式の準備が進められ、リヒトはローズと話すことは難しくなってしまった。
 そんな中ローズが行方不明になり、リカルドが魔王の糧として利用されてしまったローズを見捨てようとしたとき、リヒトはこれまでの自分の努力を全て無為にすると分かっていても、ローズを助けに行くことを選んだ。
 フィンゴットはリヒトの願いに従い、リヒトはかつてガラクタ扱いされた自身の魔法道具を使うことで、ローズの居場所を突き止めた。

 かつてこの世界に蔓延し、多くの人間を死に追いやった『精霊病』。
 その病をつくり、『光の聖女』をこの世界に招き、魔王を作り出して世界を滅ぼそうとしたのは、ベアトリーチェと同じ『神に祝福された子ども』だった。

 自分のことを『我が君』と呼ぶその子どもを前にしたときに、リヒトはやっと自分の思いを口にすることが出来た気がした。
 そして人に過去の記憶を見せるという『夢見草』に触れたとき、リヒトは『過去の記憶』の中に、その子どもの姿を見た。
 世界を憎み、滅ぼすほどの悲しみを抱いた始まりの記憶を垣間見て、リヒトは子どもを――『ユーゴ』を救うことを望んだ。
 だがユーゴは自分の命をかけて魔王を倒し、そしてリヒトに、『聖剣の石こそがリヒトの魔力の器』であると告げて命を落とした。

 そして、今。
 クリスタロスの未来を決める『五人の選択』が、行われようとしていた。
 
「ローズ」 
 リヒトの前を歩いていたローズは、リヒトに名前を呼ばれて立ち止まった。

「行く前に、話しておきたいことがある。俺がローズを助けに行ったのは、俺の意思だ。もしこのことで、俺がこの先どう言われても、自分の意思で父上の静止を振り切って行ったのだから、責任は全部俺にある」

 リヒトはそう言うと、立ち止まるローズの前へ、一歩足を踏み出しだ。

「ローズ。じゃあ、行こう」

 光を遮る扉の前。
 ローズの方を一度だけ振り返り、リヒトは柔らかく微笑んだ。
 リヒトはローズに背を向ける。その背を見て、ローズは目を瞬かせた。

 ――いつの間にこの方は、こんなにも大きくなられていたんだろう……?

 この十年。
 ローズはずっと、リヒトの前を歩いてきた。だからだろうか。意識したこともなく、気付いていなかった。
 自分が彼の前を歩いているうちに、彼が自分よりも少しだけ、大きくなっていたことに。
 ローズは小さく微笑んで、そっと自分の胸に手を押し当てた。

「――はい。ありがとうございます。リヒト様」

 前を歩くリヒトに、ローズは深く静かに頭を下げた。

 重く閉じられた扉に、リヒトは自ら手を伸ばした。
 そして扉は開かれる。
 二人を待つ部屋には光が差し込んでいた。そのまばゆさに、リヒトは僅かに目を細めた。