「…あのなぁ。俺だって意地悪で言ってるわけじゃないんだよ。わかるだろう。おまえなら」
「はい」
私はにっこり笑ってそう答えた。
「……話にならない。次の間に、また進路表出してなかったらこうやってまた呼び出すからな」
「…わかりました」
私は失礼しました、と伝え、教務員室を出た。
はあ、と思わずため息が出てしまう。
私の名前は水瀬舞桜。
舞う桜と書いて、舞桜だ。
「あっ、水瀬さん!ここ教えてくれない?」
教室に一歩足を踏み入れると、水瀬さん、水瀬さん、とクラスメイトに囲まれた。
けれど、思いとは裏腹に、「うん、いいよ」と言葉が漏れる。
今日も私はウソをつく。
それが私の演じ方。
それが私のやりかただから。
クラスメイトはほとんど、私のことを信用しきっている。
けれど、たったひとり、私のことを嫌いだと言うひとがいる。
「うっせぇな」
こちらをにらんで、低くつぶやいた彼…夕凪雲くん。
「もう!ほんとう、雲は舞桜のこと好きだよね」
「はあ?ちげぇし」
そう、コイツが、私の一番大嫌いなひと。
「俺は水瀬のこと嫌いだって言ってんだろ。優等生気取りしてる奴なんて大嫌いだ」
夕凪は…もう名前も思い出したくもないけれど。
こうやってひとのことをバカにして、嫌いな人は嫌い、嫌なことは嫌、というのだ。
正直者というか、バカ正直というか。
そんなひとである。
けれど、絶対顔にも、声にも出さない。
私は、“優等生”だから。
彼とは違って。
「ふふ、今日も夕凪は辛辣だ~。正常そうで何よりです」
そう言って微笑むと、彼はうげえ、と顔をしかめ、大きな声で叫んだ。
「はいはい、また始まった。優等生気取りかってんだよ」
その言葉に、私の顔も、多分一瞬ひきつってしまったと思う。
“優等生気取り”。
そんな言葉は、さすがにひどい言葉だと思う。
けれど、絶対言わない。
彼を傷つければ、彼のファンクラブに殺されてしまう。
夕凪は、真っ黒な黒髪に、大きな瞳、薄い桃色の唇、すらりと伸びた高身長。
まるでアイドルのような容姿に、女子生徒が黙っているはずもない。
そして、一年もたってしまえば、もうファンクラブまでできてしまった。
ギラリと光る瞳が、私のことを凝視している。
その視線がつらくて、私は思わず彼から目をそらした。
その次の瞬間、「席つけ―」と言いながら教室に入ってきた先生と遭遇した。
そのおかげで、彼の視線から逃れることができた。
放課後、私は塾へ向かうために急ぎ足で教室を出た。
早く帰らなきゃ、早く、という言葉が、頭の中でずっと回転していて、止まらなかった。
なのに。
「…っ」
廊下を急ぎ足で進んでいると、スマホゲームで遊んでいたのか、イヤホンを耳につけ、スマホを片手に歩いていた、夕凪にぶつかった。
「あ?」
彼は私がぶつかったのに気づいて、イヤホンを外し、低身長の私を見下ろす。
「…ごめん。今急いでて、通してくれない?」
私がそう言ってパンッと柏手を打つと、彼は「チッ」と舌打ちして、再度イヤホンを耳につけ、去っていった。
今回ばかりは彼につかまることがなくてよかった、と少しほっとしながら、私は靴箱へと足を運んだ。
「え…うそでしょ」
靴箱について、靴に履き替え、外に目を向けたとき、はじめて、ザアーと音を鳴らしながら、雨が降っていることに気づいてしまった。
今日は天気予報でも晴れだと予想していたため、傘なんて持ってきていない。
「最悪…」
誰もいない靴箱でそう呟いたあと、教務員室で傘を貸出しているか確かめに、再度元来た道を戻る。
廊下を歩きながらも、塾のことが頭でぐるぐる回る。
早くしなきゃ、という焦りが私の額を濡らす。
体温が上がってくるのが分かる。
ドクドクと心臓が嫌な音を立てている。
それくらい、私は焦っていた。
窓に目を向けると、やっぱり雨は止まない。止む気がしない。
「…どうしよう」
気持ちが悪くなって、思わずそこにうずくまる。
うっ、と思わず口に手を当てて、悟られないように立ち上がる。
壁に体重を預けながら、廊下を進んでいく。
幸い、通り過ぎていく人たちは私には気づいていないようで、ほっとした。
もうすぐ教務員室につく、と思ったとき、にゅと効果音でも出そうな勢いで、夕凪が私の視界の全面を体で隠す。
「え…夕凪?」
思わず声を漏らすと、「黙れ」と低い声が上から降ってくる。
次の瞬間、ぎゅっと腕をつかまれ、薄暗い教室に引っ張られた。
びちゃびちゃと雨の音が聞こえる薄暗い教室は、どんよりとした雲で、さらに暗くなっていた。
鍵が置かれていないことから、ここは空き教室なんだということが分かった。
「…どうしたの、急に」
まるで告白する直前のようなシチュエーションなはずなのに、相手が夕凪ということと、頭の痛みと気持ち悪さが押し寄せ、集中できない。
思わず再度口を覆うと、彼は顔をしかめ、「はあ」とため息をついた。
「ほんと、おまえって頑固だよなあ」
「…な、んのはなし。帰りたいんだけど…」
私がそう言って教室のドアの方をちらりと見ると、夕凪は「チッ」と舌打ちをしたあと、「ほんとう、おまえ不器用だよな」と低い声でつぶやく。
「気分悪いんだろ。おまえがいくべきとこは教務員室じゃなくて保健室じゃねえのか」
どうして。と声に出そうになって、思わず止めた。
なぜ、彼にはわかったんだろう。
笑顔も作った。
隠し通したつもりだった。
口元を抑えて、ちょっと会話したくらいなのに。
どうして彼には、私のウソが見抜けるんだろう。
「…早く帰りたいの。今日塾で模試があってね。早くいかなきゃいけないの。だから…通してくれない?」
もう一度お願いしてみると、「無理」と即答されてしまった。
どうやら、当分私を返す気はないようだ。
「はあ。ほんと、おまえは俺の気遣いがわかんねぇんだな」
「気遣い?」
思わず低い声で呟いてしまった。
どこが気遣いなんだ、と思ってしまったから。
「そうだ。俺がなんでわざわざ空き教室なんかに来たと思う?おまえが人に見られたくないんだろうなと思ったからだよ。なんでこうやっておまえに付き合うと思う?俺がおまえのこと嫌いだからだよ。だから俺がいうしかねぇだろうが」
「…」
あまりにもはっきりした口調に、私の方が驚いてしまった。
「…嫌いなら、どうして私と関わるの。嫌いなんでしょう?わたしのこと。なら放っておけばいいと思うけど」
私が理屈をいうと、彼はあきれたようにつぶやいた。
「おまえ、バカなの。嫌いだから、俺が言うしかないんじゃねえか。おまえは俺にしか本性みせねぇだろ。おまえは俺のこと嫌いだろ」
「え」と思わず声がこぼれた。
知られていた。
嫌いだということが。
苦手意識をしているということが。
「おまえ、ほかのやつに大丈夫とか言われても、笑顔で大丈夫とかしかいわねえじゃねえか。なら、嫌われてる俺が、おまえを救いに行く。それだけだよ」
「…それだけ?ほんとうに、それだけなの?」
思わず食いついてしまった私は、ハッとして一歩下がる。
彼は目をまんまるにさせ、次の瞬間、ぷっと噴出した。
「ふっ。ははは」
笑う彼に、私は再度気分が悪くなったけれど、どうしても彼が離れてくれないから、もう諦めた。
スマホを取り出して、「ごめん、今日塾いけない。カサ忘れて遅れちゃう」とお母さんに連絡した。
「連絡し終わったなら、もう安心だろ。保健室行くぞ」
そう言って再度私の腕をつかんだ彼に、「ちょ、ちょっと待って!」とさけぶ。
「あ?なんだよ。触らないで、とか言われてもしょうがねえよ。女子だから嫌だとか、そういうのは受け付けてねえぞ」
彼は淡々とした口調でいい、教室を出ようとした。
けれど、私は再度、「待ってってば」と叫び、彼の前に立ちふさがる。
「…私、帰る。もう結局塾には遅れちゃうけど…帰らなきゃ」
私がそういうと、彼は面倒くさそうに「はあ?俺が返すわけねえだろ」と適当に答えた。
「……」
「なんだよ。めんどくせぇなあ」
確かに、面倒くさいと思う。
それくらい、私は面倒くさい女だ。
けれど、違う。
帰りたいのも、違う理由だ。
もう結局塾はお見送りとなってしまった今、もう保健室に行くしか選択肢はないだろう。
けれど、ダメ。どうしても、無理なんだ。
「…無理、だよ。クラスメイト達に見られるの、恥ずかしい…。弱い自分を見せたくない」
私がそういうと、彼は口角をニヤッと上げて、高々と宣言した。
「そうかよ。なら早く言えよな」
彼は制服の上から来ていたパーカーを、いきなり脱ぎだした。
パーカーの下から、真っ赤なネクタイが顔を出す。
白色の半袖制服に黒いズボンは、生き生きとしているようだった。
彼は「ん」と私の前にパーカーを突き出した。
「え…?」
私が困惑していると、彼は「着ろって」と声を荒げる。
私は言われた通り、突き出された紺色のパーカーを着た。
ダランと袖が落ちて、私の膝のちょっとうえまで堕ちてきたパーカーのポケット。
「じゃあフードもかぶれよ。それならバレねえだろ」
「…でも、これじゃあ夕凪と一緒に居るからバレちゃうよ」
「妹だって言っておけばいいだろ。まあ、いいじゃん。でよう」
彼はそう言って、再度私の長い袖をぎゅうと握り、教室を出た。
廊下を歩いているうちに、数々の視線が私に突き刺さる。
ひそひそと、「あの子は誰だろう」「夕凪に彼女できたのか!?」という声が聞こえてくる。
「……夕凪」
私が思わず不安になって彼に問いかけると、彼は私を見下ろして、ゆっくりと頭を撫でた。
「大丈夫。俺がいる」
ゆっくりとつぶやいた彼の言葉は、痛いほど私に染みた。
―「大丈夫」という言葉が欲しかった。
急にそんな思いが生まれ、全部真っ暗に変わったような気がした。
―舞桜ならできるよ
―舞桜が居れば安心だよね
そんな期待を裏切ったときの目線が怖くて、私はなるべく目立たないように生きてきたつもりだった。
けれど、中学三年の時、うっかり私は、テストで満点を取って、クラスで表彰されてしまった。
みんなの注目を浴びた私は、あのとき、こういってしまったんだ。
『簡単な問題だった』と。
自慢したわけじゃない。
けれど、その言葉は瞬く間に学校中に広まって、気づけば私の学校での立ち位置は、「天才」「優等生」というありきたりな言葉が並べられていた。
だから、求めていた。

「大丈夫」「頑張ったよ」「もう休んでいいよ」「完璧じゃなくていい」「舞桜は舞桜だから。他の誰でもない。舞桜は舞桜自身だから」
「舞桜のせいじゃないよ」

―そんな言葉を求めていた。
けれど、誰も言ってくれなかった。
だから私は、自分で自分に言い聞かせたんだ。
綺麗ごとを並べて。

みんなつらいと思う。
けれど、“みんなつらいんだから”とひとまとめにされることが、みんなと一緒にされることが、何より嫌だ。
私はきっと、誰かを求めていた。
私の前にたって、守ってくれるような、おうじさまを求めていた。
勝手な想像を押し付けたひとたちを、私は「好きな人」って呼んでいた。
――辛いって言えないことが、なによりつらかった。

「…せ。なせ」
遠くから、暗闇から、夕凪の声が聞こえる。
多分水瀬、と呼んでいると思う。
けど、返事ができない。
言葉が詰まって、動かない。
その、次の瞬間。
「舞桜!!」
ハッと、現実世界に戻ってきたような気がした。
「…え」
「保健室のせんせー、外出中らしい」
「あ、そう、なんだ」
「まだお前、帰れねぇな」
夕凪はすました顔でそう言った。
夕凪はもう帰るの、なんて言えない。
「……そう。じゃあ夕凪は帰っていいよ。ひとりで待ってるから」
「はあ?帰るわけねぇだろ」
「…えっ?」
正直、「ああ、そうするわ」とか、そういうあっさりとした言葉をもらうと思っていた。
「俺が帰ったらおまえを見張るやつが居ねぇだろう」
「見張るって…」
「おまえいつ帰るかわからねぇからな」
「…そっか」
思いとは裏腹にそっけない言葉を発してしまう。
いつもそうだ。私は、頭で考えていることと裏腹な言葉をずっと言ってしまっている。
「…おまえさ。いつからそうなったんだよ」
「え?」
急に夕凪は低い声でそう言った。
「いつから、そんなんになったんだよ」
どうして…彼は、私の気持ちをいつも見抜くんだろう。
「…中学生のころ、かな」
他愛もない会話のように聞こえる私たちの会話は、思うより重たく、決して軽々とする言葉なんかじゃない。
「…へえ」
「夕凪はいつも私のことののしるよね。そんなに私のこと嫌い?」
「…俺はつらいって思うやつが必死に笑顔作る理由、知ってんだよ。だからかも知れねぇな。辛い、苦しいって思うやつほど、それを隠そうとするんだよ」
彼は淡々とした口調だった。
いつもそう。彼の言葉には、迷いもない言葉ばかり。
「…」
「おまえは全部当てはまってるだろ」
「…そうかな」
「そうだよ」
そのとき、ガラガラと保健室の扉が開き、白衣を着た先生が現れた。
「あら。夕凪くんじゃない!」
「ああ。こんちは」
夕凪が低い声でそう言ったあと、先生の視線は私の方に来た。
「あら。夕凪くんの彼女さん?」
「あ?そんなわけねぇだろ」
「もう高校生なのよ~?恋なんていくつもするものよ」
彼女たちは楽しそうに会話をしている。
そんな中、私は二人の間でぽつんと立ち尽くすだけだった。
「ああ、ごめんなさいね。どこか悪いの?」
「こいつ気持ちわるいんだってさ」
「あら。大丈夫?どこか痛いところは??もう、教務員室にいたんだから呼んでくれればよかったのに。気持ち悪いんでしょう。熱は…ないみたいねえ」
私の額を触りながら、先生はそう言った。
「あ…えっと」
「ごめんなさいねぇ。早く来ればよかったわよね」
「い、いえっ…大丈夫です」
私がそう答えると、夕凪にギロりと睨まれた。
「…えっと、どうすればいいですか?」
「とりあえず、ベットで寝ましょうか。気持ちが悪いなら、休むのが一番よ」
「ありがとうございます」
私はカーテンを開け、ベットに寝そべった。
「休んどけよ、そこで」
カーテン越しに夕凪が言う。
「…うん。ありがとう、夕凪」
私がそういうと、夕凪はびっくりしたように後ずさったあと、
「雲って呼べよ」
ボソッとつぶやいた。
「えっ?」
「くも。他のやつらにそう呼ばれてるから」
カーテンの光が反射して、彼の影が見える。
「わかった。じゃあ、私のことも舞桜って呼んでね」
「はあ?なんで」
「仕返し」
私はにぃ、と笑って、「おやすみ」と毛布に顔をうずめた。

次の日、私の体調は回復していて、いつものように学校に通うことができた。
「あっ。おっはよ!舞桜」
「おはよ、静歌」
親友の静歌に声をかけられ、私も笑顔で返す。
「…あ」
そして、後ろにいる夕凪…雲の姿も見えた。
「雲…」
「おはよ、舞桜」
彼は眠そうに顔をしかめながら挨拶してくる。
「おっ、おはよう」
思わず返事をすると、彼はおう。と答えて自分の席に移動する。
「え、え。どういうこと!?」
静歌が驚いたように顔を上げた。
「…あー。なんやかんやあって、ちょっとだけ仲良く、なったかも」
私がそうつぶやくと、「へえ…そうなんだ」と答えた静歌は、ゆっくりと自分の席へと戻っていく。
ひとり取り残された私は、そのあとも何人かに声をかけられたけれど、普通の顔で通り過ぎることができた。

「…」
「だからさあ。おまえだけ進路表出てないんだよ。やりたいことないのか?」
「…」
放課後、再度進路について教務員室に呼ばれた私は、先生に詰め寄られていた。
「例えば、好きなものとか」
「私は、あまり…」
「じゃあ趣味とか」
「…ない、です」
私がそういうと、はあ、と盛大なため息をついた先生。
「おまえさあ。ほんとう無能だな」
「すみません」
笑顔は作ってる。
けれど、本心は無能、と言われて傷ついていた。
「おまえは勉強も運動もほかのやつより上手くできてるからさ、わかるだろう?先生、おまえのこと嫌いってわけでも、イジメたいってわけでもないんだよ」
「…わかってます」
「なら、いいだろう。来週まだ提出してなかったら、もう一回呼び出すからな」
「わかりました」
私がそう言って、失礼します。と言って教務員室を出ると、目の前には雲の姿があった。
「わっ…」
「おまえ、まだ進路表出てねえの?」
「…うん。何したいとか、よくわかんなくて」
私がそう言って笑うと、彼は顔をしかめた。
「へえ」
「…雲はどうしてここにいるの?」
私がそういうと、雲は思い出したように、ポン、と手をたたいた。
「そうだそうだ。おまえ探してたんだよ」
「…え?私?」
人違いじゃないかな、と一瞬疑うほど、彼の言葉はまっすぐで、ウソがない。
「おう。今日の五時、桜木公園で待ち合わせしよう」
彼には似合わない、“待ち合わせ”という単語に、私は思わず目を丸くさせた。
「どういうこと…?」
「まあ、行けばわかるよ」
そう言って教えてくれなかった雲は、じゃあな、とこぼして廊下を歩いていく。
五時、桜木公園。
なんだか妙に嬉しくて、私は思わず笑みを作っていた。

薄暗い空は、決していい天気とは言えない。
けれど、私の気分は上がっていた。
ふわり、とスカートが揺れ、弾むように動く足。
風に揺られて、私の薄茶色の髪がなびく。
「雲、お待たせ」
桜木公園に足を踏み入れると、少し開けたところの一番端っこのベンチで、雲はなにか作業をしていた。
「おう。もう五分近く待ってんだけどな」
そう言って笑った雲に、「そんなに遅れてないし」と唇を尖らせる。
「それで、どうしたの。何か緊急?」
「いいや。おまえが喜びそうなもん持ってきた」
彼はニヤリと笑ってそう言った。
「え?雲が?」
思わずそういうと、彼は「うっせえ」と笑って私の頭を撫でた。
「じゃ、行くぞ!」
彼の声は弾んで、空へと飛んでいく。
そのとたん、雲が動いて、桜木公園に太陽の光が差した。
ふぅーと音でも出そうな勢いで、彼はストローを吹いた。
ゆっくり作られる“あわ”は、そのまま空へと飛んでいく。
「え」
思わず漏らした声に、「ドッキリ成功」といたずらっ子のような笑みを浮かべる雲。
再度彼がストローを吹くと、小さいあわや大きいあわ、そのあわが空へ飛んでいく。
「シャボン玉…?」
私がそう言って彼を見ると、彼は「おう」と低い声で答えた。
「やってみるか?」
彼はポケットからもう一本ストローとビンを取り出して、私に渡した。
「…ありがとう」
私はそのストローに口を近づけ、ビンにストローを押し付ける。
ふぅ、と息を流し込むと、ストローから小さいあわが飛び出た。
「おお、上手いじゃねえか」
「ありがと」
私がそう言って、再度ストローを吹くと、今度は大きいあわが飛び出る。
「…すごいよな」
シャボン玉で数分遊んでいると、雲が一人そう言った。
「このちっせえあわの一つ一つに、世界の全部が映ってんだよ。俺も、舞桜も、公園も、空も。全部映ってる」
彼はしみじみとつぶやいた。
だから、私もすごいと、綺麗だと、そんな気がしてきてしまう。
だって、彼の言葉はいつも正しい。
彼の言葉は、いつも重たい。
「…すごいね」
気づけば、私もそう呟いていた。
「ねえ、どうして雲は私にシャボン玉なんて見せてくれるの?」
そう尋ねると、雲は当たり前のように、答えた。
「おまえが今にも死にそうな顔してるからだよ」
「…え?」
「おまえ、つらいって…死にたいって思うんだろ?なら俺が、世界の綺麗な部分をおまえにみせる」
淡々とした口調で、彼は言う。
…私の、ために。
「ふう。そろそろ帰るか」
雲と一通り遊びまくった後、帰りのチャイムが鳴ったとき、雲がぼそりとつぶやいた。
「そうだね」
私がそう言って立ち上がると、彼も立ち上がった。
「最後に、LINE交換しようぜ」
「え?」
公園を出ようとした矢先、彼が後ろからそう語りかけた。
「次また呼び出すとき探すの面倒くせぇからな」
「そっか…。それもそうだね」
私はスマホを取り出して、彼と連絡先を交換した。
ラインの欄に、【夕凪雲】と書かれているのがくすぐったくて、私はふふ、と声を漏らしてしまった。
「なんだよ」
「なんでも」
私がそういうと、彼はチッと舌打ちをした。
「ふふ」
私が再度微笑むと、舌打ちの音は大きくなった。
面白いと思った。きっと、人生で一番……

―彼と一緒に居ることが、一番面白いと思った。

「おはよ、くも」
朝、彼が校門に歩いてくるのを確認した私は、先に校門についていても、立ち止まって、彼が来てから歩き出す。
「おはよ」
別に何か約束をしているわけではないけれど、どうせなら、と考えた私は、次の瞬間立ち止まった。
…いや、よくよく考えて、この状況はおかしいだろう。
私は、彼が嫌いだ。
そして、彼も私のことが嫌い。
ということは、私たちは遠回りしているだけ、なのでは…?
「…あ、えっと。くも。今日の小テストの勉強ちゃんとしてきた?」
「いーや。別に。っていうか、いつもゼロで受けてるから」
どや顔でそう言い放った彼は、あきらかに滑っている。
「…もう。そんなだからいつも十点とか0点なんでしょう!」
「うっせ」
彼は微笑んで、ポンポン、と私の髪を触って、触れては離す、触れては離すを数回繰り返したあと、彼はにっこり笑って私を見下ろし、靴箱へと入っていった。
それを私も追いかけて、靴箱から上靴を取り出して履き替える。
「ああ。そうだ。忘れるところだったよ」
彼は私が履き替えるのを見届けたあと、カバンをごそごそと探り、二枚のチケットを取り出した。
それは、夏祭りの遊びまくりチケット。
五店は無料で遊べるという、限定チケット。
商店街で売っていたくじ引きの一等賞だったような気がする。
「これ、一緒に行こうぜ。せっかく二枚分だし、夏休みが始まって三日目だろ?ちょうどいいんじゃないかと思ってさあ」
彼はふ、と笑ってそう言った。
「…ありがとう。行きたい」
夏祭りなんて、人生初かもしれない。
私は一枚チケットを受け取って、それをしばし眺めようと手もとへ引き寄せる。
「ありがとう」
再度お礼を言って、なくさないように、大切にカバンへチケットを入れた。
「おう」
彼も笑って、二人で教室へと歩いていった。

「…え?」
「ねっ。お願い!舞桜ちゃんと夕凪くん、すっごく仲いいでしょう?私、夕凪くん狙いだから、好きな人聞いてきてほしいの!!」
昼休み、トイレに呼び出された私は、同じクラスの如月優芽さんにそう恋愛相談をされた。
「…えっと、私、恋とかよくわからないの。雲もきっと、そういう話題嫌いだろうし…」
「そこを何とかっ。お願い!」
如月さんは、学年一と言っても過言ではない、可愛くて、おしゃれな女の子だ。
薄桃色の髪の毛は緩くカーブしていて、それをハーフツインテールしている髪型なんて、通り過ぎただけでも恋をしてしまうほど。
可愛いだけじゃ表せない。
彼女から香ってくるラベンダーの香りも、すごく心地がよい。
「…聞いてみるけれど、あんまり期待はしないでね」
私はそう言ってトイレを出た。
「ありがとう!」と後ろから声が聞こえてきたけれど、聞かなかったことにしようと決意した。
というか…如月さん、雲のこと好きなんだ。
廊下を歩いているとき、ふとそう頭に浮かんだ。
そのとたん、胸が締め付けられたみたいに苦しくなる。
「…っ」
如月さんみたいな可愛い女の子に告白されれば、きっと雲もokしちゃうよね。うん、そうに違いない。
もう高校生だもん。雲も恋していて当たり前の年齢。
…そのはずなのに。
ポロ、と目から流れ落ちたしずくは、私の水色の上靴へと落ちていく。
ポロポロと流れる涙を止めることはできなかったけれど、その涙は小さいもので、誰も気づかない。
良かった、と安心した直後、ふわりと体が宙に浮いた。
背中には、大きな温かい手が回されている。
「…えっ」
私が顔を上げると、そこに雲がいた。
雲が、私を見つけてくれた。
「…く、雲っ?どうしたの、急に…」
「おまえ、泣いてんだろ。腹いてぇのか」
私がふるふると首を振ると、「じゃ、頭いてぇのか」と聞かれ、また頭を振る。
「…どっか悪いのか」
そう聞かれて、私は一瞬迷ってコクりと頷く。
病気というほどではないけれど、なぜか涙が出て止まらない。
きっとどこか悪い。そう思いたい。
「…そうか。保健室行くけど、いい?」
私はさっきと同じように首を振る。
「そこまでしなくても、」と言葉を漏らしながら。
「そうか」
彼は少し黙ったあと、「…見られたくないか」と再度聞いてきた。
私は、周りを少し見て、こく、と頷く。
「わかった」
彼は、やっとのことで歩き出した。
半袖の制服を着た少女を抱えながら。
ゆらりと揺れる私の髪の毛は、歩くたびまたゆらゆらと揺れる。
まるで海藻みたいだ。
気づくと、誰もいない体育館に来ていた。
今は昼休み中だけれども、バスケ部は練習はしていないようだ。
彼は迷うこともなく、体育館の二階へと向かう。
そして、二階へとたどりつくと、私を下ろしてくれた。
「…ありがとう」
涙が止まった私は、そう言って笑いかけると、「おう」と低い声で頷いた彼に、不思議に思う。
なんだか、元気がないように思えるから。
「…どうしたの」
気づけば私はそう言っていた。