ミーンミーンミン……ジー……

うざったい暑さにセミの声が重なって、肌に纏わりつく汗により一層不快感を感じながら、僕こと新藤真央(しんどうまお)は自転車のペダルを漕ぐスピードを上げた。

今日はある目的のために僕は深くキャップを被りこのクソ暑い中、感染症予防でもないのにマスクをつけている。そして先ほど三十分かけて到着した隣町の本屋を僅か五分であとにした僕は真っ直ぐ自宅に向かって自転車を漕いでいた。

(買えてよかったな)

大通りにでた僕は隣を走る車が減速したのをみてゆっくりとブレーキを掛ける。車両用の信号は赤だ。僕はカゴの中の青いエコバックの眺めながら信号待ちをする。

──「初音(はつね)そのワンピどこの? かわいい~」
──「ありがと~、マオマオがSNSにアップしてたメイク画像からピーチフィズカラー気になってて」

そんな可愛らしい声が聞こえてきて、僕が何気に目を向ければ横断歩道を渡っていたのは同じクラスの市川初音(いちかわはつね)水野小春(みずのこはる)だった。

(やば……っ)

僕は咄嗟に俯くとアスファルトに自分の汗がポタンと落ちるのを見ながら一瞬呼吸を止めていた。

何も悪いことはしていない。
二人と仲が悪いわけでもないし苦手な訳でもない。
どちらといえば争いごとを嫌う僕は誰とでも仲良くできるし、中性的な見た目からクラスの男女からも割とよく話しかけられるほうだ。

おそらく僕が咄嗟にこんな反応を取ってしまうのは、カゴの中の青いエコバックに中身のせいだろう。

──誰にも知られてはいけない僕のたった一つの秘密

僕はエコバックから僅かに見えていたその角をエコバックで覆い直した。 

──「てか小春こそ、そのリップってKOSSEの新作だよね?」
──「さすが初音、アタシも初音に勧められて見たマオマオの画像でつい欲しくなっちゃって……」
──「マオマオのメイクってコスパ最強だし可愛いよねー」

二人の女子たちは仲良くおしゃべりに花を咲かせながら横断歩道を渡り切ると、今からショッピングモールにでもいくのかバス停に並ぶのが見えた。

(マジか……、まさか二人がマオマオのSNSを見てただなんて)

僕は走り出した車から数秒遅れて、またペダルを漕ぎ始める。何だかさっきよりもペダルが重く感じるのは何故だろうか。

(夏休みも明日までか……アレもまた暫くは週末しかできなくなるんだな)

僕は晴れ渡り雲一つない青空に不似合いなため息を吐きかけると、大通りから脇道に入り、公園の遊歩道へと入っていく。八月下旬の昼間だけあって歩いている人は見当たらない。

遊歩道は等間隔に植えられた木々のお陰で木陰が多い。僕は長めのマッシュヘアの黒髪を風に靡かせながら思い切り深呼吸を繰り返す。心の中のモヤを排出して新鮮な空気を胸いっぱい吸い込めば、自分の他人に見られたくない黒いものが少しだけ浄化されて呼吸がしやすくなってくる。

僕は僕がいま繰り返している日常に何の不満もない。人間関係もそれなりにうまくやっていて高校生活も満喫している方だろう。

でもいつだって呼吸がしづらい。うまく呼吸ができないときがしばしば訪れては、その時間が雪のように自分の心の中に積もって棲みついていつしか、ちゃんとした呼吸の仕方を忘れてしまったように思う。

(いつまでこんな気持ち抱えて……いつまで隠してればいいんだろう)

いつまで?そんな期限は一生訪れないのかもしれないと思うと僕の心はぐっと締め付けられる。

「やめやめ」

僕は自身の髪を突き抜けて撫でていく風に余計なモノを乗せて託してしまうかのように軽く頭を振った。

「気持ちー……」

そして僕は視線を上に上げ、青々と葉を茂らせる木々に目を細めると自転車を漕ぐスピードを緩めた。僕は植物にいたって興味なんてない。僕が思わず目を細めたのはその瑞々しい葉の色のせいだ。

「お。今年のトレンドカラーの中にライムグリーン入ってたよね」

今年の春・夏トレンドカラーは「ピーチファズ」「バターイエロー」「ライムグリーン」「スターホワイト」の四つ。トレンドカラーは美容業界やファッション業界など様々な分野で存在するのだが、僕の一番の興味は美容業界だ。ちなみにメイクの今年のトレンドカラーはブルー。

僕がその辺の男子高校生とは比べ物にならないくらいメイクに興味を持っていることは、母親及び幼馴染で僕の『特別』であるアイツでさえも知らない。

公園を抜け、緩い坂道をたち漕ぎで登り切れば母親の美恵と二人で暮らしている築三十年の日本家屋が見える。駅からは自転車で二十分と距離があるためその分家賃は格安で、少し小高い場所にある為、景色も空気もちょっとだけいいのが僕は気に入っていた。

「到着っと」

僕は裏庭へ続く扉を開けると母がせっせと手入れしている花壇の向日葵を見ながら、いつものように自転車を停めた。向日葵はすでに旬の時期を終え、花びらが下を向き始めている。

「今年はちゃんと種とれるといいけど」

昨年花が咲き終わった後の水やりが足らなかったようで、種が十分に育たなかったことを母が愚痴っていた。僕はあまり向日葵が好きじゃない。と言うよりも向日葵の終わりかけが好きじゃない。俯いた向日葵の姿が僕自身に重なるから。

「さてと」

僕は青いエコバックを手に持つと、そのまま裏口から自宅に入るが家の中はがらんとしていて静かだ。

(あれ、母さんどこ行ったんだろ)

見ればいつも玄関先にかけてある、母のお気に入りの向日葵のエコバックがなくなっている。

(買い物か、ちょうどいい)

僕は二階の自室に直行すると、すぐに紙袋の中から一冊の雑誌を取りだした。

──『NO・NON可愛いの大渋滞』と印字されているその雑誌には向日葵坂48のセンターを務める女の子が可愛らしいピーチフィズ柄のワンピースを着てウインクしている。

「あ、さっき市川さんが着てたワンピだ」

僕はそう言いながら表紙を捲ると、すぐにお目当てのメイクコーナーのページを開く。

「あった」

そこには秋先取りと書かれた、トレンドカラーを使った化粧品がずらりと並んでいる。

この雑誌は毎月一回発行される女子高生をターゲットとしたファッション雑誌で、おそらくクラスでいや、全国で毎月この雑誌を楽しみにしている男子高校生は僕含めてあとどのくらいいるのだろうか。そんなことを考え出すと、普段どこにでもいる男子高校生としての自分が何だか異質な存在に思えて呼吸しにくくなりそうになってくる。

「やめた、いいじゃん。誰に迷惑かけてないし……誰かに言うこともないんだしさ……」

語尾が少しだけ小さく寂しく聞こえたのは気のせいなんかじゃないが、僕は雑念を振り払うように小さく首を振ると、クローゼットの奥からメイク道具を取り出し机に並べていく。

「まずは洗顔シートで汗拭いて、化粧水で整えてっと」 

僕は慣れて手つきで下地を顔に塗るとパウダーファンデーションで肌の色を整える。そして鼻筋にハイライトをいれてから柔らかい曲線でアイブロウを施す。指の腹で優しく細かいラメがはいったホワイトブルーのアイシャドウを瞼全体に乗せてから茶色のアイライナーでまつ毛ギリギリにラインを引く。

「ふう……もうちょい。ここでこの間百均で買ったグリーンの出番だな」

僕は雑誌を元にメイクをしていくが、完コピはオリジナリティが皆無で面白くない。

「ブルーとグリーン使ってのメイクは僕が初めてかもな」

そう言うと僕はとろみがかった淡いグリーンを二重の三分の二ほどに色づけると指の腹で優しく先ほど塗ったホワイトブルーのアイシャドウとなじませていく。最後にダークブラウンのマスカラをまつ毛に塗り、リップライナーを使って淡いピーチファズ色の口紅を唇にのせた僕は、つい二十分ほど前の自分とすっかり変貌を遂げた自身の顔に両目をキラキラとさせた。

「うわ、めっちゃいいじゃん。目元の透け感ばっちし」

僕はスマホを床から拾い上げると、パシャパシャと自撮りをして半年ほど前から始めたSNSサイトへ投稿する。

──アカウント名は【マオマオ】。
プロフィール欄には現役男子高校生十八歳。メイクが趣味で秘密です。

たったそれだけを記載していて、あとはひたすら百均やプチプラのコスメを使ってトレンドのメイクを自己流で施したものを投稿している。誰にも内緒で唯一の趣味の発表の場だ。

いつもは週末、母親がいない隙を狙って投稿しているが夏休みとあって今月の投稿はすでにいつもの五倍は投稿してしまっている。
僕は身バレしないようにスマホの機能で髪色を変え、写真を撮る角度も真正面は避けている。

「あ、あぶな。忘れてた」

僕はスマホのシャッターを一度押してから慌てて左目の下にアイライナーでホクロを描いた。身バレ防止のため、ホクロがあるフリをしているのだが、こういうメイク動画や写真を上げる際、閲覧者は意外と隅々までよく見ているもので、僕が初めて投稿して翌日知らない人からの初めてのコメントが『可愛い~、ホクロもセクシー』ときたときは驚いた。

そんな過去のことを頭に過らせながら、僕が数枚写真を撮って、アップすればすぐにいいねが五つついた。

──『ブルー×グリーン素敵! 早速やりまーす』

「お、反応上々」

僕はリップを塗った唇を持ち上げると満面の笑みでスマホをのぞき込んだ。半年前、僕は悩みに悩んでXXに投稿を始めたのだが、二カ月ほど前に『紫陽花メイク』と題してブルーと紫のアイシャドウをベースに瞼の上を紫陽花に見立ててメイクした投稿が、運よく美容家をやっているインフルエンサーのいいねを貰いバズったのだ。

それ以来、わずか三人しかいなかった僕のフォロワーはたった一カ月で千三百人に増えた。嬉しい反面絶対に身バレしたくない僕にとっては複雑だったが、やっぱり自分の唯一の趣味であるメイクをより沢山の人に見て貰えて嬉しい気持ちの方が強かった。

「絶対バレないようにしなきゃ……僕の唯一……本当の自分をさらけ出せる場所……」

僕はボソリとそう言うと、机に座り直しメイク落としでメイクを落としていく。

このメイクを落とす時間が僕は一番苦痛だった。せっかくメイクをして自分らしさと満足感を得られたと思ってもそれは一瞬の魔法のようなものだ。絵本の中のシンデレラのように時間がくれば、ブレザーを身に纏い、平凡な男子高校生を演じている嘘で塗り固めた自分に戻らなければならないから。

いつからだろう。
自分がメイクというものに特別な感情を頂き、周囲の男子たちとは共有できないマイノリティな趣味を持っていることは、高校に上がるまでははっきりとはわからなかった。

ただ一度だけ、小学校の時に家に遊びに来た近所の女の子が持ってきた人型の人形の唇がやけに気になって、僕は衝動的にその人形の唇をマジックで赤く塗ったことがあった。 

女の子は大泣き、母親にもこっぴどく叱られた記憶がある。今思えばその時から、メイクをすることで自信の欲求を満たそうとする他人には理解できない何かが僕の中にはあったように思う。

そして高校一年生の春、まわりの同級生の女の子たちがメイクをするようになり、僕の中でずっと不透明で灰色に燻ぶっていた心の片隅の欲求は確信に変わった。

登校すれば自然と女の子ではなく女の子の持ち物に視線がいく。恋愛に興味なんてまるでない。クラスメイトの女の子たちの可愛いメイクポーチを見ては、家に帰ってどこのメーカーのものなのか検索したり、人気の化粧品の話題を耳にすればXXの動画や写真を何度も見てはひどく興奮した。

──『僕もやってみたい』

純粋にそう思った。今まで何かをやってみたいと思ったこともなければ特別興味を持ったこともなかった自分が初めて自らの意志でやりたいと思えたことがメイクをすることだった。

男がメイクなんて……そんな葛藤は数回繰り返すとすぐに消えた。高校一年生の春、変装した僕はお小遣いを持って買える範囲のもので化粧品を一式揃えると、母親の外出の時間を狙って一心不乱にメイクをした。

勿論アイラインだってジグザグだし、リップは唇からはみ出ている。マスカラだって上手に塗れなくて涙袋に何度もついた。けれど生まれた初めて「感動」を知った。

その命の喜びは「生きている」と僕が実感できる原動力として心臓に深く刻まれた。わずか数十分で綺麗に可愛くキラキラさせてくれるメイクは僕にとって魔法以外の何物でもなかった。

「でも僕の趣味がメイクだなんて……母さんにはさすがに言えないや」

僕が十歳の頃に離婚してから女手一つで育ててきた母には死ぬまで言えそうもない。そして、僕の唯一の親友と呼べる幼馴染の大切なアイツにも。

だからこうやって隠れて趣味を楽しむことにどこか罪悪感は拭えない。

「悪い事してるわけじゃないけどさ……」

僕はメイク道具を紺色のフリルのついたメイクボックスにすべて仕舞うと、やっぱりため息を一つ吐き出した。いつもそうだ。メイクをして気分が高揚して心が弾んで、メイクを取ると見慣れた素顔に空しさのような空っぽの感情がこみ上げてくる。

(この気持ちって何て言うんだろうな……)

その時だった──階下から母の呼ぶ声が聞こえてくる。

「真央ちゃーん、涼くん来たわよ~」

(えっ!!)

僕が慌ててメイク道具と雑誌を辛うじてクローゼットに押し込むのと、自室の扉が開くのがほぼ同時だった。

「おっす真央」

「りょ、涼介……」

突如として現れた幼馴染の松田涼介(まつだりょうすけ)を見て僕は思わず声が上ずった。秘密がバレそうになったのもあるが、涼介の髪色が茶髪からド派手なピンク色になっていたからだ。

「その髪」

「いいだろ、昨日染めた」

涼介が黒いTシャツにカーキ色のハーフパンツ姿で僕の自室に入って来ると、あっという間にベッドに腰かけた。

「あれ、涼介来るのって明日って……」

「ああ。ちょっと予定変更っつーか、親父と喧嘩したから逃げてきた」

「えっ、逃げてきたって。もしかして昨日LINEくれた、えと、進路のことで……喧嘩したの?」

「……まあな」

涼介は短いピンク色の髪をガシガシ掻くと、「マジでだりぃ」と言ってそのままボスンと僕のベッドに背中を預けた。涼介の耳には片耳に約十個ずつピアスが開けてあるのだが、右耳の軟骨あたりに一週間前に会ったときはなかったピアスがひとつ増えている。

(涼介のピアスまた増えてる……)

涼介は僕とは逆の父子家庭で育っていて、建設現場で働く父親とはあまりそりが合わないことを僕は知っている。

僕が離婚を機に母親とこの地に移り住んでたまたま斜め向かいの家が涼介の自宅だったということもあって、僕は同い年の涼介とすぐに打ち解けた。人見知りな僕をグイグイとリードしてくれ、天真爛漫な涼介から、僕は沢山の笑顔を貰った。涼介の笑顔は太陽みたいに明るくて、心が照らされてホッとして僕の全てを容認してくれるような温かさがある。僕の中で涼介が『特別』だと思う理由のひとつだ。

僕にとって涼介との出会いはこの世で唯一神様に感謝すべきことだ。
母さんが離婚しなかったら。
この地に引っ越してこなかったら。

この世はたらればの連続で成り立っているが、涼介との出会いだけは必然だったと言えるほどに、僕にとって涼介は誰よりも『特別』だ。
僕の隣にはいつだって涼介がいて気の置けない兄弟のような関係に僕は心から居心地よく感じていた。
今通っている自転車でここから十分の公立高校も涼介と同じで今年は同じクラスだ。
ただ一つだけ、涼介に嫌われたくなくて、軽蔑されたくなくて、到底理解されないであろう、あのことが言えないことだけが僕はずっと苦しい。

「……涼介、喧嘩って深刻な感じなの?」

「まぁまぁかな」

そう答えた涼介の口元を見て、僕は自身の二重の目を少し大きく開いた。

「あ、れ。唇のピアス……」

「うん。なんかスカッとしたいから先週バイト代でて速攻開けてきた。ついでに右耳も追加」

「そう、なんだ」

「いっつも耳ばっかでさ。そろそろ開けるとこねーの」

ははっと涼介が笑って、唇についているフープタイプのピアスがかすかに揺れるのを見ながら僕は表情を曇らせた。

(ピアス増やすときって……涼介が強いストレスを感じてるとき、だよね……)

はっきりと本人に聞いたわけでも確認したわけでもない。
でも僕にはわかるのだ。それだけ長い時間を僕らは共にしてきているのもあるし涼介の夢を知っているから。

──バンドマンを目指してる涼介がずっと高校を卒業したら東京に行きたがっていること。父親からは自分の働く建設会社で一緒に働けと言われていること。

(僕に出来ることがあればいいのに……)

涼介の抱えている黒いモノを共有するために僕も思い切って沢山ピアスを開けてみようか、なんてことが過ぎったこともあったが、そんなことをしても涼介は喜ばないと思った。それに何より涼介の大量に開けているピアスのことを、僕が真似することで彼の気持ちを共有どころか、なんだか涼介自身を否定しているような、うまくいえない気持ちになって結局できなかった。

「おいおいそんな顔すんなって。葬式みてぇじゃん。あとでゆっくり話すしさ。とりま俺今日、真央ん家泊まるから」

「えぇっ!!」

「美恵さんは全然いいてさ。それに高校最後の夏休みの思い出、男二人でお泊り会ってヤバくね?」

「い、いや……えっと。な、なんも用意してないのに」

「は? 女みたいなこと言うのな」

僕の言葉に涼介が大きな口を開けて笑うとベッドから起き上がった。

「てことで、美恵さんとこ行こ」

「え?」

「ここ来る前にちょうど坂道の手前で美恵さんに会ったらさ、夕飯コロッケらしくてさ。手伝ってくれたら好きなだけ食べていいよ、ってさ」

「僕に会いに来たの? コロッケ目当て?」

「両方に決まってんじゃん」

そう言うと涼介が扉を開き、いたずらっ子のような目を僕に向けながら階段を降り始めた。

※※

「あら、涼くん身長伸びた?」

「どうすかね、真央より高いのは確かですけど」

「わっ」

涼介が僕の頭のてっぺんに顎を乗せる。一八〇センチほどある長身の涼介と違って僕の身長は百六十七センチしかない。

「あれ? 真央は縮んだ?」

「縮むかよ! 涼介が伸びたんだろ!」

確かに夏休み前よりも睨み上げた涼介の顔が数センチ高くなってる気がする。

「てことで美恵さん、伸びたみたいっす」

「ふふ、私の見立て通りね〜」

「さすが美恵さんすよね」

「でしょ。真央ちゃんと涼くんのことなら、結構わかっちゃうのよね〜」

美恵がコロッケの付け合わせのキャベツをすりおろしている横で僕らはひたすらジャガイモの皮を剥いている。一畳ほどの狭いキッチンに男子高校生二人と母が並べば、身動きはほとんど取れない。

こうしてたわいない話をしながら三人でジャガイモを剥く姿は何とも滑稽だなと思いつつ、僕は全然嫌ではなかった。 

(久しぶりだな)

中学まではほぼ毎日のように涼介が家にご飯を食べに来ていたため、野菜の皮むきは主に僕と涼介の当番だった。

高校に入る少し前くらいからだろうか。僕は当たり前のように学校からの帰り道、夕食のメニューについて涼介に話を振ったりしたが涼介が夕食を食べにくる機会はぐっと減ってしまった為、こんな風に三人で料理をするのはかなり久しぶりだ。

「二人とも手、切らないでよ?」

「俺、ピーラーの達人なんで大丈夫っす」

「え? 涼介なに? ピーラーの達人って?」

「ん。見ろよ、俺のジャガイモの皮」

僕が左隣の涼介に言われて涼介の手元を見れば、ジャガイモの皮が漫画に出てくるようなリンゴの皮みたいに綺麗に繋がっている。

「うわっ、すご!」

「あら~、涼くんは見た目に寄らず手先が器用よね」

「美恵さん、褒めてんの? けなしてんの?」

「ふふふ、勿論褒めてるの。ねぇ、真央ちゃん」

僕は右隣で微笑んでいる母にむかって口を尖らせた。

「母さんいい加減、涼介の前ではちゃん付けやめてよ、恥ずかしいって」

「なによ今更」

「だな。別に俺も真央ちゃんって呼んでやってもいいけど」

「涼介!」

二人の明るい笑い声が僕の心の中に小さな幸せとなって降り注ぐ。

(このかんじ……いいな)

(ずっと……続けばいいのに)

でも半年後、涼介は東京に行く。自分の隣から涼介がいなくなってしまう現実がもうカウントダウンに入っていることを告げるように僕の胸はズキンと痛んだ。

※※

久しぶりの三人での夕食は話が弾んだ。母は涼介のバンド活動のことや卒業後は東京にいく話を何度も頷きながら聞いては、「涼くん、いつでも帰ってきてね」とあの涼介が困るほど繰り返した。

きっと母にとって幼い頃から見て知っていて可愛がっている涼介のことは我が子同然なんだろう。楽しい食事の時間は終始笑い声に包まれてあっという間に過ぎ去った。そして僕らは美恵が洗濯物を畳んでいる間に二人で洗い物を終えると、母に言われて風呂場へと向かった。


「あー、腹いっぱい。マジでもうなんも食えねぇ」

「涼介コロッケ八個って過去最高記録じゃない?!」

「真央はもっと食え。コロッケ三個じゃ大きくなれねぇぞ」

「うっせ。って、はい」

僕が脱衣所で涼介にバスタオルを手渡すと、涼介がそれを受け取りながら着ているTシャツの裾を片方の手でまくり上げた。

涼介はバンド活動をしながら、建設現場の日雇いのアルバイトをしているため、腹筋は綺麗にいくつものラインが入っている。

「なに? 俺の腹筋ジロジロみて。やーらし」

「ば、ばか違うし。バイト頑張ってんだなって」

「ふうん」

「じゃあ、あがったら声かけて」

そう言って僕が脱衣所をあとにしようとすれば涼介の大きな手が僕の手首を掴んだ。

「っ!!」

「真央どこいくんだよ」

「は?! どこって涼介風呂入るから出るんでしょ?!」

「たまには一緒にはいろーぜ」

「な……っ」

冗談かと思って涼介の顔を見たが涼介は不貞腐れたように唇を尖らせている。

「なんだよ。中学まで一緒に入ってたじゃん」

「そ、それは中学んときの話じゃん?!」

「男子高校生は二人で風呂入っちゃダメなわけ?」

「な、なんでそういう話になんだよっ」

涼介は目の前の僕のことを気にも留めずTシャツもハーフパンツもあっという間にぽいと脱ぎ捨てる。

「ちょ、待っ……っ」

「なに? 真央も早く脱げよ。それとも脱がしてやろっか?」

僕は戸惑っている僕をニヤニヤしながら見ている涼介をキッと睨みつけて見せるが、涼介はなんてことない顔で最後にボクサーパンツを脱ぎ捨てると浴室の扉をガラッと開けた。

「はやくこいよ。夏休み最後。それに多分最後の風呂かもだしな」

(多分? 最後?)

そう言うと涼介はいたずらっ子のような笑みを僕に向けてから浴室扉を閉めた。

昔からだ。こういう強引で我儘な涼介の振る舞いは変わらない。脱衣所に残された僕は自身の黒髪をくしゃっと握った。


「……たく。最後とか言うなよ……」

ずっと当たり前にこれからも僕の隣には涼介がいるなんてことあり得ないのに、そうだったらいいなと思っていた自分は確かに存在していて、涼介と何かをすることが『最後になること』がこれから増えていくと思うと寂しさを感じられずにはいられない。

(あと半年でバラバラか……)

僕は勉強はできる方で、夏が終われば指定校推薦で地元の私立大学の経済学部に進学するつもりだ。夏休みに入って僕がそのことを母に伝えたとき、母は勿論、喜んでくれた。

(いいよね。これで)

僕は棚からバスタオルをもう一つ取りだすと服を脱ぎ、涼介の待つ浴室の扉を開けた。

「おっそ」

「ごめん、もう洗った?」

「このとおり」

「はや」

「どうも」

涼介は濡髪の水滴を雑に手のひらで払うと湯船の端に肩ひじをついたまま天井を見上げた。僕は身体をお湯で流すと、涼介が開けてくれた湯船のスペースに座った。

「変わんねぇな。その浸かり方、てか座り方」

「え? 浸かり方? そんなんあるの?」 

「あるだろ、真央って気づいてないかもだけどいっつも三角座りするよな」 

そう言われて湯船の中の自身を見れば、僕の両足を抱え込むようにして三角座りと呼ばれる座り方をしていた。

「ん? ほんとだ。自分ではあんま意識してなかったけど……それよりもさ。狭いよね」

「あはは、だな」

涼介と一緒に入るのはかなり久しぶりだがお互いの身体はちゃんと大きくなっているようで、狭い湯船は男子高校生二人が入ると、どうしても身体のあちこちが触れあってしまう。

(身体だけ大きくなっても、心はずっとおんなじだ……)

僕は結局、誰にも言えず誰にも理解されがたい趣味によって自分という存在は過去にも未来にも行けずにその場にずっと立ちすくんでるような気になってしまう。僕は両手で湯船のお湯を掬うと、雑念を振り払うように顔をバシャバシャと洗った。

「お。綺麗に洗えたじゃん」

「なにそれ。この状況でほかに言うことないの?」

涼介のいつもの揶揄いに視線を上げれば、涼介の首筋から上腕筋二頭筋まで雫が垂れていくのが見えて僕の心臓がきゅっとなった。

そして僕はなぜだか涼介の身体を直視できなくて向かい合って座っている湯船の中で、顔だけ洗い場の方に向けた。

(なんだこれ……)

理由は分からないが僕の顔は火が出たように熱い。心臓だってなぜだか運動してるかのように速い。そんな僕に気づいてるはずの涼介が何も言わないから余計に恥ずかしくなってくる。数分の無言のあと、静かに言葉を吐きだしたのは涼介の方だった。

「──真央、痕残ったな」

「え?」

ふいに涼介から発せられた言葉に一瞬理解が追い付かなかったが、涼介の視線が向けられているのは僕の右太ももの付け根あたりにある火傷の痕だ。

中学生の時、母がたまたま仕事が遅くなり、僕と涼介は二人でラーメンを作ったことがあった。ほうれん草と卵を乗っけて仕上がりは上々。そしていざ食べようと涼介が鍋からラーメン鉢によそう際、スープをこぼしてしまい、それが僕の太ももにかかってしまったのだ。

「……俺のせいで一生消えない痕ついたなって」

十円玉くらいのケロイドの痕に切れ長の目を向けながら涼介が苦笑いする。

(そうか。そういうことか)

僕は両の掌で水鉄砲の形を作ると涼介に向かって勢いよくパシャンと水を掛けた。

「わっ……! なんだよっ!」

「あはは。涼介って変なとこ気にするよね。僕にとってこの火傷見るたび、涼介と食べたあのラーメン美味しかったなって」

「……お前な」

(やっぱ、あたりか……)

涼介は遠慮して家にご飯を食べに来なくなったんじゃなくて、僕のことを傷つけたことを後悔した涼介はあえて家に来なくなったんだと気づく。たかが料理中の小さな不注意。ワザとじゃないし、僕にとっては気にも留めてないことだったのに。

そんな僕の知らないところで涼介にとってはそれがトラウマになってただなんて、もっと早く気づくことはできなかったんだろうか。今更この場で聞いてみようか。いや僕が真面目に聞いてたとしても涼介は恐らくはぐらかして答えてくれないだろう。

(そうだよな。涼介って……そういうやつだってわかってたのに)

後悔はいつだって遅れてやって来る。僕は心の中に浮かんだいろんなことの中から一番大事な言葉を選んで口から吐き出した。

「ねぇ涼介。明日からもっと家きて。一緒にご飯たべよ?」

「なんだよ。急に」

「だってさ。半年したらいつも一緒じゃなくなるじゃん。これから僕と涼介が一緒にする何かがどんどん最後になっていくんだよ」

「でもそれが大人になるってことだろ」

「そうかもしれない。でもできるだけ涼介と子供を楽しみたい。一緒にいたい。僕にとって涼介は『特別』だから」

僕が「えへへ」と照れ笑いすれば、涼介が頬を染めたような気がした。

「あれ、涼介顔赤い?」

「真央のせいでのぼせたんだよっ」

「だよね。次はもっと早く入るね」

「はぁ?!」

「思ったより一緒のお風呂楽しかったなって。またはいろ?」

「…………」

涼介は返事もせずにザバッと勢いよく湯船から立ち上がると、僕から顔を背けたまま浴室に手をかけた。そして扉を開けながらぶっきらぼうに「考えとく」と呟いた。


今日は雲が少なく自室の窓からは星が良く見える。仄かな光を放つ月の光に寄りそうように宝石の粒子をまき散らしたような星空を見上げながら、僕がベッドの下にお客様用の布団を敷き終われば、歯磨きを終えた涼介が部屋に入って来た。

「あー。すっきり」

「あれ。僕のTシャツやっぱ、ちっちゃい?」

「まぁ、Mだから小さめだけど寝るだけだしな。さんきゅ」

「どういたしまして」

涼介がゴロンと布団に寝転がるのをみながら、僕はメイクに関する物が涼介の目に入る範囲のところにないことをさっと確認してから電気を消す。

「やば。気持ち。布団いい匂いだし」

「だね」

「あ、てか真央。俺の枕取っていい?」

僕は涼介の言葉に随分前に涼介が置き去りにしたままのグレーのカバーがついた枕のことを思い出す。

「うん、あれ。どこ置いたっけ? アレずっと洗ってないし下、取りにいってくるよ」

「いやいい。てかここ入れた」

(??)

そう言うと涼介が迷わずクローゼットの引き戸に手にかける。

(あ、やば!!)

「待って!!」

僕は慌ててベッドから起き上がって涼介に駆け寄ろうとしたが、タオルケットに足を引っかけて涼介の布団の上に転げ落ちた。

それと同時にクローゼットの扉が開き、雑に押し込んでいただけのメイク道具と雑誌が一気に雪崩を起こして床に散らばった。

「あ……」

声が上手く出ない。早くそれは友達に頼まれてとか預かってとか何でもいいから否定しなきゃいけないのに。声が出ない。うまい言い訳なんて、なにひとつ浮かんできやしない。

「……ご、……ごめ」 

頭が真っ白で反射的に謝罪の言葉を吐きだした僕は慌てて床に散らばっているメイク道具を拾い上げていく。

(どうしよう。どうしよう。どうしよう)

いま涼介がどんな顔をしてるのか怖くて見ることなんて到底できない。カチャカチャとメイク道具を拾う音だけがやけに響く。僕の心臓はバクバクと大きく音を立てて、もうすぐ止まってしまいそうなほどに苦しくて痛い。痛くてたまらない。

僕の背中には嫌な汗がつっと流れて指先は小さく震えていた。

まだ涼介がクローゼットを開けてメイク道具が散らばってから十秒ほどだ。それなのに涼介との無言の時間が怖くて今すぐ逃げ出したい。消えてしまいたい。

僕の唯一の大事な『特別』には絶対に知られたくなかったのに。 


「──いいじゃん」

(……え?)

「真央のだろ」

涼介がついさっきまでと何も変わらない声でそう言うと、女の子向けのファッション雑誌やメイク雑誌を手早く纏め、手が止まってる僕を気にすることなくメイク道具を拾い上げていく。

(なんで。なんで……)

僕の頭の中はすぐに疑問でいっぱいになる。

「真央?」

そう言うと涼介が僕の肩に触れて、身体が小さく跳ねた。涼介は構わず、そっと僕の顔をのぞき込む。

「見、ないで……」

「なんで?」

「気持ち……悪いから……」

「誰が、んなこといった?」

「え……?」

思わず僕が涼介の切れ長の目を見つめれば、涼介が困ったように笑った。

「知ってたんだ。だからいつ言ってくれんのかなって」

「ど、いうこと……」

理解が追い付かない。わからない。ずっと誰にも言えずに隠れてメイクをしていた僕のことをなぜ涼介が知っているのか、なんでそんな優しい目で僕のことを見ているのかも。

「夏休み入ってすぐだったかな。俺バイトの昼飯担当で買い出し行くときに偶然、真央見かけたんだ。俺が前にあげたキャップだったからマスクつけててもすぐわかってさ」

「…………」

「……声かけようと思ったんだけど、真央が鏡見ながら一生懸命化粧品選んでたから……ごめん。声かけなかった」

「う、ん……」

じんわりと目の奥が熱くなってくる。
涼介にだけは知られたくなかった。

ずっと一緒に兄弟みたいに育った幼馴染が陰でこっそりメイクしてたなんて、そう簡単に受け入れられないはずだ。

「ごめ……涼介……ごめん……っ」

自分が酷く汚らわしいものに思えてきて、僕は頬をつたった涙を手の甲で雑に拭った。

「ごめんね……僕……っ」

「違う。謝んの俺だわ。ごめんな真央」

「りょ……すけ?」

「だってそうだろ? ずっと誰にも言えずに俺にさえも言えずにさ……しんどかっただろ」

「僕のこと……気持ち悪くないの? メイクで綺麗になることが嬉しくて誰かに見てほしくてSNSとか……あっ……」

余計な事まで口走った僕を見ながら、涼介が興味深そうに僕を見つめた。

「お。SNSやってんだ?」

「な、んだよそれ、茶化さないで……僕の話聞いてる?」

「聞いてるし。俺は真央のこと気持ち悪いとか思ったことないし、これからも思わない、一生な」

そう言うと涼介が僕の頭の上にポンと手のひらを置いた。

「真央は真央。俺の中で真央は『特別』なやつに変わりない」

「そんなの……僕だってそうだよ」

「うん。嬉しい。てかさ俺には何でも言って? あと何でも聞けば? 真央の話ならいつだってちゃんと聞くし聞かれたら真央にだけは全部言う」

「何だよ……なんかズルい……」

「なにが? ……お、あったあった」

涼介がメイク道具を綺麗に片付けると、クローゼットの一番奥からグレーの枕を取りだした。

「あ……えと、いつからそこに置いてたの?」

「わかんないけど、なんか真央の匂いすんな」

「えっ……」

「あ、いい意味な。ほら、隣どうぞ」

ククっと笑いながら涼介が枕を敷いてゴロンと横になるのをみて、僕も涼介の隣に寝転んだ。そっと目だけで涼介の方を見上げればピアスだらけの右耳が見える。このピアスの数だけ涼介は何度眠れない夜を過ごしたんだろうか。

「……真央のそれなぁ。ずっと気になってたんだけど? いい加減聞けば?」

「え……?」

涼介の言葉を僕は二度頭に浮かべた。そして涼介が言っている、それというのが僕の視線だと理解した。

「えっと……うん」

「はい、どーぞ」

「あのさ……涼介は……どうしてピアス開けるの?」

「……まぁ、ほぼ真央が想像してる通りだけどな。俺、嫌な事あると痛みと引き換えるっていうか色んな事に耐えた勲章っていうかさ。こうやって穴開けることで欲求解放してんの」

「欲求解放?」

「そう。俺は親父とあんま上手くいってないし、俺なりに母親いない寂しさもあってさ。なんかどうにも変えられない現実や自分が置かれてる状況を痛みで相殺するっていうかー……」

「…………」

「なんだろうな。俺もあんまわかんないけど、まぁ簡単に言えば大多数には到底理解できない(へき)だな、うん」

あっけらかんと話す涼介を見ながら、僕はやっぱり胸がチクンとした。涼介の心の傷や悩みを知っているのに自分には何もできないから。

「ごめんね。せっかく話してくれたのに僕には何もできなくて」

「ん? してくれてんじゃん」

「え? なにを?」

「ちゃんと聞いてくれた。あとそんな変な癖持ってる俺のことヤバい奴とか思わずになんとか理解しようとまでしてくれてる」

「そんなの当たり前だよっ! 涼介は涼介だよ! 僕にとってずっと変わんない『特別』なんだからっ」

「俺らって両想いだな」

「なっ……」

涼介が面食らった僕の額をツンと弾くと、ポンと枕を天井に向かって頬り投げた。グレーの枕が一秒ほど宙を舞ってすぐに涼介の手元に戻って来る。

「ちなみに真央は男と女どっちが好き?」

「なっ……ゴホッ」

思ってもみなかった涼介の突然の質問に僕は思い切りむせた。

「ほら、今日はお泊り会。お泊り会と言えばボーイズトークっしょ」

「なに急に。ガールズトークみたいなノリやめてよ」

「いいじゃん、で?」

「えと……正直考えたことなかった……僕メイクするのが好きなだけでその女装したいとかなくて……恋愛もしたことないからわかんないし。今んとこ興味ないし。あれ、そう考えたら僕って恋愛対象? ないのかも」

僕は首を捻ると隣の涼介の返事を待った。

「へぇ、恋愛対象無いとか新鮮だわ」

「涼介は女の子でしょ?」

「いや。わかんない」

「え? わかんない?」

はっきり言って涼介は間違いなくイケメンの部類に入る見た目をしている。奇抜な髪色に大量のピアスのせいで、強面に見えるが心根が優しく面倒見もいいし、一度約束したことは何があっても守る律義さもある。

なので当然、涼介は女の子から告白されることも多く、僕が知っているだけでも高校に入ってから七人以上と付き合っている。どの子とも長続きはしなかったけれど。

「これ真央にだけ言うけどさ。女と付き合ってても満たされねぇんだよな。俺、男が好きなのかな」

「ええっ?!!」

「いや知らんけど。女しか付き合ったことねぇからな。かといって男と付き合ってみるって言ってもそんな簡単に付き合ってくれる相手まわりにいねぇしな。なんか恋愛とか趣味とか性癖とか嗜好とかってムズイんだよ、俺にとっては」

「それはすっごいわかる」

「お、わかってくれんの」

「僕だってそうだもん。さっきも言ったけどメイクは好きだけど、女装したい訳じゃないから。僕にとってメイクすることが、さっき涼介が言ってた欲求解放なんだと思う。できればメイクして外歩きたいって思うけど、恰好男で顔だけメイクバッチリってさ、そんなのチグハグすぎて周りの視線怖くて。だから隠すしかなくてさ」

僕の言葉を聞いていた涼介が枕の下で腕を組んだ。

「んー。そもそもさ、なんでマイノリティだからって隠さなきゃいけないわけ?」

「あ、うん。そう言われたら……」

「法律で決められてるわけでもないし、犯罪行為でもない、メイクしていいのは女だけだなんて決めつけてんのは、大多数の顔も知らないどっかの誰かだろ」

涼介が首を少し窓のほうに向かって傾けると長い指先で窓の外の星を指さした。

「あの無数の星もさ。ほとんどが同じように見えるけど、なかには一等星とか勝手に名前つけられてひときわ明るく輝いてんのあんじゃん。でも実は一等星って星たちの中では浮いてるかもしんねぇしな。そもそもあの一等星だってマイノリティなんだよな」

(一等星もマイノリティ……)

「マイノリティって呼ばれる奴が輝いたっていいじゃん。輝きたいって、自分の人生思い通りに生きてみたいって想うの俺は間違ってないと思う。浮いたって、指さされたって、なじられたってさ。誰か一人にわかっててもらえたらそれでいいじゃん。俺は真央のその一人でありたい」

僕はまたこみ上げてきそうになる熱いものを無理やり喉の奥に引っ込めた。涼介を困らせたくないから。涼介は僕が泣くのを見るのが苦手だって知ってるから。

「ありがとう」

「おう、どういたしまして」

そう言うと涼介がふいに身体を起こすと胡坐をかいた。僕もつられるようにして起き上がると三角座りをする。

「急にどしたの……涼介」

「今日はもう一個。大事なこと言いに来たんだよね」

「え?」

涼介が真面目な顔で僕の目を射抜くように見つめる。その真剣な目に心が騒がしくなる。

「真央はメイクの専門行くべきだと思う」

(──!)

「なんで……」

「夏終わったら本格的に進路決めて行かなきゃいかなくなる。真央のやりたいことってほんとに大学行って経済学、学ぶことかよ」

「それは……ほんとは僕だって行ってみたい……メイクのこともっと知りたいでも……」

「美恵さんに素直に言えば良いじゃん。あんな他人の俺にさえも無条件で愛情注いで、我が子のように接してくれる、でっかい愛情もってて肝座った人、何でも受け止めてくれる。わかってくれる」

「…………」

僕だって何度も何度も迷った。数えきれないほどに悩んで、何度も言いだそうか切り出そうか葛藤した結果が大学への進学だ。

「言えないよ……だって母さんは僕には普通に大学出て普通に働いて欲しいって思ってるから。きっと母さんにとって普通の僕が一番嬉しいから」

「ガチでそう思ってんならバカだな」

「え?」

「それは真央が勝手に思ってるだけだよな? 美恵さんに話しても聞いてもないのに勝手に決められて美恵さんもいい迷惑だと思わねぇ?」

「…………」

「真央の悪い癖だな。誰かの心に寄りそえるのが真央のいいとこだけど、肝心なときくらい自分優先しろよ。あと何でも思ってるだけじゃわかんない。言葉にしなきゃ伝わんない」

「涼介……」

「伝える努力は怠んな。てことで……」

涼介が布団の脇に置いていたスマホがブルッと震える。涼介が予約していたらしきアラームをさっと止めると僕の目を真っすぐに見つめた。

「さっきまでの言葉全部が半年後に真央の横に居られなくなる俺からの誕生日プレゼント」

(あ……)

「誕生日おめでとう、真央」

「涼介……」

僕は制御できずに流れた涙を隠すように涼介の枕を手にとって、ぎゅっと目頭に押しつけた。
そしてできるだけ声が涙声にならないように少し大きめの声で笑った。

「ありがとう! あ、えっと……その、すっかり忘れてた」

「ははっ、だろうな。美恵さんは明日、あ、今日か、ケーキ焼くって張り切ってたぞ」

「……ありがたいね」

「そう、親への感謝の気持ちも忘れんなよ。俺もあんな親父だけど一生懸命働いて衣食住用意してくれて、高校出してくれることは感謝してもしきれない」

「おじさん、涼介の夢……わかってくれるといいね」

「さあな。期待はしてねぇし。でもどんなに反対されても俺は行く。後悔したくないから。それに親子の縁は一生だしな」

「僕らの縁もね」

「だな」

涼介の笑顔に僕の心の中にずっと燻ぶってこびり付いていたものが、さっと塗り替えられていく。

「じゃあ、寝るか」

「だね」

涼介が再び寝転ぶと唇を引き上げながら目を瞑る。僕もすぐ隣に寝転んだ。

「涼介……僕いままでずっと言えてなかったけど、涼介の笑顔好きだよ。おやすみ」

「…………お前な」

そう言うと涼介が手のひらで口元を覆っているのが見えた。

「え? なに?」

「いまなんか知んないけど、めちゃくちゃ恥ずかしかっただろうが。どうしてくれんの?」

確かにいつもポーカーフェイスの涼介の顔は月明かりだけが差し込む部屋でもわかるくらいに赤く染まっている。

「可愛い」

「誰に言ってんだよっ」

僕らは顔を見合わせると暫く笑い合ってから、一つの布団で眠りについた。

※※

「真央ちゃん、お誕生日おめでとう!」

「ありがとう」

僕は母に向かってはにかむと、『HAPPY BIRTHDAY MAO』とチョコペンで書かれたチーズケーキの上に立てられた、大きなロウソク一本と小さなロウソク八本を吹き消した。すぐに母が笑顔で僕に向かって拍手をする。

「なんか……照れるな」

「ふふ、毎年真央ちゃんそう言ってるわよ」

母がまだ煙が立っているロウソクをチーズケーキから取り出すとケーキナイフを手に持った。

「涼くんも食べていけばよかったのにね」

「うん。でもバイトあるって言ってたから」 

涼介は僕らと朝ごはんを一緒に食べると、律儀に洗い物をしてから斜め向かいの自宅へと帰っていった。午後から夏休み最後のバイトが入ってるらしい。

(ちゃんと言えるかな……)

母がチーズケーキを切り分けるとお皿にのせて僕に差し出した。

「ありがとう」

「じゃあ食べましょっか」

「あ、うん……そ、その前にさ」

僕はグラスの中のカルピスで口内を湿らせると、両手を膝に置いて母を見つめた。あまり時間が経てば経つほど決心はすぐに鈍りそうになってくる。

「あの母さん……話あるんだけど……」

「あら、どうしたの? 改まって」

「うん、……」

(大丈夫。大丈夫。言える)

呪文のように僕は心の中でそう繰り返す。

(言葉にしなきゃ伝わんない……伝える努力を怠るな……)

僕はごくんと唾を飲み込むと、静かに口を開いた。

「僕さ……大学じゃなくて……専門学校行きたい……メ、イクの学校……」

自分で思っていたよりもずっと掠れて弱弱しい声だった。それでも吐き出してしまえば吐き出す前よりもずっとずっと呼吸がラクになった。

でも母の顔を見る勇気までは残ってない。僕は母からもチーズケーキからも目を逸らしたまま膝小僧を見つめた。

「顔をあげて?」

優しい母の声に僕は唇を噛み締めたまま、ゴクリと唾を飲み込んでからそっと顔をあげる。すると直ぐに母の笑顔が見えた。

「わかったわ」

(──!)

「真央ちゃんのやりたいことを母さんは応援する。またどの学校に行きたいか資料取り寄せたら教えて」

「え? あの、そ、の……いいの?」

「えぇ勿論よ。それに……ずっと真央ちゃんが……メイクに興味を持ってること母さん知ってたの」

「えっ?!」

驚きの声を上げた僕を見ながら母が申し訳なさそうに肩をすくめた。

「ごめんなさい……じつは半年ほど前……たまには空気の入れ替えしとこうと思って真央ちゃんの部屋のクローゼット開けたとき……端っこに雑誌みつけちゃって」

「そ、だったんだ……」

僕がどうしていいのか分からずに視線を泳がせる。母さんはどう思ったんだろう。息子の僕がメイクに興味があるって知った時。

「そのときね。思い出したの……真央ちゃんがあとにも先にもたった一度だけした悪戯のこと」

「え? 悪戯?」

「かなり昔、近所のお友達がうちにお人形持って遊びにきたこと覚えてない? そのお人形の口元を真央ちゃんが赤いマーカーで塗ったことがあって……その時は頭ごなしに怒ったこと思い出して……でも悪戯じゃなかったのよね」

「…………」


「もしあの時……決めつけずにちゃんと聞いてあげられてたら、真央ちゃんメイクのことすぐに母さんに言えたのかなって……」

「母さんも……あの時のこと覚えてたんだね」

「当たり前でしょ。真央ちゃんの母さんよ。今思えば本当……当時落書きも悪戯もしなかった真央ちゃんがどうしてああしたのかちゃんと聞くべきだった。真央ちゃんの気持ちを聞かなかったことすごく後悔したわ」

「母さんが……そんなふうに思わなくてもいいんだ」

「でも……」

「だって多分その時聞かれても僕答えられなかったと思う。僕自身もずっとわからなかったから……。なんでメイクに興味あるのか、メイクしたら満たされるのかとか……でも言えなくて。恥ずかしく、ない? 普通じゃない……こんな男でも女でもない僕」

僕の震えた声を聞き終えると母がすぐに首を振った。

「恥ずかしいなんて思うわけない。むしろ真央らしく真央がいきいきと人生を歩んでくれるのがお母さんの幸せだから」

「母さん……」

「何が普通かなんてそんなの大多数の人たちが決めたただの一つの物差し過ぎない。人は寂しい生き物だからつい大多数に安心しちゃうの。だからと言って、少数の人たちが生きづらさを感じるなんてあってはいけないの。真央はメイクに興味がある自分をもっと認めて大事にして欲しい。母さんは真央のいつだって味方よ」

「……ふ……ひっく……ごめ……」

僕の両目からは重力にそってボロボロ涙の粒が転がっていく。母さんの前で泣くなんていつぶりだろうか。母さんが大好きだから困らせたくなくて、思い返せば母さんの前で泣いたことはほとんどなかったかもしれない。

「泣かないで真央」

「だって……」

僕は母が差し出したティッシュの箱から数枚ティッシュを取り出すと目じりに押し当てる。押し当てた瞼は熱を持っていて、こらえたくても涙はなかなか止まってくれない。

どのくらい泣いただろう。何も言わずに僕に寄り添ってくれていた母がふいに口を開いた。


「……ねぇ真央ちゃん。今度メイク教えてくれない?」

「え……ど、んなメイク?」

僕は咄嗟にそう答えると、目頭からティッシュを引き剥がした。

「んーとね。五十代が四十代に見えるメイクとか」

母は顎に人差し指を当てたまま、視線を空に泳がせている。

「あとは、いまKOSSE? とかいう口紅のCMに出てる女優さんとか?」

「……待って、あの子二十代じゃん」

「さすがの私の美貌でも無理があるかしら?」

そう言って小首を傾げると母がふふっと笑う。僕はそのいつもの母の笑顔にホッとする。今日は僕の十八回目の誕生日。変わらない母の笑顔が嬉しくて、くすぐったくて母の息子に生まれて良かったと心の底からそう思う。

「しょうがないなぁ……若返りメイク探しとくね」

「あら、嬉しい! 真央ちゃん大好き」

「大……、ちょ……さすがにハズいって」

いつのまにか涙は止まっていて、僕は微笑んでいる母に微笑み返す。

「さ、食べましょっか」

「うん、いただきますっ」

僕は元気よくそう言うと、母が焼いてくれた愛情たっぷりのチーズケーキを口いっぱいに頬張った。

※※

今日から新学期──僕はいつもよりずっと早く起きると何度も迷って、朝が苦手な涼介を叩き起こして電話で三十分以上、話を聞いてもらってから自室の机の前にメイク道具を並べた。

「僕らしく……メイクは恥ずかしいことじゃないもんね……」

僕が言葉に出したのはついさっき電話を切る前に涼介に言われた言葉だった。ずっとメイクをして外出してみたいと思っていた。なのに決心したそばからすぐに弱い僕の心は後ろを向きそうになる。

「……いいじゃん。みんなから白い目で見られたって……母さんと涼介だけはわかってくれてる。それ以上は欲張りじゃん」

僕は言い聞かせるようにそう言うと、化粧水をコットンに含ませメイクを始めた。

鏡で自分の顔を五度見してから階下におりるとすでに仕事に出た母の姿はない。僕は冷蔵庫からサラダを取り出し、ラップをかけてある鮭おにぎりを頬張る。

「ん?」

テーブルの上には『真央ちゃんへ』と書かれた母の手書きのメモが置いてあるのが見えた。

『真央ちゃんへ おはよう。メイクは上手にできたかしら? 帰ってきたら母さんにも見せてね。楽しみにしてるわね。今日からもっと真央ちゃんらしくね』

僕は昨日、寝る前に母にはメイクをして学校に行こうと思っている旨を話したのだ。母は勿論僕を後押ししてくれた。

「さすが僕の母さんだな」

けれど母はわかってくれていた。メイクをして学校へ行く。生まれた性別が女の子なら当たり前なのかもしれないが、男の子がメイクをして学校へ行くのは当たり前ではないのを僕だって理解している。

当たり前を覆すのは相当の勇気と覚悟が必要だから。

「ご馳走様でした」

僕は母のメモを大事に畳んで制服のズボンのポケットに仕舞うと歯磨きを済ませて自転車に跨った。

まだ登校時間にはだいぶ早い。僕はメイクした顔をマスクで覆った状態で教室にたどり着くと、ようやくマスクを外した。

(どうしよう……もう後戻りできない)

ここに来るまでも自転車といえ、信号待ちで見知らぬ数人の視線が何だか痛く突き刺さる感じがした。

僕に耐えられるだろうか。
他人から向けられる興味本位や奇異の視線に。

(まだ早かったかも……学校にメイクだなんて)

つい浮かれたのかもしれない。涼介や母がメイクをしている自分も温かく受け入れて認めてくれたのが嬉しすぎて。僕は額に浮かんできた脂汗をハンカチでメイクが崩れないようにそっと拭った。


「おっす」

「あ、涼介」

思わず席から立ち上がり涼介のところに駆けよった僕を見て涼介がふっと笑った。

「どした? てかいいじゃん」

「え? ……あ……」

学校にメイクしてきたことに頭がいっぱいでメイクした自分の顔を初めて涼介に見られたことにカッと顔が熱くなる。

「へぇ~、なんか色っぽくなんのな」

「えっと……変じゃない?」

「俺、変って言ったかよ?」

「……言ってない」

「じゃあいいだろ。俺はいいと思う。ほら座っとけ」

涼介は廊下側から二列目にある僕の席に僕を座らせると、斜め向かいの入り口のすぐそばの自分の席に腰かけた。椅子に座るとまた不安から心臓の音だけがトクトク駆けて早くなる。


──ガラッ

「あれ、二人ともはや」

教室から入ってきたのはこの間見かけたときピーチフィズ色のワンピースを着ていた市川さんだ。

「わ。涼介ピンクじゃん〜」

「どーも」

涼介は市川さんに軽く手を挙げるとすぐに机に突っ伏した。

「真央もおはよ」

「お、はよ……」

(やっぱ顔みせらんないよ……)

不自然に俯いている僕を不思議そうに市川さんが視線を向けているのがわかる。 

「ん? 真央? 元気ない?」

(どどど、どうしよ……)

市川さんが机の中に教科書を仕舞うと僕の顔をのぞき込んだ。

(あ……見られるっ)

「……え……っ」

市川さんは悲鳴と驚きが入り混じったような一文字を吐き出すと僕の前で硬直した。

(あ……そうだよね。どうしたら……)

俯いている時間がとてつもなく感じて僕の額にはまた嫌な汗が滲んだ。

(……やっぱ耐えられない……帰ろ)

そう思った僕がそっと鞄に手をかけた時だった。

「……やっば」

市川さんがようやく口に出したのはやっぱり否定の言葉だ。

(だよね。ヤバい奴だよね)

「マオマオだよね?」

(──えっ!!)

市川さんから出た思ってもみない名前に僕は思わず市川さんを見上げた。

「やっぱそうだよね!! やっば! 嬉しー!!」

「え? え?」

「正直前からちょっと似てるなーって思ってたけど、まさか真央がマオマオだったなんて!ねぇ、紫陽花メイク教えて?!」

嬉しそうに僕の前でぴょこぴょこ跳ねる市川さんを見ながら僕は目を丸する。

「えぇっと……あの、その。お、男がメイクとか……嫌じゃないの?」

「え? 今どきLGBTとかもそうだし、人それぞれ趣味あったって良くない?」

あっけらかんと話す市川さんを見ながら僕は瞬きを繰り返す。

(えっとえっと……要は……いいってこと?)

「てか、涼介? 真央可愛くってびっくりしたんじゃない?」

急に市川さんから話を振られた涼介が僕と市川さんの方に向かって首だけ傾けると二ッと笑った。

「真央が可愛いの知ってたし」 

(え……っ、か、可愛い?!)

僕の視線と一瞬だけ涼介の視線が交わったが、すぐに涼介は市川さんに視線を戻した。 

「市川、気づくのおっそ」

「は? なにそれ! 私だって真央ずっと可愛いって思ってたし」

「何だよ、張り合ってくんな。めんどくせぇ。寝る」

そう言って涼介が机に突っ伏すのを見ると、市川さんが「もうっ」と頬を膨らませてから鞄に手をかけた。そしてゴソゴソと自分の鞄を探ってメイクポーチを取り出すと僕の前にことんと置いた。

その時、再び教室の扉が開く。

「おはよー…………、あれ?! え?! 真央?!」

やや眠そうな声で教室に入ってきた水野さんが僕をみるなり驚きの声を上げた。そしてすぐに僕の席にすぐに駆け寄って来る。

「え!! 真央めっちゃ可愛い!! てかあれ?! 真央ってマオマオなのっ!! やばやば!!」

「やっぱ小春も気づいた? 可愛すぎじゃない?! あと今から真央に紫陽花メイク教えて貰いたいな~って」

「嘘!! 待って!! アタシもそれ教えて!!」

「あはは。だって、いい真央?」

昨日までの自分に教えてあげたい。曝け出すのは怖い。踏み出すのも怖い。だって曝け出して踏み出したらもう後戻りできないから。それでも勇気を振り絞って一歩踏み出した先の景色は思ったよりもずっとずっと優しい色に溢れてる。

「えっと、僕で良かったら」

僕は二人の顔を交互に見つめながら笑顔で頷いた。

※※※

その日は僕は放課後になるまで沢山の女の子にメイクを教えた。自分のメイク道具は家に置いてきていた為、その子の持っているメイク道具で手の甲を使って教えたのだが、どの女の子も僕の話を真剣に聞き、終始目を輝かせていたことがすごく印象的だった。

勿論、あからさまに奇異の目を向けてくるクラスメイトもいた。でもそんなこと気にならないほどに僕の心は晴れやかでシャボン玉みたいに軽かったんだ。

「さてと、帰ろ」

教室にはもう誰もいない。僕は鞄を肩に下げるとポケットに入れていたマスクをゴミ箱に捨てた。登校の時とは考えられないほどに足取りは軽い。

こんなにも気分が高揚して生きててよかったなんて思う日が来るなんて想像もしていなかった。一生誰にも言えずに、生きててよかったなんてコト思うこともなく大多数から求められるだろう、平凡などこにでもいる自分を演じるしかないと思っていたからだ。

僕は下足ホールの靴箱にまだ涼介のスニーカーがあることを確認してから屋上へと足を向けた。

(早く涼介に会いたい……)

涼介はいつもならサボっている数学も化学の授業もサボることなく、今日は全ての授業を受けていた。理由は単純明白で僕のことを見守るためだ。教室で目が合うたびに涼介は僕に向かって何度も頷いてくれていた。大丈夫だよ、と言うように。

(ここにいるはず……)

屋上への階段を登りきれば、屋上の扉には開錠された南京錠がぶら下がっている。僕は涼介から元から鍵が壊れていることを聞いて知っていた。そして屋上が涼介の放課後の昼寝場所だと言うことも。

勢いよく扉を開れば、太陽の光にピンク色の髪を照らされながら寝転がっている涼介の姿が見えた。両目は閉じられていて、呼吸は規則正しい。

僕は起こさない涼介の横に転がると、雲一つない夏空に目を細めた。

「……綺麗だなぁ」

こんなにも空が青いと思ったのは初めてかもしれない。

「真央良かったな」

隣のピンク色の髪が揺れて切れ長の目が僕に向けられる。

「あ。ごめん起こした?」

「いや。ウトウトしてただけだし」

そう言うと涼介が寝ころんだまま、うんと伸びをしてから頭の上で腕を重ねた。太陽の光に耳についたピアスがガラス玉みたいにキラキラと反射する。

「今日はありがとう。なんか人生で一番モテた気がする……」

「はは。確かにな」

僕は涼介の方に身体の向きを変えた。ずっと気になっていることを涼介に聞きたくて。

「……涼介、……あれから……おじさんと話せた?」

「あー、それな」

「うん」

「ちょうど、昨日散々話した。俺も過去イチ親父に言いたいこと言ったし、東京行くことも絶対譲らないって言った。あと……ここまで育ててくれたことに感謝してることも初めて言った」

「そしたら? おじさんなんて言ってた?」

「それがさ……珍しくさ、ずーっと親父黙ってんの。置物かよって思うくらい黙りこくってから、ボソッと言われた」

涼介はおじさんとの会話を思い出すかのように空に視線を泳がせる。

「涼介?」

「ピアス出来るだけ増やすなって」

「え?」

「やめろって言われてやめれるわけじゃないだろうから、せめて増やさないで済むように好きな事やれってさ」

「じゃあ……それって……」

「そ。ついに堂々と東京行ける」

涼介が僕に向かってニカっと白い歯を見せて笑う。そして涼介の唇についていたリップピアスが外されていることに僕は遅れて気づく。

「……良かったね。僕、誰よりも応援してる」

「おう。ライブする時は呼ぶな」

「うんっ」

涼介の笑顔が太陽に照らされていつもよりずっと輝いて眩しい。僕は今日の日のことも、今日の涼介の笑顔もきっと一生忘れることはないだろう。

「涼介、僕……ずっと苦しかった。自分だけど自分じゃなくて、隠しておきたいのに認められたくて。ずっと自分がチグハグで苦しかった」

「…………」

僕と涼介の間をサァーと風がすり抜けて言葉を吐きだした傍から言葉を攫って巻き上げていく。僕は涼介の切れ長の目を真っすぐに見つめた。

「でも変われたんだ。涼介のお陰だよ。僕と出会ってくれてありがとう。僕の『特別』でいてくれてありがとう」

「……どういたしまして」

涼介は照れたのか頬を人差し指で掻いてから両手を雑に投げ出した。僕も涼介を真似て両手をコンクリに投げ出す。

そして僕は絵に描いたような海色の空を眺めたまま、肺一杯に空気を吸い込んだ。そして勢いよく、ふぅっと息を吐きだした。

もう苦しくない。
もう偽らなくていい。
もう自分を生きていいんだ。

どこかで人生は山登りだなんていうフレーズを聞いたことがある。僕らの人生の道のりってやつはまだまだ長い。また苦しい何かに出会うこともだろう。どこへも行けずに立ち止まることもあるだろう。何もできずにただ涙を流す夜だってあるだろう。

でも僕らはきっと迷ったり遠回りしながらも、自分らしく自分のぺースで呼吸をして僕らが想い描く未来に真っ直ぐに歩いていける。

そう、これは予感じゃなくて確信だ。


「──僕、今日が生まれてきて一番呼吸(いき)しやすい」


涼介からの返事はない。

ただ僕らの呼吸音が澄み切った夏の空に瞬く間に吸い込まれていった。




2024.5.29 遊野煌

※フリー素材です。