「はあ……」

 胡桃田さんと話して一週間が経った。
 梅雨入りをし、雨が降っているからだと思いたいけど、僕の心はどんよりと曇ったままだった。
 保健室登校は居心地が悪くなかったのに、胡桃田さんと話して自分の中で何かが変わっているように感じる。
 ……一人が好きだなんて胡桃田さんが変わっているだけだ。
 そう思うのにこのモヤモヤは何なんだろう。一刻も早く原因が知りたい。
 今日の放課後、保健室を出て僕は教室へと向かった。かといってドアを開けることはできず、少しだけ開いている窓に顔を覗かせる。

「あ……」

 胡桃田さん、いた……
 ニカ月来ていなかっただけなのに、もう席変えが行われたらしく自分の席がどこだか分からない。
 胡桃田さんはベランダ側の一番前の席で顔を伏せて眠っている。窓をもう少しだけ開けてみると、教室内は誰もおらず、一人いる胡桃田さんが心配になった。

 音を立てないようにドアを静かに開ける。
 久しぶりだ……懐かしい空気感。胡桃田さんがいたから入ろうと思ったし、胡桃田さんが顔を伏せているから心配になった。
 なにかあったんだろうか。
 胡桃田さんの席へ向かう。胡桃田さんの机には日直日誌が置かれていたことから、胡桃田さんが今日が日直だということが分かった。日誌をそっと手に取りページを捲る。すると、一日の出来事の蘭に今日の流れと僕が今日も教室に来ていないことが記されていた。

 ……胡桃田さん。僕が教室にいないことを心配してくれていた。

 一人がいいと言ってくれていたのに僕を心配してくれている。そんな胡桃田さんの優しさに涙が溢れそうになった。

「ごめん、胡桃田さん……ありがとう」
 ぼそっと一人呟いたつもりだったのに、胡桃田さんから「うん」と返事がきた。
「……え?」
「これでも心配してるんだよ、井ノ上くん」
 顔を伏せたまま話す胡桃田さんに戸惑う。寝ていたわけではなかった。
「……あ、うん。ご、ごめん」
 今のように教室に入れたら、もう、こんな風に胡桃田さんに心配かけなくて済むのに。
「でも、分かってる。学校中探しても女子で一人で好んでいるのは私だけってことくらい。私みたいな人間、希少価値低いからさ」
 自分のことを『私みたいな人間』と言い『希少価値が低い』と言い放つ胡桃田さん。例えそうだとしても、胡桃田さんはカッコイイ。とてもカッコイイ。僕なんかより数倍カッコイイ。それは多分、自分の信念を持っているからだ。

「僕も胡桃田さんのような、そんな信念が持てる人になりたいな……」
「別に私のこれは信念なんかじゃないよ。井ノ上くん、私を過大評価しすぎ」

 「尊敬しすぎ」と、ふいに笑う彼女に僕の口角も自然と上がる。

「……尊敬するよ、僕、胡桃田さんみたいに強い人間になりたいんだ」
「私みたいな希少価値の人間を強い人間って思ってるんだ?」
「えっ!? いや、そういうことを言ってるわけじゃなくて……いや、確かに希少価値な考え方ができる人はカッコイイけど……あれ、何を言ってるんだ僕は」

 自分がなにを言っているのか分からなくなって頭を抱えた。

「私は強くないよ、自由奔放に生きてるだけ。強いっていうのは、井ノ上くんみたいな人のことを言うんだよ」

 胡桃田さんは伏せていた顔を上げ、僕の顔を見てふっと微笑んだ。いきなりの誉め言葉に戸惑う。僕が強いだなんて、そんなことあるわけない。

「い、いや、僕は強くなんて……」
「強いよ。強いからこうして教室に来たんでしょ」
「いや、教室に来たのは胡桃田さんがいたからで……他の人がいたらドアも開けられなかったと思うし……」
「でも、その一歩が大事なんだと思う。私は一人でいるのが好きで好き好んで一人行動してるけどできることなら井ノ上くんに毎日『おはよう』って言いたいし、帰るときも『また明日』って言いたい。クラスメイトとして」

 胡桃田さんが遠回しに毎日教室にいてほしいと言ってくれているようで、僕が欲しかった言葉を心の奥底を埋めていく。
 僕も胡桃田さんに挨拶をしたい。

「……僕、胡桃田さんに挨拶するために教室に来ることを頑張ってみてもいいかな」
 柄にもなくこっぱずかしいことを言ってみる。胡桃田さんは「頑張ってみてもいいんじゃない」と嬉しそうな表情を見せた。
 胡桃田さんがいるなら、億劫な教室でも頑張ってみようと思った。






 僕のお昼ご飯の弁当を作ってくれている母さんに、朝食のウインナーを頬張りながら伝えてみる。

「母さん、僕、今日頑張って教室行ってみるよ」

 母さんは「え?」と聞き返した後、お弁当のおかずを数個地面に落としてしまった。それを拾いながら僕に再度尋ねた。

「……今、なんて言ったの?」
「うん、教室に行ってみる。教室で頑張って授業を受けてみようと思う」
「そ、そう……え?」

 母さんはまだ頭の中が混乱しているようで、僕に出来上がったお弁当を無言で渡した。

「母さんは無理しないでいいって言ってくれてたから、今までその言葉に甘えてた。でも、いじめられていたわけでもないし、無視されていたわけでもないのに、最初から壁を作って逃げていたのは僕だ。例えこの先一人でも、こうなりたいって思う人がいるから、頑張れるような気がする」
「……陽向」
「じゃあ、行ってきます。いつも弁当ありがとう」

 涙ぐむ母さんにお礼を言いながらお弁当を鞄の中に入れる。
 母さんが嬉しい顔をするから、教室に行こうと思ったわけじゃない。
 僕は胡桃田さんみたいに一人が好きなわけじゃないし、一人が平気なわけでもないけど、まだ何も始まる努力ができていなかった。ただそれだけだ。それだけだけど、一番大事なことを彼女が教えてくれたんだ。

 学校に着き、ローファーから上履きに履き替え、人がいる廊下を歩く。それだけで逃げ出してしまいそうなほど怖いのに、ここから僕はドアを開けられるのか? いや、開ける、大丈夫。胡桃田さんに言ったんだ、挨拶するって。
 教室の前に着きドアに手を掛ける。すうっと息を吐き、ゆっくりとドアを開けた。廊下にまで聞こえるほど賑やかだった教室内は一気に静けさを増し、僕の方に皆の視線が集まる。
 …………あ。や、やばい、動けない。口が開かない。挨拶なんて……そんな恐ろしいことできない。
 強くありたいと思った心が一気に崩れていく。
 僕は強くなんてない。僕は胡桃田さんのようにはなれない……
 自分が情けなくて一歩後ずさった。その時だった。

「井ノ上くん」
 僕の後ろから声をかけてきたのは胡桃田さんだった。胡桃田さんは僕に「教室の中に入ろう」と背中を押してくれた。
「胡桃田さん……僕」
「うん、おはよう」
 「僕、もう教室の中から出たいんだ」そう言いたかったのに、言葉にできなかった。
 挨拶もできない、自分の気持ちを伝えることもできない、強く抱いた想いを貫くこともできない。
 …………僕は何もできない。
 ただただ俯くことしかできない僕の背中に手を置いたまま、胡桃田さんはぐいぐいと僕の背中を押す。

「ちょっ、胡桃田さん!」

 ――胡桃田さん、僕に普通に声を掛けているけれど、そもそも胡桃田さんは人と話すのが嫌いなんじゃないだろうか。一人そんなことを考えているとクラスの男子、女子問わず胡桃田さんに「おはよう」と話しかけてきた。

「井ノ上くん、だよな? 井ノ上くんの席、ここだよ」
 一人の優しそうな男子が僕を席まで案内してくれた。
「あ……ありがとう」
 僕が思っていたよりずっと皆の接し方が優しいような気がする。他の人も次々と僕に話しかけてきてくれた。
 一人のクラスメイトが胡桃田さんがずっと僕のことを心配してくれていたことを教えてくれた。
 僕が教室に来れたのも、こうして打ち解けられたのも全部彼女が気にしてくれていたからだった。
 怖かった教室内は前みたいな恐怖心はなくなり、「井ノ上くん、次、移動教室だって。一緒行こう」と気にかけてくれるクラスメイトと一緒に教室を出る準備をする。
 斜め前の席では胡桃田さんが教室を出る準備をしていた。
「胡桃田さんも一緒行こう!」
 僕に手を差し伸べてくれたように、僕も彼女に手を差し伸べてあげられる人になりたくて、胡桃田さんに一緒に行こうと声を掛けるが、胡桃田さんは首を横に振った。
「一人がいいんで」
 僕に早く行けと手で合図を送る。
 クラスの皆も胡桃田さんのことは良く理解しているようで、「それとこれとは別なんだよ、井ノ上くん」と、教えてくれた。
 そうだとしても、本当に胡桃田さんは一人で好き好んでいるんだろうか。本当は心のどこかで寂しがっているのではないかと、気になってしまった。

「で、でも胡桃田さん……」
「勘違いしないで。私はあくまで一人が好きなの。クラスメイトとも喋るときは喋るし。喋りかけてもくれるから、井ノ上くんが気にすることじゃない」

 胡桃田さんは一人を好む女の子で、

「それより、井ノ上くん。挨拶がまだなんだけど!?」
「そうだった! おっ、おはよう、胡桃田さん」
「うん、おはよう」

 それは今後も決して変わることはなくて、僕はマイノリティな女の子に憧れを抱きながら、与えてくれた第二の人生を過ごしていく。


END