「え、楠田さんって、化粧してたの?」

 そう聞いたのは、バイト仲間の三瀬さんだった。
 そうだけど、と言うと、三瀬さんは目を見開いて、よろ、と壁にぶつかった。
 ……男が化粧をするって、そんなにショックだっただろうか。せっかく目立たないように時間をかけてしてんのに、店長にバラされてしまった。口出してきたらめんどうくさいな。
 そんな、と三瀬さんは言った。

「化粧してることに気づかないなんて……私、そんなに人の顔に興味がなかったのか……」

 ……そこかよ。




 三瀬さんは後から入ってきたバイトで、なんというか、全体的に「トロい」感じだった。
 染めてない髪は綺麗な黒髪だったが、時々寝癖がついてるし、一つ結びはたるんでいる。前髪の分け目もあまり綺麗にならなくて、「そこまで目立つわけではないけど脇が甘い」感じだ。
 化粧もしてないし、服も三着を着回ししてるところしか見たことがない。シャツもズボンに入れるんだが、変なところではみ出ている。
 誤解を恐れずに言うと、目障り。自分に害がないとわかっているのに、目についてざわり、と心が逆撫でされる。自分が神経質な自覚はある。口に出せば、彼女との不和を産むだけだろう。ただのバイト仲間だからこそ、不穏要素は取り除きたい。
 というか、できるだけ関わりたくない。そう思っていた。
 あの身だしなみの無頓智さが、親父を思い出させるからだ。




 ■



 家に帰って、俺は買ったもののタグを切る。
 そして今日買った服を全部洗濯機に入れた。よその人間の匂いが移った服は、気になってしばらく着られない。
 洗濯機のスイッチを押した瞬間、親父が帰って来た。

「……」

 親父は何か言いたげに、俺の顔を見る。ただいまくらい言わんかい、と思いつつ、俺は洗面所から出た。
 はあ、とあからさまなため息をつく。
 本当にうざい。主張の仕方がいつも陰湿だ。




 俺が化粧をしたのは、自分の顔の色素が薄いからだった。
 俺の肌は不健康に見えるらしく、その度に「保健室に行きなさい」と心配されるほどだ。
 だもんで、俺は「健康的に見せる」ために、化粧をすることになった。そうするとあれやこれやと必要になっていくため、洗面所は今や俺の化粧水や乳液やらで溢れている。
 だが、それを快く思わなかったのが親父だ。
 一度、洗面所にあったものどころか、部屋に置いていた化粧用品もすべて捨てられたことがある。
 なんてことしてくれたと思ったね。そもそも、人の部屋に勝手に入るだけでも許し難いのに、あろうことか捨てるとか。
 俺が問い詰めると、いつもは無口な親父は今まで見たことないぐらい激昂した。やれ俺が道を間違えただの、育て方を間違えただの、男が好きなのかやら、女になったのかやら、俺の中でマイルドにしなければおぞましいほどの「差別用語」を全部ぶちまけてきやがった。
 俺は反論する気も失せて、でも人のものを勝手に捨てたことは譲れないから、「今度こんなことしたら絶対許さん」って言い放った。
 それ以来、俺らは冷戦状態にある。

 俺は、鍵付きの引き出しに、コスメをいれる。
 普段使いどころか、恐らく使うことすらしないだろう。それを、誰にも知られないように隠した。








 そんなある日のことだった。
 ショッピングモールにある某チェーンのブティックの入口で、ひたすらマネキンを見ている三瀬さんがいる。
 かれこれ一時間、そこに立っている。
 三瀬さんを見つけて、「声掛けられたくないな」と思ったから、時間をずらしてその店に入ろうと思ったのに。何してんだあの人。
 とか何とか思ってたら、三瀬さんがこっちに気づいた。来んな。

「楠田さん、こんにちは。買い物?」
「あ、うん……」

 なんかコミュ障みたいな返事を返してしまった。

「えーと、……買わないの?」

 ようやく出てきた言葉に、三瀬さんは首を傾げた。

「あ、いや……さっきここ通りかかった時もいたから……」

 暗に「ずっと見張っていたわけではない」ことを強調する。いや、見掛けたのに声を掛けなかったことを指摘されるか、これ。
 だが三瀬さんは特に気にすることもなく、ああ、と言った。

「この服かわいいなー、って思ってね」

 そう言って見るのは、ボーダー柄のノースリーブだった。
 見ると手元には、最初見かけた時にはなかった大きな紙袋があって、別に彼女がずっとそこに立っていたわけじゃないことがわかった。

「そんなに気になるなら、買った方がいいんじゃないですか」

 俺がそう言うと、「うーん」と三瀬さんは悩む素振りを見せる。


「私、縞模様嫌いなんだよね」
「……は?」

 意味がわからん。
 だが、聞けば恐らく彼女と長くいる羽目になる。
 三瀬さんも自分から理由を言うつもりはなさそうで、こう言った、


「今日はもう帰るね。そんじゃ」

 ひら、と手を振って、彼女が去ろうとした時だった。


「……望?」

 よく知るけど、ほとんど久しぶりに聞いた声が聞こえた。
 見ると父親が、呆然と俺と彼女を見ていた。げ、なんでこんなところに。

「……そちらの方は?」

 三瀬さんの方を見て、俺は「三瀬さん」と、苗字だけ答える。

「初めまして。三瀬紗里と申します」

 すると父親は、今まで見たことないほど顔を綻ばせた。
 ――!?
 その笑顔に、思わず鳥肌が立った。

「そうでしたか! うちの息子をよろしくお願いします!」

 そう言って、父親は去っていた。
 ……なんだったんだ、キモ。
 ぼそり、と三瀬さんがつぶやく。

「ああ言うタイプ、本当にいるんだ……」
 
 そう言って、三瀬さんは俺の方を見た。

「今お昼時だし、どこかで一緒に食べない?」

 よかったら話聞くよ? と三瀬さんが言う。
 思わず俺は、うす、と答えた。







 レストラン街ではなく、フードコートを選んだ俺たちは、見晴らしの良い窓際の席に座った。
 俺はチャーハン、彼女は丼物だ。
 適当に当たり障りのない会話をした後、俺は改めてさきほど起こった現象について答えた。

「なんか、ごめん。親父、なんか変な感じだったし……」
「ああ。あれ、私を楠田さんの彼女だと勘違いしたんじゃないかな」

 三瀬さんの言葉に、俺はスプーンですくっていたチャーハンを思わずこぼした。
 昔親父が言い放ったことを思い出して、彼女の言葉に納得する。

「……あー、あれか。俺が化粧し始めてから、トランスジェンダーかゲイか疑ってたから……彼女がいるって安心したんかな」

 俺がそう言うと、はあ、と三瀬さんが言う。
 それはため息と言うより、感嘆しているようだった。

「なんか、楠田さんのお父さんみたいな人、本当に居たんだなって」
「いや……割と世の中にいる気がするけど、三瀬さん家はちげーの?」
「うん。恋人が同性だろうがいなかろうが、男が化粧しようが女が化粧しまいが、なんも気にしない。
 家がマイナーなのはわかってたけど、実際あんなふうに見られるのは、ちょっと嫌だった」

 ハッキリ言うなあと思いつつ、三瀬さんの言うことはもっともだ。俺たちバイト先でほとんど話さないのに、そこに居合わせただけでデキてるように見えるとか、頭花畑か? って感じだ。

「ごめん。三瀬さんの迷惑にならないように、言っておくわ」

 それで親父が納得して機嫌がいいなら、それに越したことないんだけどな。
 俺がそう思っていると、三瀬さんが使っていた箸をおいた。

「……私のことじゃなくて、楠田さんは?」
「え?」
「楠田さんは、嫌じゃなかったの?」

 じっと、三瀬さんは俺を見た。

「それは自分じゃないのに、勝手にその人の中でそうラベルが貼られているの、悔しくない?」

 ……それはいつかの自分が、そう思っていたような気がする。
 もうすっかり、忘れてしまったけれど。
 体調悪くないと何度も言っても、聞き届けてくれなかった。押し付けられる心配が億劫なのと、何度も同じことを聞かれるのが嫌でわかりやすくしたのに、今度は別のラベルをつけられた。
 それを繰り返していくと、他人に歩み寄るのがバカらしくなった。必要以上に人と関わりたくなくなった。

 だけど、もし、「嫌じゃないのか?」と、誰か一人に尋ねられていたら。俺は、どうしていたんだろうか。
 そんな「もしも」のことを考えて、俺はふと、彼女に聞いた。

「三瀬さんは、なんでボーダー柄嫌いなわけ?」

 きょとん、と三瀬さんが俺を見る。

「ああ、さっきの? 特別理由があるわけじゃないんだけど、兄がいるんだよ私。
 で、兄のお下がりが全部縞模様だったの。それを強制で着せられるのが、幼心に嫌で」
「あー、なるほど」

 俺には兄弟はいないが、彼女の言葉にはなんらかの説得力を感じた。
 説得力、というよりも、「彼女がその場しのぎでいい加減なことを言う人ではない」という信頼だろうか。

「私の家ね、多分他の家庭と比べたら、すごく子どもに理解があると思う。やりたいことを言って、否定されたことがないの。
 でも服を買う時だけ違って。自分の服を買うとさ、お母さんから『サイズは合ってるの?』とか、『化繊で暑くない? かゆくない?』とか、『透けてないか、脇とか見えてないか?』とか、後から言われるワケ。
 それが心配から来るものだってわかってはいるんだけど、私にとっては呪いだった。その度に、縞模様の服を強制的に着せられてモヤモヤしていた自分を思い出す」

 だから、と三瀬さんは言った。

「楠田さんが、自分の『いい』を信じて動けるのって、すごいなって思った。単に私がいくじなしなのかもしれないけど」
「……俺は、そうやって全部言葉にするのが、すごいと思う」

 心の底からそう言うと、そう? と三瀬さんが言った。

 三瀬さんは、他者に自分の説明をすることを恐れない人なんだな。
 それは、今の俺にはとうてい出来ないことだった。








「そんな私だけど、この縞模様の服はかわいいなー、って思ったワケよ」

 再びブティックに戻って、三瀬さんはそう言った。
 
「だったら買えばいいじゃん」
「うーん。でも、ノースリじゃん? 脇見えるのちょっと嫌で。それに、これに何合わせればいいのかわからないし。
 そんなに何度も着る機会もなさそうだしな……」
「別にいいじゃん。一回だけだって。そんな服があるのも」

 俺の言葉に、三瀬さんが目を丸くした。

「まあ、トップスにボトムスを合わせるのは大変だろうけどさ。普通先にボトムスを決めるし」

 そう言って、俺は近くにあったボトムスを掴んだ。
 この服なら、カーキ色の短パンとか似合いそうだ。

「別に人に見せる必要もねーよ。自分の好きなものを、自分のためだけにとっておいたっていいし。
 俺も、悪目立ちするから日常では使わないけど、いいなって思ったコスメは買うし」


 これは、少し勇気のある告白だった。
 俺がそう言うと、そっか、と彼女は言った。


「そういう考え方も、あるんだね」


 何かを深く聞く訳ではなく、そう返す彼女に、俺はなんだかとても、救われた気持ちになった。