手ぬぐいを洗うなら水道でもよかったが、頭を冷やす目的もあり深月は敷地内で唯一残っている古井戸までやってきた。

 鶴瓶桶で水を汲み上げると、光に反射した水面をそうっと覗き込む。

 (あんまりよく見えない)

 水鏡には自分の顔の輪郭がぼんやりと映し出されるのがやっとで、口の端に紅がついているのかなんてわかりようがなかった。

 まずは部屋に戻って確認すればよかった。しかし、それすらも思いつかないほど気が動転していたのだろうと、深月は自分の行動を振り返る。

 「わたし、最近変だわ」

 ここは別邸の庭の一角なので、本邸の人間が来ることは滅多にない。

 誰もいないので、つい本音が漏れてしまった。

 これまでの自分なら、みっともない格好を見られて恥ずかしいと思うことはなかった。というより、劣悪な女中奉公の環境下で段々と格好を気にする余裕がなくなっていたのである。

 だというのに、暁に化粧の不備を見られたぐらいであれほど動揺するなんてどうかしている。まず動揺した理由というのが、不格好な姿を晒してしまったことへの申し訳なさではなく、ただ暁に化粧の失敗を見られて恥ずかしいという個人的なものだったから余計に。

 (でも……それだけでは、ないのよね)

 水鏡から顔を離し、深月はきゅっと両手を握って胸に当てた。

 (いまは、なんともない)

 最近、鼓動が耳につく瞬間が多くある。

 それは決まって暁がいるときだ。原因はいまだに突き止められていない。

 いまでは一番に信頼できると思える人でそばにいるとほっとする。

 満月とよく似た色の瞳をじっと見つめれば、心は穏やかになっていく。

 これまでと変わらない部分もあるのに、ふとした拍子に落ち着かなくなったり、たまに息が詰まって直視できないということが増えてきた。

 (あれだけ綺麗な顔をしているんだもの。むしろそれが当然といえば当然なのかもしれないけれど)

 理由付けて納得しようとしても、悩みが解消された気はしない。

 第一彼の顔なら出会った当初から何度も見ていた。なぜいまになって戸惑いと緊張が膨らんでいるのかが謎である。

 「……もっと、お役に立ちたいのに」

 そばにいたいと願った自分を、彼は受け入れてくれた。

 深月にとって暁は、真っ暗な道を照らしてくれた導のような人。

 どんなときも自分を貫く特別な彼に惹かれて、そんな彼の特別になれたらと、気づけば考えていた。

 だからこそ自分にできることは実践したいし、手伝いたいと思う。

 花嫁候補を装うための格好や努力も、蘭士から頼まれた薬の件も、そういった気持の表れからの行動だった。

 日に日に増していく嬉しさや喜びと、相反する扱いきれない衝動のようなもの。何重にも絡まっていそうな悩みの糸がほどけることはなく、もう深月にはなにがなんだかわからなかった。

 (少しでも不調が出たら、暁さまと蘭士さんに報告しなければいけない。おふたりともここずっと忙しくしているのに、些細なことで迷惑を掛けてしまうのは心苦しいわ)

 それでも保護対象である稀血の自分には、彼らに報告する義務がある。

 様子を伺いつつ、深月は彼らの手が空いた頃合いを見計らって告げてみようと決めた。

 ……このときはまだ、養父より親しい間柄の異性などいなかった深月には、判断がつかなかったのである。

 自分の抱える気持ちに、恋や愛といった言葉を当てはめるのだということを。