――今までありがとう。元気でね。
 私は後ろ手で自室の扉を閉めた。部屋は薄暗く、カーテンの隙間から微かに月明かりが漏れている。
 おもむろに電気をつけると、私は肩にかけていたトートバッグを下ろす。その拍子に、幼馴染からもらったクッキーの缶が音を立てた。
「私が大好きだった、お店のクッキーか」
 ぺたんと床に座ると、私はバッグから缶を取り出した。東京へ行ったら食べられないだろうからと、お土産にくれたクッキー。もっとほかに言うことはないのかと叫びたくなったけれど、素直に「ありがとう」と言って受け取った。彼は、篠井貞文は、最後まで私が望んでいたことは言ってくれなかった。
 包装をほどき、私は缶を開いてクッキーを一枚頬張った。サクッと香ばしい音と同時に、ほのかな甘さが口の中に広がる。
 懐かしい。私が初めて彼にあげたバレンタインのお返しにくれたんだっけ。
 あれは確か、私が小学二年生の時。お母さんから、「バレンタインは好きな人にチョコをあげる日なんだよ」って言われて、私は真っ先に「さだくんにあげたい!」ってねだった。それで私は無邪気に貞文の家まで押しかけて、直接チョコを渡したのだ。
 そしたらなぜか翌日に、貞文はこのクッキーをお返しにくれて。そのさらに翌日にお返しのお返しをしたいとお母さんにせがんだ時は、とても目を丸くされた。
「ふふっ」
 もう一枚、私はクッキーを口に運ぶ。
 あの時は素直に嬉しかった。美味しいクッキーをもらえたこともそうだけど、純粋に貞文自身からもらえたことがなにより嬉しかった。「ありがとう」って、何度も何度も言った。
 けれど、さっきはそこまで喜べなかった。「ありがとう」は言えたけど、たったの一回で。嬉しかったけど、小二の時よりは嬉しくなかった。心に生まれたのは、小さな寂しさだった。
 私はさらに伸ばしかけていた手を止め、クッキー缶の蓋を閉じた。そしてそっと、明日持っていく手荷物の中にしまった。
「……さて。もう少しだけ部屋を整理しないと」
 私はダンボールが積まれた自室を見渡し、誰にいうでもなくつぶやいた。

**

 ――今までありがとう。元気でね。
 あいつは別れ際にそう言って、いつものようにひらひらと手を振ってきた。
 屈託のない、朗らかな笑顔だった。
 大学生の間だけじゃない。高校も中学も小学生の時さえも、俺はずっと彼女の笑顔を見てきた。
 そんな当たり前だと思っていた日々が、今日終わった。
 あいつは、幼馴染の澤宮美菜華は、最後までいつも通りだった。悲しさも寂しさも感じさせない、すっきりとした笑顔。そんな笑顔を向けられた俺は、美菜華が昔から好きだったクッキーをあげるので精一杯だった。一緒に伝えるはずだった言葉は最後まで出てこなかった。
「俺の意気地なしめ……」
 ベンチに腰を落ち着けながら、俺はひとりつぶやいた。そのまま家に帰ることなんてできなくて、俺は近所の公園でぼんやりとしていた。
 今日は大学で仲の良かったサークル仲間で送別会をやった。俺や大半の友達はそのまま地元の企業へ就職するが、美菜華も含めた一部の友達は遠く離れた県外で就職するからだ。
 そして帰り道。方向的に俺と美菜華は同じ電車に乗り、慣れた夜道を二人で歩くことになった。
 緊張のせいか、何を話したのかはあまり覚えていない。ただ俺は、いつもの分かれ道にたどり着く前に伝えなければいけなかった。クッキーも寄り道をするための口実に買ったもののはずだった。
 けれど、俺は言えなかった。夜道で直接伝えることも、クッキーで寄り道に誘うことも、できなかった。
「はぁ……」
 ため息をつくたびに、美菜華の笑顔がちらついた。
 クッキーの缶を見て、懐かしそうに微笑む顔。
 面を上げて、「ありがとう」と柔らかに笑う顔。
 大事そうにバッグに入れてから、手を振って走っていく澄んだ笑顔。
 ふいに、幼い頃の笑顔も浮かんできた。
 バレンタインがなにかわからず、チョコをくれた彼女にお返しをしないとと思って買ったのが、あの缶に入ったクッキーだった。そして、そのクッキーを翌日に渡したときに見せてくれた笑顔が、どうしても忘れられなかった。「ありがとう!」って何度も何度も言ってくれた。向日葵のように、太陽のように、満面の笑顔で喜んでくれたあの時の美菜華を、俺は今でも鮮明に覚えている。
「〜〜っ!」
 俺はガシガシと頭をかいた。言葉にできない感情が、次々に湧き上がってきた。
 その時、ポケットに入れていたスマホが唐突に振動した。もしやと思い、急いでスマホを見るもそんなわけはなく、明日朝の早い親からのおやすみメッセージだった。
 いつもこうだ。俺はきっと、美菜華から伝えてくれるのを待ってしまっている。それじゃダメなのに。
「わかってるん、だけどな……」
 メッセージアプリを閉じると、俺はほとんど無意識に写真アプリを起動した。最近の写真や個別に作ったフォルダが並ぶ中、一番思い出深い中学のアルバムをタップする。
「はは、懐かしいな」
 自然と笑みがこぼれた。随分と久しぶりに開いたそこでは、美菜華が制服姿ではしゃいでいた。
 一番古い写真は、中学の入学式の時。校門に置かれた看板の横で、真新しい制服に身を包んだ美菜華と俺が写っていた。緊張もあって俺たちの表情はぎこちなく、固い笑顔を浮かべている。
「そうだ、このあと」
 写真を横に滑らせると、桜の木の下で笑う美菜華が出てきた。あの時、俺たちはこれから通うことになる中学校の周囲を散策していて、グラウンドに咲き誇る桜に感動した美菜華が俺に写真を撮ってとせがんできたのだ。
「いい笑顔してんなー、あいつ」
 看板の横で撮った写真とはまったく違う、彼女らしい笑顔。小学生の面影を残した眩しいその顔の上には、ひとひらの花びらが乗っかっている。
 さらに写真をスライドしていくと、そこから先は中学の思い出に満ちていた。これまで一緒にいた足跡が、関係が、そこには詰まっていた。
「今さら、どうすりゃいいんだよ……」
 こぼれたつぶやきは、思いの外震えていた。

* *

 部屋の整理を始めてから一時間ほど経ち、ようやくあらかた片付いてきた。部屋の片付けあるあるで、あちこちからいろんなものが出てきて想像以上に進みは遅い。
「わぁー、懐かしい〜。小学生の時のアルバムじゃん」
 どこか湿っぽいインク臭を感じつつ、私は今しがた見つけた朱色のアルバムを開いた。
 まず目に飛び込んできたのは、入学式の写真。看板の横にお父さんとお母さん、そして私が並んで写っている。その横には、私と貞文のツーショット。二人とも大きなランドセルを背中に担いで、仲良く手を繋ぎながらピースサインをしている。
「あーこれは、運動会の写真か」
 さらにページをめくっていくと、体操服姿の少女が思いっきり顔をしかめながら走っている写真があった。この時の私は運動が嫌いで、とにかく運動会に行きたくなかった。
「あははっ、なにこれ。私不貞腐れすぎでしょ」
 次のページには、私が頬を膨らませてしゃがみ込んでいる写真が何枚かあった。その隣には、私を見下ろしている貞文が写っている。
 なんでこんなことになってるんだろ。
 何の気はなしにそんなことを思いながら、私はさらにページをめくって、唐突に思い出した。
「……そうだ。この時からだ」
 そのページにあったのは、私のすぐ隣にしゃがみ込んで、手を差し出している貞文との写真。そのあとは貞文が私の手をとって、私を立ち上がらせている。
 泣いていたのか、写真の中の私の目は若干赤い。けれど、口元は少し笑っているように見えた。
「この時から、私は……」
 このアルバムからは読み取れない、当事者にしかわからない写真と写真の間の時間。
 この時の私はかけっこでビリになって、一緒に走った子から散々にからかわれた後だった。悔しくて悔しくて、私は半泣きのまま昼食の時間を迎えた。両親はなぐさめてくれたけど、私の気持ちはまったく収まらなかった。なんだか情けなくて、私は八つ当たり気味にむくれてしゃがみ込んでいたんだ。
 そんな時だった。
 一緒にお昼を食べることになっていた貞文が、心配して私の隣に来てくれた。しばらくは困っているみたいだったけれど、それからすぐそばにしゃがんで、その小さな手を差し出して、言ったんだ。
 ――俺もね、ビリだったんだ。だから、一緒に速くなろう!
 貞文は笑っていた。
 彼は私と違って不貞腐れることなく、素直に前を見据えて、笑っていた。当時の私はそんなことまで考えてなかったけれど、前向きな貞文が純粋にカッコよく見えた。
 この時から私は、貞文のことがなんとなく気になり始めて、これまで以上に一緒に遊ぶようになって、彼と一緒にいる時間は楽しくて、元気をもらえて、気がつけば……
「貞文のことが、好きになってたんだ……」

**

「でもやっぱり、美菜華のこと好きなんだよな……」
 公園のベンチの背にもたれて、俺は天を仰いだ。
 俺が美菜華を好きになったのは、きっと小二の時。彼女からもらったバレンタインのお返しを渡して、弾けるような笑顔を向けられた時だろう。
 けれど、俺の中にある恋心を自覚したのは、高校生の時だった。
 ――貞文。高校でも、よろしくね。
 なんてことない、ただの挨拶。
 美菜華は高校生になった時から、俺のことを昔からのあだ名だった“さだくん”ではなく、“貞文"と名前で呼ぶようになった。
 その時から、俺の中でなにかがゆっくりと崩れ落ちていく感覚があった。
 ――貞文、おはよ! 珍しく今日は早いね。
 彼女がバスケに熱中し、朝練にも行き始めるようになった頃から登下校は別々になった。
 ――ごめん、貞文! 次の休みは友達と遊びに行くからまた今度ね!
 予定もどんどん合わなくなっていった。とはいえ疎遠になったわけではなく、単純に優先順位が変わっただけだ。美菜華には美菜華の、俺には俺の交友関係があったから。
 ――あれ。貞文って、こういう曲も聴くんだ! 知らなかったな〜。
 一緒にいる時間が減るにつれ、お互いに知らないことが多くなった。一応は幼馴染だけど、なんでも知っているなんてことはなくなった。
 なんだか寂しかった。
 そこでようやく、俺は心の中で静かに燃えていた恋心に気づいた。
 でも、今さら美菜華に想いを伝えられるはずもなかった。変なプライドや幼馴染としての関係が邪魔をして、素直な気持ちはすべて喉奥で止まった。かといって、美菜華のことを簡単に諦められるはずもなかった。
 美菜華は明るく、誰にでも分け隔てなく笑いかけるので、男子から人気があった。美菜華のことが好きな同級生は何人も知っていたし、先輩から告白されたが断ったなんて噂も耳にした。
 そのたびに焦りを感じた。
 そのたびに美菜華に想いを伝えようと思った。
 そのたびに切り出せず、有耶無耶に誤魔化した。
 そうして気がつけば高校を卒業し、なんの因果か地元の同じ大学に進学し、ついにはその大学すらも卒業を迎え、美菜華は東京にある大手企業へ就職することになった。
 もう遅いんだろうか。
 俺は地元企業に就職するため、万が一付き合えたとしても遠距離になってしまう。美菜華は寂しがりやなところがあるし、俺じゃなくてそれこそ同じ会社の人とかと付き合えたほうが幸せになれるんじゃないだろうか。
「……っ」
 想像する。
 美菜華が東京の会社で働く姿を。
 太陽みたいな笑顔を振り撒いて、いろんな人から好かれる姿を。
 帰省した時に恋人ができたのだと嬉しそうに報告してくる姿を。
 そしていつしか、俺の知らない男と腕を組み、純白のドレスに身を包んで幸せそうに微笑む姿を……。
「…………あーくそっ!」
 たまらずに俺は、スマホの通話アプリをタップした。

* *

「え、貞文? なんだろ」
 唐突に鳴った私のスマホを見ると、画面にはちょうど考えていた幼馴染の名前があった。タイミングの良さも相まって、どきりと心臓が跳ねる。
 ――今までありがとう。元気でね。
 私は別れ際、自分の恋心に区切りをつけた。そして最後に部屋の整理をすることで、貞文との思い出を心にしまい、新たな生活を始めるつもりだった。過去にとらわれないように、新しい恋を始められるように、前を向けるように。それなのに、このタイミングで……?
「あ、切れた」
 通話ボタンを押そうとしたところで、ぷつりと呼び出し音が途切れた。少し迷いつつ折り返したけれど、コール音ばかりで応答がなかった。
 メッセージを送っておこうかと思ったが、私は小さく首を振ってスマホをベッドに置いた。
「……まあ、いいか」
 恋心に区切りをつけると、私は決めたのだ。それに折り返しても出ないんだから、きっと間違いかなにかだろう。
 そう結論づけたところで、一階からお母さんの呼ぶ声が聞こえた。
 私は電気を消してから、自室をあとにした。

**

 暗くなったスマホを見つめつつ、俺は絶望を感じていた。
「電池切れって……マジかよ」
 こんな時に限って、どこまで運がないのか。送別会で使いすぎたのはあるが、よりにもよってこのタイミングで……。
 俺は急き立てられるように、公園から駆け出した。誰もいない見慣れた住宅街の道を抜けて、何度も通った幼馴染の家へと向かう。
 今、伝えなければいけないと思った。今伝えなければ、きっと俺は一生後悔する。二度と取り返しがつかなくなる。
 だから俺は走った。ただひたすらに、人気のない夜道を駆けた。
 ついさっきまで美菜華と歩いていた道を抜けて、脳裏によぎる別れ際の笑顔を振り払って、とにかく足を動かした。
「はぁ、はぁっ……」
 ようやく辿り着いた彼女の家の前で、俺は彼女がいるはずの部屋を見上げて……崩れ落ちそうになった。
「電気、消えてる……」
 スマホの電池がなくなる直前に見た時間は、確か十時過ぎだった。明日引っ越しらしいからもう寝たんだろうか。
 どこまでもタイミングが悪い。諦めろと言われているような感覚すら覚えてくる。……でも。
「まだ、諦めたくない……」
 俺は挫けそうになる心を奮い立たせて、近くにあるコンビニに向かった。
 たまたま部屋の電気が消えているだけで、寝ていないかもしれない。もしそうなら、スマホにメッセージか何か来ているかもしれない。そんな一縷の望みにかけて、俺は足早に元来た道を引き返す。
 ほんと今さら何をしているんだろうとは思う。
 直前になって、未練がましく悪あがきをして、かっこ悪すぎるとは思う。
 漫画や映画の恋愛シーンはあんなに格好良く見えるのに、どうして現実の恋愛はこうも思い通りにいかないのか。
 でも。どんなに女々しくても、みっともなくても、情けなくても、俺はやっぱり美菜華のことが好きだった。
「充電器買って、メッセージ飛ばしてみて、ダメなら明日の朝に……」
 口の中で考えを転がしながら、俺は住宅街の端で煌々と明かりをもらすコンビニに足を踏み入れた。
「あれ、貞文じゃん」
 店員の間延びした挨拶のあとに聞こえてきたのは、焦がれて止まない幼馴染の声だった。

* *

 お母さんからの頼まれごとを済ませてコンビニを出ようとしたところで、私は思わず目を見張った。
「あれ、貞文じゃん」
 なるべく平静を装って話しかけるも、僅かに声が裏返る。頬が急激に熱くなった。
 けれど、当の貞文は気にした様子もなく、なぜか呆然として私のことを見つめていた。
「え? おーい、貞文ー?」
 ひらひらと顔の前で手を振ると、彼はわかりやすくハッと我に返った。
「お、おぉ……美菜華。いや、マジでびっくりして固まったわ。危うく石になるところだった」
「なんでよ」
 小さく笑いながらツッコミを入れる。私はメデューサか。
 相変わらずだなと思った。このちょっと間の抜けたところが可愛いのだが、本人に言うと怒るので私の心の中だけに留めている。
「いや、わり。でも、なんでここにいんの?」
「お母さんからちょっと頼まれて。貞文は?」
「俺も……用事あって。すぐ済ませてくるから、少し待ってて」
「うん、りょーかい」
 言われるがまま店先で待っていると、貞文は思いの外早く出てきた。何してたんだろと思う間もなく、その手には二本のミルクティーがぶら下がっていて。
「ほれ、一本やる」
 そのうちの一本を私にくれた。
「えーありがと! どーしたの、今日気前いいじゃん。いつも金欠だとか言ってるのに」
「餞別だよ、餞別。ありがたく受け取れい」
 貞文はいやに大きな声で、そんな言葉をかけてきた。私は不思議に思いながらも、小さく笑ってもう一度お礼を言った。
 それから私たちは、本日二度目となる並んでの帰路についた。といっても、コンビニから私の家までは歩いて五分程度なのでそんなに時間はない。
「そういえば、さっきなんの電話だったの? かけ直しても繋がらなかったけど間違いとか?」
「あー、まあ、そんなところ。繋がらなかったのは、スマホの電池切れたからだと思う」
「なーるほど。今日たくさん写真撮ってくれてたもんね」
「そうなんよ。あ、家帰ったら写真送っとくわ」
「うん、楽しみにしとく!」
 いつもみたいに、数時間前と大差ない会話を私たちは交わす。
 本当に、貞文といると落ち着く。上京して一人暮らしをする不安とか、社会人としてやっていけるかとか、そんな悩みすら息を潜めてしまう。
 好きだなあと、思ってしまう。
「ねぇ、貞文」
 遠目に、先ほどもわかれた曲がり角が見えた。
「私ね、貞文と幼馴染で良かったよ」
 私は、未だに心の中に漂う気持ちを噛み締めながら、ゆっくりと言葉を吐く。
「十年以上、仲良くしてくれて本当にありがとね」
「……なんだよ、改まって」
「今だからこそ、だよ。私は明日、引っ越すんだから」
 そう、私は明日、住み慣れたこの町を出ていく。大好きな人が住んでいる町を離れて、やってみたかった職業に就く。住んでみたかった東京に行く。
「今までみたいには会えないだろうから、言いたいことは言える時に言っておかないとね!」
 分かれ道に辿り着き、私はくるりと彼のほうを向いた。
「貞文! 今まで本当にありがとう!」
 ありがとう、さだくん。
 私の大好きな人。
 幼馴染じゃなくて、高校や大学で出会っていたら、私から告白していたかもしれない。
 今さら恥ずかしくて、好きだなんて言えないけれど。
 このかけがえのない想いは、忘れられない思い出として、ずっとずっと大切にしていきたい。
「それじゃあ、元気でね!」
 私は精一杯の笑顔を向けてから、足早に家のほうへと駆け出した。
 貞文は、やっぱり貞文だった。
 彼は何も言うことなく、数時間前と同じように私を見送ってくれた。
 私たちは、今日でひとつの関係を終える。
 それでいいのだと、私は思った。

**

 このままじゃいけないと、俺は思った。
「貞文! 今まで本当にありがとう!」
 美菜華が笑う。とても可愛くて、愛おしくて、胸が痛いほどに締め付けられた。
 未だに俺は何も言えてない。
 決心したはずなのに、いざ好きな人を前にすると言葉が出てこない。
 コンビニからここに来るまでの道中も結局は雑談で終わってしまって、今まさにあの時と同じ言葉をかけられている。
「それじゃあ、元気でね!」
 耳に響いたのは、静かな夜の道に鳴るひとつの靴音。
 美菜華は、数時間前と変わらない笑顔を浮かべて、軽やかに走っていく。
 一歩、一歩と、彼女は俺から遠ざかっていく。
 今言わないといけないのはわかってるのに、言葉が出てこない。
 頭の中は真っ白で、心臓ばかりが血液を全身に巡らせていて、目の前はくらくらと揺れているような気さえしてきた。
 結局はこれが現実で、俺なのだ。
 人はそう簡単には変われなくて。
 俺は俺らしく、最後まで彼女の背中を見送ることしかできなくて。
 関係に、思い出に、気持ちに縛られていて。
 この苦々しい記憶を心に留めて、この先の未来を歩いていく。
 ……こちらこそありがとう、美菜華。
 そんな言葉を、すっかり彼女が去ってしまった路地に向かってポツリとこぼすのが、いかにも俺らしいのだ。
 だから――。

* *

 だから、私の手がとられたのには、心底驚いた。
「……え?」
 曲がり角から数歩進んだ先で、私はゆっくりと振り返る。私の右手は彼の、貞文の右手によって掴まれていた。
「……元気かどうかは、会わないとわからないから……だから、そっちに遊びに行くよ」
 貞文は目を泳がせつつ、ぽつりとそんな言葉を言った。なんとも貞文らしくない、弱々しい言葉だった。
「……無理、しなくていいよ。ほら、仕事始まったら、きっと忙しいだろうから」
 つられて私も弱々しげにつぶやくと、彼は小さく首を横に振った。
「いや。俺が、そうしたいんだ」
 貞文の瞳が、真っ直ぐ私に向けられていた。
 いつかの日の彼と重なった。
 なんとも貞文らしくない行動なのに。
 どうしてか、前を向いていたあの時の表情に、そっくりだった。
「……そう、なんだ」
 私は急速に速くなっていく心音を聞きながら、どうにか頷いた。それから少し考えて、ゆっくりと息を吐く。
「……私ね、きっと社会人一年目は、仕事だけで精一杯だと思う」
 俯きながら、想像する。
 うん、そうだ。一年目は、新しい生活に慣れるのに必死で、きっと他のことには手がつかないだろう。
「二年目は……慣れてくるかもだけど、きっとまだまだ大変な時期だと思う」
 蚊の鳴くような声にもかかわらず、貞文は「うん」としっかり相槌を返してくれた。私は再度深呼吸をしてから、おもむろに顔を上げる。
「そして三年目からは……何も、ほんとに何もないようなら……仕事以外にも、いろいろ始めてみようかなって、思っちゃうと思う」
 新しい趣味とか、海外旅行とか。……そして、将来を見据えた、新しい恋とか。
「そんな、感じだと思う」
 我ながら、なんとも曖昧だと思った。本当に、私はせこくてずるい。いつも彼に、さだくんに、手をとってもらっている。
「……わかった」
 さだくんは、いやにしっかりとした様子で頷いた。また、私の胸のあたりが大きく跳ねた。
 どうやらまだ、私の初恋は終わってくれそうになかった。

**

 俺はほとんど無意識のうちに、美菜華の手を掴んでいた。
「……元気かどうかは、会わないとわからないから……だから、そっちに遊びに行くよ」
 気がつけば、そんな言葉を口にしていた。
 なんとも俺らしくないと思った。けれど、紛れもない俺自身の気持ちでもあった。
「……無理、しなくていいよ。ほら、仕事始まったら、きっと忙しいだろうから」
 美菜華は、やけに小さな声で俺のことを気遣ってくれた。
 けれど、そんなことはしてほしくなかった。
 だからまた、俺は言った。
「……いや。俺が、そうしたいんだ」
 素直な気持ちだった。
 美菜華のことだから、きっと言いたいことには気づいているだろう。
 フラれるかもしれない。傷ついて疎遠になってしまうかもしれない。関係が壊れてしまうかもしれない。
 でも、それでも、ずっとこの感情を閉じ込めたままでいるのが、なによりも嫌だった。
 変な汗をかきながら返事を待っていると、やや間があってから美菜華はゆっくりと頷いてくれた。どうやら、あと二年がデッドラインらしい。
 今の俺は、根拠のない強さを持って頷き返すことしかできなかった。
 なんら成長できていない自分が、心底嫌になりながらも。
 俺はただひたすらに前を見据えて、変われるように努力していく覚悟を決めるほかなかった。
「それじゃあ、改めて……またね、さだくん。私も、帰ってくる時は連絡するね」
 今度こそ、美菜華は足早に家の中へと入っていった。俺は呆然と、彼女の背中を見送っていた。
「さだくん……ね」
 懐かしい呼ばれ方をしただけでつい口元が緩んでしまうくらいには、きっと重症なのだろう。
 でも、それでいい。
 この初恋はまだ、終わらせたくないから。

* *

 玄関の扉を後ろ手に閉めてから、私は思う。

**

 彼女の家に背を向けて、俺は思う。

***

 どうしてこうも、恋はままならないのか。