蓄音機から流れる雑音混じりの音を背にして、深月が連れられたのは喫茶店の二階だった。
二階は個室のような作りになっており、雛は慣れた足取りで一番手前の扉を押し開く。
すると、またしても見覚えのある青年の姿があった。
「急に走っていかれたと思えば、連れてきちゃったんですか。雛お嬢さん」
「連れてきちゃったんですか、じゃないわ! あなた付き人のくせに、わたくしをほおってここで待機していたわねっ」
「いや、引き留める俺を無視して突っ走ったのはお嬢さんじゃないですか」
部屋の窓から店外の通りを確認していたらしい青年、晋助が呆れ顔を浮かべる。そして、要件も告げられず半強制的にここまでやってきた羽鳥は、さらに警戒をあらわにした。
「あなたがたのことは存じませんが、このような所業許されると思っているのですか」
もしここに妖刀があったなら、抜刀も厭わなそうな気迫に深月は身震いする。
「羽鳥さん、この方は……」
「わたくしは、三野坂 雛。旧姓、間宮 雛よ」
「間宮?」
雛が名を明かしたとたん、羽鳥の表情がわずかに変化した。そんな彼の様子などどうでもいいのか、雛は深月をじろりと捉える。
「あなたはわたくしのこと、知っているかしら。それともあの男から聞いた? 自分が失くした元許嫁の妹だったって」
雛は皮肉そうに鼻で笑う。深月はそっとうなずいた。
「ええ、少しですが」
「ふうん、そう。なら話は早いわね。立ち話もなんだからこちらに座って。あまり人に聞かれたくない話だから、わざわざお店に言ってここを用意したの」
言いながら雛は奥の椅子に、深月も倣って手前側の椅子に腰かけた。
いまだに詳しい状況を掴めていない羽鳥だったが、雛の名を聞き、彼女の口から暁の「元許嫁の妹」とわかり、すべて見当がついたようだった。
ここはひとまず従うことにしたのか、警戒は緩めず深月の後ろに控えた。
「まず、わたくしがあなたをここに連れてきた理由は、朱凰暁の婚約者だと噂されているあなたの素性を知るためよ」
「わたしの素性……?」
噂されているというのも気になるが、素性と言われて体が硬直する。
「ねえ、深月さん。あなた、本当に朱凰暁の婚約者なの?」
単刀直入に告げられ深月はぐっと唾を飲んだ。
自分は契約上の花嫁で、その偽りを突き通す義務がある。息を吸って鼓動を落ち着かせ、深月は緊張を悟られないように相手を見据える。
「はい、その通りです」
周りからは未来の花嫁だと囁かれているので、婚約者も似たような意味だろうと肯定で返す。
冷静に対応する深月に、雛はキッと目じりを吊り上げた。
「それなら一体どこの家の出なのかしら。朱凰の分家筋というのはいろんな人が話しているけれど、まったく家名を聞かないわ」
こんなこともあろうかと、ある程度の設定は前もって考えられていた。華明館での騒動のあと、暁のそばに残ることを決めた深月に必要になるかもしれないと用意していた説明だ。
「わたしは朱凰家のなかでも末端中の末端、地方の片田舎にあります柳生家の出身です。暁さまの花嫁となるべく、最近になって帝都にやって参りました」
嘘に嘘を重ねることは苦しい。
だが、詮索する者には納得させるための理由づけ必ずいる。
地方の出ということにしておけばいくらでも誤魔化しが効くので、このような場合にはなおのこと都合がよかった。
「それで、どうしてあの男はそんな田舎から来た女を婚約者に迎え入れたのよ。久我からさっさと朱凰の養子に入って、いままでのものをすべて切り捨てた非情な男が、とくに利用価値もなさそうな田舎者を娶るの?」
久我。それが暁の旧姓なのかと深月は考える。
それすらいままでわからなかったのかと、こんなときに寂しくなった。
「利用価値がどうという話はわたしに答えようがありません。ただ、わたしは暁さまの花嫁として特命部隊にいます。その事実は変わりません」
「あんな薄情な男の花嫁だと、よく堂々と言えるわね。もしかしてあのとき聞いていなかったのかしら。それともはぐらかされた? あの男は許嫁だった鶴子姉さまも、わたくしの両親も、自分の家族すら見殺しにしてひとり生き残った最低な人間なのよ!」
先日も雛は似たような恨み辛みを暁本人に言っていた。
彼女の瞳は嘘を語っているようには見えない。しかし、暁の横顔を思い出すと、雛の言葉のすべてを鵜呑みにすることもできなかった。
なによりも。
「ひとり生き残ったことが……最低だとは、思いません」
無意識につぶやいてから、深月は我に返る。
暁に対して敵意を剥き出しにする雛に黙ったままでいることができず、つい口が動いてしまったのだ。
「なんですって?」
雛の声音がさらに低くなった。深月はこの件について全貌を知っているわけではない。ゆえに当事者である雛からすれば腹立たしい反論になってしまったのだろう。
「あの男のせいでわたくしはすべて失ったの! なのに最低じゃないですって? さすがは浮気男と逢瀬するだけあるわね。神経の図太さが違うわ」
「浮気男というのは、一体どういう――」
瞬間、雛によって目の前のテーブルに三枚の紙が叩きつけられた。
似顔絵が描かれた紙。どれも男性のようだが、どの似顔絵も見慣れた顔立ちをしているのは気のせいではなかった。
(羽鳥さん、蘭士さん、乃蒼さん……?)
なぜ、この三人の似顔絵を雛が持っているのだろう。
「あなたの身辺調査をさせてもらったわ。そうしたら、三人の男性と親しいという情報が上がったの。婚約者がいるのに随分乱れた交流関係を築いているじゃない」
ふん、と雛は鼻を鳴らす。深月はさらに困惑した。
それは背後に控えて状況を見守っていた羽鳥も動揺である。この食い違いはなんなのだろう。
「ええと、こちらは羽鳥さんですよね」
深月は一番左の似顔絵を指差す。
「そうよ、そこにいる男のことでしょう?」
「羽鳥さんは、特命部隊副隊長さまで、今日はわたしの付き添いで一緒にいるだけなのですが……」
「そうよね、やっぱり浮気男……え?」
雛は顔を顰めると、無言のまま真ん中に置かれた似顔絵に目線を落とした。
「こちらの似顔絵は、不知火蘭士さんといって、帝国軍お抱えのお医者さまです。わたしの体調管理はこの方に一任されています」
自分は稀血なので、体調の変化を記録する役目を追っているのが蘭士だ。
それは言えないので、あくまでも雛には朱凰の分家筋であり、暁の花嫁となる深月の健康を守るために蘭士は必要な人材だということを伝える。
「こ、この男は⁉」
雛は一番右の似顔絵を手に取り、深月に見せつけた。
「白夜乃蒼さんですね。この方は……」
「白夜家当主は、帝都でも有名な豪商です。彼は手広い商いをされていますから、軍の本拠地にもただの出商い目的で来られます。深月さんはいずれ暁隊長の妻となる方ですから、いつか良い買い手になり得る深月さんに近づいて、行商人として売り込んでいるのも道理ではないですか」
羽鳥からの援護もあり、乃蒼との関係も誤魔化すことに成功する。
乃蒼についてはこじつけな部分もあったが、だからといって絶対にあり得ないともいえない理由なため、雛は押し黙ってしまった。
「晋助、どういうこと?」
わなわなと肩を震わせた雛は、背後に控える晋助を振り返る。
「適当な情報を掴まされたんですかね。いや……というより、朱凰暁以外に彼女の周りによくいる男を探れという依頼でしたから、近くにいる男の顔は記録できても、浮気しているかどうかまでは断定できないかと」
「あの男が新しく選んだ人なんて、きっとろくでもない女だと思っていたのに。これじゃあただ依頼料をふんだくられただけじゃないっ」
「もう少しお高いところに任せるべきでしたね」
晋助はあっけらかんとしていた。
そのような調子なので雛も少しずつ苛立ちが募ってゆき、その矛先はどういうわけか深月に向いてしまった。
「だいたい、あなたの素性はまだ疑わしいのよ!」
雛はぎらりと鋭い眼光を向け、唸るような勢いで深月に言った。
これではまた最初の話に逆戻りしてしまう。深月は眉を下げて困り顔を浮かべた。
「…………それに、どうして。わたくしを迎えにきてくれなかったの」
ふと聞こえてきたつぶやきに雛を見る。顔をくしゃりとさせた彼女から、恨みとは違ったべつの感情がにじみ出ている気がした。
けれど、すぐになにかを思いついたのか、雛の表情は悪巧みをする子どものように変わる。
「そうだわ。あなたが本当に朱凰の分家の人間なら、当然黎明舞ぐらいお手の物でしょう? なら舞って見せてよ――わたくしの代わりに、永桜祭で」
いくらなんでも無茶苦茶だと、深月は唖然とした。
自分の素性の話から、祭事の舞人の話題に飛ぶだなんて、誰も想像していなかっただろう。
「永桜祭の黎明舞って、舞人のことですよね。選ばれるのは東桜女学校の方がほとんどですし。わたしたちでどうにかできる問題では……」
「わたくし、東桜女学校の学生なのよ。少し前に舞人に選ばれていたんだけど、体調が万全じゃない場合は代理を立ててもいいという話を聞いているわ。だからわたくしが当日体調を崩したことにして、あなたが舞えばいいの」
永桜祭の舞人に身分は関係ない。
ただ、昔から黎明舞に触れているのが女学校に通うような華族令嬢ばかりで、祭事に出席する天子に舞を捧げるという観点から、安定感のある華族令嬢が選ばれることが多かっただけだ。
つまり、実力さえあれば女学生でなくても選ばれるし、庶民だろうと舞うことができる。
しかし、ここで深月が代理で舞うなど、身分以前の問題だ。
一度も舞ったことがないのに、できるわけがない。
「雛さん、さすがに永桜祭で舞うのは……」
「どうして? 黎明舞は馴染み深いでしょう? 正直あまり得意じゃないわたくしが選ばれるくらいだもの。型だって簡単だし、舞うときは顔布もつけるから心配はないわ」
天子一族が関わる祭事での舞だというのに、雛はそこまで問題ではないと本気で思っているようだった。
なによりも彼女はいま、深月の弱みを握ることのほうが重要らしい。
(……どうしよう。雛さん、かなり頭に血が昇っているわ)
まさかこんな事態になるなんて。深月は己の手をぎゅっと握り視線を下げた。ここでどのように言葉を尽くしても揚げ足を取られてしまう気がして、ついに深月は口を閉じてしまう。
暁に迷惑はかけられないのに、うまいこと雛を躱せない。
相手にしなければいいと非情に割り切れればいいのだが、それすらままならない。中途半端に巻き込まれてしまった自分が情けなくて仕方がなかった。
「それじゃあ、わたくしはそろそろ帰らせてもらうわ。行くわよ、晋助」
言い返さない深月の様子に、都合よく承諾と取った雛は、ふふんと意地の悪い笑みを浮かべて去っていった。いろいろと言っていたが、結局のところ嫌がらせがしたかったのかもしれない。
「雛お嬢さんの暴走に付き合わせてすみません。それにお茶も注文せずで。よければ好きなお品書きを頼んでください。代金はこちらが持ちますので」
雛が先に個室を出ると、続いて晋助がそう言い残し去っていった。
直後、残された個室には羽鳥の怒声が響き渡った。
「なんなんですかあの人たちは!」
羽鳥もいい加減我慢の限界だったのだろう。暁を尊敬してやまない彼には、雛の言動は聞くに耐えなかったはずだ。
「羽鳥さんも、途中で気づいていましたよね。雛さんと暁さまの関係を」
「姿だけではまったくわかりませんでしたが、間宮という家名には聞き覚えがありましたから。深月さんも初対面ではなかったようですけど、いつお知り合いに?」
「数日前に少し。暁さまも一緒にいました」
だけどおそらく、彼女はもっと前からこちらのことを把握し、調べていたのだろう。
雛は強い恨みの対象である暁と、その婚約者として噂が流れている深月の両方が気に入らないのだ。
今日も、そしてこの前のときも。雛は癇癪玉が破裂するように、思いの限りをぶつけている印象だった。
それはまるで、昇華しきれない深い悲しみを、激情に任せ憎むことで紛らわせているようにも見える。
また、ほかにも気になることがひとつ。
『……それに、どうして。わたくしを迎えにきてくれなかったの』
あれはきっと、聞き間違いじゃない。
彼女の強い感情のなかには単純な憎悪ではなく、隠れた愛憎がたしかにあったのだ。
二階は個室のような作りになっており、雛は慣れた足取りで一番手前の扉を押し開く。
すると、またしても見覚えのある青年の姿があった。
「急に走っていかれたと思えば、連れてきちゃったんですか。雛お嬢さん」
「連れてきちゃったんですか、じゃないわ! あなた付き人のくせに、わたくしをほおってここで待機していたわねっ」
「いや、引き留める俺を無視して突っ走ったのはお嬢さんじゃないですか」
部屋の窓から店外の通りを確認していたらしい青年、晋助が呆れ顔を浮かべる。そして、要件も告げられず半強制的にここまでやってきた羽鳥は、さらに警戒をあらわにした。
「あなたがたのことは存じませんが、このような所業許されると思っているのですか」
もしここに妖刀があったなら、抜刀も厭わなそうな気迫に深月は身震いする。
「羽鳥さん、この方は……」
「わたくしは、三野坂 雛。旧姓、間宮 雛よ」
「間宮?」
雛が名を明かしたとたん、羽鳥の表情がわずかに変化した。そんな彼の様子などどうでもいいのか、雛は深月をじろりと捉える。
「あなたはわたくしのこと、知っているかしら。それともあの男から聞いた? 自分が失くした元許嫁の妹だったって」
雛は皮肉そうに鼻で笑う。深月はそっとうなずいた。
「ええ、少しですが」
「ふうん、そう。なら話は早いわね。立ち話もなんだからこちらに座って。あまり人に聞かれたくない話だから、わざわざお店に言ってここを用意したの」
言いながら雛は奥の椅子に、深月も倣って手前側の椅子に腰かけた。
いまだに詳しい状況を掴めていない羽鳥だったが、雛の名を聞き、彼女の口から暁の「元許嫁の妹」とわかり、すべて見当がついたようだった。
ここはひとまず従うことにしたのか、警戒は緩めず深月の後ろに控えた。
「まず、わたくしがあなたをここに連れてきた理由は、朱凰暁の婚約者だと噂されているあなたの素性を知るためよ」
「わたしの素性……?」
噂されているというのも気になるが、素性と言われて体が硬直する。
「ねえ、深月さん。あなた、本当に朱凰暁の婚約者なの?」
単刀直入に告げられ深月はぐっと唾を飲んだ。
自分は契約上の花嫁で、その偽りを突き通す義務がある。息を吸って鼓動を落ち着かせ、深月は緊張を悟られないように相手を見据える。
「はい、その通りです」
周りからは未来の花嫁だと囁かれているので、婚約者も似たような意味だろうと肯定で返す。
冷静に対応する深月に、雛はキッと目じりを吊り上げた。
「それなら一体どこの家の出なのかしら。朱凰の分家筋というのはいろんな人が話しているけれど、まったく家名を聞かないわ」
こんなこともあろうかと、ある程度の設定は前もって考えられていた。華明館での騒動のあと、暁のそばに残ることを決めた深月に必要になるかもしれないと用意していた説明だ。
「わたしは朱凰家のなかでも末端中の末端、地方の片田舎にあります柳生家の出身です。暁さまの花嫁となるべく、最近になって帝都にやって参りました」
嘘に嘘を重ねることは苦しい。
だが、詮索する者には納得させるための理由づけ必ずいる。
地方の出ということにしておけばいくらでも誤魔化しが効くので、このような場合にはなおのこと都合がよかった。
「それで、どうしてあの男はそんな田舎から来た女を婚約者に迎え入れたのよ。久我からさっさと朱凰の養子に入って、いままでのものをすべて切り捨てた非情な男が、とくに利用価値もなさそうな田舎者を娶るの?」
久我。それが暁の旧姓なのかと深月は考える。
それすらいままでわからなかったのかと、こんなときに寂しくなった。
「利用価値がどうという話はわたしに答えようがありません。ただ、わたしは暁さまの花嫁として特命部隊にいます。その事実は変わりません」
「あんな薄情な男の花嫁だと、よく堂々と言えるわね。もしかしてあのとき聞いていなかったのかしら。それともはぐらかされた? あの男は許嫁だった鶴子姉さまも、わたくしの両親も、自分の家族すら見殺しにしてひとり生き残った最低な人間なのよ!」
先日も雛は似たような恨み辛みを暁本人に言っていた。
彼女の瞳は嘘を語っているようには見えない。しかし、暁の横顔を思い出すと、雛の言葉のすべてを鵜呑みにすることもできなかった。
なによりも。
「ひとり生き残ったことが……最低だとは、思いません」
無意識につぶやいてから、深月は我に返る。
暁に対して敵意を剥き出しにする雛に黙ったままでいることができず、つい口が動いてしまったのだ。
「なんですって?」
雛の声音がさらに低くなった。深月はこの件について全貌を知っているわけではない。ゆえに当事者である雛からすれば腹立たしい反論になってしまったのだろう。
「あの男のせいでわたくしはすべて失ったの! なのに最低じゃないですって? さすがは浮気男と逢瀬するだけあるわね。神経の図太さが違うわ」
「浮気男というのは、一体どういう――」
瞬間、雛によって目の前のテーブルに三枚の紙が叩きつけられた。
似顔絵が描かれた紙。どれも男性のようだが、どの似顔絵も見慣れた顔立ちをしているのは気のせいではなかった。
(羽鳥さん、蘭士さん、乃蒼さん……?)
なぜ、この三人の似顔絵を雛が持っているのだろう。
「あなたの身辺調査をさせてもらったわ。そうしたら、三人の男性と親しいという情報が上がったの。婚約者がいるのに随分乱れた交流関係を築いているじゃない」
ふん、と雛は鼻を鳴らす。深月はさらに困惑した。
それは背後に控えて状況を見守っていた羽鳥も動揺である。この食い違いはなんなのだろう。
「ええと、こちらは羽鳥さんですよね」
深月は一番左の似顔絵を指差す。
「そうよ、そこにいる男のことでしょう?」
「羽鳥さんは、特命部隊副隊長さまで、今日はわたしの付き添いで一緒にいるだけなのですが……」
「そうよね、やっぱり浮気男……え?」
雛は顔を顰めると、無言のまま真ん中に置かれた似顔絵に目線を落とした。
「こちらの似顔絵は、不知火蘭士さんといって、帝国軍お抱えのお医者さまです。わたしの体調管理はこの方に一任されています」
自分は稀血なので、体調の変化を記録する役目を追っているのが蘭士だ。
それは言えないので、あくまでも雛には朱凰の分家筋であり、暁の花嫁となる深月の健康を守るために蘭士は必要な人材だということを伝える。
「こ、この男は⁉」
雛は一番右の似顔絵を手に取り、深月に見せつけた。
「白夜乃蒼さんですね。この方は……」
「白夜家当主は、帝都でも有名な豪商です。彼は手広い商いをされていますから、軍の本拠地にもただの出商い目的で来られます。深月さんはいずれ暁隊長の妻となる方ですから、いつか良い買い手になり得る深月さんに近づいて、行商人として売り込んでいるのも道理ではないですか」
羽鳥からの援護もあり、乃蒼との関係も誤魔化すことに成功する。
乃蒼についてはこじつけな部分もあったが、だからといって絶対にあり得ないともいえない理由なため、雛は押し黙ってしまった。
「晋助、どういうこと?」
わなわなと肩を震わせた雛は、背後に控える晋助を振り返る。
「適当な情報を掴まされたんですかね。いや……というより、朱凰暁以外に彼女の周りによくいる男を探れという依頼でしたから、近くにいる男の顔は記録できても、浮気しているかどうかまでは断定できないかと」
「あの男が新しく選んだ人なんて、きっとろくでもない女だと思っていたのに。これじゃあただ依頼料をふんだくられただけじゃないっ」
「もう少しお高いところに任せるべきでしたね」
晋助はあっけらかんとしていた。
そのような調子なので雛も少しずつ苛立ちが募ってゆき、その矛先はどういうわけか深月に向いてしまった。
「だいたい、あなたの素性はまだ疑わしいのよ!」
雛はぎらりと鋭い眼光を向け、唸るような勢いで深月に言った。
これではまた最初の話に逆戻りしてしまう。深月は眉を下げて困り顔を浮かべた。
「…………それに、どうして。わたくしを迎えにきてくれなかったの」
ふと聞こえてきたつぶやきに雛を見る。顔をくしゃりとさせた彼女から、恨みとは違ったべつの感情がにじみ出ている気がした。
けれど、すぐになにかを思いついたのか、雛の表情は悪巧みをする子どものように変わる。
「そうだわ。あなたが本当に朱凰の分家の人間なら、当然黎明舞ぐらいお手の物でしょう? なら舞って見せてよ――わたくしの代わりに、永桜祭で」
いくらなんでも無茶苦茶だと、深月は唖然とした。
自分の素性の話から、祭事の舞人の話題に飛ぶだなんて、誰も想像していなかっただろう。
「永桜祭の黎明舞って、舞人のことですよね。選ばれるのは東桜女学校の方がほとんどですし。わたしたちでどうにかできる問題では……」
「わたくし、東桜女学校の学生なのよ。少し前に舞人に選ばれていたんだけど、体調が万全じゃない場合は代理を立ててもいいという話を聞いているわ。だからわたくしが当日体調を崩したことにして、あなたが舞えばいいの」
永桜祭の舞人に身分は関係ない。
ただ、昔から黎明舞に触れているのが女学校に通うような華族令嬢ばかりで、祭事に出席する天子に舞を捧げるという観点から、安定感のある華族令嬢が選ばれることが多かっただけだ。
つまり、実力さえあれば女学生でなくても選ばれるし、庶民だろうと舞うことができる。
しかし、ここで深月が代理で舞うなど、身分以前の問題だ。
一度も舞ったことがないのに、できるわけがない。
「雛さん、さすがに永桜祭で舞うのは……」
「どうして? 黎明舞は馴染み深いでしょう? 正直あまり得意じゃないわたくしが選ばれるくらいだもの。型だって簡単だし、舞うときは顔布もつけるから心配はないわ」
天子一族が関わる祭事での舞だというのに、雛はそこまで問題ではないと本気で思っているようだった。
なによりも彼女はいま、深月の弱みを握ることのほうが重要らしい。
(……どうしよう。雛さん、かなり頭に血が昇っているわ)
まさかこんな事態になるなんて。深月は己の手をぎゅっと握り視線を下げた。ここでどのように言葉を尽くしても揚げ足を取られてしまう気がして、ついに深月は口を閉じてしまう。
暁に迷惑はかけられないのに、うまいこと雛を躱せない。
相手にしなければいいと非情に割り切れればいいのだが、それすらままならない。中途半端に巻き込まれてしまった自分が情けなくて仕方がなかった。
「それじゃあ、わたくしはそろそろ帰らせてもらうわ。行くわよ、晋助」
言い返さない深月の様子に、都合よく承諾と取った雛は、ふふんと意地の悪い笑みを浮かべて去っていった。いろいろと言っていたが、結局のところ嫌がらせがしたかったのかもしれない。
「雛お嬢さんの暴走に付き合わせてすみません。それにお茶も注文せずで。よければ好きなお品書きを頼んでください。代金はこちらが持ちますので」
雛が先に個室を出ると、続いて晋助がそう言い残し去っていった。
直後、残された個室には羽鳥の怒声が響き渡った。
「なんなんですかあの人たちは!」
羽鳥もいい加減我慢の限界だったのだろう。暁を尊敬してやまない彼には、雛の言動は聞くに耐えなかったはずだ。
「羽鳥さんも、途中で気づいていましたよね。雛さんと暁さまの関係を」
「姿だけではまったくわかりませんでしたが、間宮という家名には聞き覚えがありましたから。深月さんも初対面ではなかったようですけど、いつお知り合いに?」
「数日前に少し。暁さまも一緒にいました」
だけどおそらく、彼女はもっと前からこちらのことを把握し、調べていたのだろう。
雛は強い恨みの対象である暁と、その婚約者として噂が流れている深月の両方が気に入らないのだ。
今日も、そしてこの前のときも。雛は癇癪玉が破裂するように、思いの限りをぶつけている印象だった。
それはまるで、昇華しきれない深い悲しみを、激情に任せ憎むことで紛らわせているようにも見える。
また、ほかにも気になることがひとつ。
『……それに、どうして。わたくしを迎えにきてくれなかったの』
あれはきっと、聞き間違いじゃない。
彼女の強い感情のなかには単純な憎悪ではなく、隠れた愛憎がたしかにあったのだ。