紺色の海面に、月が浮かんでいた。
辺りに響き渡るのは波音か、あるいは夜行船のエンジン音のみ。
夜の海風は心地良く、仕事でボロボロになった全身にじんわりと沁みてきた。
「はぁー……」
一週間分の疲れを、私は遠慮なく夜の海に吐き捨てた。今日も今日とて、たっぷりどっぷりと疲れた。疲れ果てた。
朝出社すると、開口一番上司に呼ばれて叱られた。なんでも、私が昨日の夜に作成して送った会議資料が指示通りに直っていなかったらしい。ふわりと曖昧な指示だけ出しておいてよく言うよと言い返したかったが、私の理性が頑張ってくれてなんとか耐えた。再三の訂正を終えて会議に臨んでみれば、その資料はものの数秒で飛ばされた。
会議が終わって自席に戻ると、取引先の会社から納品物の修正依頼メールが来ていた。あれほどヒアリングして仕様を確認したのに、なにを聞いていたのかと文句を言いたくなるような修正内容だった。締切もタイトで、私は方々に頭を下げてスケジュールにねじ込んでもらった。もちろんたくさん怒られた。私のせいじゃないと泣きたくなったけど、必死に堪えた。
昼からも商談に会議にとあちこちを駆けずり回り、帰ってからは市場調査にデータ分析に資料作成にと頭を使いまくった。そうして気づけば、一日が終わっていた。
時々、なんのために生きているんだろうと思う。
私の存在価値なんて微々たるもので、たとえ消えてしまっても誰も困らないんじゃないかって。
べつに死にたいわけじゃない。けれど、たまにどうしようもなく悲しくなって、誰も私のことなんて知らないどこか遠くへ逃げてしまいたくなるのだ。
そして金曜日の今日。溜まりに溜まったそんな思いを叶えるべく、私は仕事を終えるや急に思い立って港に向かい、夜行船に乗り込んだ。
行き先は東京のとある離島。到着するのは十時間後らしい。思いつきの小旅行だ。
金曜日の夜ということもあってか、遅い時間だったけれど意外にも混んでいた。カップルや家族連れと思しき人たちが多く乗り込んでおり、明るくて楽しげな喧騒が眩しかった。独りかつ、スーツにパンプスにビジネスバッグという装備で乗り込んでいるやつなんぞひとりも居やしない。場違い感が半端なくて、私は安月給をはたいてとった二等客室のロッカーに荷物をぶち込むと、早々に人の少ない前方の甲板に出ていた。
「ほんと、なにしてるんだろ。私」
手すりに両腕とあごを乗せ、何度目になるかわからないため息をついた。視線の先には、どこまでも変わらない闇が落ちている。船の後方では光り輝く東京の夜景が一面に広がっており、盛り上がっている声が微かに聞こえてきていた。
なんだか虚しく感じて、おもむろにスマホを取り出た。ほとんど癖のようにSNSアプリのアイコンをタップしてから、画面に表示された投稿を流し見る。
家族との外食の写真。
友達との飲み会の写真。
恋人とのディナーの写真。
誰も彼もが、大切な人との時間を楽しんでいた。
対する私はひとりで、どこか遠くへ行きたいと願って乗った夜行船の上でさえ家と変わらずスマホを眺めている。思わず苦笑が口元からこぼれた。
私も、写真でも撮っていくか。
きっと誰にも見せないであろう写真。ここで撮るなら、月か星か、あるいは夜行船の船内か。見返すこともなく、容量が多くなったら真っ先にゴミ箱行きになるんだろうなと思いつつも、私はカメラを起動させた。
「あっ!」
その時、船が波に乗り上げて大きく揺れ、私の手からスマホが滑り落ちた。幸いにもスマホは海に放り出されることはなく、カラカラと音を立てて甲板の上を転がっていく。
あ、あぶな。
もし海に落ちていたら、本当の意味であらゆる現実と距離をおくことになりかねない。私はホッと息をつきながら、自販機の足元にあるスマホを拾おうと近づいて……足を止めた。
「これ、あなたの?」
優しげな声とともに、私のスマホが拾われた。細身で背の高い男性だった。男性にしてはやや長い髪の毛が、海風でなびいている。
「は、はい。すみません、落としてしまって」
差し出されたスマホを、私はおずおずと受け取った。そんな様子を見てか、男は小さく笑った。
「良かったね、海に落ちなくて」
「あはは、ほんとに。海に落ちてたらもう絶望ものでした」
もっともな言葉に、つられて私もぎこちなく笑った。商談で使いすぎた口角が、じんわりと重い。
「あのさ。チラッと画面見えたんだけど、もしかして写真撮ろうとしてた? 良かったら、俺が撮ってあげようか?」
私がひきつった笑みを浮かべていると、男はそんな提案をしてきた。田舎から上京し、社会人になって四年目ともなれば都会の怖さは知っている。こういう些細なきっかけから、手篭めにしようと近づいてくる人がいることを。
私はふるふると首を横に振った。
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
「そう? じゃあ、逆にお願いするんだけど、このスマホで写真撮ってくれない?」
そこへ予想外の言葉が飛んできた。驚く私に、男はスマホを差し出しつつ続ける。
「アイコンにするための写真を撮りたいなって思ってさ。船内に入っていこうとする後ろ姿と、月をバックに手すりに寄りかかっている横顔のシルエットをお願い」
しかもやたらと注文が多い。いつもの私だったら、適当な理由をつけて断っていること間違いなしだ。それにそんな写真をアイコンにしようとしている時点で、どこか自分に酔っているんじゃないかとさえ思ってしまう。まあ、特に何の変哲もない青空をアイコンにしている私よりはいいのかもしれないけれど。
ただ、そんなマイナス感情を差し引いても、今日の私はやっぱり普通ではなかった。
「はあ、いいですよ、べつに。じゃあまずは船の中に入っていこうとする後ろ姿から撮りますか。どこにします?」
私はスマホを受け取ると、男に場所を尋ねた。どうかしている。これはきっと疲れのせいだ。
「んーそうだな〜。じゃあ、この辺りで」
男が指定したのは、中央ではなく外周から中に入る入り口だった。上部に付けられたオレンジ色のLEDが右側を照らし、真っ暗で微かな月明かりのみがある左側とのコントラストが、またいい雰囲気を醸し出している。
「じゃあ、撮りますね~」
「ああ、よろしく」
しかも、男のスマホは画素数が多い最新式のもの。私のスマホだったらこうはいかないだろうなと思う絵面が、画面越しに広がっていた。
左側から吹き付ける海風が、男の長い髪を舞わせた。さっきは暗すぎてわからなかったが、男はかなり整った顔をしている。腕まくりしたジャケットから見える手は日に焼け、血管が浮き出ていた。
なんとなく違和感が芽生えた胸のあたりを誤魔化すように、私は撮影ボタンを押し続ける。機械質な音が連続で鳴った。波で手ブレが心配だったが、これだけ連写をすればきっと一枚くらいはアイコンに使えるものが写っているだろう。
「これでどうですか?」
「ああ、いい写真が撮れてる。上手いね」
私が撮った写真を何枚か眺めて、男は朗らかに笑った。その笑顔は先ほどまでの余裕のある笑みとは違って、どこか子どもっぽい。
「俺、昔から写真を撮るのが好きでさ。今も結構スマホで撮ってるんだ」
「へえ、そうなんですね」
「ははは、興味なさそうだね。まあ、いいや。次はシルエットの写真頼むよ」
私のそっけない反応にも機嫌を悪くしたふうはなく、男は手すりを撫でながら船の前方へと歩いていく。私のすぐ隣を横切った際に、潮の香りと一緒にほのかな柑橘系の匂いが鼻孔をくすぐった。また胸のあたりがムズムズとした。
なんなの、今日の私。変なの。
さっきまで画面越しに眺めていた後ろ姿を追いかける。人工の光に照らし出されていた姿が、徐々に夜の闇へ溶けていった。
「そうだな。月はあっちにあるから、この辺りが画角的に映えるかな」
「んーと……あー、いいですね。ばっちりシルエットになってます」
スマホ一枚を隔てて見る名前も知らない男は、手すりにもたれて真っ直ぐに海を眺めていた。月明かりが逆光になって、スマホ越しでは表情はわからない。
なんとなく気になって、私は写真を撮る前にちらりと彼の表情をうかがった。
わっ……。
思わず声がもれそうになった。儚げな表情を浮かべて夜の海を眺めるその横顔は、とても綺麗で美しかった。
「どうしたの? 撮れた?」
「あ、ご、ごめんなさい! 今撮ります!」
私は慌ててスマホを彼に向け直すと、さっきまでと同じように撮影ボタンを押し続けた。連写の音が響くなか、私の心臓もトクトクと音を鳴らす。
彼の表情が、脳裏に焼きついていた。
私には、あの表情は浮かべられない。毎日の仕事に忙殺され、家に帰って缶ビールを片手にベランダで物思いにふけることはあっても、絶対もっと情けない表情になっている。
物憂げながらも、どこか切なさを帯びたアンニュイな表情。いったいどんなことを思ったら、あんな表情ができるんだろう。
「おーい、今度は撮りすぎじゃないか~?」
「え? あ、ああっ! ご、ごめんなさい!」
またぼんやりとしていた。私は大慌てで撮影ボタンを放すと、すごい数の写真が画面に表示された。
「どれどれ……あっはっは! 八十五枚って、また随分と撮ったなあ」
「す、すみません。こんなにいらないですよね」
「いいよいいよ。たくさんの写真のなかから選ぶ時間も楽しいからさ。あとでじっくり厳選してみるよ」
それでも彼は怒らない。私の上司だったら、きっと既に怒りは頂点に達しているだろうに。
「写真、撮ってくれてありがとう。俺の名前は琉人。お礼に、なにか奢るよ」
彼は笑って名前を名乗ると、先ほど私たちが出会った自販機を指差した。たまたまか、意図してか。その自販機に置いてあるのはほとんどがお酒だった。
「……はい。ありがとうございます。私は、実乃里です」
きっと私は、少しずつ沼へと足を踏み入れている。
*
私たちは自販機で缶ビールを買うと、そのまま甲板で話し込んでいた。
「はははっ、なるほどね。それは確かに衝動的に夜行船へ飛び乗りたくなるな」
「笑い事じゃないよ。ほんと今日、というか今週はしんどくて」
私は少し錆びた手すりに寄りかかり、真っ黒な海を眺めて言った。
お酒を奢られ、少し話そうと言われて立ち話をしていたらつい仕事の愚痴をこぼしていた。一度こぼすとそれは止まらず、彼が真剣に聞いてくれたこともあってヒートアップしていた。気づけば敬語はとれていて、絶対あとで赤面するほどに負の感情を垂れ流していた。
「実乃里は頑張ってるよ。しんどくても頑張れるのはなかなかできることじゃない」
それでも彼、琉人はとても優しかった。どんくさい私が撮った写真を褒めてくれただけでなく、今日会ったばかりの見ず知らずの人間の愚痴をこうも長々と聞いてくれる人はそういない。ちらりと手元の時計に目をやれば、ビールを買ってから既に一時間が経過している。
「……ありがとう。ちょっと、気持ちが楽になった」
本当に気持ちが楽になっていた。
家に帰って、お酒を片手に動画を流し見していたらきっとこうはならなかった。私は琉人に向き直ると、深々と頭を下げた。
「べつに、話を聞いてただけだし。俺はたいしたことはしてないよ」
ふわりと彼は笑う。今度は私を気遣うような柔らかな笑顔。本当に優しい。そう思った。
「んーじゃあ、今度は私が話を聞くよ」
聞いてもらってばかりでは悪い。そんな気持ちもあった。
けれど、私も彼のことがもっと知りたかった。
今私が知っているのは、琉人という彼の名前と、写真好きであるということくらいだから。
「俺の話なんて、面白くもなんともないけど」
「それを言うなら、私の話だって面白くもなんともなかったでしょ」
「いや、仕事終わりに思いつきで港に行ってスーツのまま離島行きの夜行船に飛び乗るって、まあまあ面白いけど」
「なにそれ、バカにしてる? ひどいな~。でも、そんなアホな女になら何話したって恥ずかしくないでしょ」
アルコールのせいか、私はぼんやりとした頭でけたけたと笑う。缶ビール一本にしては酔いが回るのがやけに早いなと思った。
「でもな、べつに話すことなんて何もないよ。この夜行船に乗ったのだって、ただの里帰りだし」
「里帰り?」
「うん、そう。俺、島出身なんだ」
彼はそう言うと、グイっと缶ビールをあおった。
この夜行船で行ける島は全部で五つ。どの島の出身か言わないのは、あえてなんだろう。
「そうなんだ。じゃあ、仕事で島の外に行った感じなんだ」
「そうそう。実乃里みたいに、思いつきで夜行船に飛び乗ったんだ」
「ほら~やっぱりバカにしてる!」
「してないしてない」
深夜の甲板に、私たちの小さな笑い声が響く。夜の海風が私の頬を撫でつけ、彼の髪を踊らせる。ぜんぜん気付かなかったけれど、いつの間にか甲板には私たち二人だけになっていた。
楽しかった。初めて話す人なのに心は落ち着いていて、私は自然体であけすけに笑っていた。
随分と軽くなった缶ビールのラベルをなぞりながら、私はそっと彼を横目で見た。
やっぱり、なにかあるよね。
酔っ払っているはずなのに、いやに頭はクリアだった。
手すりに背中を預けて夜空を見上げているその横顔は、先ほど写真を撮っていた時に見た横顔とそっくりだった。
「じゃあどうして、里帰りなのにそんなに悲しそうなの?」
彼と同じように、遠くで輝く星を眺めて私は訊いた。
いつもなら、初対面の人に絶対にこんなことは訊かない。けれど、私はどうしても気になった。
「俺、そんな顔してる?」
数秒の沈黙をおいて、彼は困ったように笑った。
私はゆっくりと頷く。
「してる。さっき写真を撮った時もしてたよ。とっても悲しそうで、切なそうな、そんな表情」
「なにそれ。めっちゃ写真映えするじゃん。俺どんな顔してんの」
彼はにへらと口元を上げて床に缶ビールを置くと、スマホをいじり出した。どうやらさっきの写真を見ているみたいだったけど、そこにはシルエットしか映っていない。
「わかんないでしょ。画角が良すぎて完璧な影になってるし」
「だな。写真撮るのが上手なカメラマンのおかげか。あるいはお間抜けな大量連写のおかげか」
「もう、なにそれ」
誤魔化された。彼は優しい分、相手に気を遣わせないように自分のことをあまり話さないのだろう。誤魔化し方が、いやに板についていた。
「まあでも、悲しくなる日もあるよね」
夜行船に乗る前。夜行船に乗ろうと思った、きっかけの気持ちを思い出す。
私なんて、いてもいなくても同じなんじゃないか。
私がいなくなっても、誰も困らないんじゃないか。
どうして、私は生きているんだろう。
寂しい。辛い。苦しい。しんどい。悲しい。
元気に毎日を頑張っていても、やっぱりどうしようもなくそう思う日があるんだ。
「そんな日があっても、いいよね」
私はにへらと相好を崩して彼を見た。
こんなふうに思えるのなら、今日夜行船に飛び乗って良かった。まだ目的地に着く前だけど、既に私の目標は達成された気がした。
「……ははっ、実乃里はすごいな」
なぜか驚いたように琉人は私のほうを見ていた。
かと思えば、優し気にその瞳が細められる。
ドキリと、心臓が跳ねた。
「あ、あはは……。すごくなんてないよ、私は。ぜんぜん、すごくなんてない」
その鼓動を誤魔化すように、私は首を横に振る。彼の足元にも及ばない、ぎこちなくて下手っぴな誤魔化し方だった。
「ううん、すごいよ。実乃里は。とても」
彼が一歩、私に近づいた。少し冷たい夜風に舞う私の髪に手を添えて、真っ直ぐ私を見下ろす。
「――素敵だ」
頭の中で、なにかがプツンと切れた。手に持っていた空っぽの缶が、するりと滑り落ちて床に転がる。
月明かりが、淡く私たちを照らしていた。
ふいに私の顔に影が落ちて、柑橘系の匂いにふわりと包まれる。
「…………っ」
身体が硬直する。少しだけ怖さが湧き上がるも、それ以上の高揚感が私の心を支配していた。
深夜テンションか、あるいはアルコールのせいか。
私は彼の胸を押し返そうとした力を、スッと弱めた。
「……俺さ、カメラマンをしてたんだ」
彼は顔を少しだけ離すと、弱々しい声でつぶやいた。
「でもそれだけじゃなかなか食えなくて、生活が苦しかった。しかも、親父がボケてきたらしくて、お袋から戻ってきてほしいって連絡が来たんだ」
「そう、なんだ」
頭の後ろと背中に回された彼の手は、小さく震えていた。私は背伸びをして、そっと彼の背中を撫でる。
「潮時、だったんだ。だから俺は、この夜行船に乗ってる」
彼の顔は見えない。
けれど、微かに伝わる鼓動が、震えが、声が、すべてを物語っていた。
「そっか。それは、悲しいね」
「うん。すごく、悲しい」
今度は私から顔を寄せた。ちょっとだけ、お酒と塩の味がした。けれど強く求めるほどそれは弱くなって、やがてはわからなくなった。
愛おしかった。
誰かをこんなにも愛おしく感じる日が来るなんて、思ってもみなかった。
けれど、この愛おしさは幻だ。
船が、目的地に着くまでの。
「ねぇ、私も……一緒に……」
顔を離して、私はすがるように彼を見上げる。いつの間にか、空に色が付き始めていた。
優しげで、透き通った瞳を見つめる。
なにを言いかけたのか、自分でもわからない。
ただ私は、彼のことを離したくないと思ってしまった。
「ダメ」
けれど、私が続きを言葉にする前に、彼は私の口を柔らかく塞いできた。
「衝動的なのも、ほどほどにね」
「……っ。……は、い」
でも、今だけは。
そう自分の心に言い訳を落としながら、私はもう一度と彼にねだった。
今だけね、と彼が言った気がして、私は目をそっと閉じた。
とても、温かかった。
その時、「おはようございます」と船上アナウンスが鳴った。
夜行照明から、通常照明に切り替わる時間だった。
「夜が明けるね」
「うん」
私たちは、抱き合っていた手をどちらからともなく離した。やや冷たい海風が、手の温もりをゆっくりと奪っていく。
「ねえ、琉人」
「なに?」
ささやくような聞き返しに身を震わせつつ、私はポケットからスマホを取り出した。
「写真、撮ってほしい。有料で」
精一杯の笑顔とともに、私は彼の手にスマホを握らせる。彼は、不思議そうに首を傾げた。
「有料で? いいよ、お金は」
「ううん、有料でしてほしいの。あなたがカメラマンとして一区切りつけるなら、その最後のお客さんに私はなりたい」
彼が何かを言う前に、私は身を翻して船首のほうへ駆けた。朝日が眩しく、私の顔を照らしてくる。
「そしていつか! また写真を撮って! お願いっ!」
私は一度深呼吸をしてから、振り返る。
今の私が、あなたに伝えたい気持ちを笑顔に乗せて。
今の私が、どうしようもなく諦めたくない気持ちを涙に込めて。
少し離れたところにいる彼の瞳を、真っ直ぐに見つめる。
「――――」
彼は驚いたように目を見張ってから、何かを口にした。
でもそれは、海風にあおられて聞こえなかった。
その後に彼は私のスマホに顔を隠して、写真を撮った。
たった一夜の恋だった。
私はきっと……ううん、絶対に忘れない。
船上であなたと過ごした時間を、笑顔を、この気持ちを。
月夜の海であなたと交わしたキスを、一生忘れない。
一生、忘れられない――。