街を茜に染め、闇を数滴混ぜたような濁った夕焼けが不気味さを残す。
闇は諜報員の少女――リーレニカの味方をしてくれる。
紫陽花を思わせる紫髪。瞳には琥珀を閉じ込めたような輝きを内包する、〝暗器〟を武装した少女。
ヴァイオレットカラーのスカートは、コウモリの両翼を広げたような装い。
彼女は路地裏を遁走する。
戦闘に戦闘を重ね蓄積した疲労を、アドレナリンで誤魔化していた。
『まずいな』
耳元に下げた、紫水晶を加工したような蝶の耳飾り――高位生命体の巣食う〈デバイス〉がそう漏らす。
Amaryllisと呼ばれる相棒の意図を知ったのは、リーレニカの足を止めさせる存在と対峙したためだった。
兵士然とした銀甲冑ではない。
表情を伺えない――狐の仮面。
薄い黒鉄を幾重にも重ねたような鋼鉄の仮面。それが立体的な狐面を形成している。目元が淡い薄緑の光を宿し、双眸は間違いなくリーレニカを捉えていた。
更に、全身の輪郭を誤魔化すように揺れ動く漆黒の蜃気楼。
得体の知れないヴェールに包まれている。
まるでリーレニカの得意とする隠密技術――〈帳〉のようだった。
「え……な、なんですか?」
生活ゴミを投棄する箱が追いやられた路地裏では、あまりにも窮屈な道幅。
無視するには素通りできる自然さはなく、引き返すにも背中を見せる愚行はできない。
怯えた一市民を演じる。通用するかは期待しない。出来ることは全てやる。
だが目の前の狐面は取り合うつもりなどないらしい。
「リーレニカだな」
名指しに、リーレニカは思わず目線を冷たくする。
――同業か。
うんざりしたのか、リーレニカはあからさまに目を回した。
『人気者じゃのう。小娘』
「誰ですか? 憲兵呼びますよ」
自分はあくまで何も知らない避難民だと主張する。間合いに入ってこない今、リーレニカから動いてやるつもりはなかった。
「通報は必要ない。兵舎まで着いてきてもらうだけだ」
「あなた騎士団の方なんですか? 兵証は持っています? あなたのような人が憲兵だとは思えませんが」
「憲兵ではない。知る必要も無い」
こいつ。
リーレニカは眉根を寄せる。
同業どころではない。
――ただの人間じゃない?
「――? 今、受けたのか?」
唐突に。
狐面がおかしなことを言う。
否、当然の反応を示していた。
狐面は今間違いなく攻撃をしたのだ。
大気を極限まで圧縮し、漆黒の蜃気楼によって隠された前触れなき超長距離打撃。その簡易技術。
言ってしまえば不意打ち。
十人が十人、予備動作を知覚する余暇を与えられることなく放たれる一撃必中の掌底――といったところか。
それを。
無意識のうちに受け流してしまった。
せめて偶然を装った受け身にすべきところだ。
「なんのことか――」
しまった、と。
口先は冷静を保ちながらも、後悔が顔に出てしまいそうになる。
リーレニカは殺気を知覚し、無意識に受け流したのだ。
少なくとも一般市民では起こり得ないこの結果を、相手は理解しようとしている。
この際構っていられない。
相手は明確な敵意を向けている。不気味な狐面は、その殺気を隠そうとしない。
ならばやるしかない。
『ネットワーク検索――完了。王都直属の工作員。部隊名称は〈夜狐〉。主な職務は諜報と憲兵の戦闘支援。また、指定犯罪者の暗殺』
工作員――王都御用達のエージェントか。
リーレニカ所属の組織ネットワークに割れているという事は、公認の部隊であることの裏付け。
こんな所で同業と会えるとは思ってもいなかったリーレニカは、馬鹿馬鹿しくてつい口角が上がってしまう。
――やはり同業か。仲良く出来そうにないな。
「この騒動だ。我々は迅速に事を治める義務がある」
狐面はリーレニカを捕らえるべき標的と見据えている。
初撃のやり取りで何者か見抜かれた。どころか、初めから市民とすら見られていなかったのかもしれない。
同業には同業にしか分からない所作がある。
さらに路地裏を好んで走る避難民。我ながら好き放題動いたものだと、リーレニカはため息をついた。
「抵抗は許そう。だが身の保証は期待するな」
「……『正当防衛』でいいんですね」
少しは手の内を晒して良いか。
腹を割って――叩きのめそう。
リーレニカのせせら笑う様子に、夜狐も仮面の裏で笑っているような気がした。
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――これはリーレニカが花屋の少女を演じてから三日後の一幕。
この時は、自分がここまで追い詰められるとは思いもしていなかった。