私にはずっと、片想いをしている人がいる。

「おはよー! 寺崎くん!」

 夏の陽気が漂う蒸し暑い朝。
 教室に入り、すれ違う友達に挨拶を交わしてから、私は今日一番の笑顔で彼に話しかけた。

「……おはよ」

 それなのに彼、寺崎海人(うみと)くんはクールに返してきた。かと思えば、こちらに向けてきた真っ黒な瞳をすぐに手元の本へと戻す。

 相変わらずだなあ。

 彼はいつもこんな調子だ。友達の利香(りか)亜梨沙(ありさ)裕樹(ゆうき)(すぐる)に挨拶をした時は笑顔で返事をしてくれるので、私の挨拶が変というわけじゃない。きっと彼は、恥ずかしがり屋なのだ。

「……よしっ」

 何度かそう自分に言い聞かせてから、私は小さく気合いを込めてもう一度彼のほうへ視線を向ける。無造作に切り揃えられたナチュラルヘアに、落ち着いた雰囲気とは裏腹に子どもっぽい大きな瞳。真っ直ぐに下りた鼻筋や陰影のはっきりした輪郭は男らしく、かっこよさと可愛らしさが同居したような顔立ちだ。
 みるみる鼓動が加速していく。いけないいけない。恋は冷静さを失ったほうが負けなんだから。
 私は早鐘を打つ心臓から意識を振り払うように、彼の机の前へしゃがみこんだ。

「……なに?」

 机に両腕とあごを乗せて寺崎くんを見上げると、彼はようやく視線を私に戻してくれた。

「なに読んでるの?」

 なるべく平静を装って尋ねる。若干頬が熱いけれど、きっと気のせいだ。

「なんでもいいだろ」

「えー、いいじゃん。教えてよー」

「君には関係ない」

「関係なくてもいいじゃん。それに君じゃなくて、天瀬(あませ)実咲(みさき)! 実咲でいいからね」

「天瀬には関係ないから放っておいてくれ」

「もうー」

 本当に彼は相変わらずだ。
 もう少しいろいろ話してくれてもいいのに。
 そんな不満を口にしようとしたところで、予鈴が頭上で鳴り響いた。と同時に、教室内が慌ただしくなっていく。

「予鈴鳴ったけど」

「わ、わかってる!」

 次は昼休みにでも話しかけにいこう。
 ほとんど恒例となった決意を胸に、私は渋々自席へと退散した。


 *


 私が寺崎くんのことを気になり始めたのは、高校一年生の時だ。

「え、なに。ここどこ……」

 高校に入学して一ヶ月。ようやく高校生活にも慣れてきたころに、私は心地良い電車の揺れに意識を持っていかれ、気がつけば乗り過ごしていた。
 慌てて次の駅で降りてみれば、もはやそこは別世界。見慣れた住宅街も友達とよく時間を潰しているファストフード店もなく、ポツポツと立ち並ぶ平家に田んぼ、あとはやや離れたところに桜が立ち並ぶ土手が見えるばかりだった。しかもスマホは流しっぱなしにしていた動画のせいで電池切れ、ICカードの残高は五十八円、財布はちょうど家に忘れてきていた。

「あはは…………終わった」

 これはもう笑うしかない。いやぜんぜん笑えない。ここはどこ、私は実咲。その先に続く言葉はなにも思い浮かばない。いったい私はどうすればいいんだろう。
 呆然としたまま、私はふらふらと土手のほうへ歩いていく。桜並木がとても綺麗で、吹き込む風にあおられて青空に花びらが舞っていた。
 花に誘われるようにして土手を登ってみれば、その先には透き通った水色の河川が一面に広がっていた。

「わぁ……」

 太陽の光を反射して、水面がキラキラと輝いている。河から吹き付ける風が頬を撫で、舞い散る桜吹雪の中で私は思わず髪を押さえた。
 とても綺麗だと思った。
 お花見なんかをしたら、きっと物凄く楽しいだろう。

「……ハッ! じゃない、そんな場合じゃない。私は、どうしたら……!」

「そこにいるのって、もしかして天瀬さん?」

 私が慌てふためいていると、唐突に声をかけられた。声のほうを見れば、自転車を引いた同い年くらいの男子が立っていた。確か、同じクラスで見かけたことがある。

「えと、寺崎くん、だっけ?」

「んーそう。やっぱり天瀬さんなんだ。自己紹介、面白かったよ」
 
「なっ! あ、あれは緊張してて! 今すぐ忘れて!」

 ようやく癒えかけた傷を蒸し返され、かあっと顔が熱くなった。思い出したくもない。入学してすぐの頃にあった自己紹介で、私は過去史上最大に噛みまくったのだ。おかげでたぶん最速で私の名前は覚えられただろうけど、中学からの友達には後で盛大に爆笑された。記憶から消したい、紛れもない黒歴史だ。

「まあ、それはいいとして。天瀬さん、なんかあったの?」

「え、えと……じつは電車で寝て、乗り過ごしちゃって。スマホはバッテリー切れだし、お金もないしで……」

「あーなるほど。それは災難だね」

 寺崎くんはちょっとだけ考えるようにしてから、おもむろに駅のほうを指差した。

「ちょっと遠いけど、ここから六駅隣が学校の最寄駅だよ。線路沿いの道を二時間、十キロくらい歩いていけば着くと思う」

「に、二時間!? 十キロもっ!?」

 私の家の最寄り駅はそのふたつ手前とはいえ長過ぎないか。運動部でもない私がそんなに歩けるだろうか。というか私、そんなに遠くまで来ちゃってたのか。

「悪いけど、俺も手持ちがないからお金は貸せない。スマホには電子マネーあるけど、貸すのはさすがに抵抗あるからごめん」

 申し訳なさそうに眉を下げる寺崎くんに、私は慌てて首を横に振る。

「と、とんでもないよ! 教えてくれてありがとう! 私、運動苦手じゃないから、頑張って歩くし!」

 買ってもらったばかりのローファー、さっそく履き潰しちゃうだろうな。ごめんなさい、お母さんお父さん。
 心の中でこれから待ち受ける地獄に辟易としながらも、私は寺崎くんに頭を下げた。寺崎くんは「どういたしまして」と静かに言ってから、自転車にまたがる。

「それじゃあ、気をつけて」

「うん、寺崎くんもね! また学校で!」

 なにはともあれ帰る方法がわかったのは僥倖(ぎょうこう)だ。二時間歩くのはしんどいけど、決して不可能な距離じゃない。ここは天瀬実咲の根性の見せ所だ。
 自転車を漕ぎ始める寺崎くんの後ろ姿を見送りながら自分を奮い立たせていると、ふいにブレーキ音が響いた。

「……もうひとつ」

「え?」

「もうひとつ、べつの方法もある」

 面倒くさそうに頭をかきながら、寺崎くんが引き返してくる。
 もうひとつの、べつの方法?
 わけがわからずに首を傾げていると、彼はためらいがちに口を開いた。

「後ろ。荷台でいいなら、乗せてもいいよ」

 どきりとした。
 見つかったら終わりだけどと付け足して、寺崎くんは視線をそらせる。桜吹雪の隙間に見えた頬が少しだけ赤い。
 自己紹介の話の時とは異なる戸惑いを覚えながらも、私は魅力的な提案に身を乗り出した。

「え、ほんと? 後ろに乗せてくれるの?」

「まあ。この辺取締りとかも見たことないし、さすがに十キロ徒歩はキツいだろうし」

 恥ずかしいのか、寺崎くんはぼそぼそとなにやら言い訳を付け足していく。普段クールな彼に似合わず、いじりたくなるくらい可愛い。でもさすがにそれはと思い直し、グッとこらえた。

「やったー! ありがとうー寺崎くん!」

 そして私は、込み上げてくる嬉しさのあまりぴょんぴょんと飛び跳ねた。二時間歩かなくて済むだけじゃない。寺崎くんの向けてくれた不器用な優しさが、なにより嬉しかった。

「言っとくけど、二人乗りとかほとんどやったことないから、ダメそうなら歩きだから」

「うんうん、それでもいいよ! 本当にありがとう!」

 その後のことは、きっと一生忘れられないと思う。
 寺崎くんはバランスの崩しにくい真っ直ぐな道を選んで、汗だくになりながら自転車を漕いでくれた。
 私は荷台に腰掛けて、彼の背中にしがみついていた。
 風に乗った彼の匂いに、確かに伝わってくる彼の体温に、気づけばドキドキしていた。
 時折り、「怖くない?」と無愛想に声もかけてくれて。
 私は「うん、大丈夫っ!」と平静を装って答えるのが精一杯だった。

 青色から茜色に染まっていく空の下で、私は恋に落ちていた。


 *


 それからというもの、私は事あるごとに寺崎くんへの接触を試みた。

「寺崎くん! おはよ〜!」

 一年生の時はもちろんのこと、幸運にも二年生になってからもクラスは同じだった。私は毎朝彼の元へ赴き、机で静かに本を読んでいる寺崎くんに挨拶をした。

「……おはよ」

 もっとも、彼の返事はいつも素っ気ない一言だけだったけど。
 そして寺崎くんは、どうもかなりの本好きみたいだった。毎朝必ず本を読んでいるし、昼休みには何度も図書館にいるところを見かけた。

「ねねっ、今日はなに読んでるの?」

 だから、そんなふうに尋ねるのもいつものことだった。ただ、寺崎くんと話したい気持ちももちろんあったけれど、私は純粋に彼が読んでいる本も気になっていた。
 私の好きな人は、いったいどんな本を読んでいるんだろうって。

「べつに。ただの小説だよ」

「ほうほう! なんて小説?」

「秘密」

「えーけち」

 といっても、教えてくれるのは良くてジャンルまで。肝心のタイトルや著者はいつも緑色のブックカバーに隠されていた。

「ねっ、寺崎くんって部活とか入ってるの?」

「入ってない」

 ほかにも、何度も話しかけてみた。

「おっ、今日は一緒のグループだね! よろしくー!」

「よろしく。でも静かにね」

 移動教室で、たまたまグループが一緒になった時とか。

「ねねっ、この問題教えてよ。寺崎くん、数学得意でしょ?」

「天瀬の友達にも数学得意な人いなかったっけ?」

「まあまあ。それはそれ、これはこれということで……あ、待ってよ!」

 彼の得意な数学でわからない問題があった時とか。

「寺崎くん、今帰り? 途中まで一緒に行かない?」

「行かない」

「えーなんで?」

「天瀬は電車通で、俺はチャリ通。しかもほら、友達待ってるみたいだぞ」

「ほんとだ……って、ちょっとー! 寺崎くん!」

 放課後に偶然生徒玄関で会った時とかに、私は頑張って話しかけに行った。
 けれど彼は相変わらずぶっきらぼうで、ほとんど会話らしい会話にはならなかった。それこそ、あの土手での会話が一番長く続いた会話だった。

 私、諦めないからね。

 めげそうになる心を奮い立たせて、私は今日も彼に話しかけにいく。

 その、つもりだった。

「あははっ! 海人のほっぺにご飯粒ついてるー!」

 たまたま昼食を購買で買うことになった昼休み。
 中庭の隅で、仲良さそうに女子とお弁当を食べている彼を見かけるまでは。


 *


 え、ど、どゆこと?

 私は混乱していた。それはもう言葉でも身体でも表現できないほどに混乱していた。ほとんど反射的に柱の陰に身を隠し、そっと中庭の様子をうかがう。

「やっぱ海人って料理上手だよね。あたしとは大違いだ」

「それは玲奈(れいな)が雑すぎるからだろ。レシピ通り、分量を正確に入れれば誰でも作れるよ」

「それができないから、このような有様になるのです」

「甘ったるいスクランブルエッグね。まあこれはこれで美味しいけど」

「さっすが甘党」

 二人の手元までは見えないけれど、これは明らかにお弁当を並べて交換している会話だ。しかもあの寺崎くんが無愛想ながらも褒めているし、口調にも優しさがにじみ出ている。

 え、もしかして……彼女?

 嫌な予感が過っている間にも、「あ、これも美味しい! さっすが海人!」だとか「あ、おい。失敗したのを俺に押し付けるな」だとか楽しげな声がどんどん聞こえてくる。
 それはもう、ただの友達という感じではなかった。
 明らかに友達の枠を超えていた。
 これはちょっと、いやかなり予想外の出来事だった。

「……そりゃあ彼女がいたら、私のことなんて相手にしないよね」

 右手に持った焼きそばパンとクリームパンがやけに重い。これが、失恋の重みなんだろうか。
 私はこれ以上二人の会話を聞きたくなくて、早々に教室に戻ることにした。パンと同じように足取りも重くて、階段を上がるのもやっとだった。
 そうして私がなんとか教室に辿り着くと、後ろから肩を軽くたたかれた。

「みーさき! パン買えた……って、え、なんかあった?」

「実咲、顔色悪いよ?」

 見れば、そこにはお弁当をぶら下げた利香と亜梨沙が心配そうに私を見つめていた。

「あーえと……」

 苦笑いを浮かべて口籠る。
 二人には、私が寺崎くんのことを好きだとは伝えていない。なんて言えばいいだろう。
 私が何も言えずに迷っていると、早々になにかを察したらしい利香が私の手をとった。

「よしっ、話聞く。亜梨沙、私は実咲と先に四組の横にある空き教室行っとくから、祐樹たちに適当に言い訳しといて」

「はいはーい。後で向かうねー」

 それだけ言葉を交わすと、亜梨沙は何食わぬ顔で祐樹と傑が談笑している机に向かっていった。そして利香は「ほら行こ」と私の手を引っ張っていく。なんとも見事な連携だ。
 私はなされるがままに手を引かれ、利香と一緒に空いている教室の中に入った。しばらくしてから亜梨沙もパンを片手に教室に入ってきて、三人で適当な机をくっつけて食べ始めた。

「はい。それで、なにがあったの?」

「えー、言わないとダメ?」

「べつに無理にとは言わないよ。でも、話してスッキリすることもあるかなって」

 利香の言い分にも一理ある。けれど、まだ私の中の混乱は収まっていなかった。どこから話していいのかわからないし、なにより誰にも話したことのない恋心を口にするのはやっぱり恥ずかしい。

「きっと寺崎のことでしょー。実咲の前にうちも購買にパン買いに行ったけど、なんか中庭で女子と仲良さそうに弁当食べてたから」

「え」

「マジ? あーでも、そっか。実咲、寺崎のこと好きだもんねー。それは辛いね……」

「え、え? ちょ、ちょっと二人とも、なんで私が寺崎くんのことを……その、好きって知って……」

 後半は羞恥のあまりもにょもにょと小さくなったけれど、私はパンを食べることも忘れて二人を交互に見比べた。すると二人は顔を見合わせてから、驚いたような表情を浮かべる。

「え、あれで隠してたつもりだったの? バレバレでしょ」

「ねー。むしろ違ったら実咲は相当な天然たらしだよー」

「バレバレ!? たらし!?」

 衝撃だった。私ってそんなにわかりやすいんだろうか。

「まあそれよりも、寺崎のことだよね。確かに顔は悪くないけど、とても彼女がいるふうには見えなかったけどなー」

「だよねー。無愛想だし、なに考えてるかわかんないし、一緒にいても退屈しそうだよねー」

「ちょ、ちょっと! 寺崎くんはそんなんじゃないよ! 確かに素っ気ないところもあるけど、本当は優しいところもあって!」

 二人のあんまりな言いように私は思わず声を荒らげ、ハッとした。案の定、二人はまるで示し合わせたかのようにニヤリと笑った。

「そうそう、その意気だよ。実咲」

「うちらにはわかんない寺崎の良さ知ってんだからさー。中庭で女子と弁当食べてたくらいで失恋は早すぎるんじゃないー?」

 利香は優しげに相好を崩し、亜梨沙は野菜ジュースを飲みながら口の端をつりあげた。

「利香、亜梨沙……」

 二人の優しさが胸に沁みる。私は本当にいい友達を持ったなあと思った。

「それにさ! 仮にダメでも実咲ならすぐ彼氏の一人や二人できるって!」

「そうそうー。なんなら裕樹らに頼んでセッティングしてもいいからさー」

「ちょっともう! 二人とも!」

 なんで励ましてすぐに失恋前提の話になるのか。というか二人も彼氏作らないし!
 利香たちの笑顔につられて、私も笑う。
 心は随分と軽くなっていた。


 *


 平日が終わり、迎えた日曜日。
 私は、いつも学校に向かうのとは逆の電車に乗っていた。
 車窓から眺める景色がどんどん変わっていく。前はずっと寝ていてわからなかったけれど、いろんなお店が立ち並ぶ中心部から住宅街、そして田畑が広がる郊外へと景色が変わっていく様子はとても新鮮だった。

「ふぅー……」

 お気に入りの音楽を聴きながら、小さく息を吐く。べつに誰かと待ち合わせしているわけでもないのに、いやに緊張していた。
 でも、仕方ないと思う。
 約一年ぶりとなるあの場所で、私はこれから心の整理をしにいくつもりだから。
 結局、寺崎くんが女子とお弁当を食べていた日は、それ以上彼に絡むことはできなかった。私たちが教室に戻った時には既に寺崎くんは自席で本を読んでいたけれど、話しかける勇気はまったく出なかった。
 その次の日も、さらにその次の日も、私は挨拶をするのが精一杯で、とても昼休みに一緒にいた女子のことを訊くなんてできなかった。利香や亜梨沙が「代わりに訊いてこようか?」と言ってくれたけれど、丁重に断っておいた。
 普通に、怖かった。
 何も気にしていないような顔で、「恋人だよ」なんて返された時は、とてもじゃないけど笑顔で返せる自信がなかった。そしてそんな現実を受け止めるほど、心の準備はできていなかった。
 一年間の片想いは、想像以上に私の中で恋心を育んでいたらしい。

 電車を降りると、蝉時雨が私を迎え入れた。容赦ない日差しが降り注ぐなか、私は風上に向かってゆっくりと歩き始める。
 季節は既に夏。あの頃と違って、桃色の桜は咲いていない。深緑の葉が、河からの風によってざわめいているばかりだ。
 あの坂を登れば、初めて寺崎くんと話した土手の道に出る。
 そういえば、あの時寺崎くんはどうしてこの場所にいたんだろうか。何度か訊いたことはあるけど、いつもはぐらかされていた。
 さすがに、恋人と一緒にいたわけじゃないだろう。もしそうなら、べつの女の子に二人乗りを提案するはずがない。……いや、優しい彼ならありうるか? 最初はそんなつもりなさそうだったし、あんまりにも私が哀れすぎて?

「……ははっ、まさかね」

 自嘲気味に笑って、私は首を横に振った。
 こんなことを考えててもしょうがないのに。
 本当にあの日から、考え事をしてばかりだ。
 向かい風に逆らい、私は土手に登る。湖のように大きな河川はあの日と変わらず、日光がゆらゆらと水面で揺らめいていた。
 やっぱり、綺麗だった。けれど、あの日と違ってどこか寂しげな感じがした。
 ほとんど無意識に辺りを見渡すも、寺崎くんの姿はなかった。当然だ。特に約束したわけではないし、ここ数日はまともに話してすらいないんだから。

「……いや、ずっとそうだったかな」

 また自嘲気味に笑う。
 私はずっと、相手にされていなかった。
 どれだけ寺崎くんにアプローチをかけようと、私はまったく彼の眼中にはなかった。
 恋人がいるいないじゃない。
 それ以前の、問題だった。

「はあーあ。諦めようかなー」

 乱反射している光模様に誘われるように、私は土手から河川のほうへと下りていく。土手と河川との間にはまた別の道があり、どうやら河に沿うようにして舗装されているらしい。私の片想いも、これくらいならされた道だったらうまくいったのに。なんて。
 
「でもなー。諦めたくないなー」

 河を横目に、私は上流に向かって歩いていく。
 この場所から始まった、一年来の恋。
 今にして思えば、私ってチョロいなと思う。でも、途方に暮れていた私にとって、あの時の彼の存在は本当にありがたかった。そして彼の提案はとても嬉しくて、帰りの道中はドキドキしつつもとても楽しかった。
 もう、いっそのこと玉砕しようか。
 当たってないから、砕けないかもと思っちゃうんだ。上手くいけば儲け物で、砕けてしまえば踏ん切りもつくかもしれない。

 うん、そうだ。明日、告白しよう。

 小さく見える河の対岸を眺めながら、私はそう心に決めた。これでダメなら潔く諦めて、また新しい恋を探そう。
 思いの外強く吹き付ける涼風に目を細め、押されるようにして歩みを再開しようとした、その時だった。

「――え」

 目を見張った。
 陸橋の下。日陰になったその場所に、彼がいた。

「天瀬……?」

 私の声を聞いてか、寺崎くんも私に気づいたようだった。いつものように本を片手に、舗装された石階段に腰を落ち着けている。

「なんで、寺崎くんが……?」

「なんでって、よく来るからな、ここ」

 見れば、彼の近くにはいつかの日も見た自転車があった。白のトートバッグにミネラルウォーターもそばに置かれていて、どうやらそれなりの時間ここで読書をしていたらしい。

「それより、どうして天瀬が? もしかして、また乗り過ごしたとか?」

「ち、違うよ! 私はただ、なんとなく来ただけで……」

「こんなところまで?」

「っ、いいじゃん! べつに!」

 私は思わずムキになって叫んだ。しかし寺崎くんはどこ吹く風といったふうに視線を本に戻す。そのまま帰るのはなんとなく悔しくて、私はまた視線を水面へと戻した。けれど……

 え。ど、どうしよう。

 流れゆく清流を見つめているうちに頭は冷え、代わりに焦りの感情が湧き上がってくる。告白しようと決めたばかりだけれど、さすがに今すぐできるほど心の準備は整っていない。

「なに読んでるの?」

 なにか話さないとと思って出た言葉は、いつもの質問だった。

「小説」

 そして寺崎くんも、いつものように返してくる。

「なんの小説?」

「秘密」

「いーじゃん、教えてよ」

「知ったところでどうするんだ? 天瀬、小説なんてほとんど読まないだろ」

「えへへ、あたりー」

 本当にいつものやりとり。
 それだけで安心できるのは、なぜだろう。

「ねねっ、ここにはどれくらい来てるの?」

「……週一、くらいかな」

「へぇー!」

 学校と違って私たち二人だけだからか、寺崎くんははぐらかさずに答えてくれた。やっぱり照れ屋さんなのかな。
 それでも、自然と視線は周囲を気にしてしまう。
 もしかしたら、ふいに中庭で見たあの女の子が現れて、笑顔で彼の名前を呼ぶんじゃないかって。

 訊くなら、今かな。

 私は小さく深呼吸をしてから、口を開く。

「もしかしてー、恋人さんと一緒に来たりとか?」

 未だに視線を本に向けたままの彼に少し近づき、私は尋ねた。自然、心臓が高鳴りを始める。

「なにいってんの?」

 彼はチラリと私を一瞥してから、また本に向き直った。私は平静を保ちつつ続ける。

「またまたー。私、見ちゃったよ。寺崎くんが可愛い女の子と中庭でお昼食べてるとこ」

 胸のあたりがうるさい。手に汗もにじんできた。額に前髪が張り付いてうっとおしい。風で涼しいのになんでって……ああ、顔が熱いからか。
 そわそわと指先が定まらない。傍目から見ずとも、私は確実に緊張していた。そりゃこれだけわかりやすいのなら、利香や亜梨沙に気持ちが知られるのも頷ける。
 ドキドキしながら返事を待っていると、寺崎くんはやや考えてから落ち着いた口調で答えた。

「中庭って……ああ、姉さんと食べてたとき?」

「へ? 姉さん?」

 予想外の返答に、私は思わず訊き返した。

「姉も同じ高校でさ。彼氏も友達も都合つかないとかで、ぼっち飯は嫌だから付き合えってたまに連行されるんだ。いい加減、弟離れしてほしいよ、まったく」

 珍しく愚痴をこぼしながら、寺崎くんはページをめくった。風に合わせて、前髪が微かに揺れている。

 姉さん、姉さん、お姉さん……?

 私はそんな彼の横顔を見つめて、今ほどの言葉を反芻した。お姉さんということは姉弟ということで、恋人ではないということで、つまりは私の勘違い?
 意味がわかったところで、思わず口元が緩んだ。一気に心が軽くなり、あんなにどんよりとしていた気分が晴れ渡ってくる。

「へぇー! いいお姉さんじゃん! 今度連行される時は私も誘ってよ!」

「嫌だよ。どうせまたなにか訊くんだろ?」

「バレたか」

 なんだか嬉しくなってきて、安心したら今度は「好き」の反動がきて、抑えが効かなくなってきて。
 なんとも単純な私はさらに彼に近づくと、隣にしゃがみこんだ。

「じゃあさ、お姉さんから教えてもらう前に先に教えてよ」

「はあ? なにをだよ」

「そうだねえー。なに読んでるの?」

 寺崎くんの顔をのぞきこむ。けれど彼は頑なに本を見つめたまま、小さくため息をついた。

「またそれ? いつも思うんだけど、どうしてそんなにあれこれ訊いてくるんだ?」

「えー、だって」

 心が軽くなっても変わらない高鳴りに促されて、私は口を開いた。

「寺崎くんのことが、知りたいから」

 彼のページをめくる手がピタリと止まる。

「だからさ、本ばかり見てないで私を見てよ」

 ゆっくりと向けられた黒い瞳に、私はつい笑みが溢れた。

「好きなの、海人くんのことが」

 頬が、熱い。
 でも、してやったり。
 目の前でぽかんと口を開けた彼の頬も、とても真っ赤になっていた。

「な、え、え?」

「ふふっ。やっと言えた」

 私は彼の赤くなった表情をもう一度堪能してから、すくっと立ち上がった。

「また明日、学校でね。海人くん!」

 今度は私から視線を外して、来た道を引き返す。
 戸惑っている彼の声が聞こえるけれど、振り返ってなんかやらない。
 ううん、振り返るなんてできない。
 私の頬は、きっともっと赤くなってるから。

 河のせせらぎに耳をすませる。
 それでも、心の昂ぶりは落ち着いてくれない。
 けれど、これでいい。
 私はもう、遠慮なんてしない。
 遠回しじゃなくて、本気で彼のことを知っていこう。

「ほんと、なんの小説読んでるんだろうなあ」

 澄み渡った青空を仰ぐ。
 あんなにも彼の視線を集める小説が羨ましい。
 でも今度は、その視線を私に向けてみせる。

 私は、寺崎海人くんが好きだから。

 きみの瞳に、私は映りたいから。

 だから私は、明日もきみに訊くんだ。