グラウンドはお掃除ロボットが走っていなくて退屈だ。
エアコンの効いた教室で授業を受けながら、石動理依奈はそんなことを考える。
三階窓際の席。頬杖をついて外を見やれば、男子が暑い中わちゃわちゃ走り回っている。
授業の終わりまで残り五分。
最後に何か球技でも始めるのか、グラウンドにライン引きで四角いコートを作っていく。
お掃除ロボット。例えば厚めのフリスビーのような、カーリングのストーンのような図体で床を滑り、お部屋を掃除して、なんなら自分で充電台に戻っていくあれ。グラウンドを走り回ったら、すぐに大量の砂で目詰まりするだろうが言いたいのはそんなことではない。
視界に見える範囲にお掃除ロボットがいないのが、理依奈にとって憂鬱だった。
石動理依奈は十六歳。普通の女子高生だ。
六月のこの時期は日焼け止めを欠かさないが、大して白くもない肌。朝寝坊で時間が足りないと、一重になってしまう目元。セミロングの髪は特に染めてはいないが若干明るめ。テストは大体平均点で、最近の親の口癖は「勉強しろ」それがちょっぴりうざい。そう至って普通。大体普通の女の子。
最後の五分、男子はドッジだった。攻防をぼんやり見てるうちに終礼のチャイムが鳴る。
「りっちゃん誰に恋してんのー?」
お弁当袋を提げて理依奈に寄ってきたのは、友達の石川愛里だ。
「どういうこと?」
「んー? だって授業中ずっと男子見てなかったぁ?」
言われてみれば最後の方は熱心に外を見ていたかもしれない。でもそれはただ授業が退屈だっただけで。
「私、男子に興味ないよ」と、理依奈は手を横に振りながら答える。
「えー。彼氏欲しくならない?」
言いながら、愛里が椅子に座ってお弁当を広げる。
「間に合ってるからなぁ」
「それ、いる人のセリフ」
「楽しそうね」
二人の会話に入ってきたのは、隣のクラスの右前那月だ。
「なっちゃんは彼氏欲しくなーい?」
語尾を上げて愛里が聞く。
「私、いるし」
「えっ初耳ぃ」
「ほら」
そういって那月が差し出したスマホにはキジトラの猫の写真。
「びっくりした」
「それは彼氏って言わなくなーい?」
理依奈と愛里のリアクションを受けながら、那月も空いてる椅子に座る。
これでいつもの三人。お昼休みは大体いつも教室でお弁当だ。
「ほらこれ見て。うちの彼氏、掃除もするから」
今度は動画だ。
那月のキジトラが円盤型のお掃除ロボットにお澄まし顔で乗っかっている。お掃除ロボットがテーブルや椅子の脚の隙間を縫って清掃を進めるが、キジトラは我関せず。微動だにしない。
「それ、掃除してるの下だから。本体下だから。なっちゃんの彼氏ニートだよ、それぇ」
愛里がだし巻き卵を箸でつかみながら言う。
「でも、可愛いね」
理依奈が褒めると、那月は少し目を細めてにやりとした表情を浮かべる。わかりづらいがこれでちゃんと喜んでいる。
「可愛い系、彼ぴ」
那月がキジトラを自慢するかのようにピースサインを繰り出す。
(ただ……見てると早く帰りたくなっちゃうな)
うんうんと那月に同意しながらも、理依奈は一抹の寂しさを感じていた。
午後の授業が終わると愛里は部活、那月は逆方向で、理依奈は一人で歩いて帰ることになる。
校舎を抜けると、前を歩く小柄な姿に少し見覚えがあった。
(同じクラスの……後ろの席で……いつも本読んでる子)
そこまで出たが名前が出ない。「全然喋らない」をそのままにしたような苗字だった気がするんだけどなぁ。曲がり角で消えていく姿を確認して、理依奈は思い出そうとすることをやめた。
石動理依奈の帰宅の挨拶は二回ある。
「ただいまー」
最初の一回は玄関。弟が返事をしたりしてくれなかったりする。
「ただいまー」
二回目は誰もいない自分の部屋だ。八畳程のフローリング。女の子の部屋としてはちょっと質素なくらいに物がない。勉強机とベッド。……で、終了というくらいに物がない。ただ着替えのために理依奈がウォークインクローゼットを開けると、そこだけは物でパンパンだった。
制服から普段着に着替え終わると、理依奈は真っ先に向かう場所がある。
充電台に鎮座するお掃除ロボットの所だ。
「今日も、私のお部屋綺麗にしてくれてありがとね」
満充電で緑のランプの彼を引っ張りだすと、胸に抱えて理依奈はベッドに座る。
型式番号LSー04DG。黒を基調としたデザインで、黒曜石のように艶やかに作られた上面が高級感を醸し出している。傾けると市松模様が浮かび上がって、そこもまたカッコいい。小屋のような充電台に帰れば、自動でゴミをそちらに移動させる賢さまで備えている。まさにハイスペックだ。
理依奈はそんな彼をその型式番号からロス君と呼んでいた。
「ロス君は寂しくなかった? いつも一人でお仕事させてごめんね。私はね、今日ちょっと寂しかったよ」
言いながらぎゅっと抱きしめる。ふとした時にその姿を思い浮かべて、グラウンドにまでその影を探してしまう。本当は学校でもずっと一緒にいたい。それが難しいことはわかっているから、ここでありったけ理依奈は彼に触れる。
抱きしめていると、文句一つ言わずに頑張ってた彼がたまらなく愛おしくなる。好き、大好き。
理依奈は力を緩めて彼を持ち直すと、その黒曜石の額にそっとキスをした。
石動理依奈は大体普通の女の子。理依奈の彼氏はお掃除ロボットのロス君だった。
それなりに高価な彼が理依奈の部屋にやって来れたのは、地元のスーパーの福引で金ぴかの玉を出したからだ。今にして思えば、それも運命の出会いみたいで嬉しい。出会うべくして出会った。引き合うように一緒になれた。理依奈は胸がきゅんとする。
本格的に彼の事が好きになり始めたのは、理依奈のずぼらに彼が困っていた時かもしれない。
お掃除ロボットは、今日の掃除状況などをアプリを介してスマホに通知してくれるのだが、その日は初めてのエラー通知だった。
『段差・障害物等に阻まれて動けなくなっています』
そんなことある? と思いながら帰宅すれば、崩れた教科書の山に乗り上げてにっちもさっちもいかなくなっていたロス君。
「わー! ごめんごめん」
抱え上げてロス君を救い出せば、新たな通知。
『ありがとうございます。エラーは解除されました』
私の方が悪いのにお礼を言ってくれるんだ……シンプルな機械のメッセージかもしれないけれど、理依奈にはそこが刺さって、彼のことが気になり始めてしまった。床から物が片付いていったのもこの頃だ。
小・中学とあんまり恋に興味はなくて、そのうちしたくなるのかなぁと思ってた矢先。自分の中のこの気持ちに気付いて、でもこれは普通ではないよねとも思って。
男子に興味がないのも本当。彼氏がいて間に合っているのも本当。そして本当のことが言えないのも本当。
でも、秘密の恋っていうのも悪くない。
理依奈は基本ポジティブだった。
「あっ」
翌日のお昼休み。教室を出て行く女の子のうしろ姿を見て、理依奈は聞きたかったことを思い出す。
「今、教室出て行った静かな子、名前なんて言ったっけ?」
昨日の帰り道に見た華奢な子だ。今日一日、どの先生にも当てられていないせいで、未だに名前がわからない。
「不言色さんね。どうかした?」
さらっと教えてくれたのは那月。隣のクラスだというのに、理依奈より物知りだ。
「いや、昨日名前が出なくて……いつも一人だなぁって」
「……あんまりこういうこと言いたくないけどさぁ」愛里が口の中のものを飲み込んでから続ける。「不言色さん評判悪いよぉ?」
「えっ」
理依奈にとっては初耳だ。
「基本、反応が薄いというかぁ……」
「もっと言えばガン無視。男子は特に撃沈してる」
那月がずばっと言ってのける。
「へ、へーそうなんだー。そういえば、那月のキジトラってあれできないの?」
こんな話題になってしまうとお昼ご飯が美味しくない。理依奈は、昨日SNSでバズっていた猫の話を振ることにした。
不言色が物静かな子であることは、思い返せば前々からよく知っていることだった。同じクラスだが友達と喋っているところを見たことがないし、授業中に当てられた時には、なんだか消え入りそうな声で返事をする。休憩時間は自分だけの時間と空間をまとって本の世界に浸っているし、教室にいない時はきっと図書室にいるのだ。理依奈は図書室に行かないが、それがばっちり想像できてしまう。
(あんまり、人と関わるのが好きじゃないタイプなんだろうな)
それで評判悪いのはかわいそう……。
かわいそうって上からじゃない?
……ええとだから、……そうじゃなくて、「なんか自分が嫌なんだ」うん。自問自答で理依奈は心の中で言い換える。
というか、正直――「ごめん、今日はミーティングあるから」とか言って掃除サボって部活に行った男子たちの方が、私の中で評判悪いんだけど?
終礼後の掃除の時間。教室担当の第五班は男子四女子二のはずだが、教室に残っているのは理依奈と不言色のみだ。ちょうど班替えがあったので不言色とは初めての共同作業でもある。
教卓側から後ろへ。二人で黙々と教室を掃いていく。
「はぁ……」
理依奈から思わずため息がこぼれる。
ミーティングとやらはきっと本当にするのだろう。掃除の時間すら部活に捧げている、俺たちは本気なんだ。そんな“お熱い”考えすらあるのかもしれない。だが。
――絶対掃除したくないだけでしょ。
帰宅部は暇なんだからやらせておけばいいじゃん。という考えが透けて見えるのが腹が立つ。
ほうきを握る力も強くなれば、理依奈の動作も激しくなる。
対照的に不言色に怒りの色は見えなかった。
(不言色さん、いつも通り。てか、ちっちゃい。動作も細かい)
身長は百五十センチを切ってるんじゃないだろうか。小顔で肩幅もストンとしている。つややかな黒髪はロングのストレート。輝きはロス君の天面にも勝るとも劣らない。アイロンもオイルもなしでこれだったとしたら、綺麗すぎて嫉妬するレベル。評判が悪いなんて嘘みたい。絶対男子がほっとかないタイプだ。いや、だから撃沈しているのか。
文句も言わずにひたすらほうきを動かしているの見ると、なんだかお掃除ロボットみたいで可愛い。
不言色を観察していると、理依奈の溜飲が下がっていく。
「二人だと掃除大変だよね」
理依奈は思わず話しかけてしまった。
対する不言色は一言。
「そうね」
で終わり。理依奈の思った通りだ。絶対、人と喋ったり関わったりを煩わしく感じてるタイプだ。
(あんまり、話しかけると嫌がられるかな……)
そうは思うけど、鈴を転がしたような声をもうちょっと聞きたい。
「こんな時はさ、お掃除ロボットあったら絶対便利だよね」
突拍子がなかったのかもしれない。不言色はしばし黙った後、また一言だけ。
「持ってくれば?」
ぶっきらぼうな「そうね」がもう一度くると思っていた理依奈にとって、この返事は想定外だ。
頭の回転が速いのか、理依奈がお掃除ロボットを持っている体での返し。
ロス君を学校に持ってくる? ありかもしれない。終礼後だけ出すなら、ほぼ先生にバレないだろうし、バレても言い訳は立つ。少なくとも「彼氏だからそばに居たくて持ってきました」なんて言う必要はない。
「う、うん。家にいるから、明日ちょっと持ってくるね!」
あ……、あるじゃなくて「いる」って言っちゃった。内心焦る理依奈だったが、不言色は気にしている様子はなさそうだった。
翌朝、理依奈はうきうきでスクールバッグにロス君を詰め込んでいた。代わりに入らなくなった教科書のことは知ったこっちゃない。
彼氏と一緒に学校行ける。登校デートじゃん! 嬉しくていつもより十五分は早く家を出てしまう。
外に出れば抜けるような快晴。理依奈にはいつもの通学路が輝いてすら見えた。
気分上々で道を進めば見覚えのある黒髪ロングストレート。行きで見かけないのは、いつも早かったからか。
「不言色さーん!」
小走りで追いついて、横に並んで不言色を覗き込む理依奈。
「おはよー!」
こんなに元気に、こんなに笑顔で挨拶できたことないかも。好きな人と一緒にいるって世界が変わっちゃうくらいの力がある。
そう思っていたのに。
「誰?」
怒っているかのような不言色にねめつけられて、まるで蛇に睨まれた蛙。理依奈はフリーズしてしまった。
固まった理依奈を気にする様子もなくスタスタと先に歩いて行ってしまう不言色。
私、怒らせるようなことしたっけ? 理依奈の頭の中はクエスチョンマークでいっぱいだ。
いや、元から話しかけられるのがそんなに好きじゃない人だし、今日は特に機嫌が悪かったのだろう。
だとしても。
……「誰?」はなくない!? 昨日話したじゃん!
愛里と那月に愚痴ってやる。そんな決意を固める理依奈だった。
固めた決意はせいぜいふわとろのスクランブルエッグだったらしい。
同じクラスで近くに座っている不言色がいるのに、愚痴る勇気は理依奈には生まれなかった。
というか、冷静になって考えるとキャラ変しすぎたことに対する「誰?」だったのかも知れない。朝は浮かれすぎてたかも。理依奈ちょっと反省。
学校が終われば、今日も掃除の時間がやってくる。
理依奈と不言色、だけでなく今日はちゃんと男子も残っている。……いるだけで、まともに掃除している感じはしないが。
(ロス君の出番なんだろうけど……男子にダル絡みされても困る)
それ何? なんで持ってきてんの? にいちいち答えたくはない。
結局、理依奈はため息ひとつ。無言でほうきを動かした。
――十分、十五分。最後に机運びだけはやっていった男子たちが消えると、教室には理依奈と不言色の二人きりだ。
「不言色さん」
少しのためらいがあったが、スクールバッグを肩に提げようとしている不言色を、理依奈は呼び止める。相も変わらず無機質な表情で振り向く不言色。いちおう話は聞いてくれそうだ。
「実は今日、お掃除ロボット持ってきてたんだ」
バッグの底からロス君を取り出す理依奈。
「……なんで使わなかったの?」
「いや、男子いたし……」
「そう」
わー、すごい、めっちゃ高いやつじゃないの? みたいな反応が返ってくるとは微塵も思ってなかったが、本当に淡泊だ。
「動いてるところ見る?」
「え、もう教室綺麗よね?」
怪訝そうな不言色に、すごすごとロス君をバッグに戻す理依奈。
(仕事してるところがカッコいいんだよとか語りたかったけど、また今度にしよう)
理依奈もスクールバッグを肩に提げる。
「方向一緒だよね、一緒に帰る?」
「別にひとりで帰れるけど?」
そこは別に心配してないんだけどな。不言色さんは難しい。
「うん、じゃあ、バイバイ」
「さよなら」
挨拶さえもちぐはぐ。
こういう子とは根本的に合わないのかもしれない。
(でも――)
不言色が黙々と掃除している姿を思い浮かべると、嫌いにはなれない理依奈だった。
今日は、普通のテンションで。
翌朝、充電されたロス君を変わらずスクバの底に安置する。頬が緩みそうになる理依奈だったが、また不言色に睨まれるのも困る。
だから、もう一度自分に言い聞かせる。
今日は、普通に話しかけてみよう。
いつもより十五分早い通学路。角を曲がって大きな通りに出れば、黒曜石の髪の女の子。今日も向こうの方がちょっと先を歩いている。早足で追いついたら一呼吸、息を整えてから声をかける。
「おはよう。不言色さん」
理依奈の声に、今日は不言色の方が止まってしまった。
(あれ?)
返事のない不言色と見つめ合ってしまう理依奈。瞳まで黒曜石なんだな、なんてちょっと見とれてしまう。
「朝は――」ふっと目線を外す不言色。
「名前を名乗ってくれない?」
……どういうこと?
突然の謎ルール。そんなマナー知らないんですけど!
あれかな、いいところのお嬢様は毎朝「おはようございます、お嬢様。執事のセバスチャンです」みたいなのがあって、それが普通なのかな!?
完全に動揺した理依奈は、意味のわからない妄想に不言色を当て込む。
「名前……」
「あ、ああ、ごめんね。石動だよ」
「おはよう」
名乗りさえすればあとは普通なんだ。理依奈は落ち着きを取り戻す。別に大した手間でもなんでもないし、毎日名乗るなんて逆に面白いかもしれない。
(不言色さんの謎ルールに乗っかろう)
無表情な不言色の横顔を見守る理依奈だった。
こうして、朝の通学に新しいルーティーンが増えることになる。
「不言色さんおはよー。石動だよ」
「おはよう」
別の日。
「ちわーす。不言色さーん、石動でーす」
「……おはよう」
たまには趣向を凝らして。
「おはようございます、不言色お嬢様。石動でございますわ」
「誰?」
やっぱりキャラ変が過ぎるとこっちの反応なんだ。おかしくって笑ってしまう理依奈。
あれからまだロス君は出せていないが、前まで何もなかった通学路が最近楽しい。学校に着けば「すん」ってなっちゃうから五分で終わる時間だけど、授業のこととか先生のこととか、たまに反応のある話題が振れるとちょっと嬉しいまである。
「りっちゃん最近頑張ってんね」
体育館でバレーの授業中。座って試合を見ていたら、隣の愛里に肘でつつかれる。
「ちょ、耳元で囁かないで」
「ほれたぁ?」
「ないから。てか、私、体育は全然頑張ってないけど。うわっ、ジャンプサーブとかバレー部手加減なさすぎでしょ」
「サービスエースすごぉ。不言色さん固まっちゃってる」
「あんなの誰でもびびるわ」
「最近、毎日一緒に来てるよね?」
「えっ?」
「不言色さんとよぉ」
「あー……、十五分早く出るようになったかな」
「やっぱりぃ。頑張ってんじゃん。どう、いい子?」
「悪い子じゃないと思うよ。全然会話繋がらないけど」
「あはは。りっちゃん、あのさぁ」
「なーに」
「ごめんねぇ」
「どうしたの急に、調子悪い?」
「評判悪いとか言っちゃって」
「……それは、本人に謝るべきでしょ」
「まぁ、おいおい」
「それに私、頑張ってないよ。したいことしてるだけだし」
「なにそれ、そんけー。りっちゃんマジリスペクト」
「馬鹿にしてる?」
「違うよぉ。人間って案外、真っすぐ進めないもんだから」
「そうかな」
「そうだよ。だから、かっけぇね」
きらきらした表情の愛里に無垢に言われて、理依奈は体育座りで抱えたひざに顔を隠してしまった。授業中にそんなほめてくるとか、恥ずかしいからやめて欲しい。
(気になってる子に話しかけるなんて普通のことだから)
理依奈にとって、毎日ロス君に話しかけることと大差ない。当たり前のことなのだ。
「まーたミーティングだって」
「そう、みたいね」
例によって掃除の時間。男子たち四人はいつかと同じく消えて行った。だがこれで邪魔者はいない。
「じゃーん。お掃除ロボット~」
国民的猫型ロボットアニメに寄せて、ロス君を取り出す理依奈。満を持しての登場、二人じゃ大変な教室掃除を手伝ってくれる優秀なイケメン。ヒーローは遅れてやってくるものだ。
(カッコいい~)
家で見ても教室で見ても同じなはずだが、理依奈にはいつもの二割増しロス君が素敵に見える。
うきうきで電源を付けて床に置けば、さっそく仕事を始めるロス君。
「カメラセンサーが優秀だからね、障害物もよけれるし、壁とか隅とかもちゃんと把握するし賢いんだよ」
窓側の壁にぶつかりそうになるとスピードを緩めて、距離を詰める動きが細かくなる。方向を微調整しながら壁際を自身の直径分ぐらい掃除すると、今度は逆の廊下側へと走りだすロス君。無表情のまま、目線だけロス君を追いかける不言色が一言。
「ゆっくりね」
「うっ……」
理依奈の部屋に比べれば、教室というのはすこぶる大きい。十五分あれば八畳を綺麗にしてくれるロス君の掃除も、ここだとそう簡単には終わらないだろう。
「あくまで、お手伝いだから! 三人目みたいな? 私たちもやろう。ロス君ひとりに任せるもんじゃないよ」
「そうね」
返事するなり、手を動かし始める不言色。理依奈に背を向けたまま、またぽつり。
「…………名前とか付けてるのね」
(!?)
ほうきを手に取ろうとしていた理依奈は、その瞬間、衝撃でほうきを床に倒してしまう。
(あれ、私、さっきしれっとロス君って言ってた!?)
やってしまった。名前呼びは隠しておくつもりだったのに。一度ぼろが出てしまったら芋づる式にどんどんバレてしまうかもしれない。引かれてしまったらどうしよう。それで不言色さんと距離が遠くなるのはちょっと嫌だ。理依奈は慌てて取り繕う。
「あの、なんか、愛着が湧いたっていうか……、ほら動きとかちまちましてて可愛いというか、小動物感覚? あっ、そう型番がねLSなの。だからロス君」
「……可愛い……?」
お願い伝わって。心の中の理依奈は合掌して、祈りを捧げている。ほぼほぼ嘘は言ってない。唯一あるとしたら小動物感覚ではなく、大好きな彼氏であることだけだ。ここさえ隠し通せば――ここ以外を理解してもらえればまだ――。
不言色が手を止めてまで、またロス君の動きを追いかけている。
「わかる……かも」
その返事で、理依奈の周りにぱぁっと花が咲いたみたいだった。嬉しくて頬が上気して、瞳孔が開いて、両手なんか胸の前でぎゅっと組んで。
「でしょっ!?」
抑えきれないテンションで、言葉を発してしまう。
「ぶつかりそうになるとさ、きょろきょろ左右を見回して安全確認してるの可愛くない? なんか生きてるっていうか。そのあとちゃんと壁に身を寄せて、隅っこの汚れちゃんと掃きだしてるところも仕事熱心みたいで偉いし、行くと決めたらシャーって真っすぐ走っていくところカッコいいし、なんかもう全部最高なのよ!」
理依奈の勢いにたじろぐ不言色だが、なんとか切り返す。
「……家電芸人?」
「違うから」
「ふっ……」
不言色が口元を手の甲で隠す。
(えっ、不言色さん笑った?)
思わず近付いてしまう理依奈。下から覗き込むように不言色を確認しようとする。
「な、何?」
ぷいっとそっぽを向かれてしまう。掃除を再開すれば、不言色はもういつもの無表情だ。
でも見間違いじゃなかったはず。
不言色さん笑うんだ!
「ねぇ、掃除終わったら今日は一緒に帰ろうよ。ひとりで帰れるの知ってる。別に心配とかじゃなくて、私が一緒に帰りたいの」
断られたくない。こんなにも気持ちが前に出た言葉が出るのは、愛里にほめられたおかげかもしれない。理依奈は振り向いてくれない不言色をじっと見つめる。
「……うん」
授業中みたいな消え入りそうな声だった。けれども、確かなイエスの返事に口角が上がるのを止められない理依奈。
「じゃあ、さっさと終わらせちゃおう!」
はりきりすぎて、ロス君を掃きそうになったのは秘密だ。
「うわぁ、曇って来てる。雨降ったらやだね」
軽口を叩きながら、二人揃って降りた玄関口。下駄箱は鍵こそないが扉が付いているタイプ。履き替えるために扉を開ければ、不言色の動きがそこで止まってしまう。
「どうしたの?」
中の靴を取らずに一点を見つめる不言色。理依奈が覗き込めば一通の手紙が入っていた。
「えっ……これ、ラブ……っ!」
皆まで言わずにとどまったが、いわゆるラブレターだ。真っ白な便箋は、シンプルなハートのシールで封をされている。
(こういうのを揶揄するように言うのは不言色さん絶対嫌なはず……)
「開けて、確認だけでもしてみれば……? もしかしたら誰かの勇気がつまってるかもしれないから」
古典的だけど、これを入れるのだってきっと相当な覚悟がいるはずだ。不言色が恋愛に対してどういうスタンスなのかを、理依奈は知らない。知らないけれど、見もせずに捨てられそう。――そんな気さえしてしまって。
そんな理依奈の言葉に、不言色はシールを爪で丁寧に剥がして封を開ける。
(中身、私は見ちゃダメだ)
後ろを振り向けば、すぐに不言色の声が背中に届く。
「体育館裏で待ってるんだって」
ゆっくりと理依奈が向き直せば、不安げにうつむく不言色がそこにいた。いつもの無表情とは明らかに違う。
「行って……くる?」
こんなのは、ほぼ告白に決まっている。だから余計なことは言えない言いたくない。けれども不言色の表情を見ていると理依奈の考えは揺らいでしまう。どんな人がくるのか不安だよね。「イエス」で答えられるいい人だったらいいけど、「ノー」を言わなきゃならなくなったとしたら、それも怖いよね。
(無理なら、行かなくてもいいと思うよ)
もう一緒に帰っちゃおう。理依奈がそんな言葉を発してしまうより前に。
「待っててくれる?」
そう言って理依奈を見上げる不言色がいた。
「もちろん! 戻ってくるまでちゃんと待ってるからね!」
私がいることがどうか、不言色さんの勇気の足しになりますように。
そう願った理依奈は、しかしながらこの後、不言色の姿を見ることはなかった。
もしかしたら、告白の返事がイエスで、早速下校デートと洒落込んだのかもしれない。
それなら、辺りが真っ暗になるまで玄関前で待たされた理依奈の感情の行き場もまだあった。むしろそうあって欲しいとさえ、理依奈自身思っていた。
だが現実は否をつきつけてくる。
十五分早い登校で一緒になることはなかった。
学校についても彼女の姿はそこになかった。
朝のホームルームで担任から欠席していることを告げられて思い知らされる。
(不言色さん、絶対昨日のせいで休んでる……)
頭の中がぐるぐる渦巻いて落ち着けない。
もしかして、告白じゃなかった?
体育館裏の呼び出しにはもう一つパターンがあるじゃないか。「お前、気に食わないんだよ」ってやつだ。
だとしたら、どうして一緒に行って陰から見守ってあげなかったんだろう。
一人で行って傷つけられていたんだとしたら、耐えられない。
「不言色さん風邪かな?」一限目前に愛里が話しかけてくる。
ただの風邪ならそっちの方がいいね。なんて不謹慎なことを言ってしまいそうになって口をつぐむ理依奈は、曖昧な笑顔を愛里に返すことしかできなかった。
不安な気持ちのままの昼休み。愛里が部活の昼ミーティングに行ってしまったので、理依奈は那月の教室でお弁当を食べることにした。
「不言色さんって男子に人気あるよね?」
「ちっちゃかわ。冷血ガールだから人を寄せ付けないけれど、隠れファン多し」
「だよね……」
「そこでため息は、恋してるように聞こえるよ理依奈」
「最近告白した人とかいるのかなぁ」
「これは完全に恋」
「茶化さないで。心配してるの」
「ごめんごめん」
「今日、学校休んでてさ」
「!」
「ここだけの話だよ? 耳貸して。昨日、不言色さんの下駄箱にラブレター入ってたんだよ。体育館裏に来いって」
「なんと」
「絶対、何かあったよね……」
「なんかわかったら教える」
「うん、ありがと那月」
放課後、理依奈は体育館前に来ていた。誰に呼び出されたわけでもない。ここに来て何かがわかるような名探偵でもない。でもここに来ずにはいられなかった。
「明日からは普通に来てくれるよね……?」
祈りを唱えるように歩きながら、建物の右側面を通り体育館の裏側に出る。何もない。整列した木々が学校と外とを分け隔てているだけの体育館裏。中で部活動をしている子たちの声がいくつも重なって聞こえてくるだけ。
(まだ、スマホのトークアプリすら繋がってない)
本当は、昨日の帰り道交換したかった。これじゃ心配しているメッセージすら送れない。一周するように、とぼとぼと建物の左側を歩いて戻ろうとする理依奈。
「冷血姫とどうなったんだよ」
体育館の足元の小さな通気窓。開け放たれたそこから漏れ聞こえた言葉に、理依奈の心臓は跳ね上がった。そのフレーズは昼に聞き覚えがある。
(不言色さんのこと――!?)
話しているのは男子だ。告白の話なら十中八九そうだろう。心臓の音を抑えつけるように胸に手を当て息をひそめる理依奈。体育館の外壁にピタッと背中を張り付ける。
「別に……、振ったよ」
「ん? 振られたの間違いだろ。告ったのお前じゃん」
「いや、なんか病気持ちとか言われてさ。めんどくさ、ってなった」
「えっ、あの感じでセイビョウだったん?」
ノンデリなぐるぞ。理依奈は拳を握りしめる。
「ちげーよ。なんか、顔わかんないけどいいですかみたいな」
「お前の事なんて知らねーよって意味じゃねーのそれ」
「いや、本当に『何回見ても覚えられなくて、他の人と間違えたりするけど、それでもいいですか』とか言われたら、普通いいわけないじゃんっていう」
「えぐっ。マジの病気じゃん」
「ほんと、地雷踏んだわ」
は?
色んな出来事を思い返して、不言色のことを理解しようとしていた理依奈は、頭を金づちで殴られたようだった。受けたショックは沸々とした怒りに取って代わっていく。
どうしてそんな酷い言い方ができるの?
不言色さんを地雷扱いしたお前の発言が、私の地雷を踏んづけたよ。
許せない。絶対に許さない。きっと私、人生で一番怒ってる。握りしめた拳は、爪が食い込んで血が滲みそうだ。一歩一歩が地面をかち割らんかのような勢いで理依奈は体育館の正面入口へ向かう。
顔を何回見ても覚えてもらえないなら、毎朝毎回、会うたび名前を名乗れよ!
そうだ、意味のわからない謎ルールだと思ってたけど、あれは自分の病気と向き合いながら、最大限私に歩み寄ってくれてた不言色さんの優しさだ。全てが腑に落ちる。最初「誰?」って睨まれたのは怒ってたんじゃない。実は怯えていただけじゃないのか。掃除の時間に必要なかったのは、きっと消去法で私だとわかるからだ。
病気のことずっと隠していたのに、ちゃんと伝えたのは不言色の誠実さだ。理依奈にはわかる。
勇気を出して告白してくれた男子に――あんなやつがそんな大層なもの振り絞ったかはともかく――ちゃんと報いようとした返事のはずだ。だって病気のことなんて言わずに済ませることだってできた。なんなら告白そのものをすっぽかすことだってできた。あの時の不安げな表情は不言色さんが勇気を固める時間だったんだ。
なのに踏みにじった! 手紙まで書いたくせに、そんな軽い気持ちだったの。ちょっとでもいいと思って告白したんなら、病気の一つや二つ乗り越えてみせろよ、アホ男子! 病気だと知らなくったって、私はあの子といて毎日楽しかったぞ!
力いっぱい体育館の戸を開くと、ちょうどクロスに打たれたバレーボールがワンバウンド後、理依奈の顔の真横をかすめていった。
「あぶなっ、……って制服?」
スパイカーの呟きも、場違いな服装も理依奈は意に介さない。たとえ、顔面にボールを喰らっていても怯むことはなかっただろう。
大きく息を吸い込み声を張る。
「不言色さんに告白した男子、いるんでしょ!」
今、体育館を使っているのは男女バレー部のみだったが、その全員を入口に注目させるほどの怒号。一瞬の静寂の後「何あれ?」なんてざわざわし始める体育館内。
「今日、不言色さん休んだんだけど!」
変わらず声を張り上げ続ける理依奈。
「誰だよ、部活の邪魔なんだけど」
奥から走って来たのは身長百九十はありそうなバレー部男子。声の感じでわかる。さっき話していたのはこいつだ。
「告った側がその場で振るってどういうこと?」
「いや、それ俺じゃないから。何キレてんのか知らないけど、邪魔だから帰って」
しらばっくれるつもりだ。怒りで完全に忘れていた。すぐに録音でもしておくべきだった。
「明日も明後日も来ないなんてことになったら、絶対許さないからっ!」
言ってる理依奈が一番わかっている。……こんなの捨て台詞にしかならない。
「いちいち声がうるせえ。部活妨害すんなら先生に言うぞ。出てけよ、どうせ帰宅部だろ」
吐き出せない怒りばかりが心を埋めつくして、相手の態度を変えるための言葉が見つけだせない。
相手を目いっぱい睨みつけると、唇を噛みしめて踵をかえす理依奈。
「何、あいつ」
「知らね、不言色の友達じゃね?」
「あれに友達とかいたんだ」
後ろ手で扉を閉める背中に、矢のように飛んでくる野次。
悔しい。
不言色さんが傷付けられたのが悔しい。
何も言い返せないのが悔しい。
頭の回らない自分の不甲斐なさが悔しい。
一言でもいいから謝らせたかった。
視界が滲んでくる。
泣くな! 泣きたいのは私より不言色さんの方でしょ!
理依奈は腕でぐいっと目元を拭った。
◇ ◇ ◇
(病気のことなんて言わなければよかった)
不言色有紗は自室のベッドの上でひとり膝を抱えていた。壁紙もカーテンも薄黄色を基調とした、いかにも女の子然とした部屋。鬱屈した自分の感情だけが色濃く場違いだ。
まだ、小学生にもなる前のころの記憶。親戚の家にみんな集まったお正月。福笑いで遊んでいたのを思い出す。
家族や従妹の誰もが笑っているから、有紗も楽しんでいるふりをしていたけれど、本当は何が面白いのかわからなかった。
「目、ひっくり返ってるよ」
「鼻と口逆~」
そんなことでみんな騒いでいた気がするけれど、有紗にとってはそれは物心ついた時から普通のことで。
人の顔を見れば、目があることはわかる。鼻も口も付いてることはわかる。
でも、目に注目すると鼻と口はもうどこかに行ってしまう。じゃあ喋っている口を見ればどうなるかというと、今度は鼻や目がどこかに消えてしまう。鼻も同じく目と口が。無理矢理全体を収めようとするともう福笑いだ。
人の顔っていつも動いてるんだなぁ。それが有紗の小さな頃の感想だ。
自分の顔も見るたび変わり続けるから、可愛いのか不細工なのかちっともわからない。
こんなのだから、人の感情を読むのが苦手だった。悲しいのは泣いてくれなきゃわからない。怒っているのは大きく口を開けて怒鳴ってくれないとわからない。
小学六年の夏で友達を全てなくした。発端は恋バナだった。有紗はAちゃんの好きな子をAちゃんと話しているつもりだったのに、話していたのはBちゃんだった。Aちゃんの秘密を気付かずばらしてしまったのだ。
言い訳ならいくらでもできる。元から二人の雰囲気が似ていたんだとか、その日はBちゃんがフリルの付いた可愛い系の私服で、それはいつもAちゃんくらいしか着ていなかったから勘違いしたとか。
でも、へらへら笑って「ごめんね、また間違えちゃった」なんて許してもらえるはずがない。
「有紗なんか大嫌い! 絶交!」
ぼろぼろに泣かれながら、大口を開けて怒鳴られて、有紗は自分が欠陥品であることに初めて気付いた。人はそんなに人の顔を間違えない。
小さい頃は多少顔がわからなくたって、鬼ごっこやかくれんぼで遊べた。人違いをなあなあで済ませていられたのに。年を取るにつれてどんどんコミュニケーションは難しくなっていく。
私は友達なんか作っちゃダメだったんだ。中学に入る頃、有紗はそう結論付けて孤独に身を置いた。
見かねた親が病院に連れて行ってくれたりもした。診断は下りて、ちゃんとした病名もあった。でも特効薬がなかった。
――欠陥品。この病気は治らない。足りないセンサーがあるままで、なんとかうまいこと生きていくしかない。
高校生活も変わらず、静かに始められた。幸いなことに本を読むのは嫌いじゃなかったから、すっかり独りの時間にも慣れていた。
中学と一緒だ。問題ない。
ひと月、ふた月。問題ないはずだった。
班替えで新しく一緒になったあの子が、話しかけてくるまでは。
(全部、石動さんのせいだ)
もう友達なんて作る気はなかったから、誰に対しても冷たくできた。
冷血――なんて、渾名で噂されているのを小耳にした時は、自分のやり方が成功しているんだと達成感すら感じていた。
なのに、どれだけ適当にあしらっても話しかけてきて――!
有紗の体の芯が揺らいで、体育座りのままゴロンとベッドに横になってしまう。
朝から大声で挨拶されて本当にびっくりして怖くて、多分石動さんだと思ったけど、確信がなかったから言ってやった。腹いせもこめて、もう話かけてこないでって意味で「誰?」って言ってやったのに。
その日のうちからまた話しかけてきて……。
毎日、毎日、律義に名前を名乗るし、本気でお掃除ロボット学校に持ってくるし……しかも一回じゃないし、見せびらかしてくるし、そしたら熱心に喋り続けるし。本当、どうして――。
――こんな私といて、楽しそうにしているの?
口元を見れば口角が上がっている。目元を見れば下まぶたが上がって、目が綺麗な三日月のように細くなっている。
二つを同時に認識できなくったって、理依奈のそんな表情、有紗には笑顔としか捉えられない。
楽しいからそばに居てくれる。嬉しいから一緒に帰ろうって言ってくれる。そんなのやめて。だって、持ってちゃいけないって捨てたはずのものが輝きだしてしまう。蓋をして、無いものだと決め付けて、見ないようにしてたものが欲しくなってしまう。
また傷付けてしまうかもしれないのに。なんで、私は。
石動さんと友達になりたいんだ……!
瞳から涙が零れそうになって、自分で自分の体を有紗はぎゅっと抱きしめる。
数年前には当たり前にあった幸せ。ずっと望んではいけないと、押し殺してきたはずの感情。
石動さんと友達になりたい。私の詳しい事情なんて何も知ろうとしないのに、いつもいい距離感でいてくれる優しい石動さんと仲良くなりたい。なんで、こんな欲出てきちゃうんだ欠陥品。
あのラブレターだって、早々に破り捨てるつもりだった。けれど。
「誰かの勇気がつまってるかもしれないから」
石動さんがそう言うなら、もう蔑ろになんてできない。
あの時、有紗が向かった体育館裏には、長身の男の子が待っていた。部活の前か、抜けてきたのか、学校ジャージの姿でハキハキと喋りだした。
「三年の神木だけど知ってる? いきなり手紙で呼び出すとかごめんね。どうしても伝えたいことがあってさ。まぁ……わかると思うけど、毎日の登下校で可愛い子いるなぁって気になってて、だから不言色さん、好きです。俺と付き合ってください」
びしっと両手を体の真横に付けながら、神木は最敬礼ぐらい頭を下げた。
真摯な態度に真っすぐな言葉。有紗は少しばかり浮かれてしまったのかもしれない。
理依奈と友達になれそうで、心に勇気も灯っていたのかもしれない。誠実に返事をしなければ。
だから、告げた。
「私、病気なんです」
「病気?」
「はい、私、あなたの顔がわかりません。何度見ても覚えられません。もしかしたら、人違いを起こすかもしれないです。それでもいいなら――」
――友達から始めませんか?
言いたかった言葉は、神木に遮られる。
「マジで言ってる?」
ほんの僅かなトーンの違い。でも、そこに確かにある小さなトゲが有紗には刺さってしまう。キラキラとしていた空気は変容して、曇った空模様と同じ色になっていく。有紗は顔を上げていられない。しおれていく花のように、うつむいてしまった。
そうだ、こんな風に私は弱いから誰かと関わるのをやめたんだった。
「……はい」
怖気付いた有紗は、地面と会話していた。
「嘘とか冗談とかじゃなくて?」
「本当です……」
神木は平静を装って喋ってくれているのだろう。でも顔がわからない分、有紗は声には敏感だ。その裏に隠された感情を繊細に感じ取ってしまう。落胆、敬遠、同情。その全てがまるごと入っているように思えた。一雨くるのか湿度が上がってきている。嫌な汗でインナーが背中に貼り付いた。
「あー、なんかごめんな。そんなこととは知らなくてさ。大変なんだな。これ、なかったことにしてくれていいから。じゃ」
手をひと振り、神木は駆け足で去っていってしまった。
別に酷い言葉を言われたわけではない。
あからさまな態度を取られたわけでもない。
小六時代に散々味わった鈍い痛みの再体験にすぎない。
こんなの耐えられる。
ただ向こうは、なかったことにできるんだなって。
私は一生この病気と付き合わなきゃいけないけれど、向こうは無理だと思ったら秒でなかったことにできるんだなって。
それがどうしても痛くて。
耐えられる、こんなの別に耐えられるよ。
でも、しっかり傷付いてる自分がそこにいて、身動きもできずに立ち尽くしてしまった。
それから、どんな顔で戻ればいいのかわからなくて、正面玄関を通らずに有紗はこっそり帰ってしまった。
(いや、違う。あの時、石動さんの所に戻ったら、泣いてしまっていたからだ)
心配して慰めてくれるのが目に見えていた。でも、変に困らせたくなかった。もしかしたら引かれるかもって不安もあった。迷惑をかけたくなかった。弱いところを見られるのが恥ずかしかった。まだ友達と名乗るには早すぎるこの関係で、重たく思われるのが憚られた。
こんなにも繊細になってしまうのは、二人の関係が消え失せてしまうのが怖かったからだ。
もし、――ありえないけど! もし、石動さんも病気のことで自分から離れてしまったら?
腫れ物を扱うようによそよそしくなって、いつしか名乗ってくれなくなって、二人ただの他人に戻ってしまったら?
そっちはもう耐えられない。
昨日の今日でまだ、涙を止められないような弱虫に耐えられるわけがない――!
いつしかぐしゃぐしゃになってた顔を、有紗は枕に押し付ける。
不安な気持ちは全部この涙と一緒に洗い流そう。そしたら明日きちんと謝るんだ。
すっぽかして帰ってごめんね。って、ちょっと一人になりたかったんだって。
すっきりした目覚めだったと思う。目元はちょっと腫れぼったいかもしれないけど。
大丈夫。呟いて有紗は家を出る。
石動さんはきっと告白のことは聞いてこない。「昨日はどうしたの、風邪?」なんて当たり障りのない感じで話かけてくれる。なんて答えよう。親しくなりたいんだから、心配してくれてありがとう、かな。余計なことを話すと重たくなっちゃうから、今日はまだこれ以上冷たいキャラを戻せそうにない。
家から学校までは約十分。大体いつも半分くらい進んで角を曲がれば、石動さんが声をかけてくれる。
今日はいつもの名乗りだろうか。変バージョンだったらどうしよう。リアクションに困ってしまう。
なんてことを考えていたらそれが楽しくて、気付けばもう学校だった。
(あれ?)
当たり前のように、理依奈が声をかけてくれるものだと思っていた有紗は、少しばかりドキッとした。すっぽかしてしまったから、怒って無視された? ……なんて不安が一瞬よぎったが、席に彼女の姿はない。今日は単純に遅いのだろう。前まで理依奈が教室に入ってくるのは必ず有紗よりも後だったのだから。
(私に合わせて早くしてくれてたんだな……)
人の多い時間帯が怖くて、いつもこの時間だったけど、石動さんと一緒になるなら、そっちに合わせてもいいかもしれない。
降り始めた小雨の音が響く教室で、有紗は読みかけの小説を開いた。
結局、朝のSHRで担任が来ても彼女の姿はなかった。「今日、石動休みか?」なんて逆に担任が聞く始末。どうやら連絡なしのお休みらしい。
(何かあったのかな)
風邪だろうか。よく理依奈と喋っている石川愛里に話を聞きたいが、四限目が終わっても有紗は声をかけることができなかった。
喉まで出かかった勇気を飲み込んでいるようだ。黙々とお弁当を食していると、向こうから近付いてくる影がある。
「不言色さん、ちょっといい?」
「えっと……誰?」
「右前那月。理依奈――石動理依奈の友達」
有紗の認識では、理依奈と愛里の所に違うクラスからやってくる人だ。
「単刀直入に聞く。理依奈のこと嫌い?」
「そんなわけっ……!」
ない、ありえない。自分でもびっくりするくらい、反射的に有紗は答えていた。嫌いどころか、その正反対。でも、今までの態度を鑑みれば、理依奈の友達にそう思われても仕方がない。
「そう、よかった。もう一個聞きたいんだけど」
言うなり那月はしゃがみこんで自分の口元に片手を当てた。今からひそひそ話をするよと言わんばかりに、残った手をおいでおいでと優しく振る。
警戒して小首を傾げる有紗だが、耳くらい貸してあげてもいいかと考え直し、那月の方へ姿勢を傾ける。
「一昨日、三年の神木先輩に告白された?」
囁くように言われたが、はっきりと聞こえたその名前に有紗の体は面白いくらい逆側に仰け反った。
「ごめ。嫌なこと思い出させた。でも、本当なんだ」
有紗は無反応に努めたが今更だろう。態度で全てを物語ってしまった。
「やっぱり、理依奈の方が正しい」
「……どういうこと?」
神木の告白と石動さんに何の関係が?
繋がりが見つからなくて、有紗の心の中がざわついている。
「ここじゃ、あれだし移動だ……あっ、食べ終わってからでいいよ」
「いえ、今行くわ」
すぐにでも聞きたい。有紗は食べかけのお弁当を大事に鞄にしまった。
「待って待って、私もぉ」
慌てて立ち上がったのは、様子を遠目で見ていた愛里だ。二人が移動しようとすると、こけそうになりながらついてくる。
三人で廊下突き当りの折り返し階段へ。そこを上ると封鎖されている屋上扉前だ。周りに誰もいないのを確認すると那月が話しだす。
「最悪、理依奈もう学校に来ないかも」
「えっ!?」
「なっちゃん、不安にさせるような言い方しないのぉ!」
「だって私、まだ不言色さんのこと信用してないし」
真っすぐな物言いだ。精神が強い人なのだろう。バチリと目が合った那月は、眉根が吊り上がって怒ってるようにすら見える。長時間話すにはこっちの身が持たない。そう感じて、有紗の小柄な身体は一層縮んだ。
「何があったか、教えて……ください」
おかげで敬語になってしまった。
見かねた愛里が、少し頬を掻いたあとに話し出す。
「不言色さん、騙されたんでしょ? バレー部の神木先輩に」
騙された……は何かが違う、ずれている。返事はせずに、次の言葉を待つ有紗。
「告白してさ、その気になった不言色さんを――あぁっ!? 言い方ごめんねぇ……。その……返事をした不言色さんを、その場で振るとか、絶対、告った側が『嘘でしたー』ってからかうやつでしょ?」
あぁ、そういうことか。真実は違うけど、事実だけ見れば嘘告に近しい状況なのか。
(私の病気を知っているわけじゃないんだ)
有紗はコクンと小さく頷いておくことにした。
「だから、理依奈に泣きついた。神木がひどい、懲らしめて。ぴえん」
そう言って、泣き顔の絵文字が表示されたスマホの画面を、有紗に向ける那月。
「泣きついては……ない」
「え?」
「告白されたあとから今日まで、石動さんとは会ってない」
「でも、トークある」
「まだ交換してないよ。……交換しておきたかったよ」
証拠とばかりに、有紗は自分のトークアプリを開いて見せた。友達欄にいるのは父と母の二人だけだ。
「だから言ったじゃん、なっちゃん」
愛里にそう言われて、あからさまにしゅんと肩が落ちる那月。
「私はてっきり、不言色さんに煽られて、喧嘩したんだとばかり……」
「理依奈は自分からそういうことする子だよぉ。ごめんなさいして、なっちゃん」
「ごめんなさい」
那月にぺこりと謝られるが、喧嘩の二文字が引っ掛かりすぎてそれどころではない。
「誤解されるのは慣れてるから別に……。それより石動さんが喧嘩ってどういうこと?」
愛里と那月が目を合わせてうなずき合う。話し出したのは愛里の方だ。
「りっちゃんもどこかで不言色さんが嘘告されたって知ったんだろうね。聞いた話だけど、最初からもうマジギレで凄かったらしいよ。『不言色さんに告ったの誰だー!』って体育館に怒鳴りこんで。バレー部みんなびっくりして練習止まったってさ。そんで、神木先輩が出てきて――キャプテンだから出ざるを得なかったんだろうけど、『それ俺じゃない。誰の話してんの』みたいに逃げられて。でも、りっちゃん負けないの。『お前のせいで不言色さん来なくなったら許さない!』って」
身体が震えるのは、きっと心が感動で打ち震えているせいだ。
何をしてるの石動さん……。
私にどれだけ冷たくされても、笑っていたあなたが、嘘告なんかでそんなに怒ったの?
それとも、私が馬鹿正直に病気を告白して、神木に軽く手のひらを返されるところでも隠れて見ていたっていうの?
どこまで知ってて、……どうしてそこまでしてくれるの。
胸がいっぱいになって、瞳が潤む。
「でも、理依奈その日泣かされて帰ったっぽい……」しゅんとなってる那月がさらにうつむく。
「えっ……」
「トーク色々やり取りしたけど、結局詳しい話は本人の口からは何も聞いてないんだよね。ひとりで抱えてるっぽくて。周りから必死に情報あつめてこれよ。大変だったぁ」と、息を大きく吐く愛里。
「多分、不言色さんのことだから言えないって感じ」
「だからさ、りっちゃんの友達二人からのお願いがあるんだけどぉ」
「理依奈が困ってたら、助けてあげて」
顔を上げた那月が、ひしと有紗の手を取ると、さらに上から愛里が二人の手を包み込む。
有紗の返事はとっくに決まっていた。
◇ ◇ ◇
感情に身を任せすぎた……。後悔先に立たず。理依奈はベッドに寝転んで、愛するロス君を抱きかかえていた。
絶対噂になってるよ、どうしようロス君。今日は学校に行ける気がしない。
昨日の夜は愛里や那月とトークしてすっかり寝坊した。それからゴロゴロと、気付けばお昼を過ぎている。学校への連絡もほったらかしたままだ。
不言色さんは学校に来たんだろうか。きっと余計なことしたよね私……。物静かな不言色さんが、あんな風に騒ぎを大きくするの、望んでいるわけないじゃん。私のせいで、余計しんどくなってたらどうしよう。もうちょっとで友達になれそうだったのに、これで嫌われたら絶対引き摺る。
あれこれと心配事を考えていると、理依奈の瞼が落ちそうになる。辛いから脳が休めと言ってるんだろうか。
もう一度寝ちゃう? 土日でもないのにお昼寝できるなんて贅沢だね。抱きしめているロス君に、理依奈は軽くキスをする。
「あんた、何してんの」
最悪と言っても差し支えないタイミングだ。
ノックもせずにドアを開けてきたのは、スーツ姿の母だった。
「な……んで、お母さん!?」
寝ぼけまなこが一気に覚醒する理依奈。見られた? 見られてしまった? 平然を装おうと慌てて起き上がる。
「理依奈、学校サボって何してんの!」
「お母さんこそ、仕事は? てか、ノックしてよ!」
「昼休みにちょっと忘れ物取りに来たら靴あるし、まさかと思って見に来たのよ。ほんとにいるとは思わなかったし……何あんた、風邪? 随分元気そうだけど」
風邪ではないけれど、心の持ち様は大変な下り坂だ。
「今日はしんどいの」
「嘘言って。もしかして最近成績落ちてるの、学校行ってないからじゃないでしょうね」
どうして何もかもを信用してくれないのか。きちんと勉強して、いい大学入って、二人産んでもバリキャリなお母さんには、出来の悪い娘のことなんてわからないのかもしれない。
「ほんとに、今日はたまたま! いつもちゃんと行ってるから!」
「それに、なんであんた掃除機抱えてんの?」
「ちがっ」
慌ててロス君をベッドに置く理依奈。
「それ、布団は掃除できないでしょ」
「だから、なに?」
昨日からのフラストレーションが溜まりすぎている。そのせいで、全部が刺々しくなってしまう。母の方も理依奈のそんな態度がストレスなのだろう。眉間に皺が寄っていく。
「なに? はこっちのセリフよ。掃除機にチューするとかぬいぐるみじゃないのよ? ぬいぐるみだとしても、何のおままごとですか? あんたもういくつよ」
「おま…………!」
ロス君へのこの気持ちは、おままごとなんかじゃない。胸の奥が熱く燃えている。でも何も言葉が出ない。友達にすら言えないのに、親にこの思いなんて打ち明けられるわけがない。
「あんた、おかしいんじゃないの?」
「…………!!」
それは、一番聞きたくない言葉だ。理解されないなんてわかっているけど、自分の親からは直接聞きたくなかった言葉だ。
悔しいのか悲しいのかわからない感情で、理依奈の目尻に涙が溜まってくる。
「次も成績下がるようなら、掃除機で遊ぶの禁止。取り上げます」
「……わかった。わかったから、もう出て行ってよ!!」
最後はもう怒鳴ってしまった。普段はこんなことないのに。晴れない気持ちばかりがいくつも溜まって行き場がなくなっているせいだ。
母は呆れ顔でため息ひとつ。部屋を出て行った。
改めて一人になった部屋でロス君を拾い上げる理依奈。
彼を取り上げる? 何の権限があって? 成績とロス君に何の関係があるっていうの。
最近こんなことばっかり!
どうして誰も彼も人のことをもう少し落ち着いて理解しようとしないのか。ひと眠りすれば明日には復活できそうだった心の天気は、今や土砂降りだ。
「っく……ひっく…………」
ぼろぼろ零れる涙と共に、自分がしゃくりあげていることに理依奈は気付いた。今日はもうダメだ。気力が根こそぎ持っていかれて、力なくベッドに横になる。
その瞬間だった。枕元のスマホがチリーンと通知音を鳴らす。数秒無視したが、ほんの少し気になった。ぼやけた視界で認証を解除すればトークアプリに赤丸の数字。開いたそこには見慣れない名前があった。
「不言色さん……?」
『突然ごめんなさい。石川さん、右前さんに聞いてメッセージ送りました』
『体調、大丈夫?』
『何か、しんどいことあったら教えて』
当たり障りのないシンプルな三つのメッセージが並んでいた。
(今日、学校来てたんだね。よかった)
少しばかりほっとして、思わず返事を打ち込んでいた。
『助けて』
……なんて。あのクールな不言色さんに優しくして貰いたいとか……馬鹿じゃないの。
無理矢理笑おうとしたら余計に涙が出てきて、理依奈はロス君に泣きついた。
◇ ◇ ◇
すぐに戻ってきた返事に、不言色有紗の心臓は飛び跳ねた。喜びからではない。
「これ……」
思わず目の前の那月と愛里に「助けて」の三文字を見せてしまう。
「どうしよう……!」
理依奈がこんなに思い詰めているとは考えていなかった。なんて言葉を返してあげればいいのか。有紗には皆目検討が付かない。
「不言色さんだったら、どうして欲しい?」
うろたえている有紗を諭すように、那月が尋ねる。
(私だったら……?)
辛い時、しんどい時、心が弱っている時は一人にして欲しい。今までずっとそうだった。友達を全部なくした時だって、一人になって独りでゆっくり立ち直って……今日だってそうやって学校に来た。
だから、放っておく……?
そんなのが正解だなんて思えない。前提が間違っている。これは友達なんて必要ないと思っていた時の私の考えだ。
石動さんと友達になりたいのなら、石動さんのことを大切だと思っているのなら。例えば、もう石動さんと仲が良かったのだとしたら。
「あっ……」
答えはそこにあった。神木に振られた時のことを有紗は思い出す。泣き顔を見られたくなくて帰ってしまったけど、本当はあの時慰めて欲しかったはずだ。「大丈夫だよ」なんて優しい言葉を直接かけて欲しかったはずだ。
「私……行かなきゃ――!」
閉鎖された屋上扉前、昼休みは残り少ない。有紗の決意が固まる。
「行っちゃいなぁ不言色さん! りっちゃんの家わかる、わかんない? ……OK、メッセージ送っとくね!」
グッドサインを出す愛里。
「不言色さん、最後に一個聞いていい?」そう言って、有紗の袖口を軽くつまむのは那月。
「ええ」
「理依奈のこと好き?」
「……多分、」
大きく息を吸って。
「大好き!」
その言葉で、那月の手もグッドサインに変わる。
有紗は階段を駆け下りた。
会って話したいことがいっぱいある。片道十分かかる道は、走ってもせいぜい半分にしか短縮できない。五限の開始にはきっと間に合わないだろう。でも、それでいいと思えた。友達のためなら、一回ぐらい授業はさぼるべきだ。
三階から一階まで一段飛ばしで、着いたら廊下をダッシュ――。
ちょうど方向転換するそこで、有紗は大きな人影にぶつかってしまった。
突進して行ったのは有紗の方だが、なにぶん小さくて軽い。有紗は跳ね返されて尻もちをつく。
「ごめんなさいっ!」
痛みをこらえて、見上げながら謝罪の言葉を発する。壁のように立ちはだかっていたのは、すらりとした長身の男子だ。
「ちっ、冤罪女の……」
舌打ちをする声に少しばかり聞き覚えがあった。顔はもちろん有紗にはわからない。でも立ち上がってなお余りある身長差。もしかして――。
「神木……?」
「呼び捨てすんな、冷血鬼が」
ぶっきらぼうに毒づいて、有紗の横をすり抜ける神木。ほんの一日会わないだけで、随分と印象が違う。こんなに当たりの強い人間だったのか。
正直怖い。有紗の臆病が見え隠れする。
――でも、神木だとしたら。今さっきなんて言ったの。
(冤罪女って、石動さんのこと!?)
神木が階段に足をかけ、上がっていこうとしている。今、何か言わなければ消えて行ってしまう。今、何か言えなければダメな気がする。
嘘告の神木と詰るのがいいか。いやそれ自体が嘘になってしまう。
石動さんが冤罪を吹っ掛けたんじゃない。あなたが、誤魔化して逃げているだけだ。それを言えばいい。
でも、それを言うには……廊下に誰もいないわけではない、バレる。
いいや、だからこそ言ってしまおう。どこかの誰かに聞かれるくらいがちょうどいい気がした。
折り返し階段を半分上って、踊り場に消えて行きそうな神木の背中に有紗は呼びかける。
「神木先輩! 告白してくれたのに、私が病気でごめんなさーい! 病気持ちの女なんて嫌ですよね。もし治ったらまた告白してくれますかー?」
言ってやった。我ながら皮肉たっぷりだと有紗は思った。
消えて行く神木に凄い目で睨まれた気もするが、向こうも反応するのは得策じゃないと思ったのだろう。そのまま何事もなく消えて行った。
ちょうど上から降りてくる見知らぬ女子二人と目があう。敢えて逃げるように有紗は走り出した。
――これでいい。あとは周りがどう思うかだ。石動さんに会いに行こう。
小雨が降り続いている。傘は三階の教室前だ。今さら戻る必要もないだろう。昇降口でローファーに履き替えて、校庭を駆けていく。
スマホを開けば愛里からマップ画像が届いている。ありがとう、これで場所は大丈夫。
そうだ、石動さんにも返信しておこう。
『今から行くから待ってて』
校門を出たくらいで、スマホが鳴った。
『うそうそ、大丈夫だから。心配かけてごめんね』
大丈夫って言葉が嘘でしょう。冗談めかした「助けて」ならもっと絵文字とかスタンプとか付いてたはずだ。有紗は走るのをやめない。でも体力がないからもうバテそうだ。大通りを進んで横断歩道を渡り、自分の家とは逆方向に曲がる。表札は出してくれているだろうか。チャイムを鳴らせば石動さんの親とかが出てくるんだろうか。
「あった……!」
肩で息をしながら、石動の表札を見つける。
『もう着いたから』
送って、一緒にチャイムも鳴らす。中から反応はない。
『今、会えないよ』
代わりにスマホが鳴った。
『そんなこと言わないで。雨、冷たい』
『えっ、傘は?』
『忘れた。風邪ひいちゃう』
雨足が強くなってきて、本当に風邪をひいてしまうかもしれない。それでも有紗は待った。
玄関の鍵がガチャリと鳴った気がした。
『入って』
実は親御さんもいたらどうしよう。おそるおそる玄関のドアを開ける有紗。
「お邪魔します」
濡れた体を一歩家の中へ進めれば、ロス君で顔を隠す理依奈がそこにいた。
「どうしたの石動さん。ロス君になってるよ」
見えないとわかっていても、少しだけ微笑んでみる有紗。
「今、見せられる顔してないから」
それは、つまり泣いていたということだろうか。
「……来てくれてありがとう。上がって。洗面室のタオル使っていいよ」
促されて、有紗はタオルを借りる。濡れた頭の雫を拭き取りながら、理依奈の部屋へ移動する。
「すごい、綺麗な部屋ね」
「ありがと。ベッド座っていいよ」
「私、まだ濡れてない?」
「平気、平気」
お互い横並びにベッドに座って、お互いそこで黙り込む。
(どこから聞けばいいんだろう)
息を切らして走っていた時は、いっぱい話したいことがあったはずなのに。有紗は切り出し方がわからない。
沈黙を破ったのは理依奈からだった。
「不言色さんは大丈夫?」
相変わらずロス君で顔を隠して、腕がぷるぷるしている理依奈の方が大丈夫かと思ったが、息もだいぶ落ち着いてきた。
「もう大丈夫よ」
「昨日は……神木のせいだよね?」
有紗には、理依奈の声が少し震えて聞こえた。
「……ちょっとしんどかったけど、いっぱい泣いたから」
「不言色さん……」
「本当に大丈夫。だって、石動さん怒ってくれたもの」
「ごめんね」
理依奈の声は沈んでいる。
「どうして謝るの。私、すごく嬉しかったよ」
「だって、事を大きくしちゃったし」
「本当に気にしないで。だって私ここに来る前に、神木に大声で言ってやったから」
「えっ……」
「病気持ちでごめんなさいって」
「!!」
「石動さんに言ってなかったね。私、人の顔がわからないの」
有紗のその言葉で、理依奈がロス君を膝に降ろした。有紗の思った通り、理依奈の目は泣き腫らしたように真っ赤だった。
「ごめん、実はそれ知ってるの。たまたま聞いちゃって……」
「それで体育館に突撃?」
「……うん」
「ふふっ。石動さんはすごい人だね。私には真似できない」
有紗は嬉しくて自然と笑顔が出てしまう。誰かのためにこんなに動ける人って本当にいるんだ。
「私、そんなんじゃ……」
謙遜か、口ごもる理依奈。
「石動さんは大丈夫? やっぱり神木のせい?」
かぶりを振る理依奈。
「不言色さんがいいって言うなら、気にしてたこと全部なくなっちゃった」
「…………有紗」
「えっ?」
「有紗って呼んで欲しい」
随分と思い切ってしまった。有紗は一瞬後悔しかけるが――。
「有紗……ちゃん」
理依奈が優しくそう呼んでくれたので問題はなかった。
「どうして私はちゃん付け?」
愛里や那月は下の名前そのままだった気がする。
「ちっちゃくて可愛いから。お掃除ロボットみたい。ほらロス君も君付けだし。そういう感じ?」
「なにそれ」
有紗はまた笑ってしまう。ずっと心地がいい。でも理依奈は対照的だ。目元を見る限り――だが、何かまだ思い悩んでいるのか、神妙な顔つきに変わっている。
「有紗ちゃん」
「なーに?」
「私、言わなきゃならないことがあるの」
「うん」
「あのね……」
口ごもる理依奈を有紗はじっと待つ。怖い顔をしていないだろうか、気になって微笑みをより意識する。
「……私、ロス君が好きなの」
なんだそんなことか、と有紗は思ってしまった。
「知ってるよ。今も大事に抱えてるし、学校に持ってくるし、すごく語ってたしわかるよ」
家電だけど、ペットみたいなものなんでしょう?
「違うの。もっと、なの……男の子みたいに……好きなの。彼氏ぐらい好き……なの。こんな話、イヤだったらごめんねだけど、抱きしめてると……その……キスすらしたくなるの……」
たどたどしく、でも必死に説明してくれる理依奈に有紗の思考はかき乱された。
(好きってそういう……!)
「こんなの、おかしいよね」
いつの間にか理依奈の声が、今にも泣きだすんじゃないかというぐらい震えている。
おかしくなんてないよ。私の病気の方がよっぽど欠陥品だよ。すぐに思いついた言葉を喉元で留める。
――違う。自分を下げれば理依奈の気持ちが晴れるの?
なんて言ってあげるのが正解なんだ。三年も友達がいなかった私にこんなの難題すぎる。
理依奈が大切だから、有紗は真剣に考えて言葉を探したが、その間がいけなかった。
「ご、ごめんね。今の忘れて。今日は来てくれてありがと」
理依奈が結論を急いでしまった。みるみる瞳に涙が溜まっていくのにありがとうなんて言ってくる。
即答でも軽い感じでもいいから「おかしくないよ」を真っ先に言うだけでよかったんだ。
ロス君が好きなんだ、へーそういう恋愛もあるよねって。それだけで全然違ったじゃない。
失敗した。大変な間違いをおかしてしまった。
私が絶句したみたいになって、なんで理依奈の方が気を使っているの。
私を助けてくれた人を、私が追い詰めている。
いやだ。こんなのいやだ。
神木になかったことにされて、あの時傷ついていたのはどこの誰。
なかったことにしちゃいけない。今の忘れてなんかやらない。
「有紗ちゃん、もう五限目始まってるし……ね?」
「いやだ」
理依奈が背中を軽くぽんと叩いて暗に帰れと言ってくるから、有紗は突っぱねた。
「いやだ、ここで帰ったら理依奈一人で泣くんでしょ」
思わず下の名前で呼んでしまったが、もうどうでもいい。
「理依奈、目が真っ赤だもん。散々泣いていたのにまた泣くんでしょ。そんなのいやだ。なんで大好きな友達が泣きそうなのに、放って帰らなきゃいけないの! 悩んで苦しんでる友達を一人にしなきゃいけないの! ロス君が好きなの、おかしいかどうかなんて私にはわからないけど、ロボットに恋愛感情抱いても普通だと思うし、歌声合成ソフトと結婚した人だっているし、別にいいんじゃないの。認めてくれない人がいたとしても、わかってくれない人がどんなに多くても、私は理依奈が泣き止むまでここで一緒にいれるから! だって、理依奈は私を独りぼっちにしなかったじゃない! 私、自分の病気なんか理解してもらえないと思い込んで友達全部捨ててたのに、理依奈は病気を知る前から、――知った後でさえ! 諦めずにそばにいてくれたじゃない! だから、諦めないでよ……!」
感情が昂って有紗の瞳から水晶みたいな大粒の涙がぽろぽろ零れ落ちる。
「あり……っ、……さ…………ちゃん……っく」
理依奈の顔ももうぐしゃぐしゃだ。
どちらからということもなく、守るべきものを愛おしく包み込むように、互いが互いを優しく抱きしめ合う。
「帰れなんて言わないでよ……友達でいさせてよ……」
「あり……が……とう……うぅ」
「お礼を言うのは私の方だよ……理依奈ありがとう」
そのあとは二人、ロス君の目も憚らず、気の済むまでわんわんと泣き続けた。
隠したものを吐き出して、それでもそばにいてくれる人の温もりを感じながら、「私たち泣きすぎじゃない?」なんて理依奈が言い出して、有紗が微笑むまでずっと泣き続けた。
◇ ◇ ◇
「那月の耳よりニュース。神木先輩、通称手のひら返しの神木になる」
あれから何日かが過ぎた、いつも通りのお昼休み。那月がやって来ればメンバー勢揃いだ。
「こちら愛里、報告感謝。って、最初嘘告の神木じゃなかったっけぇ?」
愛里がタコさんウィンナーを一口で頬張る。
「私の事情知ってるかどうかじゃないかな」
お弁当タイムにはもう当たり前のように有紗が一緒になっていた。
「なるほろぉ。どのみち、しばらく彼女できなさそう」
「いいんじゃない。身長百九十イケメンとか、大学行ったらどうせすぐできるでしょ。デカいくせに器がちっちゃいのよ。高三の間ぐらい凹んでろって感じ」
正直理依奈は胸がすっとしている。有紗を傷付けたのだ。それぐらいの報いは受けて当然。
「ね? 有紗ちゃん」
「そうね、理依奈を冤罪女呼ばわりしてたもの」
有紗の人を寄せ付けない冷たさはすっかりなくなっている。
「デカちいの神木」
不意に那月から出てきた新しい通り名で、噴き出すくらいだ。
「不言色さん、ごめんねぇ」
むせている有紗に、何故か愛里の方が謝ってくる。
「けほっ、けほっ……な、なんで?」
「最初もっと、冷たい人だと思ってたからぁ」
「あー、そっち? それはそう演じてた私が悪いよ」
「りっちゃんの言う通りいい子すぎるよぉ。あっ、これからあーちゃんって呼んでいい?」
「ふふっ、お好きにどうぞ」
「じゃ、私は有紗って呼ぶ」
那月もちゃっかり許可を取りにきた。
「ちょっと、あんまり私の有紗ちゃん取らないでくれる?」
理依奈はふくれっ面だ。それを見て嬉しそうに有紗は笑う。
「これから放課後は有紗ちゃんと地獄のテス勉あるんだから。頑張らないとロス君が出向してリビング担当になっちゃう」
「私も参加する」
那月が左手のフォークを口に運びながら、右手で挙手する。選手宣誓みたいだ。
「えー、部活勢ひとりになっちゃうよぉ」
地団駄を踏む愛里。
「じゃあ次の休み、みんなで勉強会しようよ」と、理依奈が提案すれば。
「やったぁ」
「決まりね」
文字通り、二つ返事で予定が決まっていく。
楽しくなった有紗は一つ話題を思い出した。
「そういえば、この前またロス君が教室掃除頑張ってた時に思ったんだけど」
「うん」
「理依奈は掃除しないよね」
「ちょっと有紗ちゃん、人をサボり魔みたいに。株が下がるでしょ」
「今、ストップ高だからちょっと下がっても大丈夫だよ」
「やっぱ下がってはいるんじゃん!」
「りっちゃん、ロス君にベタ惚れだからなぁ」
「いっぱい仕事する君が好き」
「全部間違ってないけど、私も掃除してたからっ」
石動理依奈は彼氏に見惚れて少し手が止まってしまう普通の子。彼女の彼氏はお掃除ロボットのロス君だ。
つい最近まではずっと言えないことがあったけれど、最近はこう思う。
(開けっ広げな恋も悪くないかな)
不言色有紗は人の顔がわからない。そんなことを言っても他人に気を使わせるだけだし、友達なんて作っちゃいけないと思っていた。
でも、最近はこう思う。
(病気のこと、ちゃんと伝えてよかった)
二人ともわかっている。たまたま良い人たちに恵まれただけ。世の中素敵なことばっかりじゃない。あれだけしんどいことがあったんだ。本当はきっともっとわかってもらえなくて、また辛いことでいっぱいになる日も来ると。
でも、もう知っているから諦めない。勇気を出せばちょっぴり自分の世界を良い方に進められること。一生大切にしたいって思えるくらいの人にめぐり会えること。いつも変わらず味方でいてくれる人がいるってこと。
これから先は勇気を出したあの日々をいつでも思い出せるから。負けたりしない。
いや、ちょっとぐらい負けてもいいんだ。手を取り合えば立ち上がれることを知っているのだから。
エアコンの効いた教室で授業を受けながら、石動理依奈はそんなことを考える。
三階窓際の席。頬杖をついて外を見やれば、男子が暑い中わちゃわちゃ走り回っている。
授業の終わりまで残り五分。
最後に何か球技でも始めるのか、グラウンドにライン引きで四角いコートを作っていく。
お掃除ロボット。例えば厚めのフリスビーのような、カーリングのストーンのような図体で床を滑り、お部屋を掃除して、なんなら自分で充電台に戻っていくあれ。グラウンドを走り回ったら、すぐに大量の砂で目詰まりするだろうが言いたいのはそんなことではない。
視界に見える範囲にお掃除ロボットがいないのが、理依奈にとって憂鬱だった。
石動理依奈は十六歳。普通の女子高生だ。
六月のこの時期は日焼け止めを欠かさないが、大して白くもない肌。朝寝坊で時間が足りないと、一重になってしまう目元。セミロングの髪は特に染めてはいないが若干明るめ。テストは大体平均点で、最近の親の口癖は「勉強しろ」それがちょっぴりうざい。そう至って普通。大体普通の女の子。
最後の五分、男子はドッジだった。攻防をぼんやり見てるうちに終礼のチャイムが鳴る。
「りっちゃん誰に恋してんのー?」
お弁当袋を提げて理依奈に寄ってきたのは、友達の石川愛里だ。
「どういうこと?」
「んー? だって授業中ずっと男子見てなかったぁ?」
言われてみれば最後の方は熱心に外を見ていたかもしれない。でもそれはただ授業が退屈だっただけで。
「私、男子に興味ないよ」と、理依奈は手を横に振りながら答える。
「えー。彼氏欲しくならない?」
言いながら、愛里が椅子に座ってお弁当を広げる。
「間に合ってるからなぁ」
「それ、いる人のセリフ」
「楽しそうね」
二人の会話に入ってきたのは、隣のクラスの右前那月だ。
「なっちゃんは彼氏欲しくなーい?」
語尾を上げて愛里が聞く。
「私、いるし」
「えっ初耳ぃ」
「ほら」
そういって那月が差し出したスマホにはキジトラの猫の写真。
「びっくりした」
「それは彼氏って言わなくなーい?」
理依奈と愛里のリアクションを受けながら、那月も空いてる椅子に座る。
これでいつもの三人。お昼休みは大体いつも教室でお弁当だ。
「ほらこれ見て。うちの彼氏、掃除もするから」
今度は動画だ。
那月のキジトラが円盤型のお掃除ロボットにお澄まし顔で乗っかっている。お掃除ロボットがテーブルや椅子の脚の隙間を縫って清掃を進めるが、キジトラは我関せず。微動だにしない。
「それ、掃除してるの下だから。本体下だから。なっちゃんの彼氏ニートだよ、それぇ」
愛里がだし巻き卵を箸でつかみながら言う。
「でも、可愛いね」
理依奈が褒めると、那月は少し目を細めてにやりとした表情を浮かべる。わかりづらいがこれでちゃんと喜んでいる。
「可愛い系、彼ぴ」
那月がキジトラを自慢するかのようにピースサインを繰り出す。
(ただ……見てると早く帰りたくなっちゃうな)
うんうんと那月に同意しながらも、理依奈は一抹の寂しさを感じていた。
午後の授業が終わると愛里は部活、那月は逆方向で、理依奈は一人で歩いて帰ることになる。
校舎を抜けると、前を歩く小柄な姿に少し見覚えがあった。
(同じクラスの……後ろの席で……いつも本読んでる子)
そこまで出たが名前が出ない。「全然喋らない」をそのままにしたような苗字だった気がするんだけどなぁ。曲がり角で消えていく姿を確認して、理依奈は思い出そうとすることをやめた。
石動理依奈の帰宅の挨拶は二回ある。
「ただいまー」
最初の一回は玄関。弟が返事をしたりしてくれなかったりする。
「ただいまー」
二回目は誰もいない自分の部屋だ。八畳程のフローリング。女の子の部屋としてはちょっと質素なくらいに物がない。勉強机とベッド。……で、終了というくらいに物がない。ただ着替えのために理依奈がウォークインクローゼットを開けると、そこだけは物でパンパンだった。
制服から普段着に着替え終わると、理依奈は真っ先に向かう場所がある。
充電台に鎮座するお掃除ロボットの所だ。
「今日も、私のお部屋綺麗にしてくれてありがとね」
満充電で緑のランプの彼を引っ張りだすと、胸に抱えて理依奈はベッドに座る。
型式番号LSー04DG。黒を基調としたデザインで、黒曜石のように艶やかに作られた上面が高級感を醸し出している。傾けると市松模様が浮かび上がって、そこもまたカッコいい。小屋のような充電台に帰れば、自動でゴミをそちらに移動させる賢さまで備えている。まさにハイスペックだ。
理依奈はそんな彼をその型式番号からロス君と呼んでいた。
「ロス君は寂しくなかった? いつも一人でお仕事させてごめんね。私はね、今日ちょっと寂しかったよ」
言いながらぎゅっと抱きしめる。ふとした時にその姿を思い浮かべて、グラウンドにまでその影を探してしまう。本当は学校でもずっと一緒にいたい。それが難しいことはわかっているから、ここでありったけ理依奈は彼に触れる。
抱きしめていると、文句一つ言わずに頑張ってた彼がたまらなく愛おしくなる。好き、大好き。
理依奈は力を緩めて彼を持ち直すと、その黒曜石の額にそっとキスをした。
石動理依奈は大体普通の女の子。理依奈の彼氏はお掃除ロボットのロス君だった。
それなりに高価な彼が理依奈の部屋にやって来れたのは、地元のスーパーの福引で金ぴかの玉を出したからだ。今にして思えば、それも運命の出会いみたいで嬉しい。出会うべくして出会った。引き合うように一緒になれた。理依奈は胸がきゅんとする。
本格的に彼の事が好きになり始めたのは、理依奈のずぼらに彼が困っていた時かもしれない。
お掃除ロボットは、今日の掃除状況などをアプリを介してスマホに通知してくれるのだが、その日は初めてのエラー通知だった。
『段差・障害物等に阻まれて動けなくなっています』
そんなことある? と思いながら帰宅すれば、崩れた教科書の山に乗り上げてにっちもさっちもいかなくなっていたロス君。
「わー! ごめんごめん」
抱え上げてロス君を救い出せば、新たな通知。
『ありがとうございます。エラーは解除されました』
私の方が悪いのにお礼を言ってくれるんだ……シンプルな機械のメッセージかもしれないけれど、理依奈にはそこが刺さって、彼のことが気になり始めてしまった。床から物が片付いていったのもこの頃だ。
小・中学とあんまり恋に興味はなくて、そのうちしたくなるのかなぁと思ってた矢先。自分の中のこの気持ちに気付いて、でもこれは普通ではないよねとも思って。
男子に興味がないのも本当。彼氏がいて間に合っているのも本当。そして本当のことが言えないのも本当。
でも、秘密の恋っていうのも悪くない。
理依奈は基本ポジティブだった。
「あっ」
翌日のお昼休み。教室を出て行く女の子のうしろ姿を見て、理依奈は聞きたかったことを思い出す。
「今、教室出て行った静かな子、名前なんて言ったっけ?」
昨日の帰り道に見た華奢な子だ。今日一日、どの先生にも当てられていないせいで、未だに名前がわからない。
「不言色さんね。どうかした?」
さらっと教えてくれたのは那月。隣のクラスだというのに、理依奈より物知りだ。
「いや、昨日名前が出なくて……いつも一人だなぁって」
「……あんまりこういうこと言いたくないけどさぁ」愛里が口の中のものを飲み込んでから続ける。「不言色さん評判悪いよぉ?」
「えっ」
理依奈にとっては初耳だ。
「基本、反応が薄いというかぁ……」
「もっと言えばガン無視。男子は特に撃沈してる」
那月がずばっと言ってのける。
「へ、へーそうなんだー。そういえば、那月のキジトラってあれできないの?」
こんな話題になってしまうとお昼ご飯が美味しくない。理依奈は、昨日SNSでバズっていた猫の話を振ることにした。
不言色が物静かな子であることは、思い返せば前々からよく知っていることだった。同じクラスだが友達と喋っているところを見たことがないし、授業中に当てられた時には、なんだか消え入りそうな声で返事をする。休憩時間は自分だけの時間と空間をまとって本の世界に浸っているし、教室にいない時はきっと図書室にいるのだ。理依奈は図書室に行かないが、それがばっちり想像できてしまう。
(あんまり、人と関わるのが好きじゃないタイプなんだろうな)
それで評判悪いのはかわいそう……。
かわいそうって上からじゃない?
……ええとだから、……そうじゃなくて、「なんか自分が嫌なんだ」うん。自問自答で理依奈は心の中で言い換える。
というか、正直――「ごめん、今日はミーティングあるから」とか言って掃除サボって部活に行った男子たちの方が、私の中で評判悪いんだけど?
終礼後の掃除の時間。教室担当の第五班は男子四女子二のはずだが、教室に残っているのは理依奈と不言色のみだ。ちょうど班替えがあったので不言色とは初めての共同作業でもある。
教卓側から後ろへ。二人で黙々と教室を掃いていく。
「はぁ……」
理依奈から思わずため息がこぼれる。
ミーティングとやらはきっと本当にするのだろう。掃除の時間すら部活に捧げている、俺たちは本気なんだ。そんな“お熱い”考えすらあるのかもしれない。だが。
――絶対掃除したくないだけでしょ。
帰宅部は暇なんだからやらせておけばいいじゃん。という考えが透けて見えるのが腹が立つ。
ほうきを握る力も強くなれば、理依奈の動作も激しくなる。
対照的に不言色に怒りの色は見えなかった。
(不言色さん、いつも通り。てか、ちっちゃい。動作も細かい)
身長は百五十センチを切ってるんじゃないだろうか。小顔で肩幅もストンとしている。つややかな黒髪はロングのストレート。輝きはロス君の天面にも勝るとも劣らない。アイロンもオイルもなしでこれだったとしたら、綺麗すぎて嫉妬するレベル。評判が悪いなんて嘘みたい。絶対男子がほっとかないタイプだ。いや、だから撃沈しているのか。
文句も言わずにひたすらほうきを動かしているの見ると、なんだかお掃除ロボットみたいで可愛い。
不言色を観察していると、理依奈の溜飲が下がっていく。
「二人だと掃除大変だよね」
理依奈は思わず話しかけてしまった。
対する不言色は一言。
「そうね」
で終わり。理依奈の思った通りだ。絶対、人と喋ったり関わったりを煩わしく感じてるタイプだ。
(あんまり、話しかけると嫌がられるかな……)
そうは思うけど、鈴を転がしたような声をもうちょっと聞きたい。
「こんな時はさ、お掃除ロボットあったら絶対便利だよね」
突拍子がなかったのかもしれない。不言色はしばし黙った後、また一言だけ。
「持ってくれば?」
ぶっきらぼうな「そうね」がもう一度くると思っていた理依奈にとって、この返事は想定外だ。
頭の回転が速いのか、理依奈がお掃除ロボットを持っている体での返し。
ロス君を学校に持ってくる? ありかもしれない。終礼後だけ出すなら、ほぼ先生にバレないだろうし、バレても言い訳は立つ。少なくとも「彼氏だからそばに居たくて持ってきました」なんて言う必要はない。
「う、うん。家にいるから、明日ちょっと持ってくるね!」
あ……、あるじゃなくて「いる」って言っちゃった。内心焦る理依奈だったが、不言色は気にしている様子はなさそうだった。
翌朝、理依奈はうきうきでスクールバッグにロス君を詰め込んでいた。代わりに入らなくなった教科書のことは知ったこっちゃない。
彼氏と一緒に学校行ける。登校デートじゃん! 嬉しくていつもより十五分は早く家を出てしまう。
外に出れば抜けるような快晴。理依奈にはいつもの通学路が輝いてすら見えた。
気分上々で道を進めば見覚えのある黒髪ロングストレート。行きで見かけないのは、いつも早かったからか。
「不言色さーん!」
小走りで追いついて、横に並んで不言色を覗き込む理依奈。
「おはよー!」
こんなに元気に、こんなに笑顔で挨拶できたことないかも。好きな人と一緒にいるって世界が変わっちゃうくらいの力がある。
そう思っていたのに。
「誰?」
怒っているかのような不言色にねめつけられて、まるで蛇に睨まれた蛙。理依奈はフリーズしてしまった。
固まった理依奈を気にする様子もなくスタスタと先に歩いて行ってしまう不言色。
私、怒らせるようなことしたっけ? 理依奈の頭の中はクエスチョンマークでいっぱいだ。
いや、元から話しかけられるのがそんなに好きじゃない人だし、今日は特に機嫌が悪かったのだろう。
だとしても。
……「誰?」はなくない!? 昨日話したじゃん!
愛里と那月に愚痴ってやる。そんな決意を固める理依奈だった。
固めた決意はせいぜいふわとろのスクランブルエッグだったらしい。
同じクラスで近くに座っている不言色がいるのに、愚痴る勇気は理依奈には生まれなかった。
というか、冷静になって考えるとキャラ変しすぎたことに対する「誰?」だったのかも知れない。朝は浮かれすぎてたかも。理依奈ちょっと反省。
学校が終われば、今日も掃除の時間がやってくる。
理依奈と不言色、だけでなく今日はちゃんと男子も残っている。……いるだけで、まともに掃除している感じはしないが。
(ロス君の出番なんだろうけど……男子にダル絡みされても困る)
それ何? なんで持ってきてんの? にいちいち答えたくはない。
結局、理依奈はため息ひとつ。無言でほうきを動かした。
――十分、十五分。最後に机運びだけはやっていった男子たちが消えると、教室には理依奈と不言色の二人きりだ。
「不言色さん」
少しのためらいがあったが、スクールバッグを肩に提げようとしている不言色を、理依奈は呼び止める。相も変わらず無機質な表情で振り向く不言色。いちおう話は聞いてくれそうだ。
「実は今日、お掃除ロボット持ってきてたんだ」
バッグの底からロス君を取り出す理依奈。
「……なんで使わなかったの?」
「いや、男子いたし……」
「そう」
わー、すごい、めっちゃ高いやつじゃないの? みたいな反応が返ってくるとは微塵も思ってなかったが、本当に淡泊だ。
「動いてるところ見る?」
「え、もう教室綺麗よね?」
怪訝そうな不言色に、すごすごとロス君をバッグに戻す理依奈。
(仕事してるところがカッコいいんだよとか語りたかったけど、また今度にしよう)
理依奈もスクールバッグを肩に提げる。
「方向一緒だよね、一緒に帰る?」
「別にひとりで帰れるけど?」
そこは別に心配してないんだけどな。不言色さんは難しい。
「うん、じゃあ、バイバイ」
「さよなら」
挨拶さえもちぐはぐ。
こういう子とは根本的に合わないのかもしれない。
(でも――)
不言色が黙々と掃除している姿を思い浮かべると、嫌いにはなれない理依奈だった。
今日は、普通のテンションで。
翌朝、充電されたロス君を変わらずスクバの底に安置する。頬が緩みそうになる理依奈だったが、また不言色に睨まれるのも困る。
だから、もう一度自分に言い聞かせる。
今日は、普通に話しかけてみよう。
いつもより十五分早い通学路。角を曲がって大きな通りに出れば、黒曜石の髪の女の子。今日も向こうの方がちょっと先を歩いている。早足で追いついたら一呼吸、息を整えてから声をかける。
「おはよう。不言色さん」
理依奈の声に、今日は不言色の方が止まってしまった。
(あれ?)
返事のない不言色と見つめ合ってしまう理依奈。瞳まで黒曜石なんだな、なんてちょっと見とれてしまう。
「朝は――」ふっと目線を外す不言色。
「名前を名乗ってくれない?」
……どういうこと?
突然の謎ルール。そんなマナー知らないんですけど!
あれかな、いいところのお嬢様は毎朝「おはようございます、お嬢様。執事のセバスチャンです」みたいなのがあって、それが普通なのかな!?
完全に動揺した理依奈は、意味のわからない妄想に不言色を当て込む。
「名前……」
「あ、ああ、ごめんね。石動だよ」
「おはよう」
名乗りさえすればあとは普通なんだ。理依奈は落ち着きを取り戻す。別に大した手間でもなんでもないし、毎日名乗るなんて逆に面白いかもしれない。
(不言色さんの謎ルールに乗っかろう)
無表情な不言色の横顔を見守る理依奈だった。
こうして、朝の通学に新しいルーティーンが増えることになる。
「不言色さんおはよー。石動だよ」
「おはよう」
別の日。
「ちわーす。不言色さーん、石動でーす」
「……おはよう」
たまには趣向を凝らして。
「おはようございます、不言色お嬢様。石動でございますわ」
「誰?」
やっぱりキャラ変が過ぎるとこっちの反応なんだ。おかしくって笑ってしまう理依奈。
あれからまだロス君は出せていないが、前まで何もなかった通学路が最近楽しい。学校に着けば「すん」ってなっちゃうから五分で終わる時間だけど、授業のこととか先生のこととか、たまに反応のある話題が振れるとちょっと嬉しいまである。
「りっちゃん最近頑張ってんね」
体育館でバレーの授業中。座って試合を見ていたら、隣の愛里に肘でつつかれる。
「ちょ、耳元で囁かないで」
「ほれたぁ?」
「ないから。てか、私、体育は全然頑張ってないけど。うわっ、ジャンプサーブとかバレー部手加減なさすぎでしょ」
「サービスエースすごぉ。不言色さん固まっちゃってる」
「あんなの誰でもびびるわ」
「最近、毎日一緒に来てるよね?」
「えっ?」
「不言色さんとよぉ」
「あー……、十五分早く出るようになったかな」
「やっぱりぃ。頑張ってんじゃん。どう、いい子?」
「悪い子じゃないと思うよ。全然会話繋がらないけど」
「あはは。りっちゃん、あのさぁ」
「なーに」
「ごめんねぇ」
「どうしたの急に、調子悪い?」
「評判悪いとか言っちゃって」
「……それは、本人に謝るべきでしょ」
「まぁ、おいおい」
「それに私、頑張ってないよ。したいことしてるだけだし」
「なにそれ、そんけー。りっちゃんマジリスペクト」
「馬鹿にしてる?」
「違うよぉ。人間って案外、真っすぐ進めないもんだから」
「そうかな」
「そうだよ。だから、かっけぇね」
きらきらした表情の愛里に無垢に言われて、理依奈は体育座りで抱えたひざに顔を隠してしまった。授業中にそんなほめてくるとか、恥ずかしいからやめて欲しい。
(気になってる子に話しかけるなんて普通のことだから)
理依奈にとって、毎日ロス君に話しかけることと大差ない。当たり前のことなのだ。
「まーたミーティングだって」
「そう、みたいね」
例によって掃除の時間。男子たち四人はいつかと同じく消えて行った。だがこれで邪魔者はいない。
「じゃーん。お掃除ロボット~」
国民的猫型ロボットアニメに寄せて、ロス君を取り出す理依奈。満を持しての登場、二人じゃ大変な教室掃除を手伝ってくれる優秀なイケメン。ヒーローは遅れてやってくるものだ。
(カッコいい~)
家で見ても教室で見ても同じなはずだが、理依奈にはいつもの二割増しロス君が素敵に見える。
うきうきで電源を付けて床に置けば、さっそく仕事を始めるロス君。
「カメラセンサーが優秀だからね、障害物もよけれるし、壁とか隅とかもちゃんと把握するし賢いんだよ」
窓側の壁にぶつかりそうになるとスピードを緩めて、距離を詰める動きが細かくなる。方向を微調整しながら壁際を自身の直径分ぐらい掃除すると、今度は逆の廊下側へと走りだすロス君。無表情のまま、目線だけロス君を追いかける不言色が一言。
「ゆっくりね」
「うっ……」
理依奈の部屋に比べれば、教室というのはすこぶる大きい。十五分あれば八畳を綺麗にしてくれるロス君の掃除も、ここだとそう簡単には終わらないだろう。
「あくまで、お手伝いだから! 三人目みたいな? 私たちもやろう。ロス君ひとりに任せるもんじゃないよ」
「そうね」
返事するなり、手を動かし始める不言色。理依奈に背を向けたまま、またぽつり。
「…………名前とか付けてるのね」
(!?)
ほうきを手に取ろうとしていた理依奈は、その瞬間、衝撃でほうきを床に倒してしまう。
(あれ、私、さっきしれっとロス君って言ってた!?)
やってしまった。名前呼びは隠しておくつもりだったのに。一度ぼろが出てしまったら芋づる式にどんどんバレてしまうかもしれない。引かれてしまったらどうしよう。それで不言色さんと距離が遠くなるのはちょっと嫌だ。理依奈は慌てて取り繕う。
「あの、なんか、愛着が湧いたっていうか……、ほら動きとかちまちましてて可愛いというか、小動物感覚? あっ、そう型番がねLSなの。だからロス君」
「……可愛い……?」
お願い伝わって。心の中の理依奈は合掌して、祈りを捧げている。ほぼほぼ嘘は言ってない。唯一あるとしたら小動物感覚ではなく、大好きな彼氏であることだけだ。ここさえ隠し通せば――ここ以外を理解してもらえればまだ――。
不言色が手を止めてまで、またロス君の動きを追いかけている。
「わかる……かも」
その返事で、理依奈の周りにぱぁっと花が咲いたみたいだった。嬉しくて頬が上気して、瞳孔が開いて、両手なんか胸の前でぎゅっと組んで。
「でしょっ!?」
抑えきれないテンションで、言葉を発してしまう。
「ぶつかりそうになるとさ、きょろきょろ左右を見回して安全確認してるの可愛くない? なんか生きてるっていうか。そのあとちゃんと壁に身を寄せて、隅っこの汚れちゃんと掃きだしてるところも仕事熱心みたいで偉いし、行くと決めたらシャーって真っすぐ走っていくところカッコいいし、なんかもう全部最高なのよ!」
理依奈の勢いにたじろぐ不言色だが、なんとか切り返す。
「……家電芸人?」
「違うから」
「ふっ……」
不言色が口元を手の甲で隠す。
(えっ、不言色さん笑った?)
思わず近付いてしまう理依奈。下から覗き込むように不言色を確認しようとする。
「な、何?」
ぷいっとそっぽを向かれてしまう。掃除を再開すれば、不言色はもういつもの無表情だ。
でも見間違いじゃなかったはず。
不言色さん笑うんだ!
「ねぇ、掃除終わったら今日は一緒に帰ろうよ。ひとりで帰れるの知ってる。別に心配とかじゃなくて、私が一緒に帰りたいの」
断られたくない。こんなにも気持ちが前に出た言葉が出るのは、愛里にほめられたおかげかもしれない。理依奈は振り向いてくれない不言色をじっと見つめる。
「……うん」
授業中みたいな消え入りそうな声だった。けれども、確かなイエスの返事に口角が上がるのを止められない理依奈。
「じゃあ、さっさと終わらせちゃおう!」
はりきりすぎて、ロス君を掃きそうになったのは秘密だ。
「うわぁ、曇って来てる。雨降ったらやだね」
軽口を叩きながら、二人揃って降りた玄関口。下駄箱は鍵こそないが扉が付いているタイプ。履き替えるために扉を開ければ、不言色の動きがそこで止まってしまう。
「どうしたの?」
中の靴を取らずに一点を見つめる不言色。理依奈が覗き込めば一通の手紙が入っていた。
「えっ……これ、ラブ……っ!」
皆まで言わずにとどまったが、いわゆるラブレターだ。真っ白な便箋は、シンプルなハートのシールで封をされている。
(こういうのを揶揄するように言うのは不言色さん絶対嫌なはず……)
「開けて、確認だけでもしてみれば……? もしかしたら誰かの勇気がつまってるかもしれないから」
古典的だけど、これを入れるのだってきっと相当な覚悟がいるはずだ。不言色が恋愛に対してどういうスタンスなのかを、理依奈は知らない。知らないけれど、見もせずに捨てられそう。――そんな気さえしてしまって。
そんな理依奈の言葉に、不言色はシールを爪で丁寧に剥がして封を開ける。
(中身、私は見ちゃダメだ)
後ろを振り向けば、すぐに不言色の声が背中に届く。
「体育館裏で待ってるんだって」
ゆっくりと理依奈が向き直せば、不安げにうつむく不言色がそこにいた。いつもの無表情とは明らかに違う。
「行って……くる?」
こんなのは、ほぼ告白に決まっている。だから余計なことは言えない言いたくない。けれども不言色の表情を見ていると理依奈の考えは揺らいでしまう。どんな人がくるのか不安だよね。「イエス」で答えられるいい人だったらいいけど、「ノー」を言わなきゃならなくなったとしたら、それも怖いよね。
(無理なら、行かなくてもいいと思うよ)
もう一緒に帰っちゃおう。理依奈がそんな言葉を発してしまうより前に。
「待っててくれる?」
そう言って理依奈を見上げる不言色がいた。
「もちろん! 戻ってくるまでちゃんと待ってるからね!」
私がいることがどうか、不言色さんの勇気の足しになりますように。
そう願った理依奈は、しかしながらこの後、不言色の姿を見ることはなかった。
もしかしたら、告白の返事がイエスで、早速下校デートと洒落込んだのかもしれない。
それなら、辺りが真っ暗になるまで玄関前で待たされた理依奈の感情の行き場もまだあった。むしろそうあって欲しいとさえ、理依奈自身思っていた。
だが現実は否をつきつけてくる。
十五分早い登校で一緒になることはなかった。
学校についても彼女の姿はそこになかった。
朝のホームルームで担任から欠席していることを告げられて思い知らされる。
(不言色さん、絶対昨日のせいで休んでる……)
頭の中がぐるぐる渦巻いて落ち着けない。
もしかして、告白じゃなかった?
体育館裏の呼び出しにはもう一つパターンがあるじゃないか。「お前、気に食わないんだよ」ってやつだ。
だとしたら、どうして一緒に行って陰から見守ってあげなかったんだろう。
一人で行って傷つけられていたんだとしたら、耐えられない。
「不言色さん風邪かな?」一限目前に愛里が話しかけてくる。
ただの風邪ならそっちの方がいいね。なんて不謹慎なことを言ってしまいそうになって口をつぐむ理依奈は、曖昧な笑顔を愛里に返すことしかできなかった。
不安な気持ちのままの昼休み。愛里が部活の昼ミーティングに行ってしまったので、理依奈は那月の教室でお弁当を食べることにした。
「不言色さんって男子に人気あるよね?」
「ちっちゃかわ。冷血ガールだから人を寄せ付けないけれど、隠れファン多し」
「だよね……」
「そこでため息は、恋してるように聞こえるよ理依奈」
「最近告白した人とかいるのかなぁ」
「これは完全に恋」
「茶化さないで。心配してるの」
「ごめんごめん」
「今日、学校休んでてさ」
「!」
「ここだけの話だよ? 耳貸して。昨日、不言色さんの下駄箱にラブレター入ってたんだよ。体育館裏に来いって」
「なんと」
「絶対、何かあったよね……」
「なんかわかったら教える」
「うん、ありがと那月」
放課後、理依奈は体育館前に来ていた。誰に呼び出されたわけでもない。ここに来て何かがわかるような名探偵でもない。でもここに来ずにはいられなかった。
「明日からは普通に来てくれるよね……?」
祈りを唱えるように歩きながら、建物の右側面を通り体育館の裏側に出る。何もない。整列した木々が学校と外とを分け隔てているだけの体育館裏。中で部活動をしている子たちの声がいくつも重なって聞こえてくるだけ。
(まだ、スマホのトークアプリすら繋がってない)
本当は、昨日の帰り道交換したかった。これじゃ心配しているメッセージすら送れない。一周するように、とぼとぼと建物の左側を歩いて戻ろうとする理依奈。
「冷血姫とどうなったんだよ」
体育館の足元の小さな通気窓。開け放たれたそこから漏れ聞こえた言葉に、理依奈の心臓は跳ね上がった。そのフレーズは昼に聞き覚えがある。
(不言色さんのこと――!?)
話しているのは男子だ。告白の話なら十中八九そうだろう。心臓の音を抑えつけるように胸に手を当て息をひそめる理依奈。体育館の外壁にピタッと背中を張り付ける。
「別に……、振ったよ」
「ん? 振られたの間違いだろ。告ったのお前じゃん」
「いや、なんか病気持ちとか言われてさ。めんどくさ、ってなった」
「えっ、あの感じでセイビョウだったん?」
ノンデリなぐるぞ。理依奈は拳を握りしめる。
「ちげーよ。なんか、顔わかんないけどいいですかみたいな」
「お前の事なんて知らねーよって意味じゃねーのそれ」
「いや、本当に『何回見ても覚えられなくて、他の人と間違えたりするけど、それでもいいですか』とか言われたら、普通いいわけないじゃんっていう」
「えぐっ。マジの病気じゃん」
「ほんと、地雷踏んだわ」
は?
色んな出来事を思い返して、不言色のことを理解しようとしていた理依奈は、頭を金づちで殴られたようだった。受けたショックは沸々とした怒りに取って代わっていく。
どうしてそんな酷い言い方ができるの?
不言色さんを地雷扱いしたお前の発言が、私の地雷を踏んづけたよ。
許せない。絶対に許さない。きっと私、人生で一番怒ってる。握りしめた拳は、爪が食い込んで血が滲みそうだ。一歩一歩が地面をかち割らんかのような勢いで理依奈は体育館の正面入口へ向かう。
顔を何回見ても覚えてもらえないなら、毎朝毎回、会うたび名前を名乗れよ!
そうだ、意味のわからない謎ルールだと思ってたけど、あれは自分の病気と向き合いながら、最大限私に歩み寄ってくれてた不言色さんの優しさだ。全てが腑に落ちる。最初「誰?」って睨まれたのは怒ってたんじゃない。実は怯えていただけじゃないのか。掃除の時間に必要なかったのは、きっと消去法で私だとわかるからだ。
病気のことずっと隠していたのに、ちゃんと伝えたのは不言色の誠実さだ。理依奈にはわかる。
勇気を出して告白してくれた男子に――あんなやつがそんな大層なもの振り絞ったかはともかく――ちゃんと報いようとした返事のはずだ。だって病気のことなんて言わずに済ませることだってできた。なんなら告白そのものをすっぽかすことだってできた。あの時の不安げな表情は不言色さんが勇気を固める時間だったんだ。
なのに踏みにじった! 手紙まで書いたくせに、そんな軽い気持ちだったの。ちょっとでもいいと思って告白したんなら、病気の一つや二つ乗り越えてみせろよ、アホ男子! 病気だと知らなくったって、私はあの子といて毎日楽しかったぞ!
力いっぱい体育館の戸を開くと、ちょうどクロスに打たれたバレーボールがワンバウンド後、理依奈の顔の真横をかすめていった。
「あぶなっ、……って制服?」
スパイカーの呟きも、場違いな服装も理依奈は意に介さない。たとえ、顔面にボールを喰らっていても怯むことはなかっただろう。
大きく息を吸い込み声を張る。
「不言色さんに告白した男子、いるんでしょ!」
今、体育館を使っているのは男女バレー部のみだったが、その全員を入口に注目させるほどの怒号。一瞬の静寂の後「何あれ?」なんてざわざわし始める体育館内。
「今日、不言色さん休んだんだけど!」
変わらず声を張り上げ続ける理依奈。
「誰だよ、部活の邪魔なんだけど」
奥から走って来たのは身長百九十はありそうなバレー部男子。声の感じでわかる。さっき話していたのはこいつだ。
「告った側がその場で振るってどういうこと?」
「いや、それ俺じゃないから。何キレてんのか知らないけど、邪魔だから帰って」
しらばっくれるつもりだ。怒りで完全に忘れていた。すぐに録音でもしておくべきだった。
「明日も明後日も来ないなんてことになったら、絶対許さないからっ!」
言ってる理依奈が一番わかっている。……こんなの捨て台詞にしかならない。
「いちいち声がうるせえ。部活妨害すんなら先生に言うぞ。出てけよ、どうせ帰宅部だろ」
吐き出せない怒りばかりが心を埋めつくして、相手の態度を変えるための言葉が見つけだせない。
相手を目いっぱい睨みつけると、唇を噛みしめて踵をかえす理依奈。
「何、あいつ」
「知らね、不言色の友達じゃね?」
「あれに友達とかいたんだ」
後ろ手で扉を閉める背中に、矢のように飛んでくる野次。
悔しい。
不言色さんが傷付けられたのが悔しい。
何も言い返せないのが悔しい。
頭の回らない自分の不甲斐なさが悔しい。
一言でもいいから謝らせたかった。
視界が滲んでくる。
泣くな! 泣きたいのは私より不言色さんの方でしょ!
理依奈は腕でぐいっと目元を拭った。
◇ ◇ ◇
(病気のことなんて言わなければよかった)
不言色有紗は自室のベッドの上でひとり膝を抱えていた。壁紙もカーテンも薄黄色を基調とした、いかにも女の子然とした部屋。鬱屈した自分の感情だけが色濃く場違いだ。
まだ、小学生にもなる前のころの記憶。親戚の家にみんな集まったお正月。福笑いで遊んでいたのを思い出す。
家族や従妹の誰もが笑っているから、有紗も楽しんでいるふりをしていたけれど、本当は何が面白いのかわからなかった。
「目、ひっくり返ってるよ」
「鼻と口逆~」
そんなことでみんな騒いでいた気がするけれど、有紗にとってはそれは物心ついた時から普通のことで。
人の顔を見れば、目があることはわかる。鼻も口も付いてることはわかる。
でも、目に注目すると鼻と口はもうどこかに行ってしまう。じゃあ喋っている口を見ればどうなるかというと、今度は鼻や目がどこかに消えてしまう。鼻も同じく目と口が。無理矢理全体を収めようとするともう福笑いだ。
人の顔っていつも動いてるんだなぁ。それが有紗の小さな頃の感想だ。
自分の顔も見るたび変わり続けるから、可愛いのか不細工なのかちっともわからない。
こんなのだから、人の感情を読むのが苦手だった。悲しいのは泣いてくれなきゃわからない。怒っているのは大きく口を開けて怒鳴ってくれないとわからない。
小学六年の夏で友達を全てなくした。発端は恋バナだった。有紗はAちゃんの好きな子をAちゃんと話しているつもりだったのに、話していたのはBちゃんだった。Aちゃんの秘密を気付かずばらしてしまったのだ。
言い訳ならいくらでもできる。元から二人の雰囲気が似ていたんだとか、その日はBちゃんがフリルの付いた可愛い系の私服で、それはいつもAちゃんくらいしか着ていなかったから勘違いしたとか。
でも、へらへら笑って「ごめんね、また間違えちゃった」なんて許してもらえるはずがない。
「有紗なんか大嫌い! 絶交!」
ぼろぼろに泣かれながら、大口を開けて怒鳴られて、有紗は自分が欠陥品であることに初めて気付いた。人はそんなに人の顔を間違えない。
小さい頃は多少顔がわからなくたって、鬼ごっこやかくれんぼで遊べた。人違いをなあなあで済ませていられたのに。年を取るにつれてどんどんコミュニケーションは難しくなっていく。
私は友達なんか作っちゃダメだったんだ。中学に入る頃、有紗はそう結論付けて孤独に身を置いた。
見かねた親が病院に連れて行ってくれたりもした。診断は下りて、ちゃんとした病名もあった。でも特効薬がなかった。
――欠陥品。この病気は治らない。足りないセンサーがあるままで、なんとかうまいこと生きていくしかない。
高校生活も変わらず、静かに始められた。幸いなことに本を読むのは嫌いじゃなかったから、すっかり独りの時間にも慣れていた。
中学と一緒だ。問題ない。
ひと月、ふた月。問題ないはずだった。
班替えで新しく一緒になったあの子が、話しかけてくるまでは。
(全部、石動さんのせいだ)
もう友達なんて作る気はなかったから、誰に対しても冷たくできた。
冷血――なんて、渾名で噂されているのを小耳にした時は、自分のやり方が成功しているんだと達成感すら感じていた。
なのに、どれだけ適当にあしらっても話しかけてきて――!
有紗の体の芯が揺らいで、体育座りのままゴロンとベッドに横になってしまう。
朝から大声で挨拶されて本当にびっくりして怖くて、多分石動さんだと思ったけど、確信がなかったから言ってやった。腹いせもこめて、もう話かけてこないでって意味で「誰?」って言ってやったのに。
その日のうちからまた話しかけてきて……。
毎日、毎日、律義に名前を名乗るし、本気でお掃除ロボット学校に持ってくるし……しかも一回じゃないし、見せびらかしてくるし、そしたら熱心に喋り続けるし。本当、どうして――。
――こんな私といて、楽しそうにしているの?
口元を見れば口角が上がっている。目元を見れば下まぶたが上がって、目が綺麗な三日月のように細くなっている。
二つを同時に認識できなくったって、理依奈のそんな表情、有紗には笑顔としか捉えられない。
楽しいからそばに居てくれる。嬉しいから一緒に帰ろうって言ってくれる。そんなのやめて。だって、持ってちゃいけないって捨てたはずのものが輝きだしてしまう。蓋をして、無いものだと決め付けて、見ないようにしてたものが欲しくなってしまう。
また傷付けてしまうかもしれないのに。なんで、私は。
石動さんと友達になりたいんだ……!
瞳から涙が零れそうになって、自分で自分の体を有紗はぎゅっと抱きしめる。
数年前には当たり前にあった幸せ。ずっと望んではいけないと、押し殺してきたはずの感情。
石動さんと友達になりたい。私の詳しい事情なんて何も知ろうとしないのに、いつもいい距離感でいてくれる優しい石動さんと仲良くなりたい。なんで、こんな欲出てきちゃうんだ欠陥品。
あのラブレターだって、早々に破り捨てるつもりだった。けれど。
「誰かの勇気がつまってるかもしれないから」
石動さんがそう言うなら、もう蔑ろになんてできない。
あの時、有紗が向かった体育館裏には、長身の男の子が待っていた。部活の前か、抜けてきたのか、学校ジャージの姿でハキハキと喋りだした。
「三年の神木だけど知ってる? いきなり手紙で呼び出すとかごめんね。どうしても伝えたいことがあってさ。まぁ……わかると思うけど、毎日の登下校で可愛い子いるなぁって気になってて、だから不言色さん、好きです。俺と付き合ってください」
びしっと両手を体の真横に付けながら、神木は最敬礼ぐらい頭を下げた。
真摯な態度に真っすぐな言葉。有紗は少しばかり浮かれてしまったのかもしれない。
理依奈と友達になれそうで、心に勇気も灯っていたのかもしれない。誠実に返事をしなければ。
だから、告げた。
「私、病気なんです」
「病気?」
「はい、私、あなたの顔がわかりません。何度見ても覚えられません。もしかしたら、人違いを起こすかもしれないです。それでもいいなら――」
――友達から始めませんか?
言いたかった言葉は、神木に遮られる。
「マジで言ってる?」
ほんの僅かなトーンの違い。でも、そこに確かにある小さなトゲが有紗には刺さってしまう。キラキラとしていた空気は変容して、曇った空模様と同じ色になっていく。有紗は顔を上げていられない。しおれていく花のように、うつむいてしまった。
そうだ、こんな風に私は弱いから誰かと関わるのをやめたんだった。
「……はい」
怖気付いた有紗は、地面と会話していた。
「嘘とか冗談とかじゃなくて?」
「本当です……」
神木は平静を装って喋ってくれているのだろう。でも顔がわからない分、有紗は声には敏感だ。その裏に隠された感情を繊細に感じ取ってしまう。落胆、敬遠、同情。その全てがまるごと入っているように思えた。一雨くるのか湿度が上がってきている。嫌な汗でインナーが背中に貼り付いた。
「あー、なんかごめんな。そんなこととは知らなくてさ。大変なんだな。これ、なかったことにしてくれていいから。じゃ」
手をひと振り、神木は駆け足で去っていってしまった。
別に酷い言葉を言われたわけではない。
あからさまな態度を取られたわけでもない。
小六時代に散々味わった鈍い痛みの再体験にすぎない。
こんなの耐えられる。
ただ向こうは、なかったことにできるんだなって。
私は一生この病気と付き合わなきゃいけないけれど、向こうは無理だと思ったら秒でなかったことにできるんだなって。
それがどうしても痛くて。
耐えられる、こんなの別に耐えられるよ。
でも、しっかり傷付いてる自分がそこにいて、身動きもできずに立ち尽くしてしまった。
それから、どんな顔で戻ればいいのかわからなくて、正面玄関を通らずに有紗はこっそり帰ってしまった。
(いや、違う。あの時、石動さんの所に戻ったら、泣いてしまっていたからだ)
心配して慰めてくれるのが目に見えていた。でも、変に困らせたくなかった。もしかしたら引かれるかもって不安もあった。迷惑をかけたくなかった。弱いところを見られるのが恥ずかしかった。まだ友達と名乗るには早すぎるこの関係で、重たく思われるのが憚られた。
こんなにも繊細になってしまうのは、二人の関係が消え失せてしまうのが怖かったからだ。
もし、――ありえないけど! もし、石動さんも病気のことで自分から離れてしまったら?
腫れ物を扱うようによそよそしくなって、いつしか名乗ってくれなくなって、二人ただの他人に戻ってしまったら?
そっちはもう耐えられない。
昨日の今日でまだ、涙を止められないような弱虫に耐えられるわけがない――!
いつしかぐしゃぐしゃになってた顔を、有紗は枕に押し付ける。
不安な気持ちは全部この涙と一緒に洗い流そう。そしたら明日きちんと謝るんだ。
すっぽかして帰ってごめんね。って、ちょっと一人になりたかったんだって。
すっきりした目覚めだったと思う。目元はちょっと腫れぼったいかもしれないけど。
大丈夫。呟いて有紗は家を出る。
石動さんはきっと告白のことは聞いてこない。「昨日はどうしたの、風邪?」なんて当たり障りのない感じで話かけてくれる。なんて答えよう。親しくなりたいんだから、心配してくれてありがとう、かな。余計なことを話すと重たくなっちゃうから、今日はまだこれ以上冷たいキャラを戻せそうにない。
家から学校までは約十分。大体いつも半分くらい進んで角を曲がれば、石動さんが声をかけてくれる。
今日はいつもの名乗りだろうか。変バージョンだったらどうしよう。リアクションに困ってしまう。
なんてことを考えていたらそれが楽しくて、気付けばもう学校だった。
(あれ?)
当たり前のように、理依奈が声をかけてくれるものだと思っていた有紗は、少しばかりドキッとした。すっぽかしてしまったから、怒って無視された? ……なんて不安が一瞬よぎったが、席に彼女の姿はない。今日は単純に遅いのだろう。前まで理依奈が教室に入ってくるのは必ず有紗よりも後だったのだから。
(私に合わせて早くしてくれてたんだな……)
人の多い時間帯が怖くて、いつもこの時間だったけど、石動さんと一緒になるなら、そっちに合わせてもいいかもしれない。
降り始めた小雨の音が響く教室で、有紗は読みかけの小説を開いた。
結局、朝のSHRで担任が来ても彼女の姿はなかった。「今日、石動休みか?」なんて逆に担任が聞く始末。どうやら連絡なしのお休みらしい。
(何かあったのかな)
風邪だろうか。よく理依奈と喋っている石川愛里に話を聞きたいが、四限目が終わっても有紗は声をかけることができなかった。
喉まで出かかった勇気を飲み込んでいるようだ。黙々とお弁当を食していると、向こうから近付いてくる影がある。
「不言色さん、ちょっといい?」
「えっと……誰?」
「右前那月。理依奈――石動理依奈の友達」
有紗の認識では、理依奈と愛里の所に違うクラスからやってくる人だ。
「単刀直入に聞く。理依奈のこと嫌い?」
「そんなわけっ……!」
ない、ありえない。自分でもびっくりするくらい、反射的に有紗は答えていた。嫌いどころか、その正反対。でも、今までの態度を鑑みれば、理依奈の友達にそう思われても仕方がない。
「そう、よかった。もう一個聞きたいんだけど」
言うなり那月はしゃがみこんで自分の口元に片手を当てた。今からひそひそ話をするよと言わんばかりに、残った手をおいでおいでと優しく振る。
警戒して小首を傾げる有紗だが、耳くらい貸してあげてもいいかと考え直し、那月の方へ姿勢を傾ける。
「一昨日、三年の神木先輩に告白された?」
囁くように言われたが、はっきりと聞こえたその名前に有紗の体は面白いくらい逆側に仰け反った。
「ごめ。嫌なこと思い出させた。でも、本当なんだ」
有紗は無反応に努めたが今更だろう。態度で全てを物語ってしまった。
「やっぱり、理依奈の方が正しい」
「……どういうこと?」
神木の告白と石動さんに何の関係が?
繋がりが見つからなくて、有紗の心の中がざわついている。
「ここじゃ、あれだし移動だ……あっ、食べ終わってからでいいよ」
「いえ、今行くわ」
すぐにでも聞きたい。有紗は食べかけのお弁当を大事に鞄にしまった。
「待って待って、私もぉ」
慌てて立ち上がったのは、様子を遠目で見ていた愛里だ。二人が移動しようとすると、こけそうになりながらついてくる。
三人で廊下突き当りの折り返し階段へ。そこを上ると封鎖されている屋上扉前だ。周りに誰もいないのを確認すると那月が話しだす。
「最悪、理依奈もう学校に来ないかも」
「えっ!?」
「なっちゃん、不安にさせるような言い方しないのぉ!」
「だって私、まだ不言色さんのこと信用してないし」
真っすぐな物言いだ。精神が強い人なのだろう。バチリと目が合った那月は、眉根が吊り上がって怒ってるようにすら見える。長時間話すにはこっちの身が持たない。そう感じて、有紗の小柄な身体は一層縮んだ。
「何があったか、教えて……ください」
おかげで敬語になってしまった。
見かねた愛里が、少し頬を掻いたあとに話し出す。
「不言色さん、騙されたんでしょ? バレー部の神木先輩に」
騙された……は何かが違う、ずれている。返事はせずに、次の言葉を待つ有紗。
「告白してさ、その気になった不言色さんを――あぁっ!? 言い方ごめんねぇ……。その……返事をした不言色さんを、その場で振るとか、絶対、告った側が『嘘でしたー』ってからかうやつでしょ?」
あぁ、そういうことか。真実は違うけど、事実だけ見れば嘘告に近しい状況なのか。
(私の病気を知っているわけじゃないんだ)
有紗はコクンと小さく頷いておくことにした。
「だから、理依奈に泣きついた。神木がひどい、懲らしめて。ぴえん」
そう言って、泣き顔の絵文字が表示されたスマホの画面を、有紗に向ける那月。
「泣きついては……ない」
「え?」
「告白されたあとから今日まで、石動さんとは会ってない」
「でも、トークある」
「まだ交換してないよ。……交換しておきたかったよ」
証拠とばかりに、有紗は自分のトークアプリを開いて見せた。友達欄にいるのは父と母の二人だけだ。
「だから言ったじゃん、なっちゃん」
愛里にそう言われて、あからさまにしゅんと肩が落ちる那月。
「私はてっきり、不言色さんに煽られて、喧嘩したんだとばかり……」
「理依奈は自分からそういうことする子だよぉ。ごめんなさいして、なっちゃん」
「ごめんなさい」
那月にぺこりと謝られるが、喧嘩の二文字が引っ掛かりすぎてそれどころではない。
「誤解されるのは慣れてるから別に……。それより石動さんが喧嘩ってどういうこと?」
愛里と那月が目を合わせてうなずき合う。話し出したのは愛里の方だ。
「りっちゃんもどこかで不言色さんが嘘告されたって知ったんだろうね。聞いた話だけど、最初からもうマジギレで凄かったらしいよ。『不言色さんに告ったの誰だー!』って体育館に怒鳴りこんで。バレー部みんなびっくりして練習止まったってさ。そんで、神木先輩が出てきて――キャプテンだから出ざるを得なかったんだろうけど、『それ俺じゃない。誰の話してんの』みたいに逃げられて。でも、りっちゃん負けないの。『お前のせいで不言色さん来なくなったら許さない!』って」
身体が震えるのは、きっと心が感動で打ち震えているせいだ。
何をしてるの石動さん……。
私にどれだけ冷たくされても、笑っていたあなたが、嘘告なんかでそんなに怒ったの?
それとも、私が馬鹿正直に病気を告白して、神木に軽く手のひらを返されるところでも隠れて見ていたっていうの?
どこまで知ってて、……どうしてそこまでしてくれるの。
胸がいっぱいになって、瞳が潤む。
「でも、理依奈その日泣かされて帰ったっぽい……」しゅんとなってる那月がさらにうつむく。
「えっ……」
「トーク色々やり取りしたけど、結局詳しい話は本人の口からは何も聞いてないんだよね。ひとりで抱えてるっぽくて。周りから必死に情報あつめてこれよ。大変だったぁ」と、息を大きく吐く愛里。
「多分、不言色さんのことだから言えないって感じ」
「だからさ、りっちゃんの友達二人からのお願いがあるんだけどぉ」
「理依奈が困ってたら、助けてあげて」
顔を上げた那月が、ひしと有紗の手を取ると、さらに上から愛里が二人の手を包み込む。
有紗の返事はとっくに決まっていた。
◇ ◇ ◇
感情に身を任せすぎた……。後悔先に立たず。理依奈はベッドに寝転んで、愛するロス君を抱きかかえていた。
絶対噂になってるよ、どうしようロス君。今日は学校に行ける気がしない。
昨日の夜は愛里や那月とトークしてすっかり寝坊した。それからゴロゴロと、気付けばお昼を過ぎている。学校への連絡もほったらかしたままだ。
不言色さんは学校に来たんだろうか。きっと余計なことしたよね私……。物静かな不言色さんが、あんな風に騒ぎを大きくするの、望んでいるわけないじゃん。私のせいで、余計しんどくなってたらどうしよう。もうちょっとで友達になれそうだったのに、これで嫌われたら絶対引き摺る。
あれこれと心配事を考えていると、理依奈の瞼が落ちそうになる。辛いから脳が休めと言ってるんだろうか。
もう一度寝ちゃう? 土日でもないのにお昼寝できるなんて贅沢だね。抱きしめているロス君に、理依奈は軽くキスをする。
「あんた、何してんの」
最悪と言っても差し支えないタイミングだ。
ノックもせずにドアを開けてきたのは、スーツ姿の母だった。
「な……んで、お母さん!?」
寝ぼけまなこが一気に覚醒する理依奈。見られた? 見られてしまった? 平然を装おうと慌てて起き上がる。
「理依奈、学校サボって何してんの!」
「お母さんこそ、仕事は? てか、ノックしてよ!」
「昼休みにちょっと忘れ物取りに来たら靴あるし、まさかと思って見に来たのよ。ほんとにいるとは思わなかったし……何あんた、風邪? 随分元気そうだけど」
風邪ではないけれど、心の持ち様は大変な下り坂だ。
「今日はしんどいの」
「嘘言って。もしかして最近成績落ちてるの、学校行ってないからじゃないでしょうね」
どうして何もかもを信用してくれないのか。きちんと勉強して、いい大学入って、二人産んでもバリキャリなお母さんには、出来の悪い娘のことなんてわからないのかもしれない。
「ほんとに、今日はたまたま! いつもちゃんと行ってるから!」
「それに、なんであんた掃除機抱えてんの?」
「ちがっ」
慌ててロス君をベッドに置く理依奈。
「それ、布団は掃除できないでしょ」
「だから、なに?」
昨日からのフラストレーションが溜まりすぎている。そのせいで、全部が刺々しくなってしまう。母の方も理依奈のそんな態度がストレスなのだろう。眉間に皺が寄っていく。
「なに? はこっちのセリフよ。掃除機にチューするとかぬいぐるみじゃないのよ? ぬいぐるみだとしても、何のおままごとですか? あんたもういくつよ」
「おま…………!」
ロス君へのこの気持ちは、おままごとなんかじゃない。胸の奥が熱く燃えている。でも何も言葉が出ない。友達にすら言えないのに、親にこの思いなんて打ち明けられるわけがない。
「あんた、おかしいんじゃないの?」
「…………!!」
それは、一番聞きたくない言葉だ。理解されないなんてわかっているけど、自分の親からは直接聞きたくなかった言葉だ。
悔しいのか悲しいのかわからない感情で、理依奈の目尻に涙が溜まってくる。
「次も成績下がるようなら、掃除機で遊ぶの禁止。取り上げます」
「……わかった。わかったから、もう出て行ってよ!!」
最後はもう怒鳴ってしまった。普段はこんなことないのに。晴れない気持ちばかりがいくつも溜まって行き場がなくなっているせいだ。
母は呆れ顔でため息ひとつ。部屋を出て行った。
改めて一人になった部屋でロス君を拾い上げる理依奈。
彼を取り上げる? 何の権限があって? 成績とロス君に何の関係があるっていうの。
最近こんなことばっかり!
どうして誰も彼も人のことをもう少し落ち着いて理解しようとしないのか。ひと眠りすれば明日には復活できそうだった心の天気は、今や土砂降りだ。
「っく……ひっく…………」
ぼろぼろ零れる涙と共に、自分がしゃくりあげていることに理依奈は気付いた。今日はもうダメだ。気力が根こそぎ持っていかれて、力なくベッドに横になる。
その瞬間だった。枕元のスマホがチリーンと通知音を鳴らす。数秒無視したが、ほんの少し気になった。ぼやけた視界で認証を解除すればトークアプリに赤丸の数字。開いたそこには見慣れない名前があった。
「不言色さん……?」
『突然ごめんなさい。石川さん、右前さんに聞いてメッセージ送りました』
『体調、大丈夫?』
『何か、しんどいことあったら教えて』
当たり障りのないシンプルな三つのメッセージが並んでいた。
(今日、学校来てたんだね。よかった)
少しばかりほっとして、思わず返事を打ち込んでいた。
『助けて』
……なんて。あのクールな不言色さんに優しくして貰いたいとか……馬鹿じゃないの。
無理矢理笑おうとしたら余計に涙が出てきて、理依奈はロス君に泣きついた。
◇ ◇ ◇
すぐに戻ってきた返事に、不言色有紗の心臓は飛び跳ねた。喜びからではない。
「これ……」
思わず目の前の那月と愛里に「助けて」の三文字を見せてしまう。
「どうしよう……!」
理依奈がこんなに思い詰めているとは考えていなかった。なんて言葉を返してあげればいいのか。有紗には皆目検討が付かない。
「不言色さんだったら、どうして欲しい?」
うろたえている有紗を諭すように、那月が尋ねる。
(私だったら……?)
辛い時、しんどい時、心が弱っている時は一人にして欲しい。今までずっとそうだった。友達を全部なくした時だって、一人になって独りでゆっくり立ち直って……今日だってそうやって学校に来た。
だから、放っておく……?
そんなのが正解だなんて思えない。前提が間違っている。これは友達なんて必要ないと思っていた時の私の考えだ。
石動さんと友達になりたいのなら、石動さんのことを大切だと思っているのなら。例えば、もう石動さんと仲が良かったのだとしたら。
「あっ……」
答えはそこにあった。神木に振られた時のことを有紗は思い出す。泣き顔を見られたくなくて帰ってしまったけど、本当はあの時慰めて欲しかったはずだ。「大丈夫だよ」なんて優しい言葉を直接かけて欲しかったはずだ。
「私……行かなきゃ――!」
閉鎖された屋上扉前、昼休みは残り少ない。有紗の決意が固まる。
「行っちゃいなぁ不言色さん! りっちゃんの家わかる、わかんない? ……OK、メッセージ送っとくね!」
グッドサインを出す愛里。
「不言色さん、最後に一個聞いていい?」そう言って、有紗の袖口を軽くつまむのは那月。
「ええ」
「理依奈のこと好き?」
「……多分、」
大きく息を吸って。
「大好き!」
その言葉で、那月の手もグッドサインに変わる。
有紗は階段を駆け下りた。
会って話したいことがいっぱいある。片道十分かかる道は、走ってもせいぜい半分にしか短縮できない。五限の開始にはきっと間に合わないだろう。でも、それでいいと思えた。友達のためなら、一回ぐらい授業はさぼるべきだ。
三階から一階まで一段飛ばしで、着いたら廊下をダッシュ――。
ちょうど方向転換するそこで、有紗は大きな人影にぶつかってしまった。
突進して行ったのは有紗の方だが、なにぶん小さくて軽い。有紗は跳ね返されて尻もちをつく。
「ごめんなさいっ!」
痛みをこらえて、見上げながら謝罪の言葉を発する。壁のように立ちはだかっていたのは、すらりとした長身の男子だ。
「ちっ、冤罪女の……」
舌打ちをする声に少しばかり聞き覚えがあった。顔はもちろん有紗にはわからない。でも立ち上がってなお余りある身長差。もしかして――。
「神木……?」
「呼び捨てすんな、冷血鬼が」
ぶっきらぼうに毒づいて、有紗の横をすり抜ける神木。ほんの一日会わないだけで、随分と印象が違う。こんなに当たりの強い人間だったのか。
正直怖い。有紗の臆病が見え隠れする。
――でも、神木だとしたら。今さっきなんて言ったの。
(冤罪女って、石動さんのこと!?)
神木が階段に足をかけ、上がっていこうとしている。今、何か言わなければ消えて行ってしまう。今、何か言えなければダメな気がする。
嘘告の神木と詰るのがいいか。いやそれ自体が嘘になってしまう。
石動さんが冤罪を吹っ掛けたんじゃない。あなたが、誤魔化して逃げているだけだ。それを言えばいい。
でも、それを言うには……廊下に誰もいないわけではない、バレる。
いいや、だからこそ言ってしまおう。どこかの誰かに聞かれるくらいがちょうどいい気がした。
折り返し階段を半分上って、踊り場に消えて行きそうな神木の背中に有紗は呼びかける。
「神木先輩! 告白してくれたのに、私が病気でごめんなさーい! 病気持ちの女なんて嫌ですよね。もし治ったらまた告白してくれますかー?」
言ってやった。我ながら皮肉たっぷりだと有紗は思った。
消えて行く神木に凄い目で睨まれた気もするが、向こうも反応するのは得策じゃないと思ったのだろう。そのまま何事もなく消えて行った。
ちょうど上から降りてくる見知らぬ女子二人と目があう。敢えて逃げるように有紗は走り出した。
――これでいい。あとは周りがどう思うかだ。石動さんに会いに行こう。
小雨が降り続いている。傘は三階の教室前だ。今さら戻る必要もないだろう。昇降口でローファーに履き替えて、校庭を駆けていく。
スマホを開けば愛里からマップ画像が届いている。ありがとう、これで場所は大丈夫。
そうだ、石動さんにも返信しておこう。
『今から行くから待ってて』
校門を出たくらいで、スマホが鳴った。
『うそうそ、大丈夫だから。心配かけてごめんね』
大丈夫って言葉が嘘でしょう。冗談めかした「助けて」ならもっと絵文字とかスタンプとか付いてたはずだ。有紗は走るのをやめない。でも体力がないからもうバテそうだ。大通りを進んで横断歩道を渡り、自分の家とは逆方向に曲がる。表札は出してくれているだろうか。チャイムを鳴らせば石動さんの親とかが出てくるんだろうか。
「あった……!」
肩で息をしながら、石動の表札を見つける。
『もう着いたから』
送って、一緒にチャイムも鳴らす。中から反応はない。
『今、会えないよ』
代わりにスマホが鳴った。
『そんなこと言わないで。雨、冷たい』
『えっ、傘は?』
『忘れた。風邪ひいちゃう』
雨足が強くなってきて、本当に風邪をひいてしまうかもしれない。それでも有紗は待った。
玄関の鍵がガチャリと鳴った気がした。
『入って』
実は親御さんもいたらどうしよう。おそるおそる玄関のドアを開ける有紗。
「お邪魔します」
濡れた体を一歩家の中へ進めれば、ロス君で顔を隠す理依奈がそこにいた。
「どうしたの石動さん。ロス君になってるよ」
見えないとわかっていても、少しだけ微笑んでみる有紗。
「今、見せられる顔してないから」
それは、つまり泣いていたということだろうか。
「……来てくれてありがとう。上がって。洗面室のタオル使っていいよ」
促されて、有紗はタオルを借りる。濡れた頭の雫を拭き取りながら、理依奈の部屋へ移動する。
「すごい、綺麗な部屋ね」
「ありがと。ベッド座っていいよ」
「私、まだ濡れてない?」
「平気、平気」
お互い横並びにベッドに座って、お互いそこで黙り込む。
(どこから聞けばいいんだろう)
息を切らして走っていた時は、いっぱい話したいことがあったはずなのに。有紗は切り出し方がわからない。
沈黙を破ったのは理依奈からだった。
「不言色さんは大丈夫?」
相変わらずロス君で顔を隠して、腕がぷるぷるしている理依奈の方が大丈夫かと思ったが、息もだいぶ落ち着いてきた。
「もう大丈夫よ」
「昨日は……神木のせいだよね?」
有紗には、理依奈の声が少し震えて聞こえた。
「……ちょっとしんどかったけど、いっぱい泣いたから」
「不言色さん……」
「本当に大丈夫。だって、石動さん怒ってくれたもの」
「ごめんね」
理依奈の声は沈んでいる。
「どうして謝るの。私、すごく嬉しかったよ」
「だって、事を大きくしちゃったし」
「本当に気にしないで。だって私ここに来る前に、神木に大声で言ってやったから」
「えっ……」
「病気持ちでごめんなさいって」
「!!」
「石動さんに言ってなかったね。私、人の顔がわからないの」
有紗のその言葉で、理依奈がロス君を膝に降ろした。有紗の思った通り、理依奈の目は泣き腫らしたように真っ赤だった。
「ごめん、実はそれ知ってるの。たまたま聞いちゃって……」
「それで体育館に突撃?」
「……うん」
「ふふっ。石動さんはすごい人だね。私には真似できない」
有紗は嬉しくて自然と笑顔が出てしまう。誰かのためにこんなに動ける人って本当にいるんだ。
「私、そんなんじゃ……」
謙遜か、口ごもる理依奈。
「石動さんは大丈夫? やっぱり神木のせい?」
かぶりを振る理依奈。
「不言色さんがいいって言うなら、気にしてたこと全部なくなっちゃった」
「…………有紗」
「えっ?」
「有紗って呼んで欲しい」
随分と思い切ってしまった。有紗は一瞬後悔しかけるが――。
「有紗……ちゃん」
理依奈が優しくそう呼んでくれたので問題はなかった。
「どうして私はちゃん付け?」
愛里や那月は下の名前そのままだった気がする。
「ちっちゃくて可愛いから。お掃除ロボットみたい。ほらロス君も君付けだし。そういう感じ?」
「なにそれ」
有紗はまた笑ってしまう。ずっと心地がいい。でも理依奈は対照的だ。目元を見る限り――だが、何かまだ思い悩んでいるのか、神妙な顔つきに変わっている。
「有紗ちゃん」
「なーに?」
「私、言わなきゃならないことがあるの」
「うん」
「あのね……」
口ごもる理依奈を有紗はじっと待つ。怖い顔をしていないだろうか、気になって微笑みをより意識する。
「……私、ロス君が好きなの」
なんだそんなことか、と有紗は思ってしまった。
「知ってるよ。今も大事に抱えてるし、学校に持ってくるし、すごく語ってたしわかるよ」
家電だけど、ペットみたいなものなんでしょう?
「違うの。もっと、なの……男の子みたいに……好きなの。彼氏ぐらい好き……なの。こんな話、イヤだったらごめんねだけど、抱きしめてると……その……キスすらしたくなるの……」
たどたどしく、でも必死に説明してくれる理依奈に有紗の思考はかき乱された。
(好きってそういう……!)
「こんなの、おかしいよね」
いつの間にか理依奈の声が、今にも泣きだすんじゃないかというぐらい震えている。
おかしくなんてないよ。私の病気の方がよっぽど欠陥品だよ。すぐに思いついた言葉を喉元で留める。
――違う。自分を下げれば理依奈の気持ちが晴れるの?
なんて言ってあげるのが正解なんだ。三年も友達がいなかった私にこんなの難題すぎる。
理依奈が大切だから、有紗は真剣に考えて言葉を探したが、その間がいけなかった。
「ご、ごめんね。今の忘れて。今日は来てくれてありがと」
理依奈が結論を急いでしまった。みるみる瞳に涙が溜まっていくのにありがとうなんて言ってくる。
即答でも軽い感じでもいいから「おかしくないよ」を真っ先に言うだけでよかったんだ。
ロス君が好きなんだ、へーそういう恋愛もあるよねって。それだけで全然違ったじゃない。
失敗した。大変な間違いをおかしてしまった。
私が絶句したみたいになって、なんで理依奈の方が気を使っているの。
私を助けてくれた人を、私が追い詰めている。
いやだ。こんなのいやだ。
神木になかったことにされて、あの時傷ついていたのはどこの誰。
なかったことにしちゃいけない。今の忘れてなんかやらない。
「有紗ちゃん、もう五限目始まってるし……ね?」
「いやだ」
理依奈が背中を軽くぽんと叩いて暗に帰れと言ってくるから、有紗は突っぱねた。
「いやだ、ここで帰ったら理依奈一人で泣くんでしょ」
思わず下の名前で呼んでしまったが、もうどうでもいい。
「理依奈、目が真っ赤だもん。散々泣いていたのにまた泣くんでしょ。そんなのいやだ。なんで大好きな友達が泣きそうなのに、放って帰らなきゃいけないの! 悩んで苦しんでる友達を一人にしなきゃいけないの! ロス君が好きなの、おかしいかどうかなんて私にはわからないけど、ロボットに恋愛感情抱いても普通だと思うし、歌声合成ソフトと結婚した人だっているし、別にいいんじゃないの。認めてくれない人がいたとしても、わかってくれない人がどんなに多くても、私は理依奈が泣き止むまでここで一緒にいれるから! だって、理依奈は私を独りぼっちにしなかったじゃない! 私、自分の病気なんか理解してもらえないと思い込んで友達全部捨ててたのに、理依奈は病気を知る前から、――知った後でさえ! 諦めずにそばにいてくれたじゃない! だから、諦めないでよ……!」
感情が昂って有紗の瞳から水晶みたいな大粒の涙がぽろぽろ零れ落ちる。
「あり……っ、……さ…………ちゃん……っく」
理依奈の顔ももうぐしゃぐしゃだ。
どちらからということもなく、守るべきものを愛おしく包み込むように、互いが互いを優しく抱きしめ合う。
「帰れなんて言わないでよ……友達でいさせてよ……」
「あり……が……とう……うぅ」
「お礼を言うのは私の方だよ……理依奈ありがとう」
そのあとは二人、ロス君の目も憚らず、気の済むまでわんわんと泣き続けた。
隠したものを吐き出して、それでもそばにいてくれる人の温もりを感じながら、「私たち泣きすぎじゃない?」なんて理依奈が言い出して、有紗が微笑むまでずっと泣き続けた。
◇ ◇ ◇
「那月の耳よりニュース。神木先輩、通称手のひら返しの神木になる」
あれから何日かが過ぎた、いつも通りのお昼休み。那月がやって来ればメンバー勢揃いだ。
「こちら愛里、報告感謝。って、最初嘘告の神木じゃなかったっけぇ?」
愛里がタコさんウィンナーを一口で頬張る。
「私の事情知ってるかどうかじゃないかな」
お弁当タイムにはもう当たり前のように有紗が一緒になっていた。
「なるほろぉ。どのみち、しばらく彼女できなさそう」
「いいんじゃない。身長百九十イケメンとか、大学行ったらどうせすぐできるでしょ。デカいくせに器がちっちゃいのよ。高三の間ぐらい凹んでろって感じ」
正直理依奈は胸がすっとしている。有紗を傷付けたのだ。それぐらいの報いは受けて当然。
「ね? 有紗ちゃん」
「そうね、理依奈を冤罪女呼ばわりしてたもの」
有紗の人を寄せ付けない冷たさはすっかりなくなっている。
「デカちいの神木」
不意に那月から出てきた新しい通り名で、噴き出すくらいだ。
「不言色さん、ごめんねぇ」
むせている有紗に、何故か愛里の方が謝ってくる。
「けほっ、けほっ……な、なんで?」
「最初もっと、冷たい人だと思ってたからぁ」
「あー、そっち? それはそう演じてた私が悪いよ」
「りっちゃんの言う通りいい子すぎるよぉ。あっ、これからあーちゃんって呼んでいい?」
「ふふっ、お好きにどうぞ」
「じゃ、私は有紗って呼ぶ」
那月もちゃっかり許可を取りにきた。
「ちょっと、あんまり私の有紗ちゃん取らないでくれる?」
理依奈はふくれっ面だ。それを見て嬉しそうに有紗は笑う。
「これから放課後は有紗ちゃんと地獄のテス勉あるんだから。頑張らないとロス君が出向してリビング担当になっちゃう」
「私も参加する」
那月が左手のフォークを口に運びながら、右手で挙手する。選手宣誓みたいだ。
「えー、部活勢ひとりになっちゃうよぉ」
地団駄を踏む愛里。
「じゃあ次の休み、みんなで勉強会しようよ」と、理依奈が提案すれば。
「やったぁ」
「決まりね」
文字通り、二つ返事で予定が決まっていく。
楽しくなった有紗は一つ話題を思い出した。
「そういえば、この前またロス君が教室掃除頑張ってた時に思ったんだけど」
「うん」
「理依奈は掃除しないよね」
「ちょっと有紗ちゃん、人をサボり魔みたいに。株が下がるでしょ」
「今、ストップ高だからちょっと下がっても大丈夫だよ」
「やっぱ下がってはいるんじゃん!」
「りっちゃん、ロス君にベタ惚れだからなぁ」
「いっぱい仕事する君が好き」
「全部間違ってないけど、私も掃除してたからっ」
石動理依奈は彼氏に見惚れて少し手が止まってしまう普通の子。彼女の彼氏はお掃除ロボットのロス君だ。
つい最近まではずっと言えないことがあったけれど、最近はこう思う。
(開けっ広げな恋も悪くないかな)
不言色有紗は人の顔がわからない。そんなことを言っても他人に気を使わせるだけだし、友達なんて作っちゃいけないと思っていた。
でも、最近はこう思う。
(病気のこと、ちゃんと伝えてよかった)
二人ともわかっている。たまたま良い人たちに恵まれただけ。世の中素敵なことばっかりじゃない。あれだけしんどいことがあったんだ。本当はきっともっとわかってもらえなくて、また辛いことでいっぱいになる日も来ると。
でも、もう知っているから諦めない。勇気を出せばちょっぴり自分の世界を良い方に進められること。一生大切にしたいって思えるくらいの人にめぐり会えること。いつも変わらず味方でいてくれる人がいるってこと。
これから先は勇気を出したあの日々をいつでも思い出せるから。負けたりしない。
いや、ちょっとぐらい負けてもいいんだ。手を取り合えば立ち上がれることを知っているのだから。