繰り返していたらいつの間にか、中学三年生の冬になった。
三年生になっても、日常はほとんど変わらなかった。学校では『強い』私、キッチンでは『強くなる』私。
でもある日唐突に、日常は壊れた。
きっかけは家庭科の調理実習。マフィンをつくる授業の中で、いつも通りに作業していたら、班の女の子に問いかけられた。
「あれ? 王子、なんか手馴れてる?」
「あーうん、たまに家で作るから」
言ってから、しまった、と思った。昨日の夜徹夜してしまって、眠くて気が抜けていた。
お願い、軽く聞き流して。
そんな願いもむなしく、女の子はきゃあっと明るい声を上げた。
「王子もお菓子作りするんだ?! え~! 意外!」
「え、なになに? 王子が家でお菓子作り?!」
「なにそのシチュ、最高すぎ~!」
近くにいた女子たちが一斉に騒ぎ出す。
とりあえずいい印象っぽいけど、これ以上広まるのも厄介だな……。
「あはは……ちょっとだけ、ね?」
あいまいにほほ笑む。早く話題変われ……!
と。ついに男子にまで話が届いてしまったらしく。
「え、お前王子のくせにお菓子作り? 似合わね~」
耳に入ってきたその言葉に。
入学式の時の気持ちが、蘇る。
「なんでよ~! ギャップ萌えって知らないの?」
「しらね!」
女子と男子が言い合う声が聞こえる。でも、そんなことは気にならなかった。
入学式のときだって、すごく悔しかった。でも今回はそれ以上だ。
ずっと支えられてきた、私の大好きな大好きなお菓子作りを似合わないといわれた。
そして私自身、彼の言葉を聞いて。お菓子作りを恥ずかしいと思ってしまったのだ。
私の根っこの部分を、みんなが、そして自分でも、否定してしまった。
目の前が真っ暗になって、でもそれでも、涙は見せられなかった。
真っ暗なまま放課後になって。家に帰ってお菓子を作ろうと思ったけど、お菓子に申し訳ない気がしてためらわれた。
校庭の桜の木の下で、ぼーっと自分の足元を見つめる。
涙が出そうになって、上を向いた。
私が泣いていいのは、キッチンの中だけ。でも、それすらも否定されちゃった。
こんなに最悪な気分なのに、どうしてもやっぱり、泣けなかった。泣いたら負けな気がした。何に対しての″負け“なのかすらわからないけれど。
……あれ、そもそも私、なんで泣かないようにしてたんだっけ。
――「王子、カッコイイねー!」
みんながカッコイイって言うから?
――「王子、たよりになるっ」
頼りにされるから?
でも。
――「王子~」
――「王子っ」
――「おーうーじー」
そんな、強い「王子」って「桜子」なの?
「王子」も確かに「桜子」のはずなのに、なんだか「王子」だけが独り歩きしているみたいだ。思えば、「桜子」って最後に呼ばれたの、いつだっけ……?
「……ははっ……」
乾いた声が、自分の唇から零れ落ちた。
笑える。「王子」が「桜子」を殺しちゃったみたい。
でもそれでも、私は「王子」をやめられない。「桜子」に戻れない。
なんで? ……あぁ、そうか。
――「似合わねぇ~‼ きも!」
怖いんだ。「桜子」を否定されるのが。
あーもう、私、全然強くないじゃん……。
そう思った瞬間、鼻の奥がツンとした。あ、泣いちゃう? 泣ける?
そう思ったけど、反射的に目に力を込めてしまう。流れるはずだった涙が、瞳を潤しただけで宙にとけていった。
……やっぱり私は「王子」に縋っちゃうんだな。
自嘲のため息を漏らし、ゆっくりと立ち上がる。
と、そのとき。
ドカッ!
「へっ?」
頭に衝撃を感じる。なに? 何が起きたの?
混乱する頭の中、数秒遅れてじーんと痛みを主張し始めたオデコ。
視界の隅で、サッカーボールがコロコロと転がる。
「すみません!」
ひとりの男の子が、こちらに駆けてきた。なるほど、その子が蹴ったボールが、私の頭に当たったらしい。
「ごめんなさい、ごめんなさい! 大丈夫ですか?」
近寄ってきた男の子が、ポカンと固まる。
――私が、泣いていたから。
「え? え? 泣くほど痛かったですか?! え、ごめんなさい!」
もう、もうもうもう、なんなの。生まれてからずっとずっと、キッチン以外で泣けなかったのに。こんなことで泣くなんて、泣けるなんて。ほんとに何なの?
くくっと喉から笑いがこみあげてくる。さっきとは違う、潤いをもってお腹から響く、でもどこか掠れた、そんな声。
桜の木の下、私は泣きながら笑っていた。
「どうしたんですか? え、壊れた? 頭打ちました?! え~?!」
慌てる男の子。壊れた人形のような、涙と笑みでちぐはぐな私。
滑稽すぎるその情景に、私はさらに笑いが止まらない。
あぁ、なんて気持ちいんだろう。声を出して泣いて、笑って。こんなに感情をむき出しにしたのは初めてだ。
イヤなキモチを『吐き出す』のって、『飲み込む』のと比べてこんなにもすっきりするんだな。
「ありがどっ」
顔を上げ、ぐちゃぐちゃな声のままでそう言うと。男の子はぽかんと固まって、それからふにゃっと笑った。
「えっと……ど、どういたしまして!」
彼の笑顔に、私も顔が綻んだ。
「あの。僕、相川凜です。センパイは?」
その問いに、私は満面の笑みで答える。
「桜子!」
さぁっと風が吹き、柔らかな桜の花びらがふわりと頬を撫でた。
――きっともう桜子は、大丈夫だ。