花子は今まで一人で買い物をしたことがなかった。
家を出るときは最低でも二人は護衛をつけなければならなかったので、それがたまらなく苦痛だった花子は自然と外へ出ることを諦めていた。
けれど今はそんなしきたりはどこにもない。
この男は二人で行こうと言うのだ。
未婚の男女が二人揃って外へ出るなど、他所の者が聞けばたちまち「なんと不埒な!」と目くじらを立てて怒り出すに違いない。はたまたご近所の奥様方の噂話のネタにされかねない。
しかし彼はそんな非常識とされることを平気な顔をして言いのけるので、花子は心の底からジワジワと笑顔になっていく。
明治も終わりごろの今、街は見る見る変化を遂げている。
花子はその風景の変り具合を楽しまずにはいられない。
「わたしが贔屓にしている仕立て屋だよ。ここで好きな服を買うといい。君はどうやらその着心地の悪い服を嫌っているようだからね」
「に、日記に書いていたことは忘れてくださいませ!」
「なぜ?あれこそ君の本心ではないの?むしろ君はあの日記に書いていたことを実現させるためにわたしの元へ来たのでは?」
そうかも、しれないけれど……と花子は下を向く。
あれは一種の夢物語に近かった。
花子の日記には、主に女性が主役になれる日が来る、そういった日本をつくりたいという旨の内容がほとんどだった。
《私がこれから自由になんでもしていいと言われたのなら、まずはこの堅苦しい洋服を禁止する。
次に、男性の機嫌をうかがい、いかなるときも男性を尊重し、敬うことだけが女性の仕事ではないと言いたい。
誰にでも海を渡る権利を言い渡し、無意味な舞踏会や夜会はすべて廃止にする。
自由でありたい。自由になりたい。
母からもらったあんなお色味の着物が似合う女性になどなりたくはない。自分の好みの色は自分で決められるように、自分の人生は自分で決められるようになりたい》
「紅掛空色、以外の色がいいのだったね」
「なっ!だからあれは違います!日記に書いていたことは単なる私の夢物語のようなものなのです!」
「へぇ、わたしはいいこと書いていると思ったのだけれどね」
花子の日用品から洋服まで、大量の荷物が入っている籠を持ちながら、男は花子に向かって平然とそう言った。
「これから先、もっともっと時代は変わっていくよ。そのとき、型にはまろうとしない君はきっと重宝されるだろうね」
花子の目は輝いていた。
そしてとなりを歩くこの男を、正幸さんを初めて尊敬した日であった。