「お給料、ですか?」

 それは深早朝の本邸女中の手伝いを終え、朝食を済ませたあとのことだった。

 執務室に呼び出された深月は、暁から給料袋を差し出されていた。

 「今日は女中の給与支給日だ。通常はひと月ごとに支給だが、君は途中から入ってくれたからな。日数分を計算して用意した」
 「そんな……受け取れませんっ」

 深月は自分でも驚くほどの声量で給料袋を突き返した。

 頑なに首を振る姿に、暁は瞬目する。

 「なにか不都合があるのか」

 純粋な疑問から出た暁の問いかけに、深月はそういうわけではないと言葉をつけ加えた。

 「お給料以前に、わたしは衣食住すべてにおいて身にすぎる待遇を与えられています。それなのに少しお手伝いをしただけで、お金をいただくなんて」

 遠慮深い深月の理由に、暁は困った様子でわずかに笑みを浮かべた。

 「少しの手伝いではなく、立派な勤めだ。そしてこれは、それに対する正当な対価だと俺は考える。君に受け取るべきものだ」

 諄々と説き聞かせられ、深月の肩の力がゆっくりと抜けていった。

 「金庫に預けてもいいんだが、これは君の手に渡すべきだと思った。余計な世話だったら申し訳ないが……」

 暁の言う軍管理の金庫には、前の勤め先である庵楽堂で不当に徴収されていた深月の給料が預けられている。もとは養父の借金返済のためにすべて渡していた金だが、肩代わりが大旦那の虚報であったことが発覚し、戻ってきたものだ。

 つまり、こうして働き分を報酬を深月が受け取るのは、大袈裟でもなんでもなく初めての経験だった。

 暁はそれを考慮して、給料袋をじかに渡してくれようとしていたのだろう。その気遣いが心に染みた。

 「あの、ありがとう、ございます」

 「可笑しいな。礼を言うのは、こちらのほうだというのに」

 恐る恐ると給料袋を手にした深月に、微笑ましげた顔をした暁が小さく吹き出した。

 頂戴した給与にまだ戸惑いつつも、彼の様子を確認して深月は密かにほっと安堵の息をつく。

 (よかった。暁さま、顔色が良い)

 過日の騒動がまるでなかったかのように、その場に居合わせた深月に対して暁は自然な振る舞いを見せている。

 白夜家本宅の屋敷に行った日。西公園広場で暁は、今月が彼の亡くした家族や親しかった人々の忌月だと教えてくれた。

 おそらく親しかった存在のなかに、暁の元許嫁も含まれていたのだろう。

 そして、忽然と現れた『雛』という少女が、元許嫁『鶴子』の妹であり、同じように姉や家族を失った彼女は、暁を深く恨んでいる。

 (そういうこと、なんでしょうけど……)

 すべて深月の思量で止まっているのは、あれ以来なにも暁から聞けていないからだ。落ち着いて話す時間をあのときは持てず、暁は深月に「君は気にしなくていい」と冷静に言い残して巡回へ行ってしまった。

 それからずっと、この話題には触れられていない。

 暁が忙しくしているとわかっているのに、彼の務めを遮ってまで尋ねる勇気が深月にはなかったからだ。

 「呼びつけて早々にすまないが、俺はこれから外に出る。君はこのあと本邸に?」

 「いえ、今日はお休みです。連日続いて顔を出していたので、朋代さんと女中の皆さんからゆっくりしてほしいと言われまして」

 「ああ、そうだな。君は頑張りすぎる節がある。その言葉に甘えるといい」

 それは暁さまも同じでは、と口にしそうになって内心慌てて引っ込める。

 こちらを理解してくれる発言は嬉しくあり、それは彼の内情が浮き彫りになるに連れて複雑でもあった。

 「どうか、お気をつけて。行ってらっしゃいませ」

 軍帽を深く被り、暁の広い背中が扉の外に消える。

 私事を周囲には一切悟らせるつもりはなく、冷静な面持ちで務めに向かう彼に、そんなありきたりなことしか言えない。歯がゆくて、仕方がなかった。