これほど人生で、生きたいと思ったことはあるだろうか。
これほど人生で、ひとを愛おしいと思うことはあるだろうか。
私はきっと、もう死んでしまう。
いきたいと思っても、死にたくないと思っても、死んでしまう。
私はそうなんだ。そういう人間なんだ。
生まれてきてからずっと、そういう運命なんだ。
それなのに、なぜか私は辛いと思う。
それなのに、なぜか私は苦しいと思う。
不思議だ。
私はもう死ぬと、決まっているというのに。
それを知っているというのに。
私は、もう死んでしまうというのに。
私は辛いという感情を知った。
私は悲しいという感情を知った。
私は恋という感情を知った。
私は好きだという感情を知った。
私は、生きたいという感情を知った。
このままだと、消えたくない。死にたくない。生きたい。
そう思ってしまう。
あぁ、ほんとう、馬鹿だなぁ、私。
叶わぬ恋。
もう一生、貫かなきゃいけない一方通行の恋。
「…ありがと」
黒色のハンカチで涙を拭きながら、私はそういう。
「病院で洗って、返すよ。ナースさんにお願いしたら、多分洗えると思うから」
「別にいいけど。それやるよ」
「もったいないよ、上等な布なのに」
「別にいいじゃん。持っててよ」
「無理だよ。どうせ行き場を失うんだから」
私がそういうと、雲はハッと動きを止めた。
「…じゃあ、その代わり。洗って返すから、もう一回来てよ」
「…は?」
「返すから、もう一回来て。もう一回、私に会いに来て」
私は笑ってそう言った。
すると、雲も鼻で笑って、「わかった」と素直に答えてくれた。
「…久しぶりだね、こうやって話すの」
「え?あぁ…まぁ、そうかもな」
「雪、ひどくなってきてるでしょう。窓からのぞいたら、もう木にすごく積もってて。細い枝はおれてたよ」
「あー…まあ、そうかもな。俺はあんま最近外でねぇから知らねぇけど」
「そと、出てないの?勉強してるとか?」
「あー…いや。そういうわけじゃない。バイトしてんだよ。コンビニで」
「えっ?バイト?」
あまり雲からは聞かないワードが飛び出て、私は思わず聞きかえしてしまった。
「結構うちから近いとこでさ。あんまり雪とか見れてないっていうか、見てる暇ないっていうか」
「そう、なんだ。じゃあ…ごめんね。会いたいなんて送っちゃって」
「いいよ。もう帰りだったし」
ふん、とそっぽを向いた雲。
これは照れ隠しだと、私はちゃんと知っている。
「で、何してほしいんだよ」
「え?」
「俺を呼ぶってことは、なにかしてほしいんだろ。言ってみろ。やりたいこと」
やりたい、こと。
私の、やりたいこと…。
「……び」
「え?」
雲が聞き返してきた。
小さく来て聞こえずらかったと思う。
もう、私は一生見れないもの。
それでも、世界で一番きれいだと思ったもの。
それは…
「花火、見たい」
すぅ、と大きく息を吸って、息のようにそれを吐く。
「はぁ?」
「花火みたい。それ見れば、もうこの世に悔いはない」
「なにいってんだよ、おまえ。冬に花火なんて見られるわけねぇだろう」
「…」
そうだよね。
冬に見れるわけない。
私は、もう一生見ることはできない。
わかってるよ、そんなこと…。
「そうだよね、ごめ…」
謝ろうとしたとき、彼は「あ」と声を上げた。
「見れるぞ、花火。世界で一番、綺麗なもん」
「え…?」
「見せてやる。俺がお前に、世界の一番きれいなものを」


「…自分で、あるけるよ。そこまでしてもらわなくても」
冬の花火大会、当日。
車椅子を用意しくてくれたお母さんに向かって、そう吐き捨てる私。
「転んだらどうするの。結構肺、悪くなってるらしいじゃない。走ったりしたらダメですからね」
「わかってるよ。第一、花火で走ることはないでしょ」
私がそう答えると、「確かに、それもそうね」と笑うお母さん。の、すぐ横にはパーカー姿の雲。
「娘を、よろしくお願いします」
お母さんは雲に向き直って、そう深々と頭を下げる。
そこに雲は、「舞桜は、責任をもって俺が守ります」と答える雲。
あの日は、冬に花火が見られるなんて思ってもみなかったけれど、まさか本当に見ることができるなんて。
「…じゃあ、行ってきます」
病院を出る時、たくさんの看護師さんと、心配そうに手を振るお母さんを見て、私の胸は、チクリと痛んだ。
手術まで、残り五日。
もしかしたら、今日が雲と話せる最後の日になるかもしれない。
不安を募らせていると、雲が「リラックスしろ」と言われ、一気に現実に引き戻される。
「転んだらいけないから、俺の腕つかんどけ。離すなよ」
雲はさっと私に腕を寄せ、つかみやすいようにすそも垂らしてくれた。
「ありがと」
私がそう答えると、「おう」と小さく答えた雲。
あぁ、好きだなぁと、改めて思った…。

会場につくと、複数あるベンチには、もうたくさんのひとが座っていた。
私は車椅子だから、優先席にすんなりと座ることができて、雲もその横に座ってくれた。
「楽しみだね、花火!」
私がわくわくしながらそう答えると、「まぁ、そうだな」と雲からも弾んだ声が聞こえてくる。
「冬の花火なんて見たことない」
「俺も」
何度かそういう会話を交わしたあと、いきなり花火の一発目が打ちあがった。
ドーンと大きい音を鳴らしながら打ちあがった赤色の花火は、夏の時よりも、くっきりと鮮やかに見ることができた。
「…綺麗」
私がそう呟くと、横からも「綺麗だ…」という声が聞こえてきた。
ちらりと横を見ると、食い入るように花火を見る子供っぽい顔があって。
思わず笑ってしまった。
けれど、何秒か見ているうちに、だんだん子供っぽいが、格好いいに代わっていく。
頭の中にリピートされた、雲の言葉の数々が雲に重なって、どうしても格好よく見えてしまう。

「おまえ、ほかのやつに大丈夫とか言われても、笑顔で大丈夫とかしかいわねえじゃねえか。なら、嫌われてる俺が、おまえを救いに行く。それだけだよ」
「このちっせえあわの一つ一つに、世界の全部が映ってんだよ。俺も、舞桜も、公園も、空も。全部映ってる」
「おまえ、つらいって…死にたいって思うんだろ?なら俺が、世界の綺麗な部分をおまえにみせる」
「…舞桜は頑張ったよ。少なくとも、俺はそう思うけど」
「俺が認めてやる。おまえは俺を信じればいい。おまえは、俺を頼ればいいんだよ」
「当たり前だろ。忘れたことなんてねぇよ。今までも。この先も」

雲の言葉の数々が、何度も何度も頭にリピートされる。
あぁ、私、死ぬんだな。
この花火が咲く世界で、私は散っていくんだ。
大好きな人を、残して。
「……ねぇ雲」
嗚咽と共に漏らしたその言葉は、彼に聞こえるはずもない。
私の声は、花火と嗚咽で隠された。
それでも私は、何度も言う。叫ぶ。
「雲…。ねぇ雲」
返事して、というように、私は何度も彼の名前を呼んだ。
「大好き、だよ…」
一生伝わることのない、告白。
もしかしたら明日、私は目を開けることができないかもしれない。
手術の日を迎えるまでに、私は息を吸うことができなくなってしまうかもしれない。
…もう、雲の顔も、見れなくなるかもしれない。
それが怖くて、怖くてたまらない。
どうしようもなく、彼と過ごした日々は、彼と過ごした日常が頭から離れない。
ねぇ雲。
この夜が、ずっと明けなければいいのにね。

「綺麗だったね、花火」
「そうだな。夏の時より鮮やかに、くっきりと見えるっていうか」
雲がなんだか熱心にそういうので、ふふ、と私もつられて笑ってしまう。
「本当、雲って無邪気な子供っぽいところあるよね」
「あぁ?うるせぇよ。おまえだって嘘つきの子供のように思えるぜ」
「そ、それは身長が低いせいでしょ!私はちゃんと雲に尽くしてるもん」
私が言い返すと、「ほぉ?」と雲がうなる。
こうやって言い争いをするのも、こうやって笑いあうのも、あと何回できるんだろう。

病院近くまで来たとき、私は何かに引っ張られるように動きを止めた。
少し前を歩く雲が、振り向いて「どうした?」と声をかけてくる。
「…帰りたく、ない」
ぽろっと出た言葉は、涙と一緒に零れ落ちたように思えた私は、涙が落ちるたびに、ぽつりと言葉をこぼしてゆく。
「…死にたくない」
雲の表情は、真剣だった。
「…生きたい」
ついにとうとう、泣きじゃくった声をあげる私に、黙って近づいた雲。
「ねぇ…雲。逃げようよ…二人で居よう」
「…」
雲はゆっくりと私を抱きかかえたあと、まっすぐ病院の方向へ歩いていく。
「もどりたく、ない…!!生きたい…!!もっとたくさんのものを見て見たい、触れたい!」
それでも雲は、黙って歩いていく。
「ねぇ、雲…」
私がそう呼び掛けても、雲は黙って歩くだけ。
「……二人で居たいって思ったのは、私だけなの?」
私がそうこぼした瞬間、雲は私を立たせ、そしてものすごく強い力で抱き寄せた。
「…そんなわけねぇだろ!!!」
雲らしくもない、大きな声だった。
「俺だって、俺だってできることならそうしてやりたい!けど、おまえはそれじゃあ黙って死んでいくだけなんだよ!!」
ハッと目を見開くと、雲の瞳からは涙が零れ落ちていた。
「頼むから…これ以上俺を誘わないでくれ。病院に…帰ってくれ」
泣きそうな、子供の声だった。
…辛いのは、ずっと自分だけだと思っていた。
お母さんの声も、電話のときも、したくをしているときも明るかったし、きっとこれでいいと思っているんだろうと思った。
雲だって、いつも通りに接してくれて、私が死ぬという現実を、ちゃんと見ているように思えた。
けれど、違う。
みんな我慢していただけ。
私が表を見せすぎただけ…。
辛いと思ったのは、私だけじゃない…。

私は雲の涙が枯れるまで、雲をぎゅっと抱きしめた。
離れたくないこのぬくもりが、雲から剥がれ落ちないように。
やっとのことで雲の涙が枯れたとき、私は笑った。
「…もの…だよ」
「え…?」
上手く聞こえていなかったんだろうか。雲は顔が見えない私でも、首を傾げたことはわかる。
「…雲のせいだよ」
私は今度は、はっきりといった。
「雲のせいだよ。こう思ったのは、全部雲のせい。雲が…雲が世界の美しいところなんか見せるから。優しくするから…抱きしめるから、話を聞いてくれるから…!!」
ぽつりぽつりと話し始めた。
それでも私は、泣かない。
さっきたくさん泣いた分、今回は笑顔で話を続ける。
「…生きたいって、思うようになった。死にたくないって、もっと生きられたらって、死ぬのが、怖くなったの」
雲は黙って話を聞くだけ。
それでも私は、話を続ける。
「…好きだよ、雲。だいすき。だから…連れてってよ、病院」
私の声を合図に、むくりと体を起こした雲は、そのまま私を抱きかかえて、病院へ歩き出した。
きっとこれが、正しい選択。
このまま私は死んだとしても、最後はきっと幸せなはず。
怖くないといったら、きっとうそになるけれど。
それでも私の幸せは、丸ごと全部雲に上げたい。
そんな思いを胸に、私は、雲のたくましい腕を、そっと握った。


気が付くと、ベッドで運ばれていたはずの私は、元の部屋のベッドで眠っていたようだった。
そして横には、メッセージカードが添えられていて、〔ごめんね〕とだけ書かれていた。
…あぁ、私は死ぬんだな。
直感でそう思った。
今日は十二月二十四日。
ちょうどクリスマスの日。
もう夕方だから、手術をしたあとということはわかった。
そして、カードに書かれた文字を読んで、もう大体予想はついてしまった。
…手術は、失敗したんだ。
私はもう、一日もたたないうちに死ぬ。
なんだか肩の荷が、すぅっと降りたような気がした。
私は受話器を手に取って、ナースさんを呼ぶための番号を入力した。
〈はい。こちらナースの村田です〉
「あ…五百六号室の水瀬舞桜です」
私がそう名乗ると、〈あ、舞桜ちゃんね。どうしたの?〉という、柔らかい声が返ってきた。
「…えっと、面会通さないでほしいんです」
〈…え〉
奥から息をのむ声が聞こえた。
「お母さんも、雲も。通さないでほしいです。絶対」
〈で…でも。もう昨日ちらっと見た程度でしょう。あったらどう?〉
「いえ、いいんです。どうせ仏壇で顔見ますから」
私はそう言ったあと、受話器をもとの位置に戻した。
ガチャンと音がして、リセットされる電話機。
あぁ、ほんとうに、私は死ぬんだ。
…ひとり、きりで。
するとどこからか視線がきたような気がして、私は思わず振り返った。
そこには、茶色のクマの人形が置かれていた。
私はそれに見覚えなんてなかった。
私はもう一度受話器を取り、「すみません、机に置いてあったくまのぬいぐるみに見覚えがないんですが」と看護師さんに言った。
〈え、あぁ、それはね。えーと…夕凪さんが持ってきてくれたみたいよ〉
「えっ…?雲が?」
〈えぇ。名簿に彼の名前が載ってあるし、彼女にあげるぬいぐるみなんですが、持って行ってもいいですか?って言っていたわ〉
…彼女…。
「…あの、お礼を言ってもらうことって、できますか?」
〈んー…こっちも色々と今大変でね。あなたと同じくらいの年齢の子がね、もういつ死んでもおかしくない状態になってしまったから…。それに、舞桜ちゃんから言ったほうがいいと思うわ〉
きっと、これは看護師さんなりのウソだ。
なんとなくわかった私は、話をつづけた。
「…でも」
“でも、といや、を言う人は、逃げているだけ”
そよ風に乗ってきた言葉のように、ふんわりと耳に届いたその言葉。
誰も声かも、誰の言葉かも知らないけれど、私はとっさに口をつぐんだ。
「…そう、ですね。無茶言ってごめんなさい」
私はそう口にして、受話器を元に戻した。
…私が、直接伝えるんだ。
スマホを手に取って、通話アプリをタップする。
そして、名前欄から雲を見つけて、アイコンをタップした。
一コール、二コール。
もう一度コールが鳴った時に、ブツリと音がしたあと、〈…舞桜?〉と、私の大好きな、世界で一番好きな人の声が聞こえてきた。
「くも…」
てんぱっているわけではないけれど、言葉が出て来ない。
どうしようもなく、怖いと思ってしまうんだ。
〈どうした?なんかあった?肺いたくなったとか?〉
「ち、違うのっ。ごめん、忙しかったでしょう?き、切るね」
どうして。
伝えたいのに。ありがとうって。
伝えたいのに。大好きだって。
あと一言、付け加えられればいいのに。
言えない。
〈別に忙しくないよ〉
雲は平気な声でそう言った。
「…い、いいの。ただ…ただ」
ありがとうって、伝えたかっただけ。
雲は私がしゃべろうとしていることを察したように、じっと何も言わずに待ってくれた。
「…その…。えっと」
頭の中に浮かんだ言葉の数々が、一気に消えて。
「く、くまのぬいぐるみ…!ありがとう」
一生懸命に、そう伝えた。
すると、スマホの奥で、くすっと笑う声が聞こえたつかのま、
〈よかった。喜ぶかなと思って、UFキャッチャーで取ってきたんだ〉と返事してくれた。
「ほんとに…ありがとう。元気出た」
〈…うん〉
「それじゃ、切るね」
私はそう言って、雲の返事も聞かずに、電話を終了した。
そして再度、受話器を手に取って、「やっぱりさっきのお願い、取り消しで」とだけ伝えて、戻した。

…私はひとりなんかじゃない。
雲がいる。お母さんがいる。
応援してくれる人が、たくさんいる。
私の人生は、光っていた。
幸せだった…。
もう、悔いはない。
きっと、これでいい。

―12月25日。午後7時17分。水瀬舞桜、肺がんで死亡。