翔吾の持つ酒器に月が映っている。北一硝子の切子細工によって十三夜の月は、万華鏡が作り出した模様のように見えた。翔吾はそれを、一気に飲み干した。

 明日から会社は盆の休みに入る。翔吾には帰る故郷も迎える家族もない。その空しさは、飲み干しても飲み干しても満たされる事は無いようだ。伸びた坊主頭は淡い栗毛でコシが無い。色白と評するには余りにも白い頬が、酒で赤く染まっていた。

 縁側には湿った風が吹き渡る。小樽の潮風に蚊取り線香の匂いが混ざる。この若者よりも、遠くに響く波音や木陰の蛙の方がよっぽど雄弁だ。気まずい沈黙は酒をまずくする。翔吾を誘った己の同情心を恨みつつ勇も杯を空け、翔吾のぐい呑みを冷酒で満たした。翔吾が慌てて千歳鶴の瓶を持つので、左手に持った酒器を差し出す。勇の左手は中指から小指にかけ、手の平ごと欠損している。十七歳になってすぐ、機械に挟んで落とした。「利手の指が無い」事を理由に兵役を逃れるためだ。最も勇の利手は右手で、不便であったが何とか杣人を続ける事が出来た。

 翔吾は自社の社員である。保護司の友人に泣きつかれてこの春雇った、仮釈放中の二四歳の青年だ。罪名は、「殺人」。

 祖母は進駐軍慰安婦で母はアメリカ兵との子供。男癖の悪い母は碌に子供の面倒をみない。そんな家から中学卒業と同時に飛び出し小樽に流れてきた。船荷を運ぶ仕事には真面目に取り組んだが、夜遊びは盛んだった。ナイフをいつもポケットに入れ、威嚇してくる相手にちらつかせていた。ある日女といる時に大勢の男に絡まれ、勢いで一人を刺してしまった。翔吾曰く「運悪く」相手が死んでしまったらしい。

 刑務所では模範囚で、五年の刑期の半分を過ぎた頃仮釈放となったが、既に女とは縁が切れていた。今更母親を頼る気にもなれない。そんなどうしようも無いクズだが、「身元を保証する者がいない若者を何とか更生させてやってくれ」と、旧知の友に頭を下げられ渋々引き受けた。

「仕事はどうだ。きつくは無いか」
 何度聞いたか分からない言葉で場を繋ぐ。翔吾は少し姿勢を正した。
「大丈夫です。身体を動かす方が好きですから」

 答えもいつもの定型文だ。酔ったのか、呂律が少し怪しい。勇の会社は幾つもの森を持ち、翔吾はその管理部門で働いている。会社の主幹事業は林業用機械の販売で、営業部の方が人手を欲している。しかし、爆発的な衝動を抑えるのに身体を張った仕事ほど役立つものは無いと、勇自身が遠い過去に実証していた。

「俺も若い頃はやんちゃで、手に負えないからと杣人の叔父の元に放り出された」
「そまびと?」
「木こりの事だ。お前が今やっている仕事と同じだ」
 首を傾げる翔吾にそう言い、酒に口を付ける。仕事を教えてくれた叔父は「杣人」という呼び名に誇りを持っていた。

「サハリンで、ですか」
 くぐもった声で翔吾が問う。その言葉に反射的に眉を寄せた。
「誰から聞いた。そんな話」
 自然と声に棘が混ざる。それが伝わったのかどうか不明だが、翔吾は項垂れて答えた。
「三上さんです」
 朴訥とした白髪頭の男を思い浮かべる。勇よりも三つ年上で、会社を立ち上げる前からの仲だ。若い頃の勇は血気盛んで、極端に短気だった。粘り強く交渉の上手い三上のお陰で会社が成り立ったと言って良い。今は専務として会社を支えてくれている。全幅の信頼を置いているが、最近酒に弱くなり、酔えば口が軽くなる。サハリン、つまり樺太での事は、あまり話題にしたくない。最も、若い頃は武勇伝としてふれ回っていたのだが。

「サハリンが戦場になって逃げ回っていた時、奥さんを守る為にソ連兵を殺したって聞きました。それは、本当なんですか」
 突然熱を帯びた口調でそう言い、身を乗り出してくる。その勢いに気圧されながら答える。
「何で、そんな事を聞く」
 酔った勢いとは言え、殺人を犯した人間にする話では無いと、三上に対して怒りを抱いた。翔吾は勢いよく杯を煽り、縁側に叩き付けた。ダンという大きな音で、蛙の鳴き声が一瞬止んだ。

「不公平じゃないですか!」
「不公平?」
 意味が分からず問い返すと、翔吾は充血した目をつり上げた。

「俺がした事と社長がした事の何が違うんですか! 女を守って相手を殺したのは同じじゃ無いですか! 戦争中なら美談になって、こうやって会社を立ち上げて成功者になれる。俺は一生犯罪者で、誰かの善意に縋って生きていかなきゃならない」

 掴みかからんばかりに肉薄した声音が怒りを呼び、熱波となり喉元に込み上げた。霧で湿った熊笹、土の匂い、絶え間なく響く銃弾の音。それらが肌を泡立たせる。そこら中に転がる死に足を取られまいと必至に足掻いた。その末の出来事と、勢いに任せた犯罪を一緒くたにするなと、怒鳴りそうになる。冷酒で喉元を冷やしたが、腹の底から立ち上がる感情を抑えることは出来そうに無かった。それらを吐き出そうと口を開いたが、声を出す前に妻の声が割って入る。

「そろそろお開きにしたらどうですか。酒臭いお爺さんは嫌われますよ」
 シミの目立つ手に漆の盆を抱き、鈴江が背後に立つ。返事を待たず酒器をさっさと盆に乗せ、片手に酒瓶を持った。千歳鶴は殆ど空になっていた。

「ハイヤー、呼びましょうか」
 鈴江の言葉に翔吾は首を振り、ふらふらとした足取りで玄関に向かった。今日の事は記憶に残っていないだろうと思いながら、玄関先で見送った。

「送ってあげなくていいんですか」
「構わん。あいつには、覆水盆に返らずと言う言葉を教えてやらんといかんな」

 玄関の戸を閉めもせず出て行ったので、坂を下りる後ろ姿が何時までも見えた。絵に描いた千鳥足だが、アパートは歩いて十五分程だ。自力で辿り着けるだろう。

「あんな出来事を自慢するからですよ。孫には話さないで下さいね」

 冷たい声を投げ捨て、鈴江が背を向ける。途端にまた、形容しがたい熱が腹に込み上げてきた。だが言い返しても「そうですか」しか返って来ないと分かっている。鈴江の小さな身体を追い越して居間に戻る。テーブルの上には、裁縫箱と作りかけのパッチワークが散らかっていた。裕福な暮らしをさせてやっているのに、古着をほどき、こうやって別の物に仕立て直すのを止めない。鈴江の趣味はすえた臭いがして見ているだけで虫唾が走る。不快さが込み上げ、勇は居間を過ぎて再び縁側に出た。湿った空気には海の香りと蛙の鳴き声が混ざっている。樺太の森とは、匂いも音も違う。