目の先には木々の葉がそよそよと揺れているのを窓越しで見つめる。窓を開けると生ぬるい風が頬に当たるのを感じた。季節は六月。ニュースでは来週から梅雨入りに入ると流れていた。
 雨は嫌いだ。じめじめするし、気分も重い。傘を差しても全てをカバーしてくれるわけでもなく、かといってレインウェアは羽織る気になれないのだから。

 僕、井ノ上(いのうえ)陽向(ひなた)は高校に入学してから一週間を経たず教室に入れなくなってしまった。

 いじめられていたわけではない。無視をされていたわけでもない。ただ、極度の人見知りで人と上手く馴染めなかっただけ。ただそれだけで、教室にいる居心地が悪くなってしまい、保健室に足を運ぶ回数が増え保健室登校をするようになっていた。

 保健室の藤崎先生や担任の先生は僕のことを親身になって考えてくれる。「教室には来れそうな時に来なさい」と言ってくれる。とてもありがたいと思う反面、一日中保健室に居座っているのも気が引ける。

 僕のために各教科の先生が空き時間に勉強を教えに来てくれる。だから授業に出ずとも、なんとか勉強についていけているし、保健室でテストも受けることができている。
 時々、申し訳なさと不安で押しつぶされる。ずっとこのまま保健室登校なのだろうか、と。自らの意思で保健室で過ごすことを決めたはずなのに、保健室登校となって二カ月。僕の心は霧がかかったように白いモヤが渦巻いていた。





「……あ」

 おもわず声を上げた。「失礼します」と落ち着いた声音で挨拶をし保健室に入ってきたのは、同じクラスの女子、胡桃田(くるみだ)志音(しおん)

 黒くて透き通るような艶がある長い黒髪が印象的で、誰もが羨ましがりそうなくりっとした大きい黒目を中心にとても整った顔をしている胡桃田さん。
 そんな彼女と一回も会話をしたことはないが、一週間しか教室にいれなかった僕だけど、彼女のことはよく覚えていた。彼女もまた、僕と同じく友達ができず、常に一人行動をしている子なのだから。

 胡桃田さんは僕に視線を向けるとペコッと軽く会釈をし、キョロキョロと保健室を見渡している。
 今は藤崎先生は会議で抜けている。そのため先生からは「誰かきたらよろしくね」と言われていた。藤崎先生がこうして抜けることは珍しくはないが、今まで偶然にも先生がいない時に誰かきたことがない。そのため、誰かきたらよろしくしたことはない。
 人と関わりたくなくて保健室登校をしているというのに、よりにもよってクラスの女子が来るなんて、最悪だ。
 そんな彼女に「どうしたの?」と聞くわけでもなく、咄嗟に数学の教科書を鞄から取り出し、問題を解くふりをしながら早く胡桃田さんが保健室から出て行くことを願った。
 保健室に来るということは、それ相応の理由があるからだろうに、自分のことしか考えられていない僕は胡桃田さんの調子まで気遣う余裕なんてなかった。たった数分なのに、静まり返っている空気感からか、彼女が口を開くまで長時間そうしていたかのようにやたらと長く感じる。
「井ノ上くん、保険の先生は?」
 胡桃田さんから「井ノ上くん」と名前を呼ばれたことによって、僕の視線は数学の教科書から窓際に立つ胡桃田さんへと向いた。
「……会議だって。今はいない」
 藤崎先生や、他の先生以外と会話をすることはいつぶりだろう。そんなことを頭の中でぼんやりと思いながら、胡桃田さんへ返事を返した。
 だからといって胡桃田さんは保健室を出て行こうとはしない。「そう」と頷きながら何かを探している様子だった。胡桃田さんに出て行ってもらう唯一の方法は、彼女が保健室に来たことを聞き出すこと。
 意を決して胡桃田さんに質問を投げかける。
「体調悪いの?」
 そんな僕の問いに胡桃田さんはこくりと頷いた。
「頭痛い? 喉?」
 すかさず再度問いかける。
 見て見ぬふりをしてしまったことに罪悪感を抱きながらも問いかけると、胡桃田さんは「お腹」と一言だけ返事をした。

 ……お腹。もし腹痛を和らげる薬があったとしても、鎮痛剤なんて僕が渡してしまってもいいんだろうか。

 棚のどこかにそれっぽい薬があると思っていたのに見つからない。途方にくれている僕に胡桃田さんは「ただの月経痛だから。ないなら大丈夫」と言い保健室から出て行ってしまった。

 ……月経痛。女の子が月に一度襲われる痛みのことだと、鈍感な僕でもすぐに理解した。
 お人好しなことをするんじゃなかった。恥ずかしさで顔が熱持つ感覚を持ちながら戸棚の扉を閉める。
 早く出て行ってほしかったけれど、月経痛の腹部の痛みは個人差があるというし、少しベッドで休ませた方がよかったのかもしれない。


***


 しばらくして、藤崎先生が戻ってきた。

 「井ノ上くん、ごめんね。特に変わりはなかった?」と、会議で使ったであろう資料を机の上でとんとんと揃えながら聞いてきた。
 胡桃田さんは先生の有無を確認して出て行った。特に変わりはなかったと聞かれれば、なかったのかもしれないけれどそれでも他人と話さなくてはいけなかった僕にとっては変わりまくりだったため、

「同じクラスの胡桃田志音さんが来ました」

 と、疲労感交えながら伝える。先生は「あー、胡桃田さんねぇ」と意味ありげに頷いた。彼女のこと、何か知っているんだろうか。この場には先生と僕しかいないために遠回しに聞いてみる。

「お腹痛かったみたいで、薬を貰いに来たらしいですけど」

 先生は頷きながら、「私は薬剤医師の免許を持った先生じゃないから、うちに薬なんてないのよ。もし薬が必要な場合は自分で持ってくるとかして対策してもらわないといけないのよね」と話してくれた。確かに、僕も先生から「体調が悪そうな時は事前に家で薬を飲むなりしてね」と言われていたけれど、そういうことだったのかと気づかされる。

「それにしても、胡桃田さん、大丈夫かしら」

 先生は胡桃田さんについて思うところがあるようで、ふと、心配しているような素振りを見せた。すかさず話に食いついてみる。

「胡桃田さん、どうしたんですか?」

 クラスのことなんて、他人のことなんてどうでもいいはずだった。けれど、保健室を追い返した負い目からか、なんとなく彼女のことを知りたくなった。

「胡桃田さん、入学してからずっと一人で行動してるのよ。未だに一人行動をしているみたいだし、それが心配でね」

 藤崎先生も胡桃田さんのことを心配していた。
 確かに、そうだ。僕は高校に入学して一週間で保健室登校になってしまったけれど、それでも胡桃田さんのことだけは頭の片隅に「この子も僕と同類」などと、彼女のことを決めつけて記憶していた。きっと、彼女も僕と同じように、教室の居心地の悪さを感じて不登校になるか、保健室登校になるだろうと思っていた。けれど、入学してから二カ月が経った今でも彼女は教室に行き、授業を受け、一日を学校の枠からはみださずに終えている。

 全然僕と同類なんかじゃない。彼女は強い。
 胡桃田さんと何もできない自分も重ね、なんともいえない、恥ずかしさがこみ上げてくる。
 どうして、そう、強く生きていけるのだろう。この日の僕は胡桃田志音のことで頭がいっぱいだった。久しぶりに他人のことで頭を悩ませた。
「失礼します」
 皆が下校をしているであろう時間を過ぎ、遅めの時間帯に保健室から出る。靴箱に向かうと胡桃田志音が上履きからローファーに履き替えているところだった。
「あ……」
 今日のほぼ一日、僕の頭を埋め尽くしていた張本人。胡桃田さんは僕なんか気にする素振りもなく歩き出そうとした。
 ーーちょっとまって。これ以上僕の頭の中を支配しないでくれ。僕は自分のことで精一杯で、他人のことなんて考える余裕ないのに。こう思いながら、胡桃田さんに話しかける。
「門まででいいから一緒に帰らない?」
「……え?」
 彼女は目を丸くして僕を見た。そして、「なんで?」と首を傾げる。
「……その、お腹痛いって言ってたしさ」
 なにを言ってるんだ僕は。たかだか数分一緒に歩いたからといって、胡桃田さんのお腹の状態が良くなるわけないのに。すぐに自分のついた嘘を訂正する。
「違う、ごめん。その……胡桃田さんと話したくて」
「話? じゃあ、ここに座って話す? 当分誰も来ないと思うし、閉まるのはまだ時間あると思うから」
 「話したい」という僕のお願いに、胡桃田さんは玄関に置いてあるベンチを指さして精一杯の気遣いを見せてくれた。よって、胡桃田さんとベンチに座って会話ができることになった。

「……で、話って?」
「ああ、うん。その、あんまり話したことなかったから。話してみたくて……」
「井ノ上くんはずっと教室に来てないよね」
 僕が聞きたいことがあるように、胡桃田さんも僕に聞きたいことがあったようだ。
「……うん。情けないと思われるかもしれないけど、僕、人と話すことが得意じゃなくて。教室にも全然馴染めなくて……入りたくなくなってしまって、保健室登校になったんだ……」
 何故教室に入れなくなってしまったのか、これまでの経緯を話すと、胡桃田さんは「ふうん」と頷いた。そして、自ら「私は……」と自分のことを話し始めた。

「私は一人が好きだから、全然気にしたことないかも」
「一人が好きなの?」
「うん、集団行動とか苦手だし、人に気を遣うのも苦手だから。あえて距離を取ってる」
「一人が好きだなんて……珍しいね」
「群れたら何をするにしても一人ではできないし、例えば図書室とか。昼休みに行きたいって思っててもいちいち友達に許可を取らなくちゃいけないでしょ。行きたくないって言われたら行けないし苦痛なの」

 胡桃田さんは一人で行動するのが好きな、僕とは真逆の人間だった。『他人のどうでもいい話』と言われ、緊張が走る。今、僕との会話も胡桃田さんが思う「どうでもいい話」に含まれているのだろうか。
 胡桃田さんとは違い、僕は他人のことを酷く気にしてしまう。胡桃田さんとは違い僕は一人で行動することもできないし、彼女とこうして話している今でも、胡桃田さんの顔色が気になって仕方がない。
「胡桃田さんのこと、どこか僕と似ている人かもしれないって思ってしまった。……ごめん、もう帰るね。胡桃田さんも気をつけて」
 立ち上がると、胡桃田さんは僕の制服の裾を掴んだ。
「門まで一緒に帰る?」
「……いいよ、僕に気を遣わなくて」
「気なんて遣ってないけど」

 これ以上僕を惨めにさせないで。
 これ以上、僕はキミと比べたくないんだ。
 比べたらきっと、保健室登校もできなくなる。家から出られなくなってしまう。

「……じゃあ、また」
 胡桃田さんの手を振り払い、僕はその場を後にした。