「乗れ。その足で歩くのは厳しいだろう」
「ゆっくり歩けば大丈夫です。先に戻って下さい……」
「昨日も運んでいるから問題ない。軽量なお前一人くらい、屋敷まで運ぶのはお安い御用だ」
このままでは昨晩と同じように押し問答になるだけだと悟ると、海音は素直に蛍流の背に掴まる。そして昨日と同様に「軽いな」と蛍流が呟いたのだった。
「振袖を着てもこの重さか。まるで羽根のようだな。この世界に来てからまともに食べていなかったんじゃないか。朝餉もほとんど残していただろう」
「昨日の朝までは灰簾家に居候の身でしたので……。女中さんと同じものを食べていました……。冷めた料理と残り物を少々」
「女中と同じ扱いだったのか?」
「私が女中さんと同じでいいって言ったんです。灰簾家の人たちも、青龍の伴侶になれたのなら毎日贅沢三昧が出来るって言っていたので、今だけだと思って……。それに……」
「それに?」
「……太ったら、白無垢が着られないので」
滝壺に向かう道すがら話していた二人だったが、気まずそうに囁いた海音の言葉でその場が水を打ったようにしんとなってしまう。
「……着たいのか? 白無垢」
「家に飾られていたお父さんとお母さんの神前式の写真をずっと眺めて育ったので……。ウエディングドレスにも憧れていますが、この世界にはなさそうですし……」
母親の仏壇には幼い海音を抱いた母親の写真と一緒に、両親の神前式の写真も飾られていた。父親に聞いたところ、ウエディングドレスの写真もどこかにあるらしいが、母親の療養で引っ越しを繰り返している内に、どこかに紛れて分からなくなってしまったという。
「この世界での、というより、七龍の形代との婚礼は基本的に書面だけで終わる。豪華な衣装の用意や儀礼は行わない」
「そうなんですか……」
「せいぜい角隠しに留振か振袖を合わせて、お神酒を酌み交わすくらいだな。希望があれば、伴侶側の親族ぐらいは呼ぶが……」
どこか申し訳なさそうに教えてくれるのは、期待を膨らませて身代わりを演じた海音に気を遣ってくれているのか。伴侶になれないと分かっていながら、海音の憧憬を壊さないようにしてくれる蛍流の優しさがどこか居心地悪い。
「残念です……」
「あくまで七龍の形代と婚姻を挙げる場合の話だ。他の男と式を挙げる場合は望み通りの神前式が出来るだろう。この先、輿入れ相手に頼むといい」
「蛍流さんはやってくれないんですか? その、伴侶から頼まれても……」
「伴侶が望むのなら、おれはやってもいい。途方もない長い時間、人生の苦楽を七龍の形代と共に過ごすんだ。些細なことで波風は立てない方が良い。その代わり、七龍の形代はここから離れられないので、斎主を呼んであの屋敷で執り行うことになるが」
歴代の青龍とその伴侶はどうしていたのか、尋ねようと口を開きかけた時、先程の滝壺まで戻ってきてしまう。何を思ったのか、蛍流は水際近くの岩の上に海音を下ろすと、「少し待っていろ」とだけ短く言って離れてしまう。
「先に足首だけ冷やしてしまおう。そのままではますます悪化して、立つことさえ辛くなってしまう」
蛍流は懐から取り出した手巾を滝壺の冷水に浸すと、土埃と枝葉でボロボロになった海音の足袋を脱がして、昨晩捻った足首に巻いていた包帯も外してしまう。
「やはり腫れが酷くなっているな。しばらくは安静にした方がいい。指の間の傷は草履か? 大きさの合わない草履を履くと、鼻緒で擦れて切り傷になってしまう」
鈍痛が悪化しているところから、ある程度は予想していたものの、包帯下の足首は見るからに赤く腫れていた。そんな足首に蛍流が濡らした手巾を当てたので、海音は飛び上がってしまう。
「ひゃあ!?」
「冷たいだろうが、今だけ我慢してくれ」
苦笑しながらも、蛍流は湿布代わりの手巾と一緒に手早く包帯を巻き直してくれる。その手際があまりにも良いので、これには看護師を目指す海音でさえ、惚れ惚れと見入ってしまったのだった。
「明朝、行商人に来てもらうように手配している。お前の着替えや治療に必要な医薬品を持参してもらうつもりだ」
「行商人が来るんですか?」
「おれはここから離れられないからな。七日に一回程度、必要な物品や食料を届けてもらう。この国に流通している物なら大体揃えてもらえる。ついでに情報もな。ここに来ている行商人は情報屋と各地の七龍の形代たちとの連絡役も兼ねている。お前も必要な物があれば頼むといい。火急の要件も、都合次第では聞いてもらえることがある……その分、高く吹っ掛けられるが」
「私は大丈夫です。この世界のお金を持っていないので……」
「七龍の形代とその伴侶の生活費は、全て国の政務を司る政府から支払われるから心配ない。万が一にも、国を守護するおれが行き倒れなんてことになったら、この国は大変なことになるからな。そして今のお前はおれの客人だ。七龍の形代の客人にもしものことがあったら、守護龍とひいてはこの国に影響を及ぼしかねない。政府だってお前のことを悪しざまに扱わないだろう。伴侶に与えられる支度金の話をされた時に聞かなかったか?」
「いえ……。私は灰簾家の人じゃないので、お金の話なんて無かったのかもしれません……」
「……そうか。それならこれからは遠慮しなくていい。おれの客人としてあの屋敷で好きなように過ごしてくれ」
ほっと安堵の息を吐く。明日もここに居て良いと言われただけで、こんなに胸が熱くなるとは思わなかった。住む場所があることを当たり前だと思っていた元の世界では到底思えなかった感情にゆっくりと笑みを浮かべると、改めて衣食住の有難みを噛みしめる。
すると、突然滝壺の中心部が泡立ち始めたので、海音は身体を仰け反りかける。噴水の水が噴射する直前にも似た光景にあんぐりと口を開けて見ていると、蛍流はなんともないように「やっぱりな」と独り言ちたのだった。
「ここまで騒いだら、さすがに姿を現すと思っていた」
そんな蛍流の言葉が合図になったのか、滝壺の中心部から天に向かって浅葱色の鱗に覆われた巨大な龍が立ち昇る。水飛沫をあげながら天へと昇っていく迫力ある姿は、まさに映画や漫画のようでもあった。この地を守る守護龍の清水は上空を一回転すると、海音たちの目の前に降り立つ。
「騒がせてしまってすまない。おれの無責任な発言が彼女を傷付けて、屋敷から飛び出す原因を作ってしまった。青龍の神気を持たない者が無断で神域に立ち入ったことを謝罪する」
その言葉の真偽を確かめるかのように、次いで清水が海音に目線を送る。足首の怪我を庇いながら立ち上がった海音も、その場で「すみません」と頭を下げたのだった。
「道に迷って、清水さまの神域と知らずに立ち入ってしまいました。うるさくしたことを謝ります。すみません」
無言のまま海音を見つめていた清水だったが、やがて今朝と同じ風声が長めに聞こえてきたかと思うと、蛍流が「分かった」と首肯したのだった。
「彼女……海音にはおれから伝えておく。……そう心配せずとも、ただの痴話げんかだ。お互いに枕を濡らすようなことはするものか」
その言葉に満足したのか、清水は滝壺の中心へ飛んでいくと再び水中に潜ってしまう。蛍流から借りた濃紺色の羽織で水飛沫が掛からないように頭をすっぽりと覆いつつ、その隙間から水も滴る蛍流のほんのり赤く染まった横顔を眺めたのだった。
(何を言われたんだろう……)
海音が視線を向けていることに気付いたのか、蛍流は軽く咳払いをすると「今のはな……」と説明をしてくれる。
「神域に立ち入ったことは怒っていないから問題ない、とのことだ」
「それだけですか? 他にも言われたように見えたのですが……」
「それはだな……」
しばらくもごもごと口ごもっていた蛍流だったが、やがて覚悟を決めたのか海音から目線を逸らしながら教えてくれる。
「……伴侶を迎えたいと申し出た以上、もう少し女人に対する気遣いを覚えろ。とのお達しだ。昨晩お前が来るまで、ここに女人が来たのは二年ぶり。年頃の娘は、おれが覚えている限り一度も無い」
「つまり……女慣れしていない蛍流さんに対する注意も含まれていたということですか?」
「……まぁ、そういうことになるな」
恥ずかしそうに話す蛍流に、つい破顔すると俯いて肩を震わせてしまう。声を立てないように両手で口元を押さえて隠したものの、その様子だけで海音が思っていることがバレてしまったらしい。顔を紅潮させた蛍流が「だから言いたくなかったんだ!」と声を荒げる。
「あの時はまさかお前の部屋に役人たちが立ち入ろうとするとは思わなくて、咄嗟に誤解を招くような発言をしてしまった。その……心から悪かったと思っている」
異性と触れ合うことに不慣れな男性と言えばいいのか、それともいくら大人ぶっていても内面はまだまだ年相応なのか。
浅葱色の長めの前髪で顔を隠そうとする今の蛍流の姿が、この国の守護者という人間離れした存在ではなく、一人の初心な男性として目に映る。
ここに居るのは、和華たちから聞いた数々の怖い噂を持つ特別に選ばれた青龍ではなく、青龍としての務めを果たそうとするどこにでもいるような青年なのだと、ようやく蛍流を身近な存在として感じられたのだった。
「いえ……。私も勝手に誤解して屋敷を飛び出してすみませんでした。でもそれなら今度から私のことを聞かれた時は、女中や臨時のお手伝いとして紹介して下さいね」
「だが、今のその姿では……。いや、何でもない。お前さえ良ければ、次回からそう説明しよう」
「そうしてください。それから女中に見えるように、普段から屋敷のことを手伝わせてください。そうしたら、いざという時も女中として振る舞えるので」
「そうかもしれないが、客人のお前を無給で働かせるのも……」
「無給じゃありません。既に衣食住の三つをいただいています。食べる物と着る物があって、住む場所をいただけるだけでも充分です! お世話になっている間は、精一杯青龍としての務めを果たす蛍流さんのお手伝いをさせていただきます!」
「そうか……。正直、今日のように来客がある日は手を借りられると助かる……が、足と首の怪我が治らない内は無理をしないでくれ。嫁入り前の娘を傷物にしたなんて清水に知られたら、それこそ次は何を言われるか分かったものではない。おれを育ててくれた師匠にも顔向けが出来ない」
照れ隠しのつもりなのか、顔を伏せながら蛍流が背を向けてしゃがんだので、海音は手を伸ばすとまた広い背中に掴まる。海音を背負い直す蛍流に向けて、そっと話しかける。
「師匠さんを慕っているんですね」
「おれにとっては青龍としての全てを教えてくれた師匠であり、育ての親だからな。もう会うことは叶わないが、せめて師匠に恥じない生き方をしたいものだ」
そうして屋敷に向けて歩き出した蛍流に身を預けた海音だったが、元の山道に戻ったところで二人を追い掛けてくる気配を感じて頭だけ動かす。そこには成獣した虎が一頭、二人の後をついてきていたのだった。
「蛍流さん。後ろに虎がいます……」
小声で囁いて再び虎を見ると、その虎は先程海音を追い掛けてきた虎たちとは違って、白と黒の毛並みをしたホワイトタイガーであった。そうしてよく観察すると、口には何かを咥えており、それを海音たちに渡したいようにも思えたのだった。
目を細めて虎が咥えているものの正体に気付くと、「あっ!」と声を上げてしまう。
「あの虎、口に草履を咥えています!」
「草履?」
足を止めて振り向いた蛍流に白い虎は颯爽と走ってくると、蛍流の身体に頭を擦り付ける。そうして忘れ物を拾ってきてやったぞ、とでも言いたげな顔で、咥えていた草履を蛍流に差し出したのだった。
これには受け取った蛍流でさえ、どこか怪訝そうな顔をする。
「これは庭に置いていた草履だな」
「すみません。私が屋敷を出る時にお借りしたんです。虎たちの気を逸らすつもりで放り投げて、その隙に逃げようと……」
片方は虎たちに向けて放り投げたが、もう片方の草履は今も滝壺近くの石碑の辺りに落ちているはずだった。どちらかを拾ってくれたのだろうか。
そんなことを考えていると、蛍流は「そういうことだったのか」と何故か納得したようだった。
「それでわざわざシロがおれのところに持って来たのか……ようやく理解した」
「何を理解したんですか?」
「部屋からいなくなったお前を探している時にシロ……この虎が、もう片方の草履を持って屋敷に姿を現したんだ。清水の住処である滝壺を守護する虎が屋敷に来た時点で異常が起こっていることは分かったから、お前が誤って滝壺に侵入してしまったというのも想像に難くなかったが……。まさか草履はお前が履いて行ったものだったとはな。庭に侵入した動物が盗んだのをシロが見つけて、ついでに回収したものとばかり思っていた」
蛍流の説明によると、海音を侵入者と勘違いして襲ってきた虎たちとこのシロと呼ばれた白い虎は、どちらも清水が住む滝壺を守る番犬ならぬ番虎として、蛍流が森に放っている獣とのことだった。いずれも主人である蛍流に忠実であり、もし滝壺や清水に異常があれば屋敷まで報せるように躾けているという。
ちなみに黄色の毛並みの虎たちは全て雄虎、白い虎は一頭しかいない雌虎にして虎たちの紅一点。白い虎に「シロ」という名前が付いているように、他の黄色の虎たちにもそれぞれ名前が付けられているらしい。
「つまりこの白い虎と先程の黄色の虎は、蛍流さんのペットということですか?」
「ペットというよりは、おれが持つ青龍の神気で作り出した幻獣のようなものだ。本物の虎じゃないから餌や手入れの必要がない。ついでに青龍の財産目当てで山に侵入する悪党と、山に暮らす野犬や狼たちを追い払う役目も果たしている。青龍の神気に反応するから、おれが呼べばすぐに来るぞ」
「幻獣が虎の姿をしているのも、何か決まりがあるんですか?」
「虎にしたのはおれの趣味だ。昔、動物園で見た虎を気に入ってな。自宅で飼いたいと強請ったが、使用人にダメだと言われた。それが悔しかったのを思い出して再現したんだ。どうせ番犬となる生き物を飼うなら、強くて見目が良い虎にしてしまおう、と雪辱を果たすつもりでな」
「そうだったんですね……」
虎を飼いたいと駄々をこねる幼少期の蛍流を想像して、どこか微笑ましい気持ちになる。
蛍流のペットなら触れるかと期待して手を伸ばすが、ふいと頭を避けられてしまう。青龍の神気が無い海音には、触ることも許してくれないのかもしれない。
目的を果たしたシロは足早に滝壺に続く道へと戻っていくと、道を塞ぐかのように山道の真ん中に座り込んでしまう。そうして未だ海音を警戒するかのように白と黒の縞模様の尻尾を立てて、じっと様子を伺い出したのだった。
「警戒されていますね……」
「青龍の神気を持っていないからな。草履を持ってもらえるか?」
蛍流から草履を受け取ると、腕の中で大切そうに抱える。きっとこの草履に残っていた蛍流の気配から、主人を追いかけてくれたのだろう。わざわざ届けて持って来てくれるなんて、随分と躾の行き届いた番虎だとしみじみ考えてしまう――忠実すぎる故に、危うく殺されそうにもなったが。
蛍流に背負われたまま、屋敷の門前から玄関に戻ろうとした海音だったが、二人を出迎えるかのように玄関口からは「これはこれはっ!」とわざとらしく驚いた声が響いてくる。
「打ち合わせの席を中座してどこに出掛けていたのかと思えば、我々を置いて逢引きですかな。今代の青龍さまは」
「若者は血気盛んで良いですな……。国を守護するお役目を軽んじられているのは、些か否めませんが」
棘のある言葉を投げかけてくる役人たちを無視して、蛍流はそっと海音を玄関口に下ろす。自分の勝手な行動が原因で好き放題言われている蛍流を弁明しようと、海音は頭から被っていた蛍流の羽織から顔を出そうとするが、すかさず役人たちが気付いて舌尖の矛先を変えてくる。
「おおっ! こちらのご令嬢が噂の伴侶どのですかな! 青龍さまが自ら出迎えに行くとは、なんとも盲愛なことで……」
「これは待ちくたびれた甲斐がありましたな。どれ、その美しいご尊顔を拝見してご挨拶でも……」
そう言って、役人の一人が海音の顔を覆う羽織を掴むが、即座に蛍流がその手を弾いて羽織の上から海音を抱き寄せると、胸の中に埋めてしまう。
これには役人たちも呆気に取られたのか、一瞬その場が静まり返るが、すぐに「何の冗談ですかな」と役人たちが下品な声を上げて嘲りだす。
「妬いているのですかな、青龍さまは。何も我々は伴侶どのを取って食おうとは思っておりません。麗しいお姿を一目拝見しようと思っただけでして……」
「この者は新たに雇った屋敷の使用人だ。だが、今後関係性が変わるかもしれない……。その時に改めて紹介させて欲しい」
関係性が変わるかもしれない。という言葉に海音の身体がビクリと動いてしまう。嫌な想像が頭を過ぎって、両手を握り合わせて縋るように身を寄せれば、そんな海音を安心させるように蛍流が軽く肩を叩いてくれたのだった。
「使用人? たかだか使用人のために、わざわざ出迎えに行ったのですかな。青龍さまともあろうお人が」
「そうだ。この山道は女人の足には歩きづらく、ついで道に迷いやすい。間違えて青龍のご神体を祀る滝壺に入られては困るからな。こうして迎えに行ったわけだ。分かったなら通してもらおうか。彼女を部屋に送り次第、すぐにでも再開しよう」
すっかり魂消てしまった役人たちをその場に残して、蛍流に抱えられる形で部屋まで送られる。「大丈夫か?」と小声で気遣われて、海音はただ頷くことしか出来なかった。
「耳障りな言葉だけでも耐え難いところに触れられもして、さぞかし不快だっただろう。肩身が狭い思いをさせてすまない」
「平気です……。蛍流さんも私が原因で役人さんたちとますます険悪になりますよね……すみません」
「気にせずとも、元から邪険に扱われている。アイツより年齢が下なだけではなく、青龍としての経験も浅いからな。まだまだ失敗も多い。師匠に比べて頼りなく思われてしまうのも仕方がない」
「最初から上手くいく人はそういません。失敗を恐れず、今後の糧に出来ればいいんです」
励ますつもりで返したつもりだったが、偉ぶっているように聞こえてしまったのかもしれない。急に黙ってしまった蛍流によって、半ば借りている部屋の中に押し込まれるように入れられてしまうが、その手は罪人を連行する刑務官というよりも、昨晩の「和華」だと思われていた時と同じくらい真綿に触れるように優しい。
大切な打ち合わせの席を抜け出してまで海音を探してくれる辺り、この蛍流という青年は不器用で初心なだけで、本当は噂以上に思いやりのある人なのだろう。どうして「人嫌いで冷酷無慈悲な冷涼者」という噂が広まってしまったのか、不思議なくらいであった。
海音の顔を見ることなく襖を閉めた蛍流は、今度こそ役人たちとの話し合いの場に戻ってしまう。「終わったら様子を見にくる」とだけ残して。
それでも襖が閉まる直前、ほんの僅かな隙間から見えた蛍流の紅潮した横顔を、海音ははっきりと目にしたのだった。
◆◆◆
この七龍国には七体の龍が存在する。
最初に白龍と黒龍が現れて、昼と夜を作った。
次いで空と大地、最後に人間と獣を生み出した。
しかし住処を巡って人間と獣は争い、憎しみ合い、互いを殺し合った。
人間たちは獣を避けるように一つの場所に集まると、やがて長を選んで国造りを始めた。
その様子を見た二体の龍は、人間たちの国が未来永劫に続くように長と契約を交わすと、国を守護する五体の龍を生み出した。
猛り狂う炎を守護する赤龍。
揺蕩う水を守護する青龍。
隆起する大地を守護する黄龍。
粛然な緑を守護する緑龍。
盤石なる鋼鉄を守護する紫龍。
五体の龍たちは自らの力を国中に流すことを二龍に命じられると、分散して国の各地に拠点を築く。
五龍たちは国の隅々にまで力を流して、永遠なる国の発展と繁栄を二龍に約束させられたのだった。
そんな龍たちが流す力のことを、人間たちは「龍脈」と呼んで、その恩恵に感謝を捧げた。
しかし龍脈が途絶えれば、国を守護するその力は消えて、国が傾いてしまう。
やがて龍脈を管理する存在が必要だと考えた人間たちは、人間たちの中から代表者を決めて、龍脈の管理を命じた。
龍脈を管理する者は、生涯七龍と生活を送り、苦楽を共にすることになった。
人里を離れて、生涯を七龍に捧げる者たちを哀れに思った七龍たちは、龍脈を管理する人間に二つの奇跡を授けた。
一つは七龍の加護を、もう一つは人間の伴侶を。
龍脈の管理者は七龍の力を与えられた半身――「形代」として七龍と同等の存在となり、人間と七龍を結ぶ縁となる。
そして七龍と同じ久遠の時間を生きる人間を支える者として、同等の歳月を過ごせる伴侶を迎えて孤独を慰めるようになったのだった。
人間たちは国を守る七体の龍に対する感謝を忘れないように、国の名前を「七龍国」に改めると、六つの土地もそれぞれ七龍に因んだ名前に変えたのだった。
そして国の中央部にある白の地に七龍を祀る宮・柳絮宮を建てると、その柳絮宮に降り立った二龍は宣言する。
――人間と七龍が手を携え合う限り、我ら七龍たちは国を守り続ける、と。
二龍は自分たちの分身である五体の龍に国を任せると、宮から飛び立つ。
人間と七龍が古の誓約を守り続けているか、いつまでも七龍国を見守るために――。
◆◆◆
(どこの世界も似ているものなんだね。国の成り立ちって)
一夜明けたあくる日、朝餉の席を共にした蛍流から来客があると言われた海音は、今度こそ借りた部屋で大人しく待機していた。
せっかくなので蛍流から借りたこの世界について書かれた書物を手に取ると、麗らかな春の日差しが射し込む窓辺に寄り掛かって読み耽っていたのだった。この七龍国の創世にまつわる歴史書から顔を上げると、次いで子供向けと思しき和綴じの昔話集を手に取ったのだった。
(しばらくは使用人として厄介になるとしても、常識くらいは学んでおかないとね)
この世界と海音の世界の文字は、似ているようで微妙に違う。灰簾家で教わった読み書きを忘れない意味を含めて、覚えるまでは毎日この世界の文字に触れた方が良い――蛍流にも提案されたところであった。
昨日、ようやく役人たちとの話し合いを終えた蛍流が迎えに来たのは、日が暮れて黄昏時になってから。橙色の空を眺めていると、白い割烹着姿の蛍流が着物を手に部屋の入り口に現れたので、度肝を抜かされたのだった。
そうして言われるままに、蛍流が用意してくれた紬というカジュアルな紺色の着物に着替えて白い割烹着を身に付けると、炊事場の使い方と湯浴みの用意の仕方を教えられた。
どちらもすでに下準備を終えていたようで、海音が手伝えたことはそう多くなかったが――蛍流の手際があまりにも良かったというのもあるが、今後手が離せない時は家事全般を一任しても良いかと尋ねられた。
いつ屋敷のことを任されても良いように快諾して気を引き締めたところで、この世界の文字の読み書きについても、毎日触れることで少しでも早く慣れるようアドバイスを受けたのだった。
そこで蛍流が昔読んでいたという、子供向けに書き直された簡単な昔話集や民話集を追加で借り受けたところであった。几帳面なのか、蛍流の流麗な墨字で『読めない文字は教えるから声を掛けて欲しい』というメモまで添えられて。
その蛍流は来客が来るからか、今朝から奥座敷を片付けていた。先程様子を見に行ったところ、これから大荷物でも届くのか場所を広く開けているようだったので、海音も声を掛けて手伝う意思を示したが、「安静にしていろ」とだけ端的に返されてしまったのだった。
結局、やることが無くなり、こうして部屋で読書と読み書きに勤しんでいたのだった。
(もうほとんど痛まないのに……。蛍流さんって、案外過保護なところがあるのかも)
足袋の上から一昨日怪我した足首に触れる。昨日無理して動かしたので多少は悪化したものの、蛍流の応急処置が適切だったこともあって、重症化せずに済んだ。鼻緒で擦れた足指の怪我も軽く、首の切り傷と合わせてあと数日で跡形もなく治るだろう。もし崖際まで虎たちに追い詰められた時、蛍流が助けに来なかったら、今頃どうなっていたことか……。恐ろしくて考えたくもない。
ほうっと息を吐いて昔話集から頭を上げたところで、近くからクスクスと笑い声が聞こえてくる。
「おやおや。今回の嫁御ちゃんは随分と可憐なお嬢さんだね。蛍流ちゃんと同い年くらいの華族の箱入り令嬢とは聞いていたけど、これは温室の薔薇というよりも、野山に自生するササユリかな」
飄々とした軽やかな話し方に驚き入った海音が窓辺から身を引くと、そこには紺色のターバンらしき布を額に巻いた銀髪の若い男性が顔を覗かせていたので仰天してしまう。春陽に照らされた白銀の短髪が冬晴れの朝陽の下で輝く新雪のようで、触れたら溶けてしまいそうな色合いをしており、この世界では見慣れないターバンと同じ色の長袍という服装と合わせて記憶に残りやすい印象的な容姿をしていたのだった。
「あっ、貴方は……」
「初めまして、蛍流ちゃんの嫁御ちゃん。ボクの名前は雲嵐。七龍たち相手に商売を営む、どこにでもいるようなただの行商人だよ」
どこか掴みどころのない雲嵐という男は、ウインクのつもりなのか翡翠色の片目を軽く瞑ってみせる。整った鼻梁にバランスの取れた切れ長の目だけでも艶っぽいというのに、心地良い嬌声まで加わってますます色気を感じてしまう。蛍流が穢れを知らない純粋な青年だとしたら、この雲嵐という行商人は世間の酸いも甘いも知りつくした怪しげな魅力を持つ大人といったところだろうか。
「私は海音と言います。あの私は伴侶ではなく……」
「そうなの? あの蛍流ちゃんが珍しく追い返すことなく屋敷に置いているから、てっきり嫁御ちゃんだと思ったんだけど。二人の仲を清水さまがまだ認めていないだけなのかな?」
商売人らしく笑みを絶やさずに首を傾げつつも、どこか隙を感じさせない雲嵐に言葉が詰まってしまう。ここで海音が青龍の伴侶じゃないと繰り返しても、雲嵐と押し問答になるだけだろう。それなら話題を変えてしまった方が良い。
「あの、雲嵐さんは蛍流さんが呼んだという行商人ですか……?」
「そうだよ。つい三日前も来たばかりだっていうのに、蛍流ちゃんってば急に呼び出したんだから困ったものだよね~。でも今回は明らかに急ぎの物みたいだから仕方ないかな。多分、全部嫁御ちゃんに関するものだから」
「嫁御……私に関する物……?」
「海音、少し良いだろうか?」
その時、どこか緊迫した様子の蛍流が襖の外から声を掛けてきたので、慌てて「はいっ!」と返事をして居住まいを正す。
「こちらに行商人は立ち寄っていないだろうか。雲嵐殿という若い男なのだが……」
「立ち寄ってるよ。蛍流ちゃん!」
窓の外から雲嵐が返事をすると、すぐに襖が開かれる。そこには息も絶え絶えの蛍流が必死の形相で立っていたのだった。
「雲嵐殿……彼女の紹介は後ほどすると昨日報せたはずですが……」
「え~っ! だって蛍流ちゃんばっかり嫁御ちゃんを独占するなんて狡いよね。ボクも挨拶くらいはさせて欲しいな~。これから長い付き合いになるかもだし」
「蛍流ちゃん、じゃない!」
これまでの毅然とした姿はどこにいったのか、蛍流の意外な姿にまたしても海音の目が点になる。そこでようやく海音の前であることを思い出したのか、蛍流は耳まで赤くなると明後日の方向を向く。
「もう子供では無いのですから、青龍と呼んで下さい」
「ボクからしたら、蛍流ちゃんはいつまでも蛍流ちゃんなんだけどな~。あんなに小さくて可愛かった蛍流ちゃんが、今では茅さんの跡を継いだ立派な青龍になって、こんな素敵な嫁御ちゃんまで迎えるなんてね。時間の流れって早いものだね~」
「ですから、蛍流ちゃんは止めて欲しいと……。彼女の前で恥ずかしいです……」
消え入りそうな声で助けを求めるようにチラッと目線を送ってきた蛍流は、今にも顔から火が出そうになっていた。どことなく藍色の目も潤んでいるように見えるので、かなり居たたまれない気持ちになっているのだろう。これは海音がなんとかするしかない。
「えっと……。雲嵐さんは蛍流さんに頼まれた物を持って来たんですよね?」
「そうだよ~。奥座敷に一式広げているから、ぜひとも嫁御ちゃんに見て欲しいな。青龍さまにもそう言ったんだけど聞かなくって」
「ですから、持参した品は全て引き取ると、先程も申し上げた通りです。彼女には後ほど確認してもらいます」
「そうは言っても、嫁御ちゃんにも好みがあるでしょう。最愛なる嫁御ちゃんを青龍さま好みに着飾りたい気持ちはよ~く分かるけど、あまり押し付けがましいと嫌われちゃうよ?」
「それはそうだが……それに彼女は……」
またしても蛍流が海音を伺うように目を向けてくる。今度は海音が伴侶では無いと、雲嵐に言っていいか迷っているのだろう。昨日役人たちに向けて言い放ったように、ここも使用人だと言ってしまえばいいだけなのだが……。
(言えない事情でもあるのかな?)
不思議に思いつつも、部外者である海音は口を挟まずに二人を見守る。やがて雲嵐の言葉に折れたのか、蛍流が「そうだな」と呟いたのだった。
「あえて隠すようなものでも無いからな。お前も奥座敷に来てくれないか」
◆◆◆
「わぁ~。綺麗な着物や小物がこんなにたくさん!」
蛍流の案内で奥座敷に入った海音は、左右の壁際と床の上に所狭しと並べられた色とりどりの着物を目にして感嘆の声を漏らしてしまう。奥座敷はそこそこの広さがあったが、その全てが女性物と思しき着物や帯、帯留め、足袋、襦袢、草履、バッグ、羽織、髪留めなどで埋まっていたのだった。
「一人でこれだけ持って来るのは大変だったんだよ。嫁御ちゃんの気に入る物が見つかればいいんだけど」
「これを全部持って来てくださったんですか? 私一人のために……?」
「そうだよ。青龍さまのお願いだったからね」
傍らの蛍流を振り返れば、丁度頬を紅潮させた蛍流が海音たちから視線を外したところであった。照れ隠しのつもりなのか、身体の前で腕組みをしながらもごもごと話し出す。
「いつまでもおれの古着では可哀想だと思ってな……雲嵐殿に無理を言って揃えてもらったんだ……。ただどれがお前に似合うか分からなくて、手に入れられるだけ全て持って来てもらうように頼んだら、この量になってしまって……。急遽、奥座敷を片付けて場所を作る羽目になった」
その言葉に海音も瞬きを繰り返す。本来なら灰簾家で用意してもらった嫁入り道具を持参するはずが、荷物を持ち逃げされたことで着替えや日用品も無しに身一つで到着してしまった。海音自身は古着であろうと、借りられるならそれで良いと思っていたが、蛍流は気にしてくれていたのだろう。
蛍流の心遣いが胸に染み入り、自然と口元に笑みが浮かぶ。
「ご用意していただきありがとうございます。とても嬉しいです」
「そ、そうか……。雲嵐殿も言っていたが、好みに合わない物があれば言ってくれていい。また別の物を頼もう」
「そんな悪いです! 私は今着ている着物だけでも充分なんです! これ以上、蛍流さんや雲嵐さんにご迷惑を掛けられません!」
今日の海音は昨日までと同じ灰簾家で仕立ててもらった薄青色の着物を着ていた。それ以前に蛍流から借りた寝巻以外は替えの着物を持っていないので、これに着替えるしか無かったのだが、昨日今日と自分で着付けているからか、幾分か早く着替えられるようになってきた。この調子で着続けていれば、ますます短時間で着付けられるだろう。元の世界と勝手が違うこの世界で自分に出来ることが増えて、少しだけ自信が持てたところだった。
そんな海音のちょっとした自負に対して、蛍流は言いづらそうに教えてくれる。
「これまで着物に縁が無い生活を送っていただろうから、知らなくても無理は無いが……。お前が連日着ているその着物はな、振袖という未婚の女人が着る礼装……早い話が余所行き用の着物だ。普段着にするようなものでは無い」
「えっ……。そうなんですか?」
「普段着として着るのは、あの辺りにある紬や小紋、御召になる。どれも通気性が良く、着替えやすいのが特徴だ。帯の締め付けも緩くすれば、振袖よりも断然動きやすい」
蛍流が示した壁際には海音が着ている振袖よりも、幾分か袖の短い着物が衣桁に掛けられて並んでいた。色や柄が違うが、どれも同型をしていることから、全て同じ種類の着物なのだろう。
「紬は昨日屋敷のことを教えていただいた際に借りたので分かりますが……。小紋や御召は何が違うんですか……?」
「織り方や染め方、染色の順番かな。生地の裏表を見れば、染め方の順番が分かるよ」
「夏場は絽や紗といった生地が薄い薄物を着る。どちらも透けがあるから風通しが良い。今は季節が違うから少ししか手に入れられなかったが、夏になるともっと数が増えるだろう。浴衣をあつらえてもいいかもしれない」
雲嵐と蛍流の二人に教えられて、自分の無知さに赤恥を掻いてしまう。こういった日常的な知識についても、もう少し勉強するべき必要がある。まだまだ覚えることは山積みらしい。
「まぁ、知らないことはこれから知ればいいんだし。ほら、この辺りなんて似合うんじゃない。嫁御ちゃんと同年代の女の子たちに人気の若草色。今の季節に合うからすぐに着られるよ」
そう言って雲嵐が衣桁掛けから外したのは、淡い若草色の紬であった。薄っすらと桜らしき白い柄が入っているのも春らしい。勧められるままに袖を通せば長さも問題ないという。
「綺麗な着物ですね……」
「その紬なら帯は桜色あたりが似合いそうだな。春らしさがより引き立つ。帯紐は黄色系、帯留めは貝殻の形なんて良さそうだ」
「帯揚げはどうする? 柄を入れてもいいし、無地でも嫁御ちゃんに映えそうだけど」
話しについていけない海音を置いてけぼりにする形で、二人はあれよあれよと海音の着物を見立てていく。先程までの言い争いはどこにいったのか、その息の合いようにすっかり舌を巻いてしまう。
しばらくして二人の間で話がまとまったのか、「今すぐこれに着替えて来い」と蛍流から着物一式を手渡されたのだった。
「今すぐですか?」
「しばらく使用人として雇うにも、その恰好では家の用事は何もさせられないからな。来客の応対を頼むにも、常識知らずと笑われるのが目に見えている」
それで昨日今日と部屋で待機しているように言っていたのかと、ようやく理解する。余所行き用の振袖を着て家事をしている女性が使用人なんて、紹介できるはずもない。屋敷の主人である蛍流が嘲笑されるだけだろう。
ここは蛍流のために礼を言って素直に受け取るが、何故か蛍流が満足そうに笑みを浮かべる。そうして懐に手を入れると、「これも」と薬壺らしき色が違う小さな壺を二個渡してきたのだった。
「こっちの茶色の壺は足首の捻挫、こっちの蘇芳色の壺は切り傷や擦り傷に効くという。足りなくなったら、また雲嵐殿に頼むから遠慮なく言って欲しい」
「こんなにいただけません。着物だけでも充分なのに……。怪我なんて、時間が経てば自然に治ります」
「お詫びと思って受け取って欲しい。特に首の怪我はおれの不注意で付けてしまったんだ。痕なんて残ったら以ての外。後悔しても悔やみきれない」
「でも……」
蛍流に手を取られて薬壺を握らされると、そのまま軽く手を引かれる。雲嵐の位置からは抱き合って見えるであろう体勢になると、そっと耳元で囁かれたのだった。
「もし気が引けているというのなら、ここにある着物を着て快復した姿を見せてくれればいい。いずれもここにはお前に似合うものしか置いていない。何を着ても似合うことを請け合おう」
耳を打つ金玉の声に身体が震える。そのまま顔を真っ赤にして固まっていると、海音の様子に気付いた雲嵐が「どうしたの?」と明るく声を掛けてくる。
「嫁御ちゃん用の塗り薬で良かったんだよね。清水さまの加護を受けている青龍さまは怪我や病気をしないはずだから」
「そうだったんですね。これも私のためにわざわざ……。本当にありがとうございます。蛍流さん、雲嵐さん」
「そう思うんだったら、あと数日は安静にしていてくれ。屋敷のことを頼むにしても、まずは怪我を治さなければ何も始まらない。身体が資本だからな」
暗に昨日のような無茶はするなと言いたいのだろう。それについては海音自身も深く反省しており、蛍流の言葉にぐうの音も出ないので従うつもりであった。
「分かりました。しっかり怪我の療養に努めます」
「おれの用事が済み次第、呼びに行くから、着替えて待っていてくれるか。雲嵐殿がいる間に、衣桁に掛けている他の着物の丈や袖を確かめたい。多少の調整ならおれでも出来るが、大掛かりになると悉皆屋に依頼しないといけないからな」
蛍流によると、着物の丈や裾が合わない時は帯や腰紐などで着方を工夫するか、または裁縫の心得がある者に裁断や縫い直しをしてもらうことで調整するらしいが、それでも極端にサイズが合わない場合は悉皆屋という仕立て屋に着物の直しを依頼することになるという。
その場合、雲嵐を通じて悉皆屋に仕立て直しを依頼して、数日から数か月して仕立て直しが終わったものを雲嵐に届けてもらうことになるが、雲嵐が七日に一回しか来ないこと、また雲嵐を通じて悉皆屋とやり取りをする都合上、完了するまでどうしても時間が掛かってしまう。
また悉皆屋自体も季節の変わり目は客が殺到して、通常よりも納期まで時間が掛かってしまうそうで、早急な仕立て直しならすぐに依頼した方が良いとのことであった。
「他にも化粧品や日用品、雑貨も運んでいるから確認して欲しいな。一応この国に流通している物なら何でも調達するから言ってね」
「そうだな。思い付くものは一通り頼んだつもりだが、もし足りないものがあれば、明日まで届けてもらうように手配しよう」
「そんなに連日で頼まれても……。ほら、ボクにも都合ってものが……。明日は赤龍さまのところに行かないとだし……」
「その時はおれから赤龍に詫びを入れておきます。事情が事情だから、アイツもそう怒りません」
どうやら青龍である蛍流は他の七龍たちとも交流があるらしい。海音が最初に迷い込んだ場所が青龍の守護する青の地だったということもあって、他の七龍の噂をほとんど聞いたことがないが、他の七龍たちも蛍流のような人たちなのだろうか。機会があれば、蛍流に聞いてみようか。
そんなことを考えている内に、蛍流に着替えるように言われていたことを思い出して、海音は「それでは……」と二人に辞去を申し出る。
「一度戻って着替えてきますね。部屋で待っていますので、用意が整ったら呼んで下さい」
「何往復も歩かせてすまない。部屋から一歩も出るなとは言わないが、せめて屋敷の敷地内で待っていてくれると助かる」
いつになく真剣な顔で話す蛍流に対して、雲嵐がクスクスと忍び笑いをする。
「今日はいつになく過保護な蛍流ちゃんを見られて新鮮な気持ちだよ。つい数年前までは言われる側だったのにね」
「なっ……!? その話はもういいでしょう! 昔の話をそう何度も蒸し返さないで下さい。それよりも青の地の様子はどうですか?」
「特に変わりなくだよ。農作物の不作は気になるけど、そこまで問題になっていないね。なるとしたら、これからかな……」
何やら深刻そうな話題が始まったので、海音は二人に一礼すると奥座敷を後にする。心なしか気持ちが浮足立っているのは、腕の中に抱えている新品の着物によるものだろうか。それとも蛍流が似合うと言って選んでくれたものだからか。新しい服や靴を買った時のように、早く着たくて心がうずうずしている。
(それにしても。全然問題が無いように見えるけど、そんなに深刻なのかな……。この地の農耕)
雲嵐との会話を聞く限り、やはり蛍流は何か事情を抱えているような気がしてならない。それが突然伴侶を欲しがった理由と関係しているのだろうか。
和華自身も「急に青龍さまから伴侶を迎えたいという連絡があった」と言っていた。
相手が国の守護龍であろうとも、婚姻を結ぶには事前に念入りな準備や両者の間での打ち合わせがあるような気もするが、そんな手順を飛ばしてまで伴侶を迎え入れたかったのはどんな理由があるのだろう。部外者の海音からは聞くに聞けないので、いつか蛍流から教えてくれる日が来ればいいが……。
そして、海音が和華の身代わりとバレてしまった以上、今度こそ蛍流は和華を伴侶として迎え入れようとするだろう。そうなれば海音の居場所は無くなる。
ここに来るまではそれも仕方が無いと諦めていたが、それが今となってはどこか悔しい。自分が蛍流との間に築き上げたものを和華に横取りされてしまうようで、なんだか口惜しい気がしてしまう。
(伴侶以外の方法で役に立ちたいけど、やっぱり使用人になって、ここに残りたいって頼むしかないよね)
そう自分に言い聞かせると、海音は間借りしている自分の部屋に戻ったのであった。
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