「お給料、ですか?」
それは深早朝の本邸女中の手伝いを終え、朝食を済ませたあとのことだった。
執務室に呼び出された深月は、暁から給料袋を差し出されていた。
「今日は女中の給与支給日だ。通常はひと月ごとに支給だが、君は途中から入ってくれたからな。日数分を計算して用意した」
「そんな……受け取れませんっ」
深月は自分でも驚くほどの声量で給料袋を突き返した。
頑なに首を振る姿に、暁は瞬目する。
「なにか不都合があるのか」
純粋な疑問から出た暁の問いかけに、深月はそういうわけではないと言葉をつけ加えた。
「お給料以前に、わたしは衣食住すべてにおいて身にすぎる待遇を与えられています。それなのに少しお手伝いをしただけで、お金をいただくなんて」
遠慮深い深月の理由に、暁は困った様子でわずかに笑みを浮かべた。
「少しの手伝いではなく、立派な勤めだ。そしてこれは、それに対する正当な対価だと俺は考える。君に受け取るべきものだ」
諄々と説き聞かせられ、深月の肩の力がゆっくりと抜けていった。
「金庫に預けてもいいんだが、これは君の手に渡すべきだと思った。余計な世話だったら申し訳ないが……」
暁の言う軍管理の金庫には、前の勤め先である庵楽堂で不当に徴収されていた深月の給料が預けられている。もとは養父の借金返済のためにすべて渡していた金だが、肩代わりが大旦那の虚報であったことが発覚し、戻ってきたものだ。
つまり、こうして働き分を報酬を深月が受け取るのは、大袈裟でもなんでもなく初めての経験だった。
暁はそれを考慮して、給料袋をじかに渡してくれようとしていたのだろう。その気遣いが心に染みた。
「あの、ありがとう、ございます」
「可笑しいな。礼を言うのは、こちらのほうだというのに」
恐る恐ると給料袋を手にした深月に、微笑ましげた顔をした暁が小さく吹き出した。
頂戴した給与にまだ戸惑いつつも、彼の様子を確認して深月は密かにほっと安堵の息をつく。
(よかった。暁さま、顔色が良い)
過日の騒動がまるでなかったかのように、その場に居合わせた深月に対して暁は自然な振る舞いを見せている。
白夜家本宅の屋敷に行った日。西公園広場で暁は、今月が彼の亡くした家族や親しかった人々の忌月だと教えてくれた。
おそらく親しかった存在のなかに、暁の元許嫁も含まれていたのだろう。
そして、忽然と現れた『雛』という少女が、元許嫁『鶴子』の妹であり、同じように姉や家族を失った彼女は、暁を深く恨んでいる。
(そういうこと、なんでしょうけど……)
すべて深月の思量で止まっているのは、あれ以来なにも暁から聞けていないからだ。落ち着いて話す時間をあのときは持てず、暁は深月に「君は気にしなくていい」と冷静に言い残して巡回へ行ってしまった。
それからずっと、この話題には触れられていない。
暁が忙しくしているとわかっているのに、彼の務めを遮ってまで尋ねる勇気が深月にはなかったからだ。
「呼びつけて早々にすまないが、俺はこれから外に出る。君はこのあと本邸に?」
「いえ、今日はお休みです。連日続いて顔を出していたので、朋代さんと女中の皆さんからゆっくりしてほしいと言われまして」
「ああ、そうだな。君は頑張りすぎる節がある。その言葉に甘えるといい」
それは暁さまも同じでは、と口にしそうになって内心慌てて引っ込める。
こちらを理解してくれる発言は嬉しくあり、それは彼の内情が浮き彫りになるに連れて複雑でもあった。
「どうか、お気をつけて。行ってらっしゃいませ」
軍帽を深く被り、暁の広い背中が扉の外に消える。
私事を周囲には一切悟らせるつもりはなく、冷静な面持ちで務めに向かう彼に、そんなありきたりなことしか言えない。歯がゆくて、仕方がなかった。
薄紅の散り花が、青空の下を泳ぐように舞っている。
相も変わらず立派な店構えが軒を連ねる中央区画の大通りには、物見遊山の通行人がひしめき合っていた。
喧噪は毎度のことながら、永桜祭本番でなくても桜が満開の時期の帝都には遊観気分の顔をした老若男女が入り交じる。
最も盛り上がるのは祭事当日とはいえ、いまも負けず劣らず活気づいていた。
「どちらに向かう予定だったのですか」
そう深月に尋ねたのは、隣を歩く非番の羽鳥だ。
見慣れた軍服ではなく身軽なジャケットを羽織る彼からは、良いところのご子息のような品が漂っている。とはいえ羽鳥は伯爵家の三男だと聞いているので、あながち間違ってはいないのだろうが。
「行き先を決めていたわけではないんです。羽鳥を巻き込む形になってすみません……」
「引き受けたのは僕です。もう謝罪は結構ですから」
たしかに同行を承諾してくれた羽鳥にこれ以上の謝罪は失礼だと思い、深月は口を噤む。
本来は護衛の璃莉が共に行くはずだった。そもそも深月に出かけるように提案を持ちかけたのは彼女であり、そうでなければ自主的に街まで行こうとは思わなかった。
暁から給与を渡され、深月はそれをどうしようかと持て余していた。すると事情を聞いた璃莉が「せっかくお出かけして好きな物を買ってみよう!」と提案してくれたのである。
お供する気満々であった璃莉だが、乃蒼への報告を昼間のうちに済ませなければならず、近くを通りかかった羽鳥にその役目を泣く泣く託したのだった。
通りかかったとはいえ、暁の執務室に書類を置いて帰るつもりだった羽鳥はとんだ巻き添えである。
「なにもせず引き返したと知られれば、璃莉さんがうるさく抗議してくるのは目に見えていますし。とくに予定もないのでお付き合いしますよ」
羽鳥はなんとも面倒そうにため息を吐いた。深月の付き添いが不満なのではなく、璃莉の言動を予想して早くも疲れを浮かべていた。
深月の護衛として璃莉を紹介されそこまで日数は経過していないが、すでに羽鳥は彼女の性格を掴んでいた。
「給与の使い道に迷われて、今回店を覗く予定だったのですよね。では、ひとまず女性が好みそうな場所へご案内します」
意外にも羽鳥は精力的に案内を始めた。彼の性格上、一度引き受けたら最後までやり遂げなければ気が済まないのだろう。
突然このようなことになり、深月は申し訳なくも感謝を抱きながら後ろをついて歩く。
と、なにか思い出したように羽鳥ははっと振り返った。
「言っておきますが、これは案内と付き添いです。暁隊長にもそのようにお伝えください。多忙な隊長を差し置いて僕があなたと外出だなんて男としては……いえ、それはまあ置いておきまして。とにかくお願いします」
「は、はい。わかりました」
妙な念を押され、深月はぽかんとしながらうなずく。
そうして羽鳥は今度こそ歩き出した。
小間物屋、装飾店、古本屋から、そのほかの雑貨店。優秀な羽鳥の案内で多くを巡ることができた深月だが、とくに物欲をそそるようなものはなかった。
ひとつひとつの品は申し分ない。たんに深月が買ったところで持て余してしまう気がして、手が出ないのである。
(なんだか、羽鳥さんにも申し訳ないわ)
通りを歩いていた深月は、店の陳列窓から確認できる店内の女性客に目を向けた。皆それぞれ楽しげに商品を物色している。
なにかを買わなければいけない、ではなく、自然と買いたいものを手にしているのだ。
せっかく羽鳥も非番時に付き合ってくれているのだから、自分もこれだというものが見つけられるといいのに。
「……あ」
ふいに、深月の足が止まる。
「深月さん?」
「すみません、少しこのお店を見てもいいでしょうか」
そう言った深月の視線の先には、瓦葺屋根の古びた紺屋があった。その入り口付近の軒下に艶やかな糸が並んでいるのを発見し、吸い寄せられるように近づいた。
(綺麗な染め糸……)
見事な藍染の糸に息を呑む。色違いの束がそれぞれ綺麗に並んでおり、藍染といってもこんなに種類豊富なことに驚いた。
素晴らしい色合いのなかで、最も深月が惹かれたのは――。
「それは、蒼天。いい色をしているだろう」
入り口の暖簾を潜り出てきたのは、店主と思しき初老の男性。夢中になって眺めていた深月に、彼は目尻の皺を深く刻んだ。
「嬉しいねぇ。この時期は若い娘が紺屋なんかに立ち寄るのは珍しいんだが。気に入ってくれたのかい」
「はい、とても。蒼天色というんですね。ええと、珍しい、ですか?」
そこまで気に留めたことが奇特だったのだろうか。店主の反応が気になって、深月は聞き返す。
「いまは永桜祭の時期だろう? 天子さまの永桜にあやかって桜の色を模した装飾がよく売れるんだよ。だから腕の良い紅師は暇なしだが、反対に紺屋のあたしらはからっきしでね」
そういえば、と。深月は西区画の露店にあった組紐屋を思い出す。
あのとき店の男が勧めていた組紐も、薄い赤や桃の色といった可愛らしい色合いのものばかりだった。
「とくにこの組紐は、最近売れ行きが厳しくてな。戦乱の世なら武将が好んで鎧の装飾や刀剣の飾り紐、武具を飾る装身具に必要とされていたんだが。いまじゃめっきり買い手が減ったよ。帯締でならもう少し需要もあるんだが。いやぁ、もっと売れてほしいねえ」
商品を売り込んでくるのかと思いきや、半分地上が紺屋の商売事情だったが、ふと深月は思案する。
(この蒼天の染め糸から、組紐のお守りを渡せないかしら)
妖刀には飾り紐のようなものがあるし、かといって下緒では長すぎて手に負えない。では、自分のようにお守りとして贈れないかと考える。
数多くの人に世話になっている深月だが、まず日頃の礼を兼ねて伝えたいのは、暁だったからだ。
(でも、迷惑ではないかしら。わたしから贈り物だなんて、もし渡して困らせてしまったら)
深月が蒼天色の染め糸をじっと見つめ悶々としていれば、店主がそっと声をかける。
「その顔、もしや糸を編んで好い人への贈り物でも考えているのかい?」
「えっ」
なぜわかったのかと驚いていれば、店主は子気味良い笑い声を上げた。
「あたしは長く生きてる老いぼれだからな。娘さんの考えることくらいわかるさ。いいじゃないか、迷っているぐらいなら贈ってやれば」
「けど、迷惑かもしれませんし」
「迷惑ということはないと思いますけど。組紐は勝機紐といって昔は武士も好んで身につけていたそうですし。あの方の贈り物としては最適かと」
なぜか羽鳥は店主側に立って意見を述べてくる。深月が誰に贈り物をしたいのかが彼にも丸わかりで少しばかり恥ずかしい。
「では、この蒼天色の染め糸をお願いします」
結局深月は購入を決意した。いまのところ組紐以外に自分が用意できる最適なものは思い浮かばないのだ。
もし暁が必要なさそうなら反応を見せたら、そのときは引き取ってしまえばいい。
(……でも、本当に綺麗な色)
深月が選んだ蒼天色の染め糸は、晴れ渡る空と遜色ない清々しい色をしている。春の空のような色だ。
そうして無事染め糸を買い、そろそろ帰ろうかと羽鳥に提案しようとしたときだった。
「ちょっと」
舗装路の反対側にいた歩行人のひとりが、不自然にその場で立ち止まり声をかけてきた。
腰上の黒髪をはらりと揺らした少女、雛が深月をじっと見つめていた。
「あなた、朱凰暁の婚約者でしょ。名前は深月さんで間違いないかしら」
「はい。あなたは、雛さんですよね……?」
あの日、嵐のように去っていった雛が現れたことに深月は驚愕を隠せない。それでも言葉を返せば、雛は隣の羽鳥をじろりと見て嘲笑した。
「ちょうどいいわ。まさか逢瀬の現場に鉢合わせることができるだなんてね。わたくしは運が良いわ」
「なんですって?」
横に控えていた羽鳥は、聞き捨てならないと前に出る。しかし雛は余裕そうな顔つきで深月に近づいた。
「ねえ、深月さん。わたくし、あなたとずっと話したいと思っていたの。付き合ってくれないかしら」
「……っ、あの⁉」
返答も聞かず、深月の腕を掴んだ雛は、近くの喫茶店らしき場所に深月を引き込んだ。
「ちょっとあなた、なにをしているんですか!」
「そっちの浮気男もついてくればいいわ」
「う、浮気男⁉」
羽鳥は状況が理解できない様子だったが、往来の場でかなり目立っていることに気づき、ぐっと声を押し込んで店内の扉をくぐる。
掲げられた店の看板には、横文字で『ぼんじゅーる』と書かれており、異国情緒漂うお洒落な喫茶店だった。
蓄音機から流れる雑音混じりの音を背にして、深月が連れられたのは喫茶店の二階だった。
二階は個室のような作りになっており、雛は慣れた足取りで一番手前の扉を押し開く。
すると、またしても見覚えのある青年の姿があった。
「急に走っていかれたと思えば、連れてきちゃったんですか。雛お嬢さん」
「連れてきちゃったんですか、じゃないわ! あなた付き人のくせに、わたくしをほおってここで待機していたわねっ」
「いや、引き留める俺を無視して突っ走ったのはお嬢さんじゃないですか」
部屋の窓から店外の通りを確認していたらしい青年、晋助が呆れ顔を浮かべる。そして、要件も告げられず半強制的にここまでやってきた羽鳥は、さらに警戒をあらわにした。
「あなたがたのことは存じませんが、このような所業許されると思っているのですか」
もしここに妖刀があったなら、抜刀も厭わなそうな気迫に深月は身震いする。
「羽鳥さん、この方は……」
「わたくしは、三野坂 雛。旧姓、間宮 雛よ」
「間宮?」
雛が名を明かしたとたん、羽鳥の表情がわずかに変化した。そんな彼の様子などどうでもいいのか、雛は深月をじろりと捉える。
「あなたはわたくしのこと、知っているかしら。それともあの男から聞いた? 自分が失くした元許嫁の妹だったって」
雛は皮肉そうに鼻で笑う。深月はそっとうなずいた。
「ええ、少しですが」
「ふうん、そう。なら話は早いわね。立ち話もなんだからこちらに座って。あまり人に聞かれたくない話だから、わざわざお店に言ってここを用意したの」
言いながら雛は奥の椅子に、深月も倣って手前側の椅子に腰かけた。
いまだに詳しい状況を掴めていない羽鳥だったが、雛の名を聞き、彼女の口から暁の「元許嫁の妹」とわかり、すべて見当がついたようだった。
ここはひとまず従うことにしたのか、警戒は緩めず深月の後ろに控えた。
「まず、わたくしがあなたをここに連れてきた理由は、朱凰暁の婚約者だと噂されているあなたの素性を知るためよ」
「わたしの素性……?」
噂されているというのも気になるが、素性と言われて体が硬直する。
「ねえ、深月さん。あなた、本当に朱凰暁の婚約者なの?」
単刀直入に告げられ深月はぐっと唾を飲んだ。
自分は契約上の花嫁で、その偽りを突き通す義務がある。息を吸って鼓動を落ち着かせ、深月は緊張を悟られないように相手を見据える。
「はい、その通りです」
周りからは未来の花嫁だと囁かれているので、婚約者も似たような意味だろうと肯定で返す。
冷静に対応する深月に、雛はキッと目じりを吊り上げた。
「それなら一体どこの家の出なのかしら。朱凰の分家筋というのはいろんな人が話しているけれど、まったく家名を聞かないわ」
こんなこともあろうかと、ある程度の設定は前もって考えられていた。華明館での騒動のあと、暁のそばに残ることを決めた深月に必要になるかもしれないと用意していた説明だ。
「わたしは朱凰家のなかでも末端中の末端、地方の片田舎にあります柳生家の出身です。暁さまの花嫁となるべく、最近になって帝都にやって参りました」
嘘に嘘を重ねることは苦しい。
だが、詮索する者には納得させるための理由づけ必ずいる。
地方の出ということにしておけばいくらでも誤魔化しが効くので、このような場合にはなおのこと都合がよかった。
「それで、どうしてあの男はそんな田舎から来た女を婚約者に迎え入れたのよ。久我からさっさと朱凰の養子に入って、いままでのものをすべて切り捨てた非情な男が、とくに利用価値もなさそうな田舎者を娶るの?」
久我。それが暁の旧姓なのかと深月は考える。
それすらいままでわからなかったのかと、こんなときに寂しくなった。
「利用価値がどうという話はわたしに答えようがありません。ただ、わたしは暁さまの花嫁として特命部隊にいます。その事実は変わりません」
「あんな薄情な男の花嫁だと、よく堂々と言えるわね。もしかしてあのとき聞いていなかったのかしら。それともはぐらかされた? あの男は許嫁だった鶴子姉さまも、わたくしの両親も、自分の家族すら見殺しにしてひとり生き残った最低な人間なのよ!」
先日も雛は似たような恨み辛みを暁本人に言っていた。
彼女の瞳は嘘を語っているようには見えない。しかし、暁の横顔を思い出すと、雛の言葉のすべてを鵜呑みにすることもできなかった。
なによりも。
「ひとり生き残ったことが……最低だとは、思いません」
無意識につぶやいてから、深月は我に返る。
暁に対して敵意を剥き出しにする雛に黙ったままでいることができず、つい口が動いてしまったのだ。
「なんですって?」
雛の声音がさらに低くなった。深月はこの件について全貌を知っているわけではない。ゆえに当事者である雛からすれば腹立たしい反論になってしまったのだろう。
「あの男のせいでわたくしはすべて失ったの! なのに最低じゃないですって? さすがは浮気男と逢瀬するだけあるわね。神経の図太さが違うわ」
「浮気男というのは、一体どういう――」
瞬間、雛によって目の前のテーブルに三枚の紙が叩きつけられた。
似顔絵が描かれた紙。どれも男性のようだが、どの似顔絵も見慣れた顔立ちをしているのは気のせいではなかった。
(羽鳥さん、蘭士さん、乃蒼さん……?)
なぜ、この三人の似顔絵を雛が持っているのだろう。
「あなたの身辺調査をさせてもらったわ。そうしたら、三人の男性と親しいという情報が上がったの。婚約者がいるのに随分乱れた交流関係を築いているじゃない」
ふん、と雛は鼻を鳴らす。深月はさらに困惑した。
それは背後に控えて状況を見守っていた羽鳥も動揺である。この食い違いはなんなのだろう。
「ええと、こちらは羽鳥さんですよね」
深月は一番左の似顔絵を指差す。
「そうよ、そこにいる男のことでしょう?」
「羽鳥さんは、特命部隊副隊長さまで、今日はわたしの付き添いで一緒にいるだけなのですが……」
「そうよね、やっぱり浮気男……え?」
雛は顔を顰めると、無言のまま真ん中に置かれた似顔絵に目線を落とした。
「こちらの似顔絵は、不知火蘭士さんといって、帝国軍お抱えのお医者さまです。わたしの体調管理はこの方に一任されています」
自分は稀血なので、体調の変化を記録する役目を追っているのが蘭士だ。
それは言えないので、あくまでも雛には朱凰の分家筋であり、暁の花嫁となる深月の健康を守るために蘭士は必要な人材だということを伝える。
「こ、この男は⁉」
雛は一番右の似顔絵を手に取り、深月に見せつけた。
「白夜乃蒼さんですね。この方は……」
「白夜家当主は、帝都でも有名な豪商です。彼は手広い商いをされていますから、軍の本拠地にもただの出商い目的で来られます。深月さんはいずれ暁隊長の妻となる方ですから、いつか良い買い手になり得る深月さんに近づいて、行商人として売り込んでいるのも道理ではないですか」
羽鳥からの援護もあり、乃蒼との関係も誤魔化すことに成功する。
乃蒼についてはこじつけな部分もあったが、だからといって絶対にあり得ないともいえない理由なため、雛は押し黙ってしまった。
「晋助、どういうこと?」
わなわなと肩を震わせた雛は、背後に控える晋助を振り返る。
「適当な情報を掴まされたんですかね。いや……というより、朱凰暁以外に彼女の周りによくいる男を探れという依頼でしたから、近くにいる男の顔は記録できても、浮気しているかどうかまでは断定できないかと」
「あの男が新しく選んだ人なんて、きっとろくでもない女だと思っていたのに。これじゃあただ依頼料をふんだくられただけじゃないっ」
「もう少しお高いところに任せるべきでしたね」
晋助はあっけらかんとしていた。
そのような調子なので雛も少しずつ苛立ちが募ってゆき、その矛先はどういうわけか深月に向いてしまった。
「だいたい、あなたの素性はまだ疑わしいのよ!」
雛はぎらりと鋭い眼光を向け、唸るような勢いで深月に言った。
これではまた最初の話に逆戻りしてしまう。深月は眉を下げて困り顔を浮かべた。
「…………それに、どうして。わたくしを迎えにきてくれなかったの」
ふと聞こえてきたつぶやきに雛を見る。顔をくしゃりとさせた彼女から、恨みとは違ったべつの感情がにじみ出ている気がした。
けれど、すぐになにかを思いついたのか、雛の表情は悪巧みをする子どものように変わる。
「そうだわ。あなたが本当に朱凰の分家の人間なら、当然黎明舞ぐらいお手の物でしょう? なら舞って見せてよ――わたくしの代わりに、永桜祭で」
いくらなんでも無茶苦茶だと、深月は唖然とした。
自分の素性の話から、祭事の舞人の話題に飛ぶだなんて、誰も想像していなかっただろう。
「永桜祭の黎明舞って、舞人のことですよね。選ばれるのは東桜女学校の方がほとんどですし。わたしたちでどうにかできる問題では……」
「わたくし、東桜女学校の学生なのよ。少し前に舞人に選ばれていたんだけど、体調が万全じゃない場合は代理を立ててもいいという話を聞いているわ。だからわたくしが当日体調を崩したことにして、あなたが舞えばいいの」
永桜祭の舞人に身分は関係ない。
ただ、昔から黎明舞に触れているのが女学校に通うような華族令嬢ばかりで、祭事に出席する天子に舞を捧げるという観点から、安定感のある華族令嬢が選ばれることが多かっただけだ。
つまり、実力さえあれば女学生でなくても選ばれるし、庶民だろうと舞うことができる。
しかし、ここで深月が代理で舞うなど、身分以前の問題だ。
一度も舞ったことがないのに、できるわけがない。
「雛さん、さすがに永桜祭で舞うのは……」
「どうして? 黎明舞は馴染み深いでしょう? 正直あまり得意じゃないわたくしが選ばれるくらいだもの。型だって簡単だし、舞うときは顔布もつけるから心配はないわ」
天子一族が関わる祭事での舞だというのに、雛はそこまで問題ではないと本気で思っているようだった。
なによりも彼女はいま、深月の弱みを握ることのほうが重要らしい。
(……どうしよう。雛さん、かなり頭に血が昇っているわ)
まさかこんな事態になるなんて。深月は己の手をぎゅっと握り視線を下げた。ここでどのように言葉を尽くしても揚げ足を取られてしまう気がして、ついに深月は口を閉じてしまう。
暁に迷惑はかけられないのに、うまいこと雛を躱せない。
相手にしなければいいと非情に割り切れればいいのだが、それすらままならない。中途半端に巻き込まれてしまった自分が情けなくて仕方がなかった。
「それじゃあ、わたくしはそろそろ帰らせてもらうわ。行くわよ、晋助」
言い返さない深月の様子に、都合よく承諾と取った雛は、ふふんと意地の悪い笑みを浮かべて去っていった。いろいろと言っていたが、結局のところ嫌がらせがしたかったのかもしれない。
「雛お嬢さんの暴走に付き合わせてすみません。それにお茶も注文せずで。よければ好きなお品書きを頼んでください。代金はこちらが持ちますので」
雛が先に個室を出ると、続いて晋助がそう言い残し去っていった。
直後、残された個室には羽鳥の怒声が響き渡った。
「なんなんですかあの人たちは!」
羽鳥もいい加減我慢の限界だったのだろう。暁を尊敬してやまない彼には、雛の言動は聞くに耐えなかったはずだ。
「羽鳥さんも、途中で気づいていましたよね。雛さんと暁さまの関係を」
「姿だけではまったくわかりませんでしたが、間宮という家名には聞き覚えがありましたから。深月さんも初対面ではなかったようですけど、いつお知り合いに?」
「数日前に少し。暁さまも一緒にいました」
だけどおそらく、彼女はもっと前からこちらのことを把握し、調べていたのだろう。
雛は強い恨みの対象である暁と、その婚約者として噂が流れている深月の両方が気に入らないのだ。
今日も、そしてこの前のときも。雛は癇癪玉が破裂するように、思いの限りをぶつけている印象だった。
それはまるで、昇華しきれない深い悲しみを、激情に任せ憎むことで紛らわせているようにも見える。
また、ほかにも気になることがひとつ。
『……それに、どうして。わたくしを迎えにきてくれなかったの』
あれはきっと、聞き間違いじゃない。
彼女の強い感情のなかには単純な憎悪ではなく、隠れた愛憎がたしかにあったのだ。
その夜。深月は寝支度を整え、就寝に入るまでの時間を部屋で過ごしていた。
寝床で丸まった鈴の背中を撫でながら雛との会話のやりとりを思い出していたとき、扉が控えめに叩かれる。
「こんな時間にすまない。起きているか」
「暁さま?」
取っ手を回して扉の隙間から廊下を確認すると、やはりそこには暁の姿があった。
「昼間、街に出かけたと羽鳥から聞いた。雛のことも。少し、話はできるか?」
夜も深まり始める時間帯だからなのか、暁の声は囁くように静かで、いつもより低く聞こえる。
「はい、大丈夫です。どうぞなかにお入りください」
扉の隙間をさらに広げて暁をなかに招くと、戸惑う息遣いが聞こえた。
「失礼する」
暁が部屋のなかに入り、ようやく深月はひと足遅れて気がついた。
夜分に異性を部屋に招くのは、普通ならば褒められたものではないのかもしれない。
だが、相手は暁だ。目的があって訪ねてきただけなのだから、こちらが変に意識しなければ特段問題はない。
深月はそっと胸を撫で、その場でくるりと向きを変えた。
部屋に通された暁が、少し気まずそうにして立っている。
「疲れているだろうに、時間を取らせてすまない」
「目が冴えていたので大丈夫です。暁さまのほうこそ、お疲れではありませんか?」
「大丈夫だ、ありがとう」
まず他愛ない会話を挟み、それから本題になった。
「雛に永桜祭の舞人を引き受けるように迫られたと聞いた。ほかにもいろいろと探りを入れられたと。本当にすまない、君に迷惑をかけて」
「わたしは大丈夫です。ただ、あまり雛さんが納得していなかったようなので。それが少し心配で、黎明舞のことも……」
「舞人の話は雛も本気ではないだろう。おそらく俺と関わりのある君を困らせたいんだ」
暁もある程度は雛の言動の意図を理解しているようだった。ゆえに巻き込まれた深月には、気にしなくていいと言ってくれる。のだが。
「暁さま、聞いてもいいでしょうか」
「……ああ」
暁は悟ったようにうなずく。深月は両手を胸に当てきゅっと握りしめた。
「朱凰家に養子縁組する前、暁さまの旧姓は久我。そして同じく、その頃の雛さんは間宮。おふたりのお家は交流があって、間宮 鶴子さんという方が暁さまの許嫁だったと。ここまでは間違っていないですか?」
「君の言う通りだ」
暁はうなずき、すぐに口を閉じた。
まだ深月の聞きたいことが終わっていないとわかっているからだろう。
「稀血に……殺されてしまったのが、暁さまの家族と、親しかった方々だと、言っていましたね。その親しい方々に、間宮 鶴子さんや、そのご両親がいらっしゃった」
「ああ」
「それで……あの」
ここまで言葉にできたのに、その先を聞くのが一瞬躊躇われる。でも、もう曖昧に把握している状態でいるのは嫌だ。
「どうして、見殺しにしただなんて、言われているんですか?」
どきどきと、痛いほど心臓の動きが早くなるのを感じる。浅い呼吸を繰り返し、暁をじっと見つめる。
暁は、難しい顔をふっと緩めると、それから弱々しく眉を下げた。
「どんな理由であれ、俺の至らなさが招いたことには変わりない。雛がああなっているのも、すべて自分のせいだ」
「それは、どういう……」
「いや、君に聞かせるにはあまりにも粗末な話だ。気にしないでくれ」
そう言われてしまって、ああやっぱり、とじわじわ切なさが込み上げた。
どうして彼が自分を責めているのか、その理由を語る気はないのだということが嫌というほどわかってしまったから。
(なのにこんなこと、暁さまは望んでいないのに。どうしても考えしまう)
雛が現れた日から、ずっと思っていたこと。それはあまりにも傲慢で、自分本意で、欲深いものだった。
暁の抱えるもの全部を共に背負えたら、と。そんなことを思ってしまうのだ。
(教えたほしいと言ったら、どうかひとりで抱え込まないでと言ったら、暁さまはわたしを遠ざけてしまうかもしれない)
踏み出すことはできるけれど、その先を考えるのが恐ろしい。自分の立場では、暁の前に堂々と出ていけない。
普通の人のように幸せになんかできない。
自覚すればするほど、胸が痛くて、息が止まりそうだった。
翌朝、永桜桜の舞人を押し付けられたことを含め、暁からは気にしなくていいと言われたが、そういうわけにもいかないと深月は思い悩んでいた。
とくに雛個人の様子が気になる。このまま放置するのは、どうにも寝覚めが悪い。
「……ええと、麗子さま、まずこうやって」
昼間の空き時間、部屋に戻っていた深月は、ふと一年ほど前に黎明舞の練習をしていた麗子の姿を思い出す。
流れや、動きは記憶にあるけれど、自分で舞うとなるとわけが違う。
そうは思いながらも、部屋にあった白い手ぬぐいを手に、おぼつかない足取りで不格好な動作を繰り返していると。
「深月さま、炊事場に襷をお忘れでしたのでお届けに……あら?」
「と、朋代さんっ」
こんこん、と音がして、朋代が襷を手に扉を開けた。
深月のひとりごとが入室の許可に聞こえてしまったのか、入ってきた朋代はぱちりと瞼をまばたいた。
「わっ、あっととっ」
ふらついた体勢を整え、両足でしっかり床を踏む。それから朋代を窺い見ると、彼女はにこやかな笑みを浮かべていた。
「ふふ、もしかして、黎明舞ですか?」
「……!」
すぐに見抜いた朋代に驚愕の色を濃くした。
「どうして黎明舞だとわかったんですか?」
「そうですわねぇ。形がそうだと思っただけですけれど、わたしは黎明舞の指導経験がありますので、きっと目が慣れているんだと思いますわ」
笑みを作る口元に、朋代は上品に手を添えた。その鷹揚とした仕草だけで舞の指導経験があるというのも納得してしまう。前々から思っていたが、朋代の動きは悠然としていて所作が美しいのだ。
「あの、朋代さん」
「はい、なんでしょうか」
「ご迷惑でなければ、わたしに黎明舞を教えてはいただけませんか……?」
黎明舞、またそのほかの舞踏は、朱凰の分家筋にいる華族令嬢には嗜みとしてある教養だ。もちろんのこと深月には身についていないものだ。
「ずっとお話できていなかったのですが、わたしには黎明舞の経験がありません。稽古風景を見たことはありますが、実際にはまったくなくて……」
「まあ、そうだったのですね」
朋代はほんのり意外そうに目を広げながらも、大袈裟に驚くことはしなかった。
そして普段から距離を弁えてくれていた朋代だからこそ、この相談はできると思った。
「わたし、黎明舞を覚えたいんです。できるのなら永桜祭当日までに。完全に習得とはいかないかもしれませんが、どうかご指導いただけないでしょうか」
本当に舞人として代わるつもりは深月になかった。
けれど、なにもせず当日まで過ごすのも違うような気がした。それなら無意味な努力になったとしても、なにかしていようと考えたのだ。
真剣に頼み込む深月に、朋代はにこやかに言った。
「それはそれは、腕が鳴りますわ」
相変わらず朋代は余計な詮索をせずに快く引き受けてくれた。
こうして、深月はその日から黎明舞の特訓を朋代につけてもらうことになったのだった。
夜間巡回を終え、暁は近くを担当していた一般隊員を連れて特命部隊本拠地に引き返していた。
見上げる夜明けの空の光が、蓄積した疲労のせいもあって目に染みる。
帝都桜が満開になったあたりから、街の各区画で奇妙な傷害事件が頻繁に起こっていた。それは永桜が植えられる帝都神宮周辺に始まり、桜の木が多い場所で悪鬼に取り憑かれた野犬や野鳥が通行人に危害を加えているのである。
永桜の妖力につられ、春が悪鬼の被害が増えるのは周知のことだ。しかし、今年はさらに数が増えているようで、気が抜けない状況が続いていた。
とくに永桜桜当日は、帝都神宮の境内に人々がひしめき合う。また、天子とその一族は仕切りに囲まれた拝殿から黎明舞を鑑賞する。警備範囲は最小限、ここまで警吏とも念入りな打ち合わせを交わしたので不備はない。
あとは無事に永桜祭が終われば、この張り詰めた緊張も少しは緩んでくれるだろう。
「深月さん、おはようございます!」
隊員の嬉々とした挨拶が聞こえてきたのは、暁が別邸に向かって歩いている最中のことだった。
「おはようございます。本日も夜間巡回ご苦労さまです」
そちらに視線を向けると、箒を手にした深月が、暁と同じく夜間巡回を終えた一般隊員に笑顔を浮かべていた。
いままでは別邸の中庭が深月の掃き掃除の範囲だったが、本邸女中の勤めを始めたことで、彼女は訓練場付近や食堂横の掃除にも励むようになっていた。
つまり、通りがかりに隊員に話しかけられる頻度も高くなった、ということである。
最初は分家の令嬢がわざわざするようなことではないと周囲も思っていたが、いまではこれも暁の花嫁としての努めであると、真面目に働く姿勢で周りを納得させてしまった。
少しずつ、暁以外にも肩肘張らずに自然な笑みを向けられるようになり、ちょうどいまも通りがかった隊員に深月は会釈をしていた。
そのなんでもない笑顔に、隊員は軽く頬を染め、それから慌てながらも張り切った様子で職務にあたるのだ。
(……)
このような光景を、もう何度となく暁は目にしていた。
人と関わることに慣れていなかった彼女が、あのように明るい表情を浮かべているさまに感慨深い気持ちになる。
いつか見た、思わずほころばせた花のような笑みを、深月はたくさんの人間に向けるようになっていて、それは讃えるべき変化であるはずだった。
しかし、なぜかここ最近は。
「暁隊長、暁隊長?」
ふと、名を呼ばれて振り返ると、不思議そうな顔をした羽鳥がいた。
「夜間巡回からお戻りになっていたのですね。お疲れさまです。悪鬼の数はどうでしたか?」
「増える一方だ。それとは逆に禾月の動きが停滞しているように感じる」
「野良禾月ですか。注意が必要ですね……それで、先ほどからなにを眺めてらっしゃったんですか?」
「ああ、少し。いつも動き回っているなと、思ってな」
質問の答えとしては曖昧な返答に、羽鳥は暁の視線を目で追った。その先に深月がいると知り、ああ、とうなずいてみせる。
「そうですね。どこかしらの掃除をしているのではないですか。って、また締りのない顔になって……」
深月と挨拶を交わした隊員らの雰囲気が緩やかになっているのに気づいた羽鳥は、まるで小姑のようにぶつぶつと小言を述べた。
「やはり、変わっているんだな」
初めの頃とは比べものにならないほど、深月は変化した。
誰もがうなずく可憐な姿に、しばし視線を固定させる。
いつの間に彼女は、あれほど美しく、そして愛らしくこの目に映るようになったのだろう。
黎明舞の特訓を開始してすでに半月、永桜祭当日がやってきた。
忙しさにかまけて夜空の月の形も気にする余裕がなかった深月は、ぽっかりと浮かんだものに今日は満月だったのかと驚く。
帝都桜は徐々に緑色の葉を茂らせ、季節の終わりを告げようとしている。
暁には言い出しずらく朋代にお願いして舞を覚えていることは秘密にしてもらっていた深月だが、当日までにはなんとか形になり、達成感に包まれていた。
もちろん天子が参席する催事の催しに自分が代わって舞うとは考えておらず、ただ頑張って覚えただけになってしまったが、深月はそれでもよかった。
ひとつなにかを覚えたという事実が単純に嬉しかったのだ。
黎明舞は黄昏時に披露される。昼間はいつも通り本邸女中の勤めをしていた深月は、夕方頃に璃莉と帝都神宮に出向いていた。
特命部隊員は事前に計画した警備位置についており、朝の物々しい雰囲気からまさに本日が忙しさの絶頂であるのだというのがわかった。
璃莉が護衛としていてくれるため永桜祭の見物が叶った深月は、それほど遠くない場所にある帝都神宮までの距離を歩幅を狭めて歩いた。人が多くて前に進むのもやっとである。
「ねえ深月さま。あれだけ練習してたのに、本当に代理で舞わないの?」
境内へ繋がる石段を上りながら、璃莉が不思議そうに尋ねた。さすが護衛、こんなに長い段差なのに息がまったく切れていない。
「雛さんも、本気でわたしに舞人をさせるつもりはないと思いますよ」
いくら代理可能とはいえ、見ず知らずの人間に舞わせるほど気軽な祭事ではない。むしろ天子が関わるのだから重要度は高いだろう。
なのに、選出外の人間に舞わせたら絶対に大変は事態になる。
だからあれは雛の当てこすりだったのだろうと思う。
「残念。深月さまの黎明舞見たかったなぁ。すごく綺麗だったのに」
「素人が付け焼き刃に覚えた舞ですよ……?」
「そうは見えないよ。ずっと見てはいたんでしょ。動きと流れは頭に入っていたのが大きかったよね。仕草がひとつひとつ丁寧で、素人とは思えない! ……って、朋代さんも言ってたよ」
それは朋代が意力を保たせるために言っていた励ましの言葉だろう。教え方の上手な朋代に習うと、少しの期間でもうまくなったような気になるが、それはおごりである。
「わたしの舞よりも、今日は舞人の方の舞が見られることが楽しみです。こうやって実際に見物するのは初めてなので」
柄にもなくわくわくしているのは、朋代に黎明舞の基礎や意味を教えられ、より深い解釈ができるようになったからかもしれない。
黎明舞には、冴え渡った夜明けの空の如く、光を浴びて心の憂いを晴らせるように、という願いが込められている。
そして、空に通ずるは天。舞始めは黄昏時であることから、夜を掌握し、陰を祓い天から注ぐ陽を湛えよ、という経巻に記される陰陽説の意味づけもあった。
ゆえに永桜祭、黎明舞、天子が繋がり深くあるのだ。
「見つかったか⁉」
「こっちにはいなかった。一体どこに……」
「俺はあっちを見てきます」
石段を登りきり、混雑する境内を一方通行に進んでいく。
生温い気配が肌に張りつく。人が密集しているせいかと考える深月の横を通り過ぎて行ったのは、帝都神宮関係者と、付き人の晋助だった。
「……晋助さん、でしたよね。一体どうされたんですか?」
呼び止めてから、自信なく尋ねる深月に、顔色を悪くさせた晋助が振り返った。二度顔を合わせたときに感じていた気だるげかつ適当さは一切なく、真剣な様子で口を開いた。
「雛お嬢さんが、見当たらないんです」
「どういうこと、本当に舞わないつもりだったってこと!?」
璃莉はさらに問うと、初対面ではあるがそれどころではないと判断した晋助が首を横に振った。
「いや、ちゃんと舞人の役目を果たすつもりでしたよ。舞衣裳だって控え室で着てましたし。急にいなくなってしまって」
すでに透き通った満月は顔を出し、日は沈み始めている。黄昏時に舞い始めるのが通例ならば、そろそろ待機場所にいなければならない時間だ。
「変ですね。うちのお嬢さん、言い草は高慢そのものですけど、本気で責任から逃げるような人ではないんですが」
「よければ、わたしにも探させてください。すみません璃莉さん、いいでしょうか」
「あたしは大丈夫だよ! それで、雛ちゃんってどんな顔をしてるの?」
「いやあの、よろしいんですか? 散々お嬢さんにやっかみをつけられていたのに」
戸惑う晋助に、深月はこくりとうなずいた。
「はい。なんだか心配なので」
胸がざわざわと先ほどから落ち着きなく動いている。今日は満月だから影響されているのだろうかと考えるが、それなら街を歩いているときも感じていたはず。
この違和を覚えたのは、石段を登りきり、境内に足を踏み入れたあとからだ。
(聞こえたり、しない? 雛さんの声)
いくら人より耳がいいとはいえ、こんなの馬鹿げている。
でも、焦る気持ちが前に出て、いつの間にか深月は耳を済ませていた。
――こないで!
声は聞こえた。きっと、雛のものだ。