「深月。蘭士の診察は済んだか」

 医務室の帰り。別邸に繋がっている舗装路を黙々と歩いていた深月は、振り返った先に見えた暁の姿に目をしばたたかせた。
 「たったいま終わったばかりです。暁さまは、どうしてここに?」

 てっきりこの時間帯は、警吏署に赴いているとばかり思っていた。口を動かしながらたたたた、と近寄る深月を、暁は確認するようにじっと見下ろす。

 「予定より早く切り上げられた。だから昼の巡回に向かう前に、診察の内容を聞こうと寄ったのだが」

 『稀血の娘。おまえまた血を取ったな? ちっせぇ針穴でも俺様には丸わかりだ』

 と、暁の腰に携えられた妖刀・童天丸がカタカタと振動した。

 「童天丸さん」

 『そんな針穴でも香るなんざ本当に面倒な特性だなぁ、稀血ってのは。まあ、低中位のあやかしは匂いの先の獲物の正体に気づかずただ寄ってくる阿呆ばかりだろうけどよ』

 「童天丸、覆い隠せ」

 暁は素早く刀の柄に手をかけ、鯉口を切る。

 小さな舌打ちのような音を響かせた童天丸だったが、それでも「へいへい」と応え、妖力を発生させた。

 一瞬、深月の体をふわりと生ぬるい風が吹き抜ける。それが童天丸の妖力だとわかるくらいには、深月も稀血としての勘が働いていた。

 童天丸の妖力を覆うことで、稀血の気配そのものを払拭させたのだろう。

 「ありがとうございます、暁さま。このために立ち寄ってくださったんですね」

 「いや、それもあるが」

 『おいおいおまえ、俺様には何もなしか、なしなのか?』

 「あっ、すみません。童天丸さんもありがとうございます」

 慌てて妖刀に向かって深々と頭を下げると、満足げな意思の声が聞こえてほっとする。

 暁は再び話を切り出した。

 「それで、どこも異常はなかった?」

 「血液検査の結果は後日になりますが、いまのところはなにも問題はないようです」

 深月が診察の内容を説明できる範囲で話していた、そのとき。

 カツン、カツン――と、高く響いた靴音、荒々しい息づかいが聞こえた瞬間、それは姿を現した。

 「朱凰、暁!」

 猛然たる花吹雪の先に佇むのは、風貌からして女学生と思しき年頃の少女だ。

 凄まじい眼力でこちらを睨みつけ、人目もはばからず声高々に言い放った。

 「あなたは父さまと母さまを……なにより守るべき姉さまを見殺しにした薄情者のくせに、新しい相手を迎えて、すべてを無かったことにするつもり!?」

 海老茶色の行灯袴、矢絣の小袖と、上半分をリボンで束ねた黒の下げ髪が、風にさらわれ靡いている。

 あどけなくも名花のごとき姿の少女は、眉をこれでもかと顰め、噛みつくような声で続けた。

 「なんとか言ったらどうなの!? あなたが鶴子姉さまを見殺しにしたと言った日のこと、わたくしは忘れていないわ!」

 突進する勢いで暁に詰め寄った少女は、彼の胸を強く叩く。

 衝撃には全く微動だにせずいる暁だが、突然現れた少女に気を取られたように視線を固定させている。

 「どうしてあなただけのうのうと生きているの。どうして姉さまを忘れて、ほかの女を花嫁に迎えようとしているのよ!」

 息巻く敵意の矛先が、花嫁という言葉に深月を向く。

 ちかちかと火花すら散って見える少女に圧倒されていると、暁が少女の肩に手を置いた。

 「……雛。俺は、鶴子さんを忘れたわけじゃない。君のことも、あれ以来――」

 「さ、触らないでっ」

 暁の諭す言葉は無理やり遮られ、雛と呼ばれた少女は威嚇するよう一歩後ろに下がる。

 聞く耳を持たない雛に、埒が明かない空気が漂い出したとき、さらなる乱入者が現れた。

 「お嬢さん、雛お嬢さん。ちょお勘弁してくださいよ。これじゃあおれたち不法侵入ですって」

 背広と革靴、整った顔立ちの青年が、気の抜けた声を出しながら駆け寄ってきた。

 彼は先に顔を合わせていた三人にそれぞれ目を向けると、額に手を当て嘆息を漏らす。

 「もう探し当ててしまったんですか。さすがの引きです、お嬢さん」

 「なによ晋助。あなたこそ、なにをぐずぐすしていたのよ、この愚図!」

 「人をぐすぐずと連呼するなんて失礼ですね。しっかり手続きを踏まないと、お縄にかけられても文句は言えませんけど。そこんところわかってます? おれ、解雇だけじゃ絶対に済みませんが」

 逆上中の雛に臆することもなく言い返す青年、晋助は、ちらちらと深月や暁へ意識をはずしながら最もらしい発言を続けた。

 あまりにも拍子抜けする態度に、めらめらと燃えていた雛の怒気が少しだけ弱まる。ほんの少しだけ。

 「いいわ。今日は、あなたに忠告するために来ただけだもの」

 「……」

 「朱凰暁。世間様はあなたをご立派な軍人だの貴公子だのとちやほやしているけれど、そんなものまやかしだと知っているわ。あなたは自分可愛さにひとりだけ生き延びた卑怯者。わたくしは一生許さない」

 晋助が現れてわずかに緩まった緊張の糸が、再び鋭利に張り詰める。 唐突に現れた男女は来た道を引き返してゆき、すぐに後ろ姿は見えなくなった。

 ここは特命部隊本拠地。許可のない人間の不法侵入は、誰であっても身元を改める必要がある。

 しかし暁は一切動かなかった。自分よりも小さな少女に胸を叩かれ痛罵されても止める様子はなく、じっと耐え忍ぶように佇んでいるだけだった。

 そしてこの場に残されたふたりはどちらとも無言を貫いていたが、暁が釈明する。

 「彼女の名は雛。随分昔に交流があった。襲来や危険の心配はない」

 「そう、ですか」

 気になるべきことはほかにも数多あるのに、どんな問いを返せば良いのか迷っていると、暁が抑揚のない声を重ねた。

 「俺が朱凰家に入る以前の、家柄同士の縁だ。彼女の姉、鶴子さんが幼少時の許嫁だった。稀血の襲来により、家族諸共もうこの世にはいない」

 胸が熱を帯びてざわついている。ほとんど不穏で成った暗影のようなものだった。

 春荒は、なにも気候に限ったことではないのだと身に染みる。

 こんなにも思い詰めた暁の表情を深月は知らない。

 彼のなかに隠れていた憂いをまざまざと実感した。

 すべての非難を受け入れるつもりでいる面差しに。忘れられない悲しい過去を静かに背負う姿に。深月は、自分の欲深さを思い知った。

  ああ、どうか。この人が――。