「おまえさあ。ほんとう、誰かに言う癖付けた方がいいぜ」
どうしたの、と聞けば、彼は打ち明けるように小さい声でそう言った。
いや、どうして私の話になるの、と突っ込もうとしたけれど、やめた。
「…怖いの。頼ること」
私も小さい声でそういうと、彼は私をじっと見つめてから、
「そうかよ」とつぶやいた。
「…怖い。どうしようもなく、頼ることが…」
私が再度そういうと、彼は少し黙ったあと、そっと私を抱きしめた。
少女漫画だと、これは愛情表現のような感じだと思うけれど、私はちゃんと知ってる。
彼は、私を安心させようと、大丈夫だよ。と、そういうためにこうしてくれる。
全部、全部私のために。
「…私ね、小学生のころから、ずっと“できる子”としてみんなに見られていたんだと思う」
「できる子?」
「小学三年生の時、それを自覚したんだよね。きっと」
ふふ、と笑った私は、ゆっくりと話し出した。
私の過去を。
私は、きっと先生から見ても、生徒の方から見ても、優秀な生徒だったと思う。
テストはいつも百点ばかりだったし、運動も苦手ではなかった。
成績表はいつもオールAで、先生からもよく褒められた。
だから、私はできる子ということがみんなに知られていた。
なんでもできる、完璧な人。それが私の、クラスでの立ち位置だった。
けれど、三年生に上がって、難しい問題も増えてきた。
…それで、初めて、テストで九十四点を取ってしまった。
百点以外の数字なんて、誰も予想していなかった。
テストの百点のひとの名簿欄にも、私はいつの間にか消えていた。
そのとき、わかった。
周りから差された、あの驚いた目線。
あの、羨んだ視線が、一気にあざ笑う視線に変わったことを。
どれだけ頑張っても、百点を摂ることができなくなって、みんなからの信頼も、友情も消えていた。
あの頃の私は、塾に通いたいと必死で、百点を取らなきゃと必死で、ほかのことなんて何も考えていなかった。
必死な思いで作り上げた勉強能力を、みんなに披露したときは覚えている。
返されたテストは百点だった。
頬が緩むのを覚えた私は、先生に呼ばれて立ち上がった。
そして、先生はにっこり笑ったまま、私をひっぱたいた。
へこんだほほは、もう笑みなんて作れる余裕はなかった。
先生の笑みは消えて、クラスメイトもクスクスと笑っていた。
次の瞬間、先生は私に追い打ちをかけるように、こういった。
「水瀬さん。藤野さんのテスト用紙をカンニングしたでしょう?藤野さんから教えてもらいましたよ」
その瞬間、私はもう、誰も頼りたくなくなった。
塾だってサボり気味になって、必死にひとりで勉強した。
お母さんも、お父さんも頼らず、ひとりで頑張った。
勉強にプライドすべてをのせ、一筋で。
誰かを信じたって、誰かを頼ったって、相手が裏切る。相手が、私を見捨てる。それは、もうわかっていることだから。
すべてを話し終わったあと、私は笑ってみた。
いつもの笑顔を。
「あはは…笑えるでしょ。みんなに裏切られた、ただそれだけ。だから私は、誰も頼りたくなくなったの」
私は下を向いて、うつむいた。
笑うのが、つらくなったから。
ばかばかしくなったから。
「いじめをされたわけでもないし、家族がひどいっていうわけでもない。ほんとう、恵まれた家庭で、恵まれた人生のはずなのに、辛いって思う自分が、嫌い」
すう、と雲が息をのむ音が聞こえた。
「大嫌い」
私が再度つぶやくと、雲は私を離して、私の瞳を覗き込んで、そっと言った。
「…舞桜は頑張ったよ。少なくとも、俺はそう思うけど」
…決して、彼の言葉は明るい言葉じゃない。
かといって、暗い言葉でもない。
彼の言葉は、行動は、全部私のためにしてくれる言葉であり、きっと私の言葉も、私のすることだって、彼のためにすることだ。
「…雲」
「舞桜は人に認めてもらいたいんだろ?」
急な質問に、私はちょっと考えてから、頷く。
「でも、誰も信じられないよ…。それに、認めてもらうなんて、無理で…」
私がさっきより小さな声でそういうと、雲は少し優しい瞳で、私の頭を撫でた。
「俺が認めてやる。おまえは俺を信じればいい。おまえは、俺を頼ればいいんだよ」
目を見張った。
彼の言葉はいつもまっすぐで、正しくて。力強くて、正確。
「…頼って、いいの」
気づけば、そんな声が漏れていた。
「…信じて、いいの」
情けない。ほんとう、情けない声。
「…認めてくれるの」
私の目からは、また涙がこぼれていた。
くちびるから忍び込んでくるその涙はちょっぴり甘くて。
「雲…」
―ねえ、ちょっとだけ甘えてもいいかな。
その日、私は時間も忘れ、彼に甘えた。
泣いて、泣いて、泣いて。
今までの思いを全部打ち明けた。
隠してきた思いの扉を開けて、彼に全部見せた。
彼は何も言わず、私の頭を撫でて、優しく慰めてくれるだけだったけれど、私はそれが心地よくて。
チャイムが鳴っても、私たちを探す声が聞こえても。
名残惜しくて、放課後まで残り、先生に説教されたけれど。
雲は最悪、ということもなく、笑ってくれた。
一緒に帰ろうと言ってくれた。
ねえ、雲。雲はわかっているかなあ。
『おまえ、つらいって…死にたいって思うんだろ?なら俺が、世界の綺麗な部分をおまえにみせる』
この言葉が、すごく嬉しかったこと。
この言葉で、私は救われたこと。
「そう言えば、明日から夏休みか」
「そうだね」
私が相槌を打つと、「短いような長いような新学期のスタートだったなあ」とつぶやく雲。
「何それ。私とあってから長かったってこと?」
「ちげえよ」
彼は苦笑して答え、ぐしゃっぐしゃっと私の頭を撫でた。
案の定ぼさぼさになった私の髪の毛を見て、彼は今度は苦笑ではなく、大笑いをした。
あはは、と大きな声で笑う彼に、私もつられて笑ってしまった。
「ふふ。あはは」
私も笑って帰り道を歩く。
ほんとう、どうしてだろう。
雲と居ると、毎日が輝いてて。
雲と居ると、毎日が楽しくて。
雲と居ると、ちょっとだけ、生きててよかったって思える。
「ねえ、お母さん。この浴衣で大丈夫かな」
本日四回目のこのセリフに、さすがにお母さんもあきれ気味で、
「もう…大丈夫だって言ってるでしょ。お母さんを信じなさいよ」
といった。
「で、でもっ」
「もう時間よ。ほら行きなさい」
夏祭り当日。
私は初めて夏祭りへ行くため、あまり自信がないけれど、浴衣をお母さんに着付けてもらい、一歩踏み出すことを決意した。
家から追い出された私は、少し恥ずかしいけれど、胸を張っていくことにした。
カランカランと、下駄の足音が聞こえる。
六時五十六分。
夏祭り会場が開く四分前、私は会場についてしまった。
ゆらりとあたりを見渡すと、スマホをいじってる雲を発見。
「…雲、お待たせ」
彼に近づいてそういうと、彼は私を見て、一瞬で目を見開いた。
その表情がなんだかおもしろくて、ドッキリ成功、というように笑ってやると、雲は「…おまえなあ」と顔を赤くしてそっぽを向いた。
「ふふ、雲も浴衣、似合ってるよ」
青磁色の浴衣を着ている雲は、どこからどう見てもアイドルのように恰好いい。
「サンキュ。まあこれ、自分で着たわけじゃないんだけどな」
私も、と漏らして、二人で笑う。
―こんな毎日が、ずっと続けばいいのにな。
そう思いながら、私たちは二人で会場が開くのを待った。
ちなみに、私の服は空色のアサガオと白いアサガオがのせられている、薄紫色の生地に、髪型は横髪は残し、お団子で結んでいる。
「この祭り、花火上がるらしいぞ。十時ごろ」
「えっ。花火?」
思いもよらなかった単語に、目を輝かせた私は、雲にずいっと寄る。
「すごいっ。海の方でしょう。会場から近いもんね」
「まあ、そうだろうな」
私の勢いに圧倒されながら雲が答えると、私の瞳はますます光が強まる。
「綺麗なんだろうなあ。私、花火なんて見たことないんだよね。ねえ、花火ってどんな感じ?綺麗なんでしょう。音もすごく大きいって聞いたことある!」
私がそう聞くと、雲は楽しそうに答えてくれた。
「確かに空に咲く火の花っていうのが一番わかりやすいと思うけど」
「空に咲く、花?」
「そう。花だよ。青とか水色とかオレンジとか赤色とか。いろんな色の」
彼は心底楽しそうだった。
きっと、雲も花火を見るのが楽しみなんだろうと、そう思った。
「うわあ」
始めてみた夏祭りの景色は、色づいていた。
色んな屋台が並んでいて、いろんなひとがいて。
すごくにぎやかで、商店街のようだった。
「どっから行きたい?」
雲が楽しそうにそう言って、私の背中を押した。
震える足取りで最初向かった屋台は、「焼きそば」と書かれた屋台。
「…おまえさぁ、ほんとに女子なの」
「しっ、失礼な。私だって焼きそば好きだもん」
私がそう言い張って、焼きそば小ください、と注文すると、雲も、「じゃあこいつと同じ奴で」と頼んだ。
数分後、中から出てきたお兄さんが、「ほらよ」と焼きそばを手渡ししてくれた。
「んっー!おいしい!」
一口口に入れただけで、そんな感想が飛び出る。
「だろ?ここの焼きそば、いつもめちゃくちゃうめえんだよ」
雲は得意げにそう言ったあと自分も焼きそばにかぶりつく。
次向かった屋台は、金魚すくいの屋台だ。
「せっかくだから、勝負しようよ。雲」
「おう。いいぜ。じゃあ負けたやつが好きなやつおごってもらうってことで」
雲も珍しく乗ってきたので、がぜんとやる気がわいてきた。
私はおじいさんの、「スタート!」という掛け声とともに、自分のポイを水へと一直線へ。
「…なんだ、同点か」
結果を見てがっかりしたのは私だけではないようだ。
向こうもだいぶ自信があったのか、はあ、と盛大なため息をついている。
「じゃあお互いおごろうよ。それでいいでしょう」
「…気に食わねえが。まあいいだろ」
了承してくれた雲は、ふ、と笑っていて。
私はなんだかうれしくなって、「じゃ、あれにする」と赤い屋台を指さした。
「りんご飴?」
「ずっと食べて見たかったの。ねえ、いいでしょう?」
そう言って彼を見上げれば、「しょうがねえな」と笑う彼の横顔があった。
「おっちゃん。りんご飴ひとつ」
「おう」
彼はおじいさんにそう呼びかけ、「じゃあ俺はあれな」と指さした。
彼の指の先にあったのは、「ペアキーホルダー」のお店。
「お母さんと交換するの?」
私がそう聞くと、「いいや」と首を振る雲。
「おまえと俺で交換するんだよ」
「えっ?」
思わず間抜けな声を出した私は、一瞬何を言われたか理解できなかった。
「わっ、私と?」
「そうだよ。夏祭り記念」
そう言って笑った彼は、「ほら」とりんご飴の棒を差し出してきた。
「あ…ありがとう」
りんご飴の袋を開けながら、私はそうお礼を言う。
りんご飴を口に入れると、りんごの甘みが広がった。
「んっ…おいしい」
「だろ?」
はは、と笑いながらキーホルダー屋さんへかけていく雲を追いかけながら、私はりんご飴の味を味わう。
「どれがいい?」
そこを営業しているお姉さんがそういうと、もう彼は目当てが決まっていたかのように、「これで」と、クローバーの半分部分のキーホールダ―を手に取り、もう片方の方を私に渡した。
私は代金の三百円をお姉さんに私、二人でそこを去る。
「…ありがとう。すごく、嬉しい」
想ったことを口にすると、「馬鹿野郎」と苦笑する雲。
「そろそろなんじゃねぇか?花火」
そのあと、射的やイチゴ飴の屋台なども回っていくと、もう十時手前の時間になっていた。
「ほんとだ…!でも、多分もうよく見えるほうはひと多いよね。どこ行く?」
「近くに砂浜あるんだよ。そこから綺麗に見えると思う」
彼はこっちだったような、とあやふやに進んでいく。
人も多くなってきた時間帯なため、人込みを分け進んでいくしかない。
「すみません、すみません」と謝りながら進んでいくと、急にひとがいなくなった。
「きゃっ」
砂に足を取られ、転びそうになると、「おっと」と雲が支えてくれる。
「あ、ありがと」
お礼を言うと、「おう」と彼は笑って、砂浜の方へと走り出した。
私も必死に後を追う。
砂浜に二人で座り込んだとき、ひゅるる、と音が鳴った。
「もう始まりそうだな」
少しわくわくした声で彼が言う。
そんな言葉を聞いて、私もなんだか想像以上に、楽しみになってきた。
「うんっ…!」
私が頷いたとき、空に大きな音と共に、赤色の花が咲いた。
ひらりと開いては消え、そしてまた新しいのが生まれて消えていく。
暗い夜空に、たくさんの光る花が咲いていく。
―目が、離せなかった。
綺麗だ、と隣にいる雲が声を漏らした。
私も声を出そうとして…出せなかった。
勿体ないと思ったんだ。
私の声なんて、この花火にはもったいない。
今しゃべらなくたって、きっとあとで感想を告げることができる。
そう信じて、私は瞬きもせず、花火を見た。
色とりどりの、大きな円を描くそれは、何度も何度も、咲いては散って、咲いては散って、を繰り返していた。
「…雲」
しゃべらないと決めたのに、思わず声がこぼれてしまう。
今、言いたくなったんだ。
もし後でいう機会があったとしても。
もし後で、彼に聞かれたとしても。
私は、今言いたくなった。
「綺麗だね…!!」
はしゃぎたくなるような、遊びたくなるような、そんな目で、私は彼の目を、淡い瞳を覗き込んだ。
「これが、花火なんだ…」
止まろうとしても、もう止まれない。
私は、言いたい。
雲に、私の気持ちを。
「いろんな色があって、いろんな大きさもある。本当、花みたい」
私の声は、花火の音と共にかき消されるけれど、きっと彼には聞こえてる。
返事はしてくれないけれど、私はそう確信する。
「…綺麗…だね」
ポロッと、涙があふれ落ちた。
優等生で居なきゃなんだって、都合のいい女でいなきゃいけないって必死で、自分のことなんてどうでもよくて。
想ってることも全部隠して、笑顔を作ってきた。
…でも。
今、私は生きてる。
私は今、彼と同じ世界を、この美しい花火が打ちあがる世界で、生きてる。
なんだかそれがくすぐったくて、それと同時に、たまらなく嬉しくて。
雲と同じ世界を見てる。
雲と同じ世界を生きてる。
「…口を閉じれば何も言えないように、心を閉じれば、何も伝わらない」
ふと、雲は自慢の低い声でそう言った。
「おまえは今、死にたいって。辛いって思うか」
そんなの、決まってる。
「生きたいよ。雲がいるこの世界で、花火が打ちあがる、この世界で」
私はにっこり笑って、彼に想いをぶつけた。
このときはじめて私は、“生きててよかった”って、“生まれてきて、よかった”って思った。
雲は知らないだろうなあ。
私が雲の言葉で、どれだけ救われたか。
「ほんと、おまえって頑固だよなあ」
「大丈夫。俺がいる」
「なら俺が、世界の綺麗な部分をおまえにみせる」
「…舞桜は頑張ったよ。少なくとも、俺はそう思うけど」
「俺が認めてやる。おまえは俺を信じればいい。おまえは、俺を頼ればいいんだよ」
全部、全部。私の大切な思い出…。
あふれてくる涙は止まらない。
けど、今だけはいいと思った。
花火が咲いてる、この時間だけは、
“泣いていい時間”にしよう。
夏祭り終了のアナウンスが鳴ったあとも、私は浜辺でじっとうずくまっていた。
雲はひとりで海辺をいったりきたりして、私が買ってあげたキーホルダーを眺めている。
あのときの感動と思い出を忘れないように、大切に心にしまえるように、私は目を閉じて願った。
どうか明日になっても、明後日になっても、一年先になっても、この日のことを忘れないように。
ねえ、雲。
届かない声で、私は彼に呼びかけた。
…好きだよ。
にこりと笑った目元からは、涙が一滴、鼻筋を通って落ちてきた。
私は泣いてばかりだなぁ。
「…俺はさ」
私が涙のあとを消していると、雲が低い声でぽつりといった。
「伝えたかったんだよ。舞桜に、世界の美しさを」
ぽつ、ぽつと吐かれたその言葉は、雨のようにじっと私の想いにしみ込んでいく。
「世界が、どんだけ綺麗なもので、世界が、どんだけ儚い者かっていうのを、伝えたかった。どうしても」
ゆらりと揺れる彼の黒髪は、月明かりに照らされて輝いた。
私と雲の目が合う一秒。
体と体が触れ合った瞬間、すべてが夢のようにも思えた。
今私は生きている。
今私は彼の胸の中にいる。
彼のたくましい腕が私の背中に回され、ぎゅうぎゅうと締め付ける。
「…ねえ雲」
「あ?なんだよ」
いつもの暴言を吐く彼は、やっぱりいつもの雲で。
…ちょっとだけ、嬉しい私は馬鹿野郎より馬鹿かもしれない。
「…もうちょっとだけ、こうしてていい?」
彼の答えは、帰っては来なかった。
その代わり、回された腕の力が、さっきよりも強くなった気がした。
片方の手が私の頭に伸びて、優しくなでてくれた。
「ねえ雲」
「なんだよ」
さっきと同じような会話に笑いながら、私は言葉を紡いだ。
「シャボン玉、またしようね」
「おう」
今度は、低く、太い声が、ちゃんと私の耳にも届いた。
ねえ、雲。
私は心の中で、もう一回、彼の名前を呼んだ。
静かな砂浜で、誰にもばれないように流した涙の味は、体育館と同じ味。
けど、あの時の感情とは違う意味だということが、私にもちゃんとわかった。
―ごめんね、雲。
心の中で、もう一回だけ、彼の名前を呼んだ。
―雲と出会えて、ほんとうに幸せだったよ。
「ありがとう」
つい零した声に、雲は不思議そうにうなずくだけだったけれど、反応をもらえたことが嬉しくて、嗚咽を漏らしそうになって慌ててこらえる。
やっぱり、世界はきれいだ。
残酷なほど、綺麗だって思う世界は、やっぱり綺麗だ。
雲がいるこの世界で、“今”、私は生きてる。
その喜びをかみしめながら、私は今日をやり切った。
涙は止まらぬままだったけれど、でもきっといつかは止まる。
私はそう確信できた。
「雲…」
ひとりきりの部屋で、彼の名前を呼んで眠りに落ちた私は、これからどうなることも知らずに、のうのうと生きてる。
けれども、ただ一つ言えることは…
この日、私は人生で一番、幸せな日だったと言えるということだ。
【おはよう】
夏祭りの次の日、朝十時三十分。
いつもより早めに起きることができた私は、何もすることもないので、雲に連絡することにした。
何がおはよう何だろう…。と思いつつも連絡をしてみる。
何もやり取りをしていないLINEの部屋に、私のメッセージだけが表示されている。
と、思いきや。
いま、この瞬間、彼から返信が届いて、メッセージが二つに増えている。
【おはよ】
そっけない雰囲気を持つそのメッセージは、やっぱり雲らしくて笑ってしまう。
【何してる?】
そう再度連絡を入れると、彼からは【何も】と返ってきた。
【私も。暇だよね。何もすることないや】
送信ボタンを押して、桃色のうさぎスタンプもついでに送ると、彼はたぬきの笑ったスタンプを返してくれた。
【じゃ、どっか行く?】
ベットから飛び起きた。
スマホを持つ手も、文字を打とうとした手も震えてくる。
自分の指が震えるのを笑いながら、そんな手を必死に動かして、
いいの?と打って送信。
【おう。神社の近くに遊園地あるだろ。そこ行こう】
遊園地という予想もしてなかった単語に驚きつつも、【いいよ】と返し、【一時桜木公園集合な】と送られてきたものをスクショして保存。
私はベットから跳ね起きて、パジャマから普段着へ着替えた。
歯磨きと顔洗いを済ませ、髪の毛をセットし始める。
いつものハーフアップを結んでから、少しだけ化粧で目と口を整える。
気合いれすぎかな、とも思いつつ、鏡の前でゆらりと体を回して、おかしいところがないか確認!
気合は入れすぎだけど、まあまあのできになった。
「あら、どうしたの?舞桜。出かけるの?」
階段を上ってきたお母さんが驚いたようにそう口にした。
「…う、うん」
私が頷くと、「へえ。どこに行くの?」と興味津々になるお母さん。
「…遊園地」
「あらぁいいじゃない。お友達でしょう。女の子?男の子?」
「…く、クラスメイトの男の子!」
ドンッと自分の部屋のドアを勢いよく閉め、カギまでかける。
ドアをはさんで向こうから、お母さんのぶつくさいう声が聞こえてくるけれど、私はもう気にしないことにした。
時計に目を向けると、時計の針は十二時三分をさしていた。
「あと一時間…」
ひとりでぽつりとつぶやいた声はひとりきりの部屋に、低く広がっていった。
「…お待たせ。雲」
「遅かったな。三十分遅刻だぞ」
「ごめん。お母さんにつかまって」
ふふ、と笑みをこぼすと、「ったくしょうがねえなあ」と雲が笑う。
「ね、遊園地ってジェットコースターとかあるとこでしょ。私、行ったことないだよね」
「奇遇だな。俺もだよ」
雲が得意げにそう言ったあと、二人で顔を見合わせて一緒に噴出した。
たどり着いた遊園地は、思ったより輝いていて。
たくさんの人がいた。
私たちは沢山の乗り物に乗った。
ジェットコースターやお化け屋敷、メリーゴーランドに観覧車。
水鉄砲広場では、雲のことをコテンパンに水をかけてあげたっけ。
また一つ。また一つと、思い出が増えていく。
そのたびに、私の想いは強くなっていく。
アイスクリームやさんに寄ったところで、六時を告げるチャイムが鳴った。
「おっと。もう帰る時間だな」
―帰りたくない。
「そうだね。足も疲れたし。ふふっ」
―まだ一緒に居たい。
「おまえと遊園地行くなんて思ってもみなかったわ」
―嫌だ。嫌だ。
「何それ。私も思ってなかったし」
「なんだよそれ」
二人で一斉に吹き出す。
ねぇ雲。
…行っちゃ、やだよ…!
「雲」
静かな道路の裏道に、私の声だけが静かに響く。
ごめんね。ごめんね。
そんな思いを何度も何度も繰り返しながら。
「ごめん。もう今日で最後にしない?」
「…は?」
ねえ、雲。
雲は世界で一番大好きな人で…
私に幸せをくれた人だよ。
「正直ちょっと面倒くさくてさあ。裏の私がバレちゃうの怖くて付き合ってきただけだし」
くるりと体を一歩引いてまわる。
そして、どんどん進んでいく。
後ろの道へ。
後ろの未来へ。
「おい!舞桜!!」
雲はただそうぶつけるだけで、追いかけて来ない。
ほんとうは、声をかけてくれることも嬉しいはずなのに。
言えない。
今、嬉しいよ、楽しいよって言えない。
もう決めたんだ。
これで“最後”だって。
目から涙があふれる。
髪の毛が吹いた冷たい風にさらわれて、四八方に散っていく。
涙も一緒に、髪と飛んでいく。
ねえ。雲。
ほんとに大好きだけど、ごめん。
これ以上は、私が壊れちゃうんだ。
雲。雲。雲。
頭の中はずっと君の顔だらけ。
けど言えない。
「大好き」って、もう言えない…!
「舞桜?ちょ…どうしたの!その顔…」
涙で濡れた私の顔を見て、お母さんは青ざめた。
「もしかして…あんた」
「ごめん、お母さん。気分悪いからもうねるね」
にっこり笑顔を作ったつもりでも、お母さんの目では、笑顔になってない私が映ってるだろう。
けれど、もういい。
今は、もういいんだ。
笑わなくていい。
泣け、わたし。
泣いて忘れよう。雲のことなんて。
ベットに寝そべった私は、熱も出ちゃうんじゃないかくらいの勢いで号泣した。
好き…好き。
雲が好き。
なのに言えない。
「好きだよ」っていうことができない。
ねえ雲。
ほんとうにごめんね。
ふとスマホに手をかざすと、雲からのラインが数件と、電話ボックスに一つ、電話の不在着信が入っていた。
全部、全部雲からだった。
【おい、どういうことだよ】
【夏休み中、俺そんなにウザかった?】
そんな謝罪のものが入っているところと、
【マジで意味わかんねえし】と暴言が入っているLINEもあった。
気づいたら、私はそれらに返信をしていた。
【ごめん。夏休み中は忙しくなるから】
震える手で送信ボタンを押した私は、既読がつくのを待つ。
数分後、既読という文字がついた直後、【わかった】とそっけないメッセージが送られてきた。
ああ、絶対嫌われた。
確信を持った私は、スマホの電源を落とし、ベットのお布団にくるまる。
世界で一番大好きな君に、取り返しのつかないウソをついた。
もし夏休みが明けて、また話せるようになったら…
絶対最初に、君に会いに行く。
絶対私は、あなたに会いに行くから。
だからそれまで、もうちょっとだけ待っててほしい。
拝啓、愛する君へ。
もう少しだけ、時間をくれないかな?
そうしたらきっと、もう一回、君に会いに行く。
たとえ、それが最後になろうとも。
私は君に会いに行く。
それが私の、“限られた時間”内の、一番大事なことだから。
頭の中で思い描いた文章を消しながら、私は机に置いてある資料を覗き込んだ。
『手遅れです』
医者の低く、生ぬるい声が私の胸に響き渡る。
ねえ、私はほんとうに…。
死ぬしか、ないのかな。
『肺がんの可能性あり、です』
そんな医者の声は、頭の中で何度もリピートした。
けど、何度だって私はそれを受け入れることができない。
ごめんね、雲…
どうしたの、と聞けば、彼は打ち明けるように小さい声でそう言った。
いや、どうして私の話になるの、と突っ込もうとしたけれど、やめた。
「…怖いの。頼ること」
私も小さい声でそういうと、彼は私をじっと見つめてから、
「そうかよ」とつぶやいた。
「…怖い。どうしようもなく、頼ることが…」
私が再度そういうと、彼は少し黙ったあと、そっと私を抱きしめた。
少女漫画だと、これは愛情表現のような感じだと思うけれど、私はちゃんと知ってる。
彼は、私を安心させようと、大丈夫だよ。と、そういうためにこうしてくれる。
全部、全部私のために。
「…私ね、小学生のころから、ずっと“できる子”としてみんなに見られていたんだと思う」
「できる子?」
「小学三年生の時、それを自覚したんだよね。きっと」
ふふ、と笑った私は、ゆっくりと話し出した。
私の過去を。
私は、きっと先生から見ても、生徒の方から見ても、優秀な生徒だったと思う。
テストはいつも百点ばかりだったし、運動も苦手ではなかった。
成績表はいつもオールAで、先生からもよく褒められた。
だから、私はできる子ということがみんなに知られていた。
なんでもできる、完璧な人。それが私の、クラスでの立ち位置だった。
けれど、三年生に上がって、難しい問題も増えてきた。
…それで、初めて、テストで九十四点を取ってしまった。
百点以外の数字なんて、誰も予想していなかった。
テストの百点のひとの名簿欄にも、私はいつの間にか消えていた。
そのとき、わかった。
周りから差された、あの驚いた目線。
あの、羨んだ視線が、一気にあざ笑う視線に変わったことを。
どれだけ頑張っても、百点を摂ることができなくなって、みんなからの信頼も、友情も消えていた。
あの頃の私は、塾に通いたいと必死で、百点を取らなきゃと必死で、ほかのことなんて何も考えていなかった。
必死な思いで作り上げた勉強能力を、みんなに披露したときは覚えている。
返されたテストは百点だった。
頬が緩むのを覚えた私は、先生に呼ばれて立ち上がった。
そして、先生はにっこり笑ったまま、私をひっぱたいた。
へこんだほほは、もう笑みなんて作れる余裕はなかった。
先生の笑みは消えて、クラスメイトもクスクスと笑っていた。
次の瞬間、先生は私に追い打ちをかけるように、こういった。
「水瀬さん。藤野さんのテスト用紙をカンニングしたでしょう?藤野さんから教えてもらいましたよ」
その瞬間、私はもう、誰も頼りたくなくなった。
塾だってサボり気味になって、必死にひとりで勉強した。
お母さんも、お父さんも頼らず、ひとりで頑張った。
勉強にプライドすべてをのせ、一筋で。
誰かを信じたって、誰かを頼ったって、相手が裏切る。相手が、私を見捨てる。それは、もうわかっていることだから。
すべてを話し終わったあと、私は笑ってみた。
いつもの笑顔を。
「あはは…笑えるでしょ。みんなに裏切られた、ただそれだけ。だから私は、誰も頼りたくなくなったの」
私は下を向いて、うつむいた。
笑うのが、つらくなったから。
ばかばかしくなったから。
「いじめをされたわけでもないし、家族がひどいっていうわけでもない。ほんとう、恵まれた家庭で、恵まれた人生のはずなのに、辛いって思う自分が、嫌い」
すう、と雲が息をのむ音が聞こえた。
「大嫌い」
私が再度つぶやくと、雲は私を離して、私の瞳を覗き込んで、そっと言った。
「…舞桜は頑張ったよ。少なくとも、俺はそう思うけど」
…決して、彼の言葉は明るい言葉じゃない。
かといって、暗い言葉でもない。
彼の言葉は、行動は、全部私のためにしてくれる言葉であり、きっと私の言葉も、私のすることだって、彼のためにすることだ。
「…雲」
「舞桜は人に認めてもらいたいんだろ?」
急な質問に、私はちょっと考えてから、頷く。
「でも、誰も信じられないよ…。それに、認めてもらうなんて、無理で…」
私がさっきより小さな声でそういうと、雲は少し優しい瞳で、私の頭を撫でた。
「俺が認めてやる。おまえは俺を信じればいい。おまえは、俺を頼ればいいんだよ」
目を見張った。
彼の言葉はいつもまっすぐで、正しくて。力強くて、正確。
「…頼って、いいの」
気づけば、そんな声が漏れていた。
「…信じて、いいの」
情けない。ほんとう、情けない声。
「…認めてくれるの」
私の目からは、また涙がこぼれていた。
くちびるから忍び込んでくるその涙はちょっぴり甘くて。
「雲…」
―ねえ、ちょっとだけ甘えてもいいかな。
その日、私は時間も忘れ、彼に甘えた。
泣いて、泣いて、泣いて。
今までの思いを全部打ち明けた。
隠してきた思いの扉を開けて、彼に全部見せた。
彼は何も言わず、私の頭を撫でて、優しく慰めてくれるだけだったけれど、私はそれが心地よくて。
チャイムが鳴っても、私たちを探す声が聞こえても。
名残惜しくて、放課後まで残り、先生に説教されたけれど。
雲は最悪、ということもなく、笑ってくれた。
一緒に帰ろうと言ってくれた。
ねえ、雲。雲はわかっているかなあ。
『おまえ、つらいって…死にたいって思うんだろ?なら俺が、世界の綺麗な部分をおまえにみせる』
この言葉が、すごく嬉しかったこと。
この言葉で、私は救われたこと。
「そう言えば、明日から夏休みか」
「そうだね」
私が相槌を打つと、「短いような長いような新学期のスタートだったなあ」とつぶやく雲。
「何それ。私とあってから長かったってこと?」
「ちげえよ」
彼は苦笑して答え、ぐしゃっぐしゃっと私の頭を撫でた。
案の定ぼさぼさになった私の髪の毛を見て、彼は今度は苦笑ではなく、大笑いをした。
あはは、と大きな声で笑う彼に、私もつられて笑ってしまった。
「ふふ。あはは」
私も笑って帰り道を歩く。
ほんとう、どうしてだろう。
雲と居ると、毎日が輝いてて。
雲と居ると、毎日が楽しくて。
雲と居ると、ちょっとだけ、生きててよかったって思える。
「ねえ、お母さん。この浴衣で大丈夫かな」
本日四回目のこのセリフに、さすがにお母さんもあきれ気味で、
「もう…大丈夫だって言ってるでしょ。お母さんを信じなさいよ」
といった。
「で、でもっ」
「もう時間よ。ほら行きなさい」
夏祭り当日。
私は初めて夏祭りへ行くため、あまり自信がないけれど、浴衣をお母さんに着付けてもらい、一歩踏み出すことを決意した。
家から追い出された私は、少し恥ずかしいけれど、胸を張っていくことにした。
カランカランと、下駄の足音が聞こえる。
六時五十六分。
夏祭り会場が開く四分前、私は会場についてしまった。
ゆらりとあたりを見渡すと、スマホをいじってる雲を発見。
「…雲、お待たせ」
彼に近づいてそういうと、彼は私を見て、一瞬で目を見開いた。
その表情がなんだかおもしろくて、ドッキリ成功、というように笑ってやると、雲は「…おまえなあ」と顔を赤くしてそっぽを向いた。
「ふふ、雲も浴衣、似合ってるよ」
青磁色の浴衣を着ている雲は、どこからどう見てもアイドルのように恰好いい。
「サンキュ。まあこれ、自分で着たわけじゃないんだけどな」
私も、と漏らして、二人で笑う。
―こんな毎日が、ずっと続けばいいのにな。
そう思いながら、私たちは二人で会場が開くのを待った。
ちなみに、私の服は空色のアサガオと白いアサガオがのせられている、薄紫色の生地に、髪型は横髪は残し、お団子で結んでいる。
「この祭り、花火上がるらしいぞ。十時ごろ」
「えっ。花火?」
思いもよらなかった単語に、目を輝かせた私は、雲にずいっと寄る。
「すごいっ。海の方でしょう。会場から近いもんね」
「まあ、そうだろうな」
私の勢いに圧倒されながら雲が答えると、私の瞳はますます光が強まる。
「綺麗なんだろうなあ。私、花火なんて見たことないんだよね。ねえ、花火ってどんな感じ?綺麗なんでしょう。音もすごく大きいって聞いたことある!」
私がそう聞くと、雲は楽しそうに答えてくれた。
「確かに空に咲く火の花っていうのが一番わかりやすいと思うけど」
「空に咲く、花?」
「そう。花だよ。青とか水色とかオレンジとか赤色とか。いろんな色の」
彼は心底楽しそうだった。
きっと、雲も花火を見るのが楽しみなんだろうと、そう思った。
「うわあ」
始めてみた夏祭りの景色は、色づいていた。
色んな屋台が並んでいて、いろんなひとがいて。
すごくにぎやかで、商店街のようだった。
「どっから行きたい?」
雲が楽しそうにそう言って、私の背中を押した。
震える足取りで最初向かった屋台は、「焼きそば」と書かれた屋台。
「…おまえさぁ、ほんとに女子なの」
「しっ、失礼な。私だって焼きそば好きだもん」
私がそう言い張って、焼きそば小ください、と注文すると、雲も、「じゃあこいつと同じ奴で」と頼んだ。
数分後、中から出てきたお兄さんが、「ほらよ」と焼きそばを手渡ししてくれた。
「んっー!おいしい!」
一口口に入れただけで、そんな感想が飛び出る。
「だろ?ここの焼きそば、いつもめちゃくちゃうめえんだよ」
雲は得意げにそう言ったあと自分も焼きそばにかぶりつく。
次向かった屋台は、金魚すくいの屋台だ。
「せっかくだから、勝負しようよ。雲」
「おう。いいぜ。じゃあ負けたやつが好きなやつおごってもらうってことで」
雲も珍しく乗ってきたので、がぜんとやる気がわいてきた。
私はおじいさんの、「スタート!」という掛け声とともに、自分のポイを水へと一直線へ。
「…なんだ、同点か」
結果を見てがっかりしたのは私だけではないようだ。
向こうもだいぶ自信があったのか、はあ、と盛大なため息をついている。
「じゃあお互いおごろうよ。それでいいでしょう」
「…気に食わねえが。まあいいだろ」
了承してくれた雲は、ふ、と笑っていて。
私はなんだかうれしくなって、「じゃ、あれにする」と赤い屋台を指さした。
「りんご飴?」
「ずっと食べて見たかったの。ねえ、いいでしょう?」
そう言って彼を見上げれば、「しょうがねえな」と笑う彼の横顔があった。
「おっちゃん。りんご飴ひとつ」
「おう」
彼はおじいさんにそう呼びかけ、「じゃあ俺はあれな」と指さした。
彼の指の先にあったのは、「ペアキーホルダー」のお店。
「お母さんと交換するの?」
私がそう聞くと、「いいや」と首を振る雲。
「おまえと俺で交換するんだよ」
「えっ?」
思わず間抜けな声を出した私は、一瞬何を言われたか理解できなかった。
「わっ、私と?」
「そうだよ。夏祭り記念」
そう言って笑った彼は、「ほら」とりんご飴の棒を差し出してきた。
「あ…ありがとう」
りんご飴の袋を開けながら、私はそうお礼を言う。
りんご飴を口に入れると、りんごの甘みが広がった。
「んっ…おいしい」
「だろ?」
はは、と笑いながらキーホルダー屋さんへかけていく雲を追いかけながら、私はりんご飴の味を味わう。
「どれがいい?」
そこを営業しているお姉さんがそういうと、もう彼は目当てが決まっていたかのように、「これで」と、クローバーの半分部分のキーホールダ―を手に取り、もう片方の方を私に渡した。
私は代金の三百円をお姉さんに私、二人でそこを去る。
「…ありがとう。すごく、嬉しい」
想ったことを口にすると、「馬鹿野郎」と苦笑する雲。
「そろそろなんじゃねぇか?花火」
そのあと、射的やイチゴ飴の屋台なども回っていくと、もう十時手前の時間になっていた。
「ほんとだ…!でも、多分もうよく見えるほうはひと多いよね。どこ行く?」
「近くに砂浜あるんだよ。そこから綺麗に見えると思う」
彼はこっちだったような、とあやふやに進んでいく。
人も多くなってきた時間帯なため、人込みを分け進んでいくしかない。
「すみません、すみません」と謝りながら進んでいくと、急にひとがいなくなった。
「きゃっ」
砂に足を取られ、転びそうになると、「おっと」と雲が支えてくれる。
「あ、ありがと」
お礼を言うと、「おう」と彼は笑って、砂浜の方へと走り出した。
私も必死に後を追う。
砂浜に二人で座り込んだとき、ひゅるる、と音が鳴った。
「もう始まりそうだな」
少しわくわくした声で彼が言う。
そんな言葉を聞いて、私もなんだか想像以上に、楽しみになってきた。
「うんっ…!」
私が頷いたとき、空に大きな音と共に、赤色の花が咲いた。
ひらりと開いては消え、そしてまた新しいのが生まれて消えていく。
暗い夜空に、たくさんの光る花が咲いていく。
―目が、離せなかった。
綺麗だ、と隣にいる雲が声を漏らした。
私も声を出そうとして…出せなかった。
勿体ないと思ったんだ。
私の声なんて、この花火にはもったいない。
今しゃべらなくたって、きっとあとで感想を告げることができる。
そう信じて、私は瞬きもせず、花火を見た。
色とりどりの、大きな円を描くそれは、何度も何度も、咲いては散って、咲いては散って、を繰り返していた。
「…雲」
しゃべらないと決めたのに、思わず声がこぼれてしまう。
今、言いたくなったんだ。
もし後でいう機会があったとしても。
もし後で、彼に聞かれたとしても。
私は、今言いたくなった。
「綺麗だね…!!」
はしゃぎたくなるような、遊びたくなるような、そんな目で、私は彼の目を、淡い瞳を覗き込んだ。
「これが、花火なんだ…」
止まろうとしても、もう止まれない。
私は、言いたい。
雲に、私の気持ちを。
「いろんな色があって、いろんな大きさもある。本当、花みたい」
私の声は、花火の音と共にかき消されるけれど、きっと彼には聞こえてる。
返事はしてくれないけれど、私はそう確信する。
「…綺麗…だね」
ポロッと、涙があふれ落ちた。
優等生で居なきゃなんだって、都合のいい女でいなきゃいけないって必死で、自分のことなんてどうでもよくて。
想ってることも全部隠して、笑顔を作ってきた。
…でも。
今、私は生きてる。
私は今、彼と同じ世界を、この美しい花火が打ちあがる世界で、生きてる。
なんだかそれがくすぐったくて、それと同時に、たまらなく嬉しくて。
雲と同じ世界を見てる。
雲と同じ世界を生きてる。
「…口を閉じれば何も言えないように、心を閉じれば、何も伝わらない」
ふと、雲は自慢の低い声でそう言った。
「おまえは今、死にたいって。辛いって思うか」
そんなの、決まってる。
「生きたいよ。雲がいるこの世界で、花火が打ちあがる、この世界で」
私はにっこり笑って、彼に想いをぶつけた。
このときはじめて私は、“生きててよかった”って、“生まれてきて、よかった”って思った。
雲は知らないだろうなあ。
私が雲の言葉で、どれだけ救われたか。
「ほんと、おまえって頑固だよなあ」
「大丈夫。俺がいる」
「なら俺が、世界の綺麗な部分をおまえにみせる」
「…舞桜は頑張ったよ。少なくとも、俺はそう思うけど」
「俺が認めてやる。おまえは俺を信じればいい。おまえは、俺を頼ればいいんだよ」
全部、全部。私の大切な思い出…。
あふれてくる涙は止まらない。
けど、今だけはいいと思った。
花火が咲いてる、この時間だけは、
“泣いていい時間”にしよう。
夏祭り終了のアナウンスが鳴ったあとも、私は浜辺でじっとうずくまっていた。
雲はひとりで海辺をいったりきたりして、私が買ってあげたキーホルダーを眺めている。
あのときの感動と思い出を忘れないように、大切に心にしまえるように、私は目を閉じて願った。
どうか明日になっても、明後日になっても、一年先になっても、この日のことを忘れないように。
ねえ、雲。
届かない声で、私は彼に呼びかけた。
…好きだよ。
にこりと笑った目元からは、涙が一滴、鼻筋を通って落ちてきた。
私は泣いてばかりだなぁ。
「…俺はさ」
私が涙のあとを消していると、雲が低い声でぽつりといった。
「伝えたかったんだよ。舞桜に、世界の美しさを」
ぽつ、ぽつと吐かれたその言葉は、雨のようにじっと私の想いにしみ込んでいく。
「世界が、どんだけ綺麗なもので、世界が、どんだけ儚い者かっていうのを、伝えたかった。どうしても」
ゆらりと揺れる彼の黒髪は、月明かりに照らされて輝いた。
私と雲の目が合う一秒。
体と体が触れ合った瞬間、すべてが夢のようにも思えた。
今私は生きている。
今私は彼の胸の中にいる。
彼のたくましい腕が私の背中に回され、ぎゅうぎゅうと締め付ける。
「…ねえ雲」
「あ?なんだよ」
いつもの暴言を吐く彼は、やっぱりいつもの雲で。
…ちょっとだけ、嬉しい私は馬鹿野郎より馬鹿かもしれない。
「…もうちょっとだけ、こうしてていい?」
彼の答えは、帰っては来なかった。
その代わり、回された腕の力が、さっきよりも強くなった気がした。
片方の手が私の頭に伸びて、優しくなでてくれた。
「ねえ雲」
「なんだよ」
さっきと同じような会話に笑いながら、私は言葉を紡いだ。
「シャボン玉、またしようね」
「おう」
今度は、低く、太い声が、ちゃんと私の耳にも届いた。
ねえ、雲。
私は心の中で、もう一回、彼の名前を呼んだ。
静かな砂浜で、誰にもばれないように流した涙の味は、体育館と同じ味。
けど、あの時の感情とは違う意味だということが、私にもちゃんとわかった。
―ごめんね、雲。
心の中で、もう一回だけ、彼の名前を呼んだ。
―雲と出会えて、ほんとうに幸せだったよ。
「ありがとう」
つい零した声に、雲は不思議そうにうなずくだけだったけれど、反応をもらえたことが嬉しくて、嗚咽を漏らしそうになって慌ててこらえる。
やっぱり、世界はきれいだ。
残酷なほど、綺麗だって思う世界は、やっぱり綺麗だ。
雲がいるこの世界で、“今”、私は生きてる。
その喜びをかみしめながら、私は今日をやり切った。
涙は止まらぬままだったけれど、でもきっといつかは止まる。
私はそう確信できた。
「雲…」
ひとりきりの部屋で、彼の名前を呼んで眠りに落ちた私は、これからどうなることも知らずに、のうのうと生きてる。
けれども、ただ一つ言えることは…
この日、私は人生で一番、幸せな日だったと言えるということだ。
【おはよう】
夏祭りの次の日、朝十時三十分。
いつもより早めに起きることができた私は、何もすることもないので、雲に連絡することにした。
何がおはよう何だろう…。と思いつつも連絡をしてみる。
何もやり取りをしていないLINEの部屋に、私のメッセージだけが表示されている。
と、思いきや。
いま、この瞬間、彼から返信が届いて、メッセージが二つに増えている。
【おはよ】
そっけない雰囲気を持つそのメッセージは、やっぱり雲らしくて笑ってしまう。
【何してる?】
そう再度連絡を入れると、彼からは【何も】と返ってきた。
【私も。暇だよね。何もすることないや】
送信ボタンを押して、桃色のうさぎスタンプもついでに送ると、彼はたぬきの笑ったスタンプを返してくれた。
【じゃ、どっか行く?】
ベットから飛び起きた。
スマホを持つ手も、文字を打とうとした手も震えてくる。
自分の指が震えるのを笑いながら、そんな手を必死に動かして、
いいの?と打って送信。
【おう。神社の近くに遊園地あるだろ。そこ行こう】
遊園地という予想もしてなかった単語に驚きつつも、【いいよ】と返し、【一時桜木公園集合な】と送られてきたものをスクショして保存。
私はベットから跳ね起きて、パジャマから普段着へ着替えた。
歯磨きと顔洗いを済ませ、髪の毛をセットし始める。
いつものハーフアップを結んでから、少しだけ化粧で目と口を整える。
気合いれすぎかな、とも思いつつ、鏡の前でゆらりと体を回して、おかしいところがないか確認!
気合は入れすぎだけど、まあまあのできになった。
「あら、どうしたの?舞桜。出かけるの?」
階段を上ってきたお母さんが驚いたようにそう口にした。
「…う、うん」
私が頷くと、「へえ。どこに行くの?」と興味津々になるお母さん。
「…遊園地」
「あらぁいいじゃない。お友達でしょう。女の子?男の子?」
「…く、クラスメイトの男の子!」
ドンッと自分の部屋のドアを勢いよく閉め、カギまでかける。
ドアをはさんで向こうから、お母さんのぶつくさいう声が聞こえてくるけれど、私はもう気にしないことにした。
時計に目を向けると、時計の針は十二時三分をさしていた。
「あと一時間…」
ひとりでぽつりとつぶやいた声はひとりきりの部屋に、低く広がっていった。
「…お待たせ。雲」
「遅かったな。三十分遅刻だぞ」
「ごめん。お母さんにつかまって」
ふふ、と笑みをこぼすと、「ったくしょうがねえなあ」と雲が笑う。
「ね、遊園地ってジェットコースターとかあるとこでしょ。私、行ったことないだよね」
「奇遇だな。俺もだよ」
雲が得意げにそう言ったあと、二人で顔を見合わせて一緒に噴出した。
たどり着いた遊園地は、思ったより輝いていて。
たくさんの人がいた。
私たちは沢山の乗り物に乗った。
ジェットコースターやお化け屋敷、メリーゴーランドに観覧車。
水鉄砲広場では、雲のことをコテンパンに水をかけてあげたっけ。
また一つ。また一つと、思い出が増えていく。
そのたびに、私の想いは強くなっていく。
アイスクリームやさんに寄ったところで、六時を告げるチャイムが鳴った。
「おっと。もう帰る時間だな」
―帰りたくない。
「そうだね。足も疲れたし。ふふっ」
―まだ一緒に居たい。
「おまえと遊園地行くなんて思ってもみなかったわ」
―嫌だ。嫌だ。
「何それ。私も思ってなかったし」
「なんだよそれ」
二人で一斉に吹き出す。
ねぇ雲。
…行っちゃ、やだよ…!
「雲」
静かな道路の裏道に、私の声だけが静かに響く。
ごめんね。ごめんね。
そんな思いを何度も何度も繰り返しながら。
「ごめん。もう今日で最後にしない?」
「…は?」
ねえ、雲。
雲は世界で一番大好きな人で…
私に幸せをくれた人だよ。
「正直ちょっと面倒くさくてさあ。裏の私がバレちゃうの怖くて付き合ってきただけだし」
くるりと体を一歩引いてまわる。
そして、どんどん進んでいく。
後ろの道へ。
後ろの未来へ。
「おい!舞桜!!」
雲はただそうぶつけるだけで、追いかけて来ない。
ほんとうは、声をかけてくれることも嬉しいはずなのに。
言えない。
今、嬉しいよ、楽しいよって言えない。
もう決めたんだ。
これで“最後”だって。
目から涙があふれる。
髪の毛が吹いた冷たい風にさらわれて、四八方に散っていく。
涙も一緒に、髪と飛んでいく。
ねえ。雲。
ほんとに大好きだけど、ごめん。
これ以上は、私が壊れちゃうんだ。
雲。雲。雲。
頭の中はずっと君の顔だらけ。
けど言えない。
「大好き」って、もう言えない…!
「舞桜?ちょ…どうしたの!その顔…」
涙で濡れた私の顔を見て、お母さんは青ざめた。
「もしかして…あんた」
「ごめん、お母さん。気分悪いからもうねるね」
にっこり笑顔を作ったつもりでも、お母さんの目では、笑顔になってない私が映ってるだろう。
けれど、もういい。
今は、もういいんだ。
笑わなくていい。
泣け、わたし。
泣いて忘れよう。雲のことなんて。
ベットに寝そべった私は、熱も出ちゃうんじゃないかくらいの勢いで号泣した。
好き…好き。
雲が好き。
なのに言えない。
「好きだよ」っていうことができない。
ねえ雲。
ほんとうにごめんね。
ふとスマホに手をかざすと、雲からのラインが数件と、電話ボックスに一つ、電話の不在着信が入っていた。
全部、全部雲からだった。
【おい、どういうことだよ】
【夏休み中、俺そんなにウザかった?】
そんな謝罪のものが入っているところと、
【マジで意味わかんねえし】と暴言が入っているLINEもあった。
気づいたら、私はそれらに返信をしていた。
【ごめん。夏休み中は忙しくなるから】
震える手で送信ボタンを押した私は、既読がつくのを待つ。
数分後、既読という文字がついた直後、【わかった】とそっけないメッセージが送られてきた。
ああ、絶対嫌われた。
確信を持った私は、スマホの電源を落とし、ベットのお布団にくるまる。
世界で一番大好きな君に、取り返しのつかないウソをついた。
もし夏休みが明けて、また話せるようになったら…
絶対最初に、君に会いに行く。
絶対私は、あなたに会いに行くから。
だからそれまで、もうちょっとだけ待っててほしい。
拝啓、愛する君へ。
もう少しだけ、時間をくれないかな?
そうしたらきっと、もう一回、君に会いに行く。
たとえ、それが最後になろうとも。
私は君に会いに行く。
それが私の、“限られた時間”内の、一番大事なことだから。
頭の中で思い描いた文章を消しながら、私は机に置いてある資料を覗き込んだ。
『手遅れです』
医者の低く、生ぬるい声が私の胸に響き渡る。
ねえ、私はほんとうに…。
死ぬしか、ないのかな。
『肺がんの可能性あり、です』
そんな医者の声は、頭の中で何度もリピートした。
けど、何度だって私はそれを受け入れることができない。
ごめんね、雲…